「神はサイコロをふらない」。
アインシュタインの有名な言葉だ。極論すれば、偶然と思えることだってすべては必然であるという意味合いだ。
最近、これを実感する場面が増えてきた。一種の達観に似た境地かもしれない。身の回りに起きることすべてを必然だと考えてしまう。
うまくいったこと、失敗したこと、どちらもそういう結末になる流れだったと感じる。
正確にいえば、そう思って割り切らないとやってられないという刹那的な感覚もある。
この年になると、大げさに騒ぎ立てることは避けたいし、慌てふためくのもイヤだ。心の中でパニックになっても普通の顔で過ごすように努力している。
冷静沈着というほどクールではないが、なるべくそれを目指しているうちに、「すべてが必然だぜ」と自分に言い聞かせているのだろう。
なんだか堅苦しい感じになってしまったが、そんな大層な話ではない。柔らかく例えてみよう。
暇だからという理由だけで好きでもない女性を食事に誘った後で、思い焦がれていた別の女性からデートを申し込まれるような事態だ。
これは偶然ではなく、必然なんだと思う。残念ながら私の宿命は、私の好みに関係なく選ぶべき女性を選別しているのだろう。そう思わないとやってられない。
いい雰囲気になってホテルにシケ込めるはずだったのに、肝心のホテルが満室だったなんて事態も同じだ。
きっと相手の女性とそういう関係になっちゃったら後々大変な目に遭うことを私の宿命?が私に教えているのだろう。
そう思わないとイジイジウジウジしちゃって大変である。
女性をめぐる下ネタみたいな話ばかりで情けない限りだが、これまでその手のシチュエーションで「ゲッ、この期に及んでそうくるか」、「ギョ、今更そんな言い訳するんかい!」みたいな衝撃的な珍事?に何度も遭遇した。
普通なら顔が真っ赤になって血圧が大上昇して、意味不明な叫び声を上げそうな状況である。そんなときは心を静めて必然論者になりきって大災難をやり過ごしてきた。
軟派な話だけでなく、仕事だってしかり。成功、失敗それぞれに理由がある。すべては必然なんだと思う。偶然に成功する話なんて聞いたことがない。
偶然の裏にある日常的な思考や作業の積み重ねが成功を招くわけで、失敗するにしても、どこかに根本的な問題が存在していたのが普通である。
では宝くじとか、ギャンブルとかも必然なのか。こんなものまで必然だなどと言うと神がかり的だが、ひょっとすると、これらだって運命という名の必然のなせるワザかもしれない。
そういう意味で必然論者は運命論者と置き換えることもできる。
最近、死後の世界なるものが存在するという説を著名な科学者や最先端の医療関係者が唱え始めたことが話題になっている。
世界中の数多くの臨死体験者の証言を多角度から分析した結果、そう結論づけるしかないほど共通する証言やデータが得られたからだそうだ。
一言でいうなら、「偶然とはいえない」という客観性がそうした説の元になっている。
「偶然」という言葉は考えてみれば実に便利な表現だ。不思議に思えること、信じられないこと、人知を越えるようなこと、すべてをこの言葉でぶった切ることが可能だ。
偶然という言葉を使うことで一種の思考停止が正当化されてしまうわけで、逃げ口上として悪用されるケースも多い。
消費税の再増税に向けてデリケートになった政府首脳が、景気後退を示す各種データについて「たまたま天候が悪かったから」というアホバカ答弁をしていた。こういうのも「偶然」という概念を悪用した逃げ口上でしかない。
すべてが必然だと考えるほうが無意識のうちに怠惰を戒めるし、向上心を保てる気がする。まあ、その一方で消極的すぎると早々にあきらめてしまう悪循環にもつながる。なかなか難しい。
何だかんだ言って、「必然」を冷静に受け止めればアレコレと手の打ちようがある。「偶然」に逃げれば対策の立てようがない。
フラれるのも必然、うまくコトが進むのも必然、結婚や離婚も必然、馬券が当たるのも必然、太るのも必然、イラついて暴れるのも必然、不整脈になるのも必然、事故に遭うのも必然、街中で突然誰かに再会するのも必然、LINEを乗っ取られるのも必然、体調を崩すのも必然・・・。
すべてを必然だと思い込めば、良い方向、良い結果になるために何をすべきか考えるようになるし、災難を繰り返さないための知恵も出てくる。
どこからどうみても運命を呪いたくなるほど酷い境遇にある人にこんな生半可なことは言えないが、平凡な日常のヨモヤマ事ならば、偶然という言葉に逃げないほうが建設的だと思う。
やたらと力んだ感じで書き進めてきたが、結局、今日は何が書きたかったのか分からなくなってきた。
脳ミソが少し疲れているみたいだ。
2014年11月7日金曜日
偶然か必然か
ラベル: 世相
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