2026年8月31日月曜日

ショート動画中毒


 本が読めない、ドラマが観られない。そんな若者が増えているそうだ。長い文章や長時間何かを視聴することが苦手になっている人が多いということ。原因はネット上に溢れるリール動画というシロモノだとか。せいぜい数十秒程度の短い動画のことだ。

 

私もご多分に漏れず寝る前によくリール動画を脈略もなく眺めている。ハッキリ言って楽しい。思った以上の面白くてついつい夜更かしをしちゃうこともある。

 



確かにひとつが数十秒だから飽きないし、AI様のおかげか一度でもジックリ見た内容に似た動画がランダムに表示されるし、かと思ったら別なテーマの妙に面白い動画が出てくるので気づけば1時間ぐらいアッという間に経ってしまう。

 

昔の野球の名場面、いにしえの「夜のヒットスタジオ」の名物だった冒頭の歌手紹介コーナー、昭和の懐かしいCМ、かつてのメジャーリーグのスーパープレー、はたまた京都橘高校の華麗なマーチングバンドの動き、道端や電車内での酔っ払いの殴り合いなど特に意味はないけどナゼか見入ってしまうようなショート動画がエンドレスで出てくる。

 

私が簡単調理に励むようになったのもリール動画でソッチ系ばかり面白がってみていたせいである。ほんの20秒ぐらいでレシピや作り方のコツを教えてもらえる。意外に実用性もあるわけだ。

 

簡略化、省力化ばかり進んだ今の時代ならではだが、確かにこんなものばかり見ていたら映画や小説などとしっかり向き合う時間が馬鹿らしく思える若者が増えちゃうのだろう。

 

文化の危機だ!などとエラそうなことを言いたくなるが、これもまた時代の特徴である以上、旧世代がブツクサ言ったところで仕方ない。映画や連続ドラマ、小説などの面白さや奥深さを昔から知っている人間ならいまさらショート動画に全面的に趣旨替えすることはない。

 

でも、物心ついた時からショート動画ばかりで情報を得ている若者にとっては2時間を超える映画、数か月先まで見続けなきゃいけない連ドラ、読み終えるのに何日もかかる小説はじれったいの極みだろう。旧世代から言わせればお気の毒としか思えない。

 

まあ、そんな愚痴みたいな話を書いてもキリがない。今日はショート動画の中で面白かったいくつかを紹介しよう。このブログに静止画で載せられるのは、動画といっても箇条書きの図表のようなものを表示しているものぐらいだからそんな系統のものをいくつか載せる。

 




いわゆるフェッチの分析と血液型のありがちな解説だ。画像に載っているフェチは限定的だから私の重度のフェチが分析されていないのが残念だ。でも強いてこの中に絞れば、私は「執念深い忍耐男」になるらしい。いいかげんである。

 

血液型は、まあこんなものだろう。だいたいB型というだけで昔から変人っぽく断定されがちだ。人間様をたかだか4種類の血液型で類型化すること自体バカげているが、B型が変人なのは確かだからこればかりは仕方ない。

 



親子の時間を切ない感じで表したこれは私にはちっとも刺さらなかった。実際のショート動画では物凄くせつないBGMととも表示されるのだが、同居する25歳の娘にいまだに完全依存されている私にとっては当てはまらない。それはそれで逆説的に見れば幸せなことなんだろう

 


 

お次はソープ遊びと結婚を比較した“やるせない”図表だ。笑わせてくれる。なかなか面白い。私の場合、ソープには行かないが一応独身だからいろエロな女性の友人はいる。当てはめてみればこの図表と似たようなものだ。

 

でも、この図表でいうところの「しがらみ」って考えようによっては案外大事なものかもしれない。人間は一人きりでは生きられない部分はあるから適度な「しがらみ」は高齢化とともに必要性が増す気がする。他にも「同志的連帯感」とか「ともに歩んだ歴史」みたいな人生の深みみたいなものはちゃんと家庭人を継続できた人へのご褒美かもしれない。ちょっと悔しい!?

 



つづいてはノーテンキなネタだ。「眠れる森の美女」「可愛い子には旅を」の対義語が最高だ。近年、コンプラコンプラとやかましいからこういう痛快系?は何だか嬉しくなる。

 

やはりリール動画で大昔の「ツービート」の漫才映像が出てきたことがあったが、時代の変化をあれほど感じたものはなかった。たけしの毒舌は今では犯罪者扱いされそうなレベル。あの大らかだった時代に若者だったことが今更ながらラッキーだったと痛感した。

 

キリがないからこのあたりで今日はオシマイです。

 

 

 

 

 

 





2026年8月28日金曜日

頭の問題


先日、脳神経内科に行った。娘に引っ張られて半ば無理やり連れて行かれた。最近、やたらと物忘れが多いから放置したらいかんというのが娘の言い分である。

 

自分ではさすがに若年性痴呆というレベルではないと思っているが、娘に言わせると普通じゃないらしい。言われてみれば今年に入ってからもATMでお金をおろした際に出てきたお金を取らずに去ってしまったことが2回ある。

 

以前にも経験しているのだが、誰かに盗られたらオシマイだが、取り忘れたお金は案外早めに機械に戻るようなので実害はなかった。だから油断しているのだろう。

 

キャッシュカードを財布に戻すことに神経質になりがちなせいで肝心のお金を取り忘れるのが私の悪いクセである。まあ、これって物忘れとは次元が違う。単なるアホである。

 

そんなことより記憶のほうが問題みたいだ。娘に言わせればわりと最近交わした会話内容を私が覚えていないことが頻繁にあるらしい。病院に無理やり引っ張っていくぐらいだから真剣に心配しているようだ。

 

確かに多少は自覚がある。私なりに言い訳はあるのだが、間違いなく以前より忘れっぽくなっている。まあ、60歳も過ぎた今の状態が昔と同じはずはない。常識の範囲ではないかと思っているがどうなんだろう。

 

先日も某知人と食事をしたのだが、そのお店に連れていくのは2度目だと思っていたのにここ2年ぐらいの間に3度も連れてきていたそうだ。まるで覚えていなかった。

 

ちょっとヤバいかもしれないが今のところ仕事上の大ポカもしていないし、生活に支障が出るほどの物忘れはないので自分としてはあまり気にしていない。

 

とはいえ、考えてみれば結構マヌケな物忘れは多い。ほんの一か月前に隣に座って談笑しながら食事をした人の顔を忘れちゃって「すいません、どなたでしたっけ?」と尋ねたこともある。さすがに失礼な話だ。

 

物忘れと言われれば物忘れなのだろうが、じつのところ大半は注意力と興味の問題だと自己分析している。もともと興味のないことにはとことん興味がないB型の典型的な性質がある私だ。忘れちゃったというよりハナからキチンと認識していないという側面もあるはずだ。

 

さほど興味がない会話をする時って誰だって真面目に聞いていない。テキトーに聞き流したりそれっぽく相づちはうったりしても内容はちっとも頭に入っていない。後からそれを突っ込まれても忘れたのではなく最初から脳に刻まれていないだけというケースは珍しくないと思う。

 

人の顔を忘れちゃうのも似たようなものだろう。興味や関心がない人の印象ってまるで頭に残らない。皆さんは違うのだろうか。私が極端なのだろうか。

 

それ以外にも脳の防衛本能として「イヤな記憶」は消去しちゃうという現実もある。私の場合、かなり若い頃からそんな傾向が強かった。思い出したくない恥ずかしいことやマヌケな失敗みたいな行為や言動を記憶から消し去る能力?がマメに機能してきた。

 

だから数十年ぶりにあった旧友とかに昔の私のヘンテコな言動を指摘されて突然それを思い出すようなシーンが何度もある。都合の悪いことは記憶から消しちゃうという“お調子モノ機能”が一種の得意ワザになっているわけだ。

 

で、脳神経内科のお医者さんにいろいろ聞かれたのだが「ビミョーなレベル」ということでMRI検査を来週受けるハメになった。これって私には一大事である。以前に脳ドックを受けた際に閉所恐怖症気味の私はパニックになってしまった経験がある。その時の話がコレ。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/10/blog-post_11.html

 

 一応、そのことも伝えて多少なりとも解放感のある機械で検査してくれるよう手配してもらったのだが真剣に逃げ出したいぐらいビビっている。死ぬほど憂鬱だ。

 

そんな過去の敬意をお医者さんに説明する際にも私の物忘れはかなりのものだった。脳ドックを受けたのは「56年前」だと説明したのだが、その時の顛末を書いたこのブログの日付を見てビックリである。なんと16年も前のことだった。私の認識と10年もズレていた。

 

さすがにヤバいのかもしれない。困った困った。

 

 

 

 

 

2026年8月26日水曜日

通販好きオヤジ


ネットサーフィンといえば聞こえがいいが、私の場合、よく考えると単なる通販好きオヤジみたいである。アマゾンを筆頭に連日ヤマトや佐川が何かを持ってくる。毎日毎日段ボールを捨てている感じだ。

 

ネット通販の中でも怪しげ?なイメージがあるのがTEMUだ。中国系のECサイトだが、危険だの詐欺まがいだのと良くない評判を耳にする。

 

そうはいってもサイトを覗くとなかなか魅力的である。私もしっかり会員登録済みだ。クレジットカード登録は何となく避けているがそのほかの支払い方法で何度も買い物をしている。

 

ベルトやら部屋着やら安いものしか買わない。安さがウリだから失敗もあったがマトモなものもいくつもゲットした。時々使うとちょっと楽しい。

 

先日、久しぶりにサイトを覗いたら食料品にも進出していて驚いた。それも松屋や吉野家といった日本ブランドの冷凍品を激安で扱っている。ふむふむこれは牛丼好きな私にとっては見逃せない。早速注文してみた。

 




牛丼の具の冷凍モノは以前にも何度か入手して食べているが、お店で食べるのと大差ない味わいだ。案外高いのでふるさと納税の返礼品で取り寄せるぐらいで定価で買ったことはない。

 

今回のTEMUの通販ではまとめ買いする分量にもよるが定価の半額ぐらいで買えた。ワッショイ!である。同じく松屋の冷凍ウナギもついでに買った。

 

牛丼の具20食にうなぎを15食ほどまとめて買って1万円程度で済んだ。賞味期限が短いのが激安の理由かと心配していたのだが実際に届いた商品をチェックしたところ全く問題なし。味もいつもの松屋のまんまだった。当然か。結果、なんだか嬉しい気分になった。




「嬉しい気分になる」。これが買い物の楽しみである。まるで女性が洋服を買ってウキウキするような感覚だが、私の「通販オヤジ暮らし」もそれを求めているのだろう。

 

Amazonの最近の注文履歴を見てみたが、脈略もなくいろんなものを買っていた。頭皮マッサージブラシ、エルメスの香水、都市対抗野球のガイドブック、ノンオイルそうめんなどなど。コーヒーに使うクリープのスティック状100本セットなども買っていた。

 


 富豪を名乗っているとはいえ、高いものをほとんど買っていないあたりが私の小者ぶりを象徴している。まさに安物買いのナントカだ。クリープ100本入りも千円ちょっとだったし、便利に使っている乾燥ネギもそんなもんだ。

 

そういえば最近は地震ばかりで不安だから10万円近くするポータブル電源も買った。私にしてはこれは富豪級の買い物だ。こればかりは「嬉しい気分」というより安心感を買ったようなものだ。

 



 やはり食べもの系、それもジャンク系を買うとワクワクする。そういう買い物が一番好きなんだと思う。15年ほど前にシングル生活に戻ってから数えきれないほどのレトルト食品を取り寄せ、時に感激し時にゲンナリしながら暮らしてきた。

 

レトルト食品の進化は昭和人からすると驚きだ。基本的にはゲンナリするダメダメ商品のほうが多いが、マメに探していると唸りたくなるほどウマい逸品にも出会える。

 

一応いまではカレーもハヤシもシチューも自分好みのレトルトをいくつか見つけて常備しているが、時には新しい商品も試したくなる。最近買ったのが「蜂蜜カレー」である。

 

カレーは朝に食べることが大半なので私の場合は辛い商品はNGだ。必然的に欧風か和風の商品に絞られる。もともと甘めの味付けが好きだから原材料表示に「砂糖」と表示されている商品を選びたくなる。

 



今回買ってみたのは「山田養蜂場」のはちみつチキンカレー。レトルトカレーの中では高めの値段設定だが、甘めのカレーが好きな私にとってはスティック状のハチミツが味変のためにセットになっている商品だと聞けば買わないわけにはいかない。

 

で、食べてみた。カレー自体はニッポンの家庭のカレーという感じで無難な味付け。細切れのニンジンや芋がブツとして認識できる感じで入っているのが野菜嫌いの私には気に入らないが、よく煮込まれているせいでゴリゴリ食感はなくスムーズに食べ進められた。丁寧に作られた誠実なカレーって感じで好印象だ。

 

そして肝心の別添ハチミツを追加してみた。スティック状の容器からカレーにテロテロと投入。適度に混ぜて頬張る。うん、ウマい。大いにアリである。カレーとハチミツの相性はバッチリだった。

 

とはいえ、気づいてしまったのが適当なレトルトカレーに普通にウチにあるハチミツを追加投入すれば済むのではないかという真理である。それに気付いちゃうとちょっと高いこのレトルトカレーがビミョーに思えてくる。

 

なんとも締まらない話になってしまった。でも基本的にはなかなか良い商品でした。







2026年8月24日月曜日

壺とパンチラ

 パンチラと壺中有天という故事の関係を高尚に考察した話です


https://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/07/blog-post_10.html



2026年8月21日金曜日

萌え萌えチャーシュー


先週、最近の私のダメ人間ぶりを書いたが、ダメ人間といえばジャンクフードである。とかく悪役にされがちなジャンクフードだが、考えようによっては中高年の人間にとってそんなものをバリバリ食べられることは健康の証だと思う。一種のバロメーターだろう。


ひと昔前の高齢者にはジャンクフードを喜んで食べるイメージはなかった。今は世の中全体が高齢者だらけだからそんなイメージも過去のものだ。体調が悪くなければハンバーガーも牛丼も食べたくなるのが普通だ。


と、いっぱしのこじつけ的言い訳を書いてみたが、私には結構真面目な目標がある。70歳になっても今と同じ食生活のままそれなりの体調を維持していたら全世界にジャンクフード不健康説は単なる思い込みだと発表することである。


一応、血圧やコレステロールの薬は飲んでいるが、60年生きてきて大病の経験もないし、入院経験だってほぼない。扁桃腺炎がキツかった時に職場を休むアリバイのために入院したぐらいである。


好き嫌いは多いし野菜は食べないしジャンクフードも平気でむさぼり食べてきたのにたいしたものだと思う。このまま今後10年もノホホンと過ごせたら世の中に出回る健康のための食生活の勧めなど気にしなくてもへっちゃらという理屈が成り立つ。


さすがにこれから10年の間には食生活の乱れを原因とする病気になる可能性は高いが、もしかしたら何となくこのままいけるかもしれない。チキンレースみたいな話ではある。




この歳になってこんな怪しげな焼きそばパンを買う気になるわけだから我ながら立派?だと思う。若者との違いは食べた後で後悔するかしないかという一点に尽きる。私の場合は学習能力が足りないから怪しげな菓子パンを食べまくって後悔するのが常だ。


さてさて、ジャンク系国民食の代表がラーメンである。私はさほどラーメンを好んでは食べないのだが、食べたくなる時はたいていチャーシューが主役みたいなラーメンを選ぶ。


新橋にやけっぱちみたいにチャーシューをテンコ盛りにして提供するラーメン屋さんがある。「ほりうち」という店だ。チャーシューに飽きちゃうぐらいチャーシューを堪能できるので時々足を向ける。


先日、その店の流れをくむ店が神田にあると聞いて出かけてみた。酷暑日じゃなかったら自宅から歩いていける距離だから私好みの路線だったら知っておくべき店である。


「ふるいち」という店だ。とりあえずチャーシュー麺を注文してみた。オーソドックスな醤油ベースのラーメンにゴロっとしたチャーシューが乗っている。素敵な見た目だ。




麺は新橋の「ほりうち」よりも太目でコシもあってウマい。スープも適度にパンチがあって得体の知れないドロみたいなスープを出すイマドキの進化系?よりも私には嬉しい。特徴が無いといえばそれまでだが王道系醤油ラーメンとして充分に美味しい。


チャーシューも脂っぽい感じではなくガシッっと噛み応えのある肉肉しい路線でこれまた私好みである。ただ、チャーシューの量が“やけっぱち”と言えるほどではない。一般的には充分な量だと思うが、チャーシューまみれ、チャーシューざんまいになりたい私には物足りなかった。





で、チャーシューだけを追加注文して食べ始めたラーメンにトッピングしてみた。BカップのオッパイがFカップにサイズアップしたような安定感である。個人的にはこのぐらい邪道な量のチャーシューが乗っていると嬉しくなる。


ラーメンなのに2千円ぐらいになっちゃうのがビミョーだが、せっかく食べるならコストは二の次だ。ラーメンマニアならちゃんとスープも飲み干すのが礼儀みたいだが、健康に気を遣う私はそんな無謀なことはしない。あくまで主役のラーメンを麺が適度にサポートしてくれればそれだけで満足だ。


ナルトは次のお客さんにも使えるだろうから残したもののホウレン草やネギやメンマは完食した。キチンと副菜も食べたわけである。そんな私の几帳面さが今も健康でいられる秘訣だろうと確信した。


そう思い込むことが大事である。





2026年8月17日月曜日

オヤジバンド、ヒロミゴー

 

15年の歳月といえば結構な長さだ。生まれたての子は思春期になるし、思春期の子だったら30歳の大人になっちゃうぐらいの年月だ。

 

とはいえ、60歳の私からすると15年といってもアッという間に近い感覚もある。なんなら15年前は「最近」の範囲に入る。そう考えるとここから先もアッという間に時間は過ぎて気づいたら死んじゃっているかもしれないわけだから実に不思議だ。

 

そんなことを考えたのは何となく始めたオヤジバンド活動が15年も続いていたことに気付いたから。いっぱしのベテランである。ライブを年に一度やる程度だから自分が“ミュージシャン”や“バンドマン”だと思ったことは無い。でも人様から見れば「15年もバンドを続けている人」である。我ながらビックリだ。

 

私の担当はボーカルである。МCをそこそここなれた顔でこなしているせいで中心人物みたいな立ち位置にいるが音楽的素養はない。楽器も出来ない。ちょこっと手を出したギターの基本コードのストロークがよちよち鳴らせる程度である。

 

他のメンバーは腕っこきが揃っている。ボーカル無しのインストゥルメンタルも一部の演目にあるのだが、練習の際にその音色を聴いていると大真面目に感動する。今年は「太陽にほえろ」と「名探偵コナン」のミックスアレンジバージョンを演目に予定している。その部分はただボケっと聴いているだけの私は単純にそれが一番楽しみだったりする。

 

今年も11月のライブ本番に向けてスタジオ練習がスタートした。事前に演目候補曲は決めてあったのだが、1回目の練習から皆さんしっかり精度高めの音を出していたことにビビった。ボーカルの私が最も仕上がりが遅れていた。

 



バンド活動の初期はアコースティックギター2人と私の3人編成で練習の初期段階はメロメロも通り越してヘニャヘニャだった。今ではフルバンド編成に拡大したのだが、気づけばボーカルだけが昔のヘニャヘニャのままなのが我がバンドの弱点といえる状態だ。頑張らないといけない。

 

バンド活動を通して知ったことや感じたことは結構ある。何事も勉強だと思えばこの経験は案外大きい。それこそシャレみたいなつもりで始めた活動だが、15年もやっていると私の人生になかなかのインパクトを与えてくれたと感じる。ちょっと大げさか。

 

大勢の人の前でスポットライトを受けてPAさんの助力を得てプロが使う本格的なライブハウスで熱唱するわけだから得難い体験ではある。そんな体験は日本全国、いや世界中の人の中でもかなり少数派に属するはずだ。ちょっと大げさか。

 

何だかヘンテコな書きぶりになったから話を変える。「郷ひろみ」の偉大さについて書いてみる。近年、我がバンドはお客さんのウケを狙うために誰もが知っているノリノリの楽曲のカバーを多めに演目を構成している。

 

バンドメンバーの誰もがそれぞれ演奏したい渋い曲や通っぽい曲はたくさんあるのだが、素人バンドが陥りがちなマスターベーション的演目構成を避けるために我がバンドではベタな歌謡曲も積極的に手掛ける。

 

で、ヒロミゴーのノリノリ曲「ゴールドフィンガー」も過去に何度か披露した。あの「アチチ、アチチ」と熱唱するヤツである。NHKの紅白でも郷ひろみは近年では「アチチ」か「億千万」のどちらかしか歌わなかったぐらい盛り上がる曲だ。

 

今も彼は歌番組で披露しているが、何といってもキーが高い。それを激しく踊りながら余裕で歌っている。もうすぐ70歳である。前期高齢者になってすでに5年も経っている。ただただ感心する。

 

それこそ「億千万」と叫ぶ有名曲「24千万の瞳」より遥かに高いキーである。驚かされるのは「アチチ」の歌は「億千万」の歌より15年も後に発売されている点である。すなわち、30歳の頃より高いキーの曲を45歳ぐらいになっても余裕でレコーディングして今もそのキーのまま踊りながら歌っているわけだ。

 

どうでもいい話かもしれないが、ヒロミゴーより10歳年下の私にとっては驚異的な話である。それこそ私が子供だった頃に、♪僕たち男の子~♪とくにゃくにゃ歌っていた人である。当時は子供心にブキミな男にしか思えなかったのだが、半世紀を経たいま、彼を類まれな傑物として尊敬している。

 

バンドの話のはずがヘンテコな結末になってしまった。





2026年8月14日金曜日

ダメ人間、ガス人間

 

ここ1ヵ月ぐらいダメ人間になっている。キックボクシングジムはサボってばかりだし暴飲暴食もヒドい。昨年、真面目に節制してきた自分と比べると別人のようだ。

 

理由は単純だ。同居する娘が挑戦していた某国家試験が終了したことでナゼか私のほうが気が抜けてしまった。バカみたいである。試験の結果はまだしばらく発表されないのだが一応無事に済んだみたいだから何だか妙に肩から力が抜けた感じがする。

 

私が試験を受けたわけではないのに実にマヌケな話だ。とはいえ、その試験に向けて私もかなり気を使って過ごしてきた。大げさに言えば「親としての最終ゴール」みたいな感覚に陥っていた。だから終わったことでフニャフニャしてしまった感じだ。

 

今年が終われば下の子の分の養育費も終了する。世間相場よりはるかに高額な金額をもう15年ぐらい毎月毎月1日も遅延せずに払ってきた。総額を計算したら倒れそうになる。私の貯金が妙に少ないのもそのせいである。

 

来年からは養育費分をせっせと手を付けずに老後資金用に貯めようなどと殊勝なことを考えている。いやはや、まさに人生後半戦である。総括段階に入ってきていることを実感する。

 


 

さて、先日モスバーガーをデリバリーで注文したのだが、その数は5個である。パンは半分捨てたとはいえ還暦オヤジの食べる量ではない。ユルみまくっている最近のダメ人間ぶりを象徴する話だ。

 

昔からナゼか夏に太ることが多かったので、昨今のユルユルモードのせいで昨年15キロ落とした体重もすでに5キロ以上は戻ってしまったはずだ。だいたい体重計に乗らなくなっているあたりがダメ人間である。

 

ダメ人間と書いていて思い出したのが「ガス人間」である。ネットフリックスのドラマだ。奇天烈極まりないストーリーなのだが妙に面白くて一日で全部見てしまった。

 



小難しい推理モノや立身出世モノも悪くはないが、あそこまで突き抜けた設定の話を大真面目に作り込む制作陣の本気ぶりに感動した。バカげている、アホらしいと否定する前に大真面目に鑑賞することをお勧めします。

 

さて、暴飲暴食に話を移す。一人飲みの際はお寿司屋さんあたりで歳相応のチマチマした肴で一献傾けていることも多いが、そこはダメ人間と化した私である。若者しかいないような怪しげな居酒屋でレバ刺しやハツ差し、謎のモツ炒めをバクバク食べて過ごすような日もある。

 



 若い客層に混ざって心なしか浮いている感じもあるのだが、そういうことが気にならなくなったのも加齢に伴う図々しさのおかげである。ブヒブヒとゲップを吐き出しながらホッピー片手にジャンクなメニューにニンマリすると幸せな気分になる。

 

先日は仲良しのオネエサンの付き合いで銀座の小洒落たバーに出かけた。手の込んだ料理がいろいろあったのだが、味覚と精神状態が“赤ちゃん帰り”に向かい始めている私は「カラスミ目玉焼き」をムシャムシャ食べて満足した。

 



 カラスミは挨拶程度にパラパラとかかっているだけだったが、ぐしゃっと潰した半熟卵をパンに浸して食べれば充分である。最近は手の込んだものより単純明快な一品に魅力を感じる傾向が強まった。

 

別な日、仲良しになりかけているオネエサンと日本橋の鰻屋へ。うざく、肝焼き、白焼きで冷酒をカピカピ飲んで楽しく過ごす。問題はシメの鰻重問題である。以前なら一番デカい鰻重を頼むのが男として当然のマナーだと信じて疑わなかったのに最近はボリューム的に無理になってきた。ダメ人間である。

 


 

この日もオネエサンに一番デカいのを頼んで私は下級ライン?の鰻重にする。この店のデカ鰻は下級ラインの鰻重とは使っているウナギ自体が異なる。私だって上質なほうのウナギを食べたいが量が厳しい。

 

もっとも、オネエサンがデカ鰻を完食できるはずがないと予想してそっちから一枚ぐらい分けてもらえばいいと頭の中ではこすっからい作戦を練っていた。過去にその作戦は何度も成功している。

 

しかし、しかしである。今回は予想外の展開になった。オネエサンが「食べきれない分は持ち帰っていいですか?」と言い出した。優しい紳士のふりをしている私は「オイこら、食べきれない分はオレによこせ!」と心の中で絶叫しながら当然それを口は出来ない。

 

仕方なくすました顔で「それは賢いね。タレも追加でもらってあげるから明日、温め直して細切れにしてひつまぶしにでもするといい」などとアドバイスするハメになった。私の頭の中ではナゼか嘉門タツオの名曲「なごり寿司」が鳴り響いていた。

https://www.youtube.com/watch?v=iLlBWpIkLo8

 

小梅太夫みたいに「チックショー!」と叫びたいところだったが、別な場面でしっかりこの恨みを取り返すことを決意して爽やかな顔でその場をやり過ごした。

 

デカい鰻重が食えなくなったくせに狩猟本能はいまだお盛んな自分がちょっと切ない。

 

 

 

 

 

2026年8月10日月曜日

高級か大衆か

 

近年、よく言われるのが「真ん中がダメ」という話。飲食店に例えるなら、すごく高い店とすごく安い店は繁盛するけど真ん中の価格帯だと厳しいという話。

 

飲食店に限らず、世の中のあらゆる分野に浸透している考え方だろう。二極化、格差固定みたいな経済ジャンルの話題にもこういう話は出てくる。

 

さて、話が難しくなりそうだから本題に移る。日頃グルメだなんだと自慢気にSNSに映える画像を投稿している人は多い。インスタのリール動画を参考にさせてもらうこともあるから文句を言うつもりはないが、どうしても“中庸”の店が紹介されることは少ない。ちょっと残念だ。

 

まあ、SNSなんて幸福自慢みたいな側面があるから必然的にカッチョイイお店や予約困難店や妙に高価な店が中心になるのも仕方ない話だ。

 

どんなジャンルだろうと高級店と大衆店は存在する。一人5万もとるような意味不明な寿司屋が謎に繁盛する一方で、くら寿司にも行列は出来る。いきなりステーキみたいな気軽な店が人気だが、やはり一人10万ぐらい取るステーキハウスもしっかり客を掴んでいる。

 

鰻しかり、天ぷらしかり、蕎麦しかり、カレーライスやハンバーガーにも言える話だ。今どきは5千円ぐらいするハンバーガーも平気で売られているらしい。それはそれで食べてみたい気もする。

 

さてさて、ヨソの国の料理なのにひょっとしたら和食の一ジャンルかと思えるほど日本人の間に定着したのが中華料理だ。

 

実に多種多様である。丸美屋の麻婆豆腐などは普通の日本人の普通の家庭料理である。中華料理だと思って食べている子供などいないと思う。それをいったらラーメンも元は中華料理である。大勝軒のつけ麺やニ郎系ラーメンを中華料理だと思って食べている人も皆無だろう。

 

先日、市ヶ谷にある中国飯店に行く機会があった。都内にいくつかの店舗を構える高級中華料理の象徴的な老舗だ。昨今、一般化した「町中華」と呼ばれるジャンルのお店の対極みたいな路線だ。

 



 

ピータンの味の豊潤さ、チャーシューも蜂蜜っぽいソースを上手にまとわせているこだわりかたなど、いちいちさすがだと感心した。画像の他にもいろいろ食べたがどの料理も丁寧かつ繊細。高級路線の存在意義みたいなものを改めて実感した。

 


 

こちらは名物の松の実入り黒チャーハン。職人技のような食感、味付けで文句なし。大げさではなく毎日でも食べられそうな感じだった。

 

「毎日でも食べられそうな感じ」って単純にいえば誉め言葉だ。でもそれが必ずしも食における満足感を完璧に満たすわけでもない。そこが実に面白いと思う。

 

人間はワガママだから時に“猥雑な欲求”に走りたくなる。すなわちジャンク系の喜びだ。ジャンク系のウマいものって不思議なもので、その場では相当な満足感を得るのに、決して毎日でも食べたいとは思わない。それこそ猥雑な欲求である。

 

町中華で例えるなら油ギトギトのホイコーローやら臭いが気になる焼き餃子、カタ焼きそばあたりだ。独特の存在感があるラインナップだ。ナゼだか分からないが同じ中華系でも高級中華の繊細な味よりそっち系を身体が求めることは多い。

 

財布にゆとりがあるかどうかは別だ。もしサマージャンボ7億円が当たってもギトギトしたホイコーローが食べたい気分なら高級中華のフカヒレ料理より断然そっちを優先しちゃう。そんなもんだと思う。

 



 チャーハンも奥が深い。たかがチャーハン、されどチャーハンで、高級路線の店では感心するほどのパラパラな仕上がりに遭遇しがちだ。そしてそれに大いに感動する。ところが町中華でチャーハンを食べたい気分の時はパラパラ感にまったく期待していないから複雑である。

 

よく言えばしっとり、悪くいえばテキトーな炒めご飯である。でも、塩コショウの分量を間違えたような怪しげな濃い味付けに悶絶する。おまけに町中華のチャーハンに必ず付いてくる「謎スープ」がまた魅惑的だ。

 


 

飽きてきた頃にチャーハンを謎スープに浸して食べると得も言われぬ快楽が身体の中を駆け抜ける。ウーバーでチャーハンをデリバリーする場合、多くの店が謎スープを付けてこないことが今の私の最大のストレスである。チャーハンにあのスープをビシャビシャするのが醍醐味なのに実に残念である。

 



この画像はデリバリーでやってきたカタ焼きそば、天津飯、ホイコーローである。そういう気分の時にそういうメンバーが揃ったらまさに無敵だ。高級店でフカヒレの姿煮や北京ダックを出されてもこっちの気分の時なら迷わず町中華の面々を選ぶ。

 

誤解のないように書き加えるなら高級中華をディスっているわけではない。そっちはそっちで私の大好物である。あくまで2極化の両極をそれぞれ楽しめることが日々を、いや人生を充実させる大事な心がけである。大げさか。

 

SNSなどで高級店のことしか語らないようなグルメぶった人ってその点でとっても退屈な人だと思う。大きなお世話だけど…。

 

 

 

 

 

 

2026年8月7日金曜日

愛しのドーナッツ

 

時代とともに呼び方が変化するものがある。BMWなどは今でこそローマ字をそのまま発音するか「ビーエム」と略して呼ぶのが普通だ。ほんの30年ぐらい前まではたいていの人が「ベーンベー」と呼称していたことを知る人は減った。ベンツのチューニングメーカー「AMG」しかり。昔はだれもが「アーマーゲー」と呼んだ。

 

いずれも古いほうが本国の読み方を踏襲していたわけだが変われば変わるものである。高級時計の「ヴァシュロン・コンスタンタン」も昔は 「バセロン・コンスタンチン」と呼ぶのが普通だった。こちらは本国読みに戻った代表だろう。

 

スパゲッティーもいつの間にか「スパゲティー」「スパゲティ」に変わった。「ッ」一文字とはいえ今となってはその一文字を声高に叫べないような社会の“圧力”を感じる。「ッ」が入ると途端に格下になったかのような変な感覚がある。

 

さて、ここまでは前フリである。今日は「ドーナツ」の話。これまた昔は誰もが「ドーナッツ」と呼んだ。「ッ」が撤去されてしまったパターンである。でも不思議なもので話し言葉ではいまだに「ドーナッツ」と呼ぶ人が多い。高齢者だけの傾向だろうか。「ッ」を入れたほうが発音しやすい気がする。

 



さてさて、還暦も過ぎ、オジイサン世代への突入を間近に控える私だが、実はドーナッツが大好きである。アメリカ人みたいである。私の周りの同年代でドーナッツを嬉々として食べている人は見当たらない。

 

若々しいのか、子供舌なのか、味覚がヘンテコなのか、おそらく一番目の理由が正解だろう。ウマいんだからしょうがない。時おり無性に食べたくなってそういう気分の時は必ず食べる。一ヵ月に最低でも3回はガツガツ食べていると思う。

 

スタバのドーナッツは美味しくないことで定評があるが、私の場合、スタバの実店舗にいる時やデリバリーでそれしか選択肢が無い時は喜んで注文する。レンジでチンすればそこそこウマい。

 



最近は「クリスピークリームドーナツ」が世間でブイブイ言ってるイメージがある。私も時々買う。まあ、人気が出るのも分かる。悪くはない。でも私にとってはナンバー1の存在ではない。

 

私の場合、ウーバーでのデリバリーか有楽町マルイの店舗で買って帰ることが多いのだが、わりと最近、同じマルイの1階に新たなドーナツ屋が出店したので、その仁義なき戦いぶりに感心した。

 



 

「ランディーズドーナツ」というのがそれ。なかなかそそるディスプレイのせいもあっていつ見てもお客さんがレジにいる。人気があるようだ。ドーナッツ好きオヤジとしては試さないわけにはいかないので早速たくさん買ってみた。

 

まあそれなりだった。あくまで個人的な好みの問題だが、ワンフロア下に店舗を構える「クリスピークリームドーナツ」ではなくこちらを選ぶ理由は無さそうに感じた。

 

 


強いて言えば甘いクリームペーストの上に焼いたベーコンが散りばめられているドーナツは画期的な味がした。私の場合、ドーナッツを食べる際は3個も45個も食べたくなるので必然的に途中で甘さがキツくなる。ベーコントッピングという秘策がとても良いアクセントになってくれた。

 

デリバリーで頼んだことがあるドーナツショップは数多い。有名なところでは「ジャックインザドーナツ」も何度か頼んだ。他にも小規模な店から生ドーナツやら米粉のドーナツやらあれこれ頼んでいる。

 




ハヤリの生ドーナツとやらも嫌いではないが、クリーム入りの商品などは単なる菓子パンみたいでドーナツ的な満足感とはイメージが違う。まあ、甘い気分の時に食べるから四の五の言いながらムシャムシャ食べまくってしまう。

 

で、結論から言えば「ミスドは偉大だ」という絶対的真理である。「ミスタードーナツ」はもともとアメリカのチェーン店だが半世紀以上前に日本に進出。その後、日本独自の路線を歩んで今に至る。

 

ちなみにアノ名作中の名作である「ポンデリング」は日本が開発した商品だ。さすが日本人!と言いたくなる。創造性より応用力の高さを象徴している。

 



後発のいくつものアメリカ系ドーナツショップと比べるとミスドの“日本的な雰囲気”は独特だ。半世紀以上にわたる数々の企業努力のおかげで、まるで日本土着のドーナッツ屋さんみたいな現在の雰囲気に繋がっているのだろう。

 

何だかんだいってミスドのドーナツは他のショップより美味しい。個人の嗜好だが、私としては断固そう思う。食感なのか甘さの加減なのか良く分からないが総合力で他を圧倒していると思う。

 

なんだかミスドの回し者みたいになってしまったが、ここ数年、ウーバーのおかげでやたらといろんな店のドーナッツを食べまくってきたからこそ辿り着いた結論だ。

 

日本で歴史を重ねて進化した味わい。これって日本人にとっても財産だと思う。そう考えるとミスドと同じような時期に登場して昭和の頃にバチバチ競い合っていたダンキンドーナツが撤退したことは残念だ。頑張り続けてくれていれば日本っぽく進化したウマいドーナツは2巨頭状態だっただろうから妙に惜しい気がする。

 

 

 

 

 

 



2026年8月3日月曜日

いいかげん

 

「いいかげん」、「いい加減」。同じ言葉でも何となくニュアンスが違う。前者は無責任、投げやり、おおざっぱといったネガティブな意味合いだ。後者はもちろん、適度、ちょうどいいといった肯定的な響きになる。

 

「いいかげんにしろ」。相手に伝えるにしても場面や状況で意味合いは変わる。日本語の奥ゆかしく面白い部分だろう。こんなことを書き始めたのは私自身がどんどん「いいかげん」になってきているからだ。

 

そうはいっても「いいかげん」になっちゃったつもりが実は「いい加減」になっていたような展開もある。分かりにくい書き方でスイマセン。

 


 

シンコの握りだ。夏の風物詩である。寿司通を気取るならシンコのウンチクを延々語らないと始まらないほどのド定番である。30年近く前に一念発起して客としての寿司修行?を始めた私もシンコと聞くだけでアドレナリンが出ちゃう日々を長々と過ごしてきた。

 

そんな私も還暦を過ぎ、これまでやたらとこだわってきたあらゆる分野のあらゆることへの執着が徐々に薄まってきた。シンコも然りである。


ほんの23年までは56月あたりからシンコはまだかとソワソワしていた。初モノ食いをイキの極みだと信じていた江戸時代の洒落男のDNAが染みついているのかと思うぐらい頭の中がシンコ一色だったこともある。最近はそうした執着心が急速に弱まってきた。

 

良いか悪いかではなく“薄まる感覚”自体が年の功なのかもしれない。もちろん、お寿司屋さんにシンコがあれば喜んで食べる。でも、シンコ狙いでガツガツしていた頃と違い、今では半分その存在を忘れている。「そういえばシンコってあるの?」。そんなヌルい感じで店主に尋ねて無事に出てくればニンマリする。

 

こだわりが無くなっちゃたわけではないのだが肩の力が抜けたような感じだ。これこそが「いい加減」なんだと思う。

 

でも、ほんの23年前に私からシンコのうんちくを口うるさく力説された人からすれば、シンコの存在をヘタしたら忘れちゃってる今の私のヌルさは「いいかげん」そのものに映るはずだ。

 


 

こちらは東京駅そばの「平田牧場・極み」という店で食べたヒレカツだ。この日、トンカツの気分になったのに自分がいた場所から移動するのが面倒になってこの店を選んだ。

 

いつもならお気に入りのトンカツの名店までタクシーを飛ばして駆けつける。移動距離が極端に遠くなければ迷わずそうしていた私だが、この日は「いいかげん」モード発動である。

 

とはいえ、出てきたヒレカツが充分ウマかったので単純に満足。わざわざ移動して思い入れのある名店に行ったら行ったで得難い満足感を味わえるのも確かである。そういうこだわりも捨てがたいのだが時に面倒なのも事実だ。

 

「面倒くせ~」。すなわち投げやり的な「いいかげん」精神に従うのも時には必要だ。いつもいつもハッスルしてこだわりの男を演じ続けるのもツラい。こうやって適度に種々のこだわりが薄れていくことで老境という世界に突入しやすくなるのだろうか。それはそれで良いのか悪いのか判断がつかない話である。

 



こちらは銀座の土佐料理「祢保希」で食べたカツオの塩タタキだ。何の変哲もない一品だが、私にとっては革命的?である。醤油系、ポン酢系のタレ以外でカツオのタタキを食べたことが無かった。


その食べ方が絶対だと信じて疑っていないのに塩タタキなる一品を注文してしまう私の変節というか柔軟性?に我ながらビックリした。「いいかげん」になってきた証だ。

 

でもたいしてウマくなかった。やはり王道のタレ味にしておくのが賢明だと痛感した。とはいえ、こういうハズレを経験すると自分のこだわりをもっと大事にすべきだと思い直すきっかけにもなるから悪くない。

 

ちなみにカツオのタタキには醤油とポン酢のミックスが一番美味しいというのが私のこだわりだ。どちらかを多めにするかは好みの問題。私自身は5050だ。醤油とポン酢を半々で安直なタレを作る。スライスした生ニンニクとこのタレがあれば言うこと無しって感じだ。

 

話がそれた。

 

「いいかげん」と「いい加減」をめぐる私の迷走はもちろん食における店選びに限らない。それこそいろエロな場面で直面している。そもそも「加減」とは文字通り加えたり減らしたりの世界である。力の入れ具合、抜き具合も同じ。あらゆる分野でその按配が上手いか下手かが人としての器量の決め手にもなる。