先日、仲間うちの新年会に行ってきた。一種の同窓会だが、同窓会というほど大げさではなく、メーリングリストを経由して案内がきて、厳密な出欠確認もなく、友人が経営するレストランに集まるお気軽な会合だ。幹事役が往復ハガキを用意して大変な思いをして旧友を集めるスタイルに比べ、ネット社会の便利さを痛感する。
同窓生といっても、小学校から高校まで一貫校だったので、卒業学年は微妙にずれていたりする。男子校だったこともあり、40歳代の大人が集うにしては、会話のレベルは中学生時代と変わらないバカっぽい話ばかり。
一学年が150~160名程度の規模の学校で、一貫校だったため、割と付き合いは濃くなる。10年ぶり、20年ぶりで顔を合わす旧友が登場しても不思議なもので瞬時にタイムスリップする。
今回は40名程度が参加。職業は当然ばらばらだが、結構医者が多い。開業医、勤務医いろいろだが、宇宙人襲来を恐れる患者さんの対応に真剣に取り組む精神科医の話が楽しかった。
自治体の首長になった人間もいれば、芸能界の売れっ子スタイリストもいる。着ているものもまるでバラバラ。メガ金融機関の経営戦略の中枢で働く人間がいれば、海外協力隊でどこかの島国で野菜作りを指導し、帰国後、自給自足生活を送る人間もいる。堅実な勤め人も年齢的に会社の中枢にいるため、バカ話ついでに垣間見える「人生いろいろ」が興味深い。
容姿、雰囲気、髪の量、体型にいたるまでよくもまあバラエティに富んだものだ。一見まるで共通点のなさそうな人間達が何も構えずにバカ話をする光景は同窓会ならではのディープな眺め。それだけで楽しい。しがらみや利害関係抜きの酒はしみじみ美味しい。同じ店で7時間以上呑んでしまった。
それにしても、子供の頃の記憶は年々、消去されているようで、今回も旧友から聞かされた私自身の武勇伝?にゲンナリした。動物虐待みたいな話なのでここでは割愛。どうも都合の悪い記憶は消し去るという便利な機能が私の脳にはあるみたいだ。まあそうじゃなきゃ自己嫌悪の生活になりそうだから良しとしよう。
会場となったお店は溜池山王駅そばの「美食菜館」(http://gourmet.gyao.jp/0003026746/)という中華レストラン。明るく綺麗で使い勝手の良いお店です。お近くの方には強くオススメします。
2008年2月12日火曜日
人生いろいろ
2008年2月8日金曜日
大人の線引き
いつの間にか無くなっていく言葉は多い。ナウいとかチョベリバとかショーユ顔、ぶりっこ、胸きゅんなどなど。
「あそこのアベック、男の方はシティーボーイ風で、女はバックシャンだね。アツいね。あの様子じゃ、もうBとかCまでいってるぜ」などという言葉を、ある時代、本当に口にしていた人がいるかと思うと目まいがする。
そう考えると今どきの少年少女の言葉の乱れなんか気にする必要はないのだろう。きっとメタボとかナンタラ王子あたりの言葉も5年もすると恥ずかしい言葉になっている。
「ナイスミドル」。この言葉もすっかり聞かれなくなった。中年の域に入った私としては、若い頃、いつかはナイスミドルと呼ばれるような男でいたいと思っていたのに、すっかり死語になっている。それじゃあ何を目指せばよいのかチョット困る。
きっと「チョイ悪オヤジ」という言葉が「ナイスミドル」をどこかに押しやってしまったのだろう。でも、このふたつ、私に言わせればイメージが違う。「チョイ悪オヤジ」の方が、なんか情けない響きに聞こえる。
チョイっていうのがイヤだ。悪になりきれないのなら真面目な路線でオヤジ道を歩めと思う。ナイスミドルの方が余裕がある。分別とかわきまえの香りがする。ガツガツ
した感じがない。
ナイスミドルという言葉のイメージは、私が若者時代には40歳代の人であれば当てはまるイメージがあった。でも、いまどきの40代は、一般的にミドルといえるような雰囲気に欠ける。世の中全体の幼稚化が原因だろうか?
40代の自分が単に若ぶっていたいからそう思うのかと思ったが、本当に今の時代、年齢から受けるイメージが一昔前と様変わりしている。
ひとつの例を挙げよう。いまは亡き石原裕次郎は「太陽にほえろ」がスタートした頃、30代後半だった。あのドラマが全盛期だった頃の貫禄タップリのボスは40代前半だったわけで、その「ナイスミドル」ぶりにビックリする。
30代後半といえば、いまどきは福山雅治とか大沢たかおであり、40代前半といえば阿部寛であり織田裕二だ。彼らに七曲署の捜査一課長は無理だろう。ナイスミドルという響きもまるで当てはまらない。
チョイ悪オヤジもダメ、ナイスミドルも違うとなると、40代の頑張る男達をどう呼称すべきか。どなたか是非アイディアをお寄せ下さい。
さきほど「世の中全体の幼稚化」という表現を使ってみたが、テレビで見かける若いタレントの子供じみた言動にはビックリさせられる。身近なところでも、会社の求人に応募してくる若者の傾向は、ここ10年で格段に変わった。
端的に言って大人がいない。新卒レベルの人間ならともかく、社会人経験を数年積んで転職を希望してくる人についても同様だ。良く言えばまっすぐだが、裏返せば思慮が浅い人が多い。
若いからこそ、大人になりたくて、そのために必要なアレコレをスポンジのように吸収しているはずだが、そういう気配がない。若年世代における現状満足派の増加が社会問題になっているそうだが、ここ数年確かにそれを実感する。
偉そうなことを書いてしまったが、30代、40代だって幼い人間は多い。自分だって、一昔前の40代の先輩から見れば、幼稚な点が多々ありそうだから、ウダウダ書くのはヤメにしよう。
今の時代、40代になってもナイスミドルになりきれないのだから、20代、30代が一昔前のイメージより子供っぽくても仕方ない。
話題にするには随分日が過ぎてしまったが、何かと論議を呼ぶ成人式だって、幼い人間を大人扱いするから色々と問題が起きる。成人式は30歳くらいでちょうどいいのかもしれない。
30歳を迎える人に言いたい。「祝・成人。大人の世界にようこそ!」。
2008年2月7日木曜日
富麗華、福臨門
高級中華料理店って便利な存在かも知れない。接待やデートの場面では、仰々しすぎることもなく、かしこまりすぎることもない安心感がある。
高級フレンチだと残念ながら肩が凝る。メニューに書かれた料理の名前が素材ぐらいしか分からなくてイラついたりする。ワインリストが膨大だと憂鬱になる。まあ単にパンが嫌いという個人的理由が大きいのだが・・・。
高級寿司店は、密談、商談、ワイ談がカウンター越しに筒抜けで困る。
懐石料理店は、おのれの日本文化への理解度不足が露呈して反省気分が強まる。
イタリアンは、働いているイタリア人が格好良かったりして困る。
中華料理店は総合的に無難だ。中華料理が苦手という人は少ないし、メニューの内容がたいてい分かるし、分かったフリをしてワインリストを睨む必要もない。ちゃんとした店なら毒ギョーザも出てこない。
アレコレ語れるほど食べ歩いたわけではないが、「福臨門」と「富麗華」は、それなりに抜きんでた存在だろう。お値段という意味でもそうだが、料理全体のレベルが高い。
福臨門は、香港に行った際にも、2,3度行ったことがあるが、個人的には日本の方が満足度が高かった気がする。久しく行ってないので、偉そうなことは言えないが、徐々に店舗数が増えていることがレベル維持の点でちょっと気になる。
以前の銀座店は味気ないインテリアが良かった。これみよがしのインテリアよりも、素っ気ない風情が味への絶対の自信のように映った。異様にお高いフカヒレとかアワビより、お手軽価格の鶏の丸揚げとか、海老料理や、いわゆる家禽類ロースト系の料理が絶品だと思う。
以前行ったとき、シンプルでプレーンなつゆそばを作って欲しいと頼んでみた。要は単なるラーメンの注文だ。お金が無くて頼んだのではない。純粋に食べたかったから頼んだ。
結果、滋味という表現しか思い浮かばない優しくも奥深い味わいだったことを思い出す。上湯の素晴らしさがすべての決め手だろう。日本料理が出汁のレベルに依存しているのと同じで、中華もこの部分が肝。単純なラーメンも神々しい味になる。
お次は東麻布の「富麗華」。ほんの少し隠れ家的な立地、店のしつらえ、インテリア、食器などなどが丁度良い高級感で整えられている。中国古典楽器の生演奏もあって、「さあご馳走を食べましょう」的な高揚感をきちんと演出してくれる。
広東料理の店のレベルを一発で決めるのが甘めの味付けのロースト類。この店も間違いない美味しさ。許されるなら鴨や豚のローストばかりを大量に頼んでひたすら酒のつまみにしたいが、そうもいかない。大人だから一応野菜なんかも食べないと格好悪い。
サクサクしたフレークが入っている北京ダックは、この店に来て頼まない人がいないくらいの人気メニュー。率直に美味。
あれこれ説明してもきりがないが、特筆すべきは“黒チャーハン”。正式名称は忘れたが、見た目は黒くて楽しげではない。初めて見る人は食欲が湧かないかもしれない。私の初体験がそうだった。満腹気味な頃合いに登場した黒チャーハンにゲンナリしかけたが、頬ばってビックリ。見た目とは裏腹にあっさりしている。いい感じでコクもあり、ちょこちょこ載っかっている松の実の食感がアクセントになって抜群。どんぶりでも食べられるぐらいのお気に入り。未体験の方には是非是非オススメ。
そこでしか味わえない独特の料理がいくつもあることが高級中華として他をリードする条件だと思う。そうした点で富麗華はさすがと言っていい。平凡な料理も確かにあるが、あとあとまで長く印象に残る料理がいくつもある。
思い出に残る料理があれば、その食事に費やした時間すべてが素敵な思い出になる。
2008年2月6日水曜日
中年こそ純情か。

30歳を過ぎた頃、突然「寅さん」が好きになった。凝り性な性格もあって、2か月ぐらいの間だったか、短期間のうちに全部見た。結構語れる。柴又の寅さん記念館にも行った。おまけに置いておいてあったアトラクションの寅さん関連クイズも全問正解した。
好きになった理由を考えてみた。もともと旅好きな性分、それもひとりで気ままに旅をするのが好きなので、48作品それぞれに漂う旅情の部分に強く惹かれたのだと思った。
でもそれだけじゃあなさそうだ。都会での仕事に付きものの、「闇雲に押しつけられる常識という枠」に窮屈さを感じていたことも大きな理由だろう。
納得できないことがあっても、よくよく根拠もなく「そういうものです」、「そうすることになっています」などと言われると時に無条件に納得いかない気持ちを引っ込めてしまう。そんな麻痺していく感性を癒したくなったのかも知れない。まっすぐで一本気な非常識を展開する寅さんに何かを投影したくなったのだろう。
実際、こうした部分が真面目な日本人にあのシリーズ映画が支持された理由だろう。だから大人になって初めて面白おかしく見られるようになった。若者が寅さんシリーズを好きだったら、その人はよほど偏屈だ。
嵐勘十郎演じる愛媛の殿様の末裔と知り合っても、「爺さん淋しいんだね」と語りかける。宇野重吉演じる人間国宝クラスの画家に「あの娘に似顔絵くらい描いてやったっていいだろう。ケチ」と説教する。吉永小百合扮する娘と絶縁関係にある高名な小説家には、「男女の色恋なんて不真面目なものを書いてちゃダメだ」と諭す。
ひたすら権威とか名声というものへのアンチテーゼとして寅さんの一本気が強調される。初期の頃に凄まじいセリフがある。寅さんファンの間では有名セリフだ。
「でめえ、さしずめインテリだな!」。
この開き直り方は芸術的だ。高度成長期のホワイトカラーに向けた強烈なメッセージだろう。人情や支え合いの気持ちより、ひたすら上昇することが優先された風潮への嘆きだ。
聞きようによっては、利益至上主義、なんでもかんでも合理主義がもたらした愛情の欠けた今の世相にも突き刺さるように思う。
負け組にはなりたくない。格差社会の底辺にもいたくはないが、かといって、ドライすぎる生き方を目指したくない人にとっては、寅さんの愛すべき破天荒ぶりは、型にはまった社会への警告に聞こえるはずだ。
なんか小難しい話になってしまった。そんなことより、寅さんの愛すべきもうひとつの要素は、その純情さだろう。大人になると純情な様子、純情な気持ちを表に出すことが難しくなる。なぜだろうか。恋に落ちても、それを相手に伝えることが難しくなる。本当だったら、その事実をせつせつと語りたいのだが、いろんな思惑があって悶々とする。
でも、若いうちならともかく、年齢を重ねるごとに図々しくなるのだから、純情な叫びは一生懸命表現した方がいい。でも、いざ表現しようとすると今度は相手が本気にしなかったりする。なんとももどかしいオトナの循環だ。
寅さんの純情ぶりは、恋に落ちたことを語ることすらできない幼い純情で、実にいじらしい。いじらしいから映画を見ている側を切なくさせる。
「今度あのコにあったら、こんな話しよう、あんな話もしよう、そう思って家を出ても、そのコの前に座ると、ぜーんぶ忘れちゃうんだ。そんな姿が情けなくて涙がこぼれそうになるんだよ」――。
見ている人にとって、どこか共感するというか、身に覚えがある感覚だろう。それを上手に言葉にしてくれる寅さんにおじさん達も皆共感する。
大人向けの映画だけに、大人の色恋沙汰についても、世間が常識と思っている枠をいとも簡単に突破する。三船敏郎扮する頑固オヤジが恋をしていることを悟った寅さんは、三船の娘(竹下景子)から、「だってお父さん、もういい歳よ」と言われて怒る。
「男が女に惚れるのに歳なんかあるかい!」。この一言がすべて。確かに、いい歳になったら恋をしないという世間の常識は、こんなひとことで崩壊するレベルのものだ。
常識や枠、しがらみに囚われない言動って結局、純情でなければ成り立たないのかもしれない。
話は脱線するが、ジャック・ニコルソンとダイアン・キートン主演の映画「恋愛適齢期」も中年女性が堂々と恋に突き進む「中年の純情」を描いたハッピーな作品。いい歳した男女が最後は結局髪振り乱して一直線に恋に落ちる潔さがなんとも痛快だ。いちおう中年側になってしまった私としては、ひいき目だが、ジャック・ニコルソンの方が、恋敵のキアヌ・リーブスより断然魅力的に映った。まあひがみ根性ではあるが。
なんか話にまとまりがなくなってきてしまった。要は、「中年こそ純情」というタイトルに合わせるようにダラダラ書き続けてしまった。着地点が見つからない。困った。
でも寅さんはいい。いくつになってもどこに行っても恋するお相手が見つかる。現実社会で生きる40代以上の大人達にとっては、出会い自体がなかなか無い。そんな相手に出会えたら、積み上げてきたあらゆる経験を味方に一生懸命に恋心を伝えてみたい。
結局今日もオチがなかった。病気だろうか。
2008年2月5日火曜日
京都、浅草、風情とコスト
いきなりだが、空気というか雰囲気、風情に対するコストって絶対に必要だと思う。もともとモノの値段って難しい側面がある。芸術作品なんかその典型だ。絵画や彫刻は、作家の名前が値段の差につながる。無名なままではどんな素晴らしい作品でも飛び抜けた価格は絶対につかない。
陶器集めが好きで、あちこちと窯場を訪ねる。工房見学や作家本人に会おうとしても、やはり事前に情報が収集できるのはそれぞれの産地の有名人に絞られがち。大家と呼ばれるようになると作品の価格は自ずと高額になる。
まあ大家ともなれば、出来の悪いものまで作品として売りに出せない成約もある。取引のある美術商の値付けを壊さないために仕方なくプライス調整をできない側面もある。完璧なものしか売りに出せなければ価格が高くなるのは当然だが、なかには、名前だけで実に微妙な値付けをしている人もいる。
もちろん、名があると言うこと自体が、そこに至るまでの数々の受賞歴や各界からの評価の裏付けなわけだから、何に比べて高いというかは確かに難しい。
私の場合、地元の陶器販売店や料理店などで地元の新進作家を教わって、有望株を訪ねることも多い。一部で有望と言われただけで、既に勘違いしちゃってる作家もいれば、真摯に不器用に作陶を続けている人もいる。不思議と作品にそうした気配は出るもの。ただ、商業的に成功するかしないかは、作風だけで決まるものではない。マスコミへの露出、美術商の引きはもちろん、地元とのしがらみも大きく、「大家」になれる人はごく一部だ。
話が脱線した。モノの値段だ。美術関係だけでなく、サービス業、客商売なども「空気」、「風情」が値付けに影響する世界だ。
天ぷら屋さんでも、揚げる素材、油、供される器、店の造作、職人の居ずまい、仲居さんの接客すべてが合わさって価格が構成される。高い、安いの評価はそこまでひっくるめないと分からないし、受け手の主観で判断は変わるため、絶対的尺度はなかなか存在しにくい。
ところで、「空気や風情」の代表格といえば京都だ。祇園周辺、なかでも八坂神社周辺の雰囲気は、旅人に旅情を強く感じさせる点で日本有数の世界。夜のそぞろ歩きは、あの街独特の魔界的空気も加わって旅人を魅了する。
最近すっかりご無沙汰してしまっているが、祇園・花見小路に何度も通ったお寿司屋さんがある。京都には旅人を京都っぽい風情に浸らせてくれる飲食店は多い。ただ、安っぽいわざとらしい作りの店も多いのがたまに傷だ。その点、このお寿司屋さんを夜に利用すると格別な空気が漂う。店の名は「呑太呂」。
塗りのつけ台と白木のカウンターの間には、小川を思わせるように水が流れる。板前さんはネクタイを着用。ただ、足元には高ゲタという憎い演出。動くたびにその音色がこだまして耳に心地よい。
京都の人がやっているのだから、京ことばは当たり前だが、店の雰囲気と聞こえてくるイントネーション、祇園という立地が旅行者を気持ちよくさせてくれる。
寿司以外にも、冬のかぶら蒸しなどは絶品で、この地の料理水準の高さを思い知らされる。肝心の寿司は、ビックリするようなレベルではないが、充分満足できる。さすがに日本の西側だけあって白身魚は抜群。
特筆すべきは鹿の子と呼ばれる和牛の炙りの握りだ。東京人が牛肉なんか邪道だとか固いことを言ってもはじまらない。単純明快に美味しい。聞くところによると、石原裕次郎や美空ひばりが好んで食べていたのが、この鹿の子の握りだそうだ。確かにああいう人達がバクバク食べていそうな感じの豊かな味だ(どんな味だ?)。
好き勝手につまみを食べて握ってもらって酩酊すれば、もちろんお勘定は安くない。でも本格割烹や料亭に行くよりは安い。食べたものだけを考えれば高いという評価もできるが、私が得意とする「変な解釈」では納得のプライスといえる。
私の「変な解釈」について解説してみたい。まず旅の止まり木としての空気感を気配りで演出してくれる点に○△円の価値がある。そして1年に1回ぐらいしか行かない馴染みといえない私の名前を何人かの板前さんが覚えていてくれて、しっかり苗字をよんで応対してくれる。この部分に○△円、帰り際に高ゲタをならして玄関の外まで丁寧に見送ってくれる点に○△円・・・。こんな感じで積み上げていくとお勘定に納得してしまう。
旅先という魔力が私をすっかり甘口評論家にしてしまう。でも辛口採点ばかりじゃあ旅がつまらなくなるので、それで良し。私の場合、結構旅先では、店にとって都合のいい客だと思う。
先日、銀座のクラブで京都の舞妓さん出身のホステスさんとアレコレ話をした。食べ物の話で盛り上がったついでに、「呑太呂」の話も登場。彼女曰く「あそこは高い」という。
実際はもっと風情のある言葉使いだった。「あそこは、たこうて、よういきまへん」みたいな言い方だった(「あそこ」の「あ」にイントネーションを付けて読みましょう!)。
確かに地元で動いてる人にとっては、京都っぽい空気感とか風情は、日常生活なわけだから、それに価値を見出す私の変な解釈での計算は成り立たない。名前を覚えてもらって嬉しいのも私が600キロも離れたところから来ているからで、地元の人からすれば、「そんなの関係ねえ」の世界だろう。
東京であれば浅草なんかも似たようなものだろうか。浅草も随分ご無沙汰なので近いうちに改めて探検したいのだが、私なら大黒屋の天ぷらを並んで食べようとは思わない。舟和の芋ようかんも浅草じゃなくても買える。それなら六区あたりの濃密な臭いをかぎながらモツ鍋屋の店先で観光客を冷やかしながらホッピーとタコブツを頼んだ方が楽しそうだ。
でもそれじゃあまるで富豪記者ならぬ貧乏記者みたいなので、うなぎの「前川」、てんぷら「中清」あたりのしっぽり系の店で過ごしてみたい。
モノの値段について書いていたつもりが、なんだかまた脈略のない話を書き殴ってしまった。最近どうも自分の文章が地に足ついていない感じで困ってしまう。病気だろうか。
2008年2月4日月曜日
別宅とお金の出所
別宅という概念がオーナー経営者らの間で少しずつ浸透している。自宅以外の隠れ家というか自分だけの居場所を確保したい心理は中年以上の人間なら誰もが思うはず。
雑誌「LEON」」で活躍した岸田一郎編集長が独立後に手掛けている富裕層向け情報誌「zino」なんかも、さかんに社長さん向け“トキメキ別宅”といった特集を展開している。富裕層向けのクオリティライフを提唱する以上、当然、そうした着眼点は外せないわけだ。
浮気目的とか単純な話ではなく、息を抜くための一種の止まり木的な欲求だ。とくに自宅の所在地が、都内中心部から離れているような場合、仕事上の付き合いを銀座や六本木あたりで毎晩のように遅くまでこなす経営者達にとっては、こうした発想は自然なこと。
都内中心部にタケノコのように増殖するマンションがこんな目的で購入されることも多い。購入までは考えない場合でも、最近は、サービスアパートメントのような家具付きでホテル的サービスが受けられる賃貸物件が増えているので、そこに狙いを付ける経営者は多い。
この場合、気になるのが、個人の財布から費用を捻出するのか、会社名義で活用するのかという判断だろう。自分の息抜きという要素を考えると、あくまで個人的な費用として処理すべきで、会社の経費にするのは難しいという考え方が一般的かもしれない。
とはいえ、社用で連日のように遅くなり、高いタクシー代と長い時間を使って帰宅することは非生産的な行為でもある。自宅所在地、会社所在地のほか、そうした別宅を利用する趣旨や目的などを総合的に判断して合理的なものであれば、税務解釈上、会社経費で別宅を使うことはちっとも無理な話ではない。
対税務署的に見れば、もちろん、慎重な判断は必要だろうが、あくまで経費性の立証責任は納税者側にあるわけで、正当な理論武装などがあれば済む話だ。
賃貸ではなく、投資用物件という意味で購入することも会社の財務戦略上間違っていない。うまく値上がりでもすれば、会社という存在の根本的目的である利益追求にもかなう。
不動産情報誌や富裕層向けに高級不動産を紹介する情報誌は数多いが、どうしても不特定多数をターゲットにしている以上、家族向け物件などの情報が中心。別宅的アプローチは世の中でまだまだ少数派だ。
経営者の別宅問題でカギになるのは、さきほど説明した「財布の話」、すなわち、会社名義での処理のポイントや税務署的視線の見極め方といった部分だ。この点はオーナー社長向けの税金専門紙しか論理的考察ができないのが現実だろう。
別宅に限らず、会社名義でのクルマ活用術などオーナー経営者の商品への関心は、「そのカネはどっちの財布を使うか」、すなわち自分個人か会社経費かという微妙な線引きの上に成り立っている。
巷にあふれる情報誌やwebの情報などでは、この微妙なヒダの部分まで切り込めないのが現実だ。オーナー経営者向けのマネー関連媒体を出している立場から見れば、一般的な編集者の限界はこの一点につきると思う。
2008年2月1日金曜日
銀座で函館
銀座にある海鮮料理の「函館」に行ってみた。最近、北海道へわざわざカニ・魚卵系摂取に行く私としては、鳴り物入りでオープンしたこの店がちょっと気になっていた。
巨大ないけすに生きたカニや貝類などがどっさり。期待していったが、残念ながら結論は「微妙」。素材は確かに新鮮。つきだしで鮮度抜群の帆立が炭火と一緒に運ばれてくるし、生きたタラバも刺身や焼ガニなど好みで調理してくれるし、都内では珍しい内子もある。食べなかったが、貴重な鮭である鮭児も常備。メニュー自体はいい感じ、価格も立地を思えば問題なし。内装も洒落ていてそこそこ高級感もある。
全体的なソフト面が「アイタタタ・・・」の残念賞。バイトの若者も頑張っているようだが、なにぶん極端に素人。プロっぽい接客が出来そうな人が見あたらない。頼んだアルコールも大混雑してるわけでもないのに、いつまでも来ない。テーブルチャージを謳っているのにお会計を頼んでもいつまでもやらない。
新しい店だが、まったく練れていない。丁寧でてきぱきしていることは認めるが、あの場所であの仕事ではちょっと厳しい。チェーン店の居酒屋の高級版という域だろう。
一応「函館」というお店の名誉のために付け加えるならば、この店が池袋や新宿にあったら結構喜んで通いそうな気がする。銀座だと美味しい店がいくらでもあるのでわざわざ行かないという話。
そんなわけで久しぶりに食事目的の店をはしごした。お酒目的でのはしごではなく、夕食のはしごだ。8丁目にある間違いないお寿司屋さんにお邪魔する。プロの仕事にホッとする。食べ直して呑み直す。
そのあと勝ち組クラブ「M」へ。いい時間でした。