今日も更新できなかったので、アーカイブをふたつ載せます。来週から更新を再開しますので、懲りずに覗いてやってください。
★治郎八に憧れて
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/03/blog-post_19.html
★モデル体験
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/05/blog-post_14.html
2012年8月31日金曜日
2012年8月29日水曜日
小休止
夏休みを取ってフラフラと旅行中なので、今週はブログの更新を休みます。
来週月曜から更新を再開します。
ということで、アーカイブを載っけておきます。
★鬼子母神の大イチョウ
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/08/blog-post_21.html
★渋谷 15の酒
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/05/15.html
2012年8月27日月曜日
ランチの罠
ランチが苦手だ。そう書くと妙だが、私にとって昼飯は難問である。
昼にしっかり食べたら夜の楽しみが半減する。「夜から男」、いや、「夕暮れから男」として生きている以上、昼間のすべてが「アウェー」みたいなものだ。
仕事の付き合いランチがない限り、基本的に昼飯は食べないか、ごくごく軽く済ませる。プリンとか大福とか甘いもので終わらせることもある。
なるべく飲食店にも行かないようにしている。ランチ競争の激しい都会では、妙にボリュームたっぷりのメニューばかりだ。喜んで食べたら夜に後悔するはめになる。
わびしさ覚悟でコンビニのおにぎり一個とかで済ませないと食べ過ぎてしまう。
まっとうなランチを食べる場合、ビジネスランチなどでもそうだが、軽く一杯引っかけることもある。
若者サラリーマンではないから、オッサン同士のランチだとビール1杯ぐらいは珍しくない。洒落た店だとグラスでシャンパンだ。
ごくたまに一杯が二杯になり、二杯が三杯になり、「まあいいか状態」に突入することがある。昼の酒は酔うと言われているが、確かに普通より酩酊しやすい。
きっと背徳感という魔法が加わるからだと思う。でもそれが良い。世の中の楽しみの多くが背徳感によって支えられているのだと思う。
子どもが隠れてエロ本を眺めるような感覚だろうか。全然違うか。
先日、日本橋のマンダリンオリエンタルで小洒落たランチを楽しんだ。地震にビビる私としては、高層階は苦手なのだが、さすがに東京のど真ん中だけのことはある。38階からの眺めは圧巻だった。
グラスのシャンパンを何度かお代わりしてビビる気持ちを落ち着かせる。酒飲みの言い訳ほどタチの悪いものはないが、まさにそれだ。
店の名前はその名も「ケシキ」だった気がする。正直、高級ホテルのダイニングにしては、テーブルの間隔が狭く、いまどきの新興ホテルの限界を感じた。あれなら1階下にあるバーラウンジのほうが居心地は良さそうだ。
コンサバ太郎である私としては、ここ10年ぐらいの間に増殖した外資系高級ホテルが、みな同じように見える。スノッブでとんがってる感じで、そのくせ、敷地の余裕の無さからか、全体に窮屈な雰囲気を感じてしまう。
帝国、オークラ、ニューオータニあたりの老舗の場合、スペースのムダがゆとりにつながっている。洒落っ気に欠けるとしてもイマドキホテルとは違うノンビリ感が味わえる。
マンダリンでは名物らしきハンバーガーを頼んだ。普通に美味しかった。この味に老舗の歴史だとか物語みたいなエッセンスが加われば最高なのだろうが、新興ホテルにそれを求めるのは無理がある。
古い東京をエコヒイキしてしまうクセのある私としては、景色だけが印象に残った。いや、ホテルオリジナルブレンドのハーブティーはウマかった。うっすらライチが香るような実にホッコリする紅茶だった。
別な日、九段下にある「トルッキオ」という店でランチタイム。自家製パスタがウリのイタリアンだ。穴場ムードは満点。せせこましい感じではないところがよい。
スパークリングワインをぶりぶり飲んでしまった。オリーブオイルにパンを浸し、上品に嗜んでいたつもりが、いつの間にかガブガブ状態になった。
朝に飲むシャンパン、略して「朝シャン」は、金色かつ泡が上に向かって上昇する風水的な縁起の良さで知られるが、「昼シャン」も最高である。その後の予定など強引に吹っ飛ばす力がある。
前菜も美味しい、パスタ麺もいい感じだ。残念ながら私が頼んだレバーペーストを多用したクリームパスタはクセが強くてムムムって感じだった。改めて夜に挑戦したい店だった。
こういうちゃんとした店のちゃんとした昼飯を食べてしまった日は、当然のことながら夜が楽しめない。一丁上がりになってしまう。そこが問題である。
酒を飲まなければいいという問題ではない。酒抜きだろうと昼間に満腹になった私の内臓は、夜のお勤めを拒否してくる。不仲の夫婦みたいな感じだ。
全然違うか。
そうはいっても、昼の酒はしょせん大酒にはならないし、そのおかげで夜抜きの生活になるのなら健康には良いのかもしれない。
結局、昼の酒の言い訳ばかり書いたような気がする。
日々反省である。
2012年8月24日金曜日
美人の尺度
ブータン国王の来日をきっかけに「国民総幸福量」なる考え方が知られるようになった。国民総生産に対するアンチテーゼだ。
欲求ばかりが渦巻く先進国には分が悪い考え方だろう。私自身、何一つ不自由のない環境で生まれ育って生きているのに、口を平けば不平不満ばかりつぶやいている。
猛省しようっと。
幸福度合いの話をいきなり引用したのは、「尺度」の難しさを書きたかったから。幸福度合いを小難しく書こうというわけではなく、今日は「美人」について考えてみたくなった。全然脈略が無くてスイマセン。
美人の尺度ほど分かっているようで分からないものはない。実際、時代と共に変遷しているようだし、国が違えば美人の基準も随分違うらしい。
クレオパトラとか楊貴妃とか、さぞ絶世の美女のようなイメージだが、九分九厘、今の価値観でみれば非美人だったと思われる。数百年とか数千年前の価値観などあてにならない。
日本では下ぶくれの顔に長い黒髪が、昔の美女の条件だったらしい。いまどきの蚊トンボみたいに細く、髪を茶色く染めた女性なぞ見向きもされなかったのだろう。
時代の違いだけでなく、いま現在でも国が違えば美人の尺度も異なる。ポリネシアあたりだったら太ってることが大事なことらしいし、アフリカのどこかの国では、わざわざ太って見せるためのパッドなんかも売っているらしい。
他にも毛深いことが美人の尺度になっている国とか、長い首が魅力的だということで、変な首輪を使って首を伸ばすような人々もいる。
美人かどうかだけでなく、「好み」が加わったら一層混迷度合いは深くなる。
男性諸氏ならその名を知っている「成田アキラ氏」などは、非美人のあの時の顔に無性に興奮するという話を何かで読んだことがある。好きこそ物の上手なりである。意味不明か。
ミスユニバースとかで優勝したり上位に入るアジアの女性も、白人の尺度から見た美人なんだと思う。どこか野性的というかエキゾチックといおうか、日本人の平均的な尺度から見ると「うーん?」というパターンも珍しくない。
以前、バンコクの安飲み屋街を徘徊していた時に、「あっちの店のコは白人好み、日本人だったらこっちの店がいいよ」みたいな話をよく聞いた。
確かに見比べてみると、はっきりと傾向が別れていた。白人が好む女性が多い店では、「類人猿系」がずらり。昔の漫画「ゴリラーマン」の女性版みたいな感じ。ニカっと微笑まれると後ろ足でその場から去りたくなる感じだった。
それでも、居並ぶ白人男性は物凄く幸せそうで、「審美眼」のややこしさを痛感した。
そういえば、サッカー・なでしこの不動のエースは欧米ではモテモテらしい。
そういうことだ。
かくいう私も当然、美人は好きである。誰だってそうだろう。多分、自分の尺度は世間一般と同じだとは思うが、中学生ぐらいの頃は、毎朝のように電車で出会う「へちゃむくれ」ちゃんのことが気になって仕方がなかった。あの感覚は何なんだろう。
「好み」に関しては、あまり明確な基準はない。強いて言えば、猫顔より犬顔、キツネ顔よりタヌキ顔に惹かれる。
小太りグラマー系が好きだと思っていても、気になる人がスリムだったら、痩せ型が好みになるし、髪の長さとか背の高さとか、一応、好みはあっても、お相手によって変わったりする程度だ。
基本的に場当たり的な好みを貫いて生きてきたように思う。気になる人が好みであり、好きになった人が好みだ。いい加減なようでいて、それが真実だろう。
事細かに好みのタイプ、特徴を羅列できるような人は、逆に胡散臭いと思う。きっと誰かの幻を追いかけているだけだと思う。
それにしても、何をだらだらと書き綴っているのだろう。しょうもない話に終始してしまった。
まあ、いつものことだが。。。
2012年8月22日水曜日
鮨源でゆるゆると
ゆるゆるとお寿司屋さんで酒を飲む時間が大好きだ。
馴染みになった店のカウンターでホゲホゲと好きなペースでわがままな注文を繰り返していると、ついつい長っ尻になってしまう。
ちょっと前までは新規開拓を目的にふらっと知らないお寿司屋さんに入っていく趣味?があったが、最近は勝手知ったる店ばかり行くようになった。
冒険心が足りなくなるのは老化の証しだから、ビビりながら知らない店の暖簾をくぐる機会も増やそうとは思う。
でも、やはり慣れ親しんだ店の居心地は捨てがたい。そこが住宅街の冴えない店だろうと、マグロの色が黒かろうが、客層がその筋の人ばかりだろうとも、本人が止まり木としてお気に入りなら問題なしだ。
そういう店を持っていることこそが大事で、ネタの良し悪しなどは二の次なのかもしれない。
さて、私が頻繁に出かけるのは高田馬場の鮨源。会社からタクシーでワンメーター程度で着くので、週に一度は顔を出しているだろうか。
かれこれ15年近く前に初めて訪ねた。ここ10年ぐらいは結構なペースで出かけている。
学生の街にしては高級志向で、デフレ一辺倒のあの街の飲食店の中ではお値段も最高峰?かも知れないが、私の会社を起点にすれば半径3キロぐらいの場所に、あれだけ充実したネタを揃えている店は見つからないので有難い。
この時期、冷酒が飲みたい時は、タイの肝を焼いてもらったり、炙ったサンマをポン酢で食べさせてもらったり、バテ気味の時は、月見トロロをどんぶりで出してもらったりしている。ガッツリいきたい時は、鮮度抜群のネタを使って天ぷらも頼んでしまう。
焼酎をロックでくいくい飲む時は、上物の馬刺しをニンニクスライスと共に食べたり、生きているホッキ貝なんかをバター炒めにしてもらったり、小骨の一切無い刺身用のアジをフライにしてもらったり、好き勝手に楽しんでいる。
もともとは突出し用に作られていたツナサラダも、いつの間にか寿司ネタとして食べまくる日々だ。上等なマグロを使うわけだからコンビニのシーチキン手巻きとは比べようもないウマさだ。
ツナ軍艦をスカイツリー状態に盛ってもらったり、巻き寿司にしてもらったり、お土産で次の日の朝飯にしたり、今の私にとっては必要不可欠な食べ物だ。
帝国ホテルやデパートなんかにも支店を持つ店なのだが、職人の皆さんの異動がないため、店の空気感が昔から変わらない点もありがたい。お運びのおねえさんも入れ替わらないため、私がタチの悪い酔っぱらいだと言うことをいちいち教える必要がない。
食べ物の美味しさも大事だが、意外とそういう部分も通いやすい要素になっているのだろう。
シンコもだいぶ大きくなってきた今、新イカが出てくる季節だ。赤ん坊のほっぺたみたいに、はかなげで柔らかい食感が堪らない。
生サバもウマい。上等なマグロの赤身などでも感じるのだが、薄切りした刺身を重ねて握ってもらうと空気の関係だろうか、旨味が引き立つ感じで何個でも食べられてしまう。
穴子もその日の気分で白と茶を選べるし、茹で海老は、生きた車海老をその場でボイルしてくれるから、マズいわけがない。
鮮度がいいだけではなく、煮ハマグリや白身の昆布締めも安定してウマい。即興でヅケ握りも頼める。生で食べる海老だって常時3種類ぐらいあるし、質の高いネタが数多く揃っているから、連日のようにお邪魔しても飽きずに過ごせる。
寿司道を極めます、みたいな顔をして客まで修行させられるような変な緊張感の中で食べるのも寿司なんだろうが、やはりゆるゆる飲みたい時はワガママに過ごしたい。そういう意味ではワンダフルな店だと思う。
まあ、これだけ誉めておけば、気の効いた珍味小皿が山ほどサービスで出てくるだろう。。。。
2012年8月20日月曜日
韓流ブームの結末
隣国が騒がしい。ウリウリと自己主張を繰り広げる韓国の大統領の暴走ぶりには困ったものだ。
日本生まれということもあって、就任当初は知日派とも言われていた韓国の大統領だが、政権末期を迎えて迷走しているのだろう。
個人的な意見だが、あの人の人相が年々悪くなっているように見えていたのだが、こんな展開になると、さもありなんと思いたくなる。
世界のどこの国を見たって、隣の国とは仲が良くないのが普通だろう。コトを荒立てる必要はないが、ことさら無理して仲良く振る舞おうというこれまでの政治や外交の姿勢を見直すタイミングなのかもしれない。
首脳が交互に行き来するシャトル外交だって、今回の騒動で中断するのしないの言える程度の重要度なんだから、無理して毎年実施する必要もない。
アチラの国の内政的な求心力を高めるために事あるごとにいちいちイチャモンを吹っかけてくるような相手とは心を開いて付き合おうというのが無理な話。
オトナの対応とか、金持ち喧嘩せずなどと威張ってみたところで、考え方や風習、文化が違う相手には屁の突っ張りにもならない。あくまで冷静に淡い付き合い、ビジネスライクな付き合いに終始すればいいと思う。あの方々とは淡交精神でいいんじゃないだろうか。
「個人個人は悪い人じゃない」。アチラを擁護する人が使うお決まりのフレーズだ。もっともだろう。個々の人がどうこうというワケではない。団結してヒステリックな対応をする体質が問題だから、個人的な人のつながりだとか、友人付き合いまで色メガネで見ることもあるまい。
いずれにせよ、外交儀礼もわきまえないオヨヨな人物を大統領に選んでしまったアチラの国の民度を考慮したお付き合いをするしかないのだろう。
要はこちら側もあまり過敏にアチラの動きに反応しないほうが賢明だ。朝日新聞をはじめとする反日大好きの一部メディアがオーバーに騒ぎ立てるのがいつものパターンだが、あの幼稚さもそろそろ飽きられる頃だ。
私自身、陶器好きが高じて何度も韓国を旅した。キムチも好きだし、冷麺も好きだ。チャミスルをロックでカーッと飲むのも好きだ。
伝説的存在になっている「白磁の人・浅川巧」の伝記を読んで感銘し、爪の垢でもと思って親韓派になろうとしたこともある。無理だったが・・・。
ついでに思うところを書くとすれば、一連の不誠実なアチラさんの対応の根っこには、近年アホみたいに過熱した「韓流ブーム」が少なからず影響したと見るのが妥当だろう。
映画やドラマ、コールガールにしか見えないアイドルのオネエチャンに至るまで、猫も杓子もと言いたくなるほどの「洪水状態」に違和感を覚えていた人は相当な規模にのぼると思う。
現に私が韓国を旅した時も、韓流映画のロケ地めぐりとかで異様なテンションでバカ騒ぎしている日本のオバチャン軍団を目撃した。あれが氷山の一角なら、アチラの人々の日本人を見る目が変わるのも仕方あるまい。
それぞれの趣味嗜好だから、正面切って「みっともないですよ」とは言えないが、狂乱的な韓流礼賛が招いた結末が、ギクシャクした日韓関係だとしたらシャレにならない話だ。
過ぎたるは及ばざるが如し。そういうことだと思う。
2012年8月17日金曜日
一人暮らし
ここしばらく一人暮らしをしている。
家族が長期で旅行に行ったのが理由だ。一応、まだ逃げられたり、捨てられたわけではない。
実に爽やかな日々だ。もう少し寂しい感覚に陥らないといけないらしいのだが、日々熟睡できるし、すこぶる快適である。
もともと自宅で食事を摂る機会も滅多に無かったので、不都合はないし、クリーニング屋さんは不在でも回収・配達をしてくれる。寝る時ぐらいしか帰らないから家が汚れることもない。
ちっとも不便じゃない。男の場合、寂しさとか不便を感じないと家族の必要性に気づかないらしいから、今の私は実にビミョーな感じだ。
毎週お見合いを繰り返している幼なじみがいるのだが、ナゼいまさらイバラの道を選ぼうとするのだろう。もったいない気がする。ひょっとすると偉大な求道者なのかもしれない。幸運を祈りたい。
まあ、人間なんて誰もが「隣の芝生」を見ながら生きているから、正解などどこにもないのだろう。人生すべてがバクチみたいなものだ。
さて、一人暮らしの話だった。
社会人になっても実家暮らしだった私が初めて一人暮らしをしたのは24歳の時だった。
仕事が忙しかったこともあって、会社から遠くないマンションを借りた。
あの時の解放感は今でも覚えている。何でも揃っている実家に比べれば、不便極まりなかったが、「我が城」みたいな気分の高まりは強烈だった。初めて月に降り立った宇宙飛行士の高揚感と同じだろう。大げさでスイマセン。
実家の有り難さを切々と感じたのも一人暮らしのおかげだ。トイレに入って紙がないことに気付いたり、カップラーメンを食べようにも箸すらなかったりすると、実家の存在自体がドラえもんのポケットに感じた。
その後、実家に行って、ありとあらゆる日常雑貨をクルマに乗せきれないほどパクってきたことも懐かしい思い出だ。
熱を出して寝込んだ時なんかは、一人暮らしのわびしさを感じたが、そうは言っても、優しく看病してもらえないなら、誰かがいるより一人でヒーヒー言っているほうが気がラクだったりする。
その後、結婚して離婚して小さいながらも一戸建てに一人で暮らしていた時期もある。あの時も一人になった理由が理由だったので解放感に浸って不便は感じなかった。
気分一新とばかりにリビングのカーテンを全部イルカの柄に変えて「何じゃこりゃ」状態になったのも懐かしい。お盛んな年頃だったので、隣近所の人には、いろいろな女性の出入りを不審に思われていたかもしれない。
一人暮らしの良い点は、散らかし放題に出来ることと裸族で過ごせること、いろいろとやりっ放しにしておけることだ。後々自分の身にしっぺ返しは来るのだが、あの放埒の快感は捨てがたい。
ゴキブリ登場という有事の際には、いちいち誰かと結婚したくなった。虫が苦手な私にとってアイツを退治するのは命懸けである。ビビって血圧が200ぐらいにになる中、逃してなるものかと必死になって格闘する。
闘い済んでヤツの残骸を前に立ちすくむこと数時間。なかなか処分できない。せめて誰かと婚約しようかと切に思った瞬間だ。恨みと共にヤツが生き返るような気がして手が出せない。目もそらせない。
といっても放置は出来ずに意を決して、割り箸をセロテープでつないで長い棒にして、その先にセロテープなどを装着。これで遠くからでもヤツを貼り付けて動かす。窓から隣地に遺体だけを振り落としたりしていた。
この8月、まだまだ一人で過ごす時間は多いので、ゴキブリとの遭遇だけは避けたい。キッチンや冷蔵庫の周囲にはなるべく近づかず、自分の部屋の中だけにいるようにしている。
狭くはない家なのだが、ここ最近家にいる時は6畳程度の自分の部屋だけに籠もっている。余ったスペースを一時的にでも誰かに貸せれば小遣い稼ぎになりそうだが、その人が色っぽい後家さんだったりすると厄介なので我慢の日々だ。
やはり一人暮らしは適度なサイズの家に限る。
悲観的観測なのか、希望的観測なのか微妙だが、将来、というか老後はきっと偏屈な一人暮らしジジイになるような気がする。
その時の夢は和洋折衷の平屋に住むことだ。20畳ぐらいのリビングと8畳ぐらいの寝室と四畳半ぐらいの書斎、ついでに熱燗をすするための和室があって、純和風の風呂と大きめの物置部屋だけが配置されている家だ。
和室の端には縁側があって小さいながらも庭には池。鹿威しがコンとか響いて、桜の頃にハラハラ落ちる花びらを愛でながら静かに往生する。
うーん、悪くない。
なんか話が支離滅裂になってきたのでこの辺で。












