今年の夏以降、料理屋さんやお寿司屋さんを新規開拓する機会が多い。きっかけはタバコを「休憩」しているからである。
禁煙ではない。しばし忘れているだけである。葉巻をふかす機会は増えちゃったから、健康面ではまるでダメだ。
でも、知らない飲食店に入った時にタバコを我慢するアノ面倒な感じから解放されたことは大きい。手持ちぶさたにならずに済む。でも、その分、お酒のピッチが上がってしまうのは困りものである。
さて、今日は少しばかり辛口の批評を書く。先日、ふらっと入ってみたお寿司屋さんの話だ。一度だけ行った店を悪く書くほど無礼ではないので店の名前はナイショだ。
某日、思いたってそのお寿司屋さんに電話してみた。早い時間なら入れるとのこと。電話の対応も丁寧だったから良い店の気配が濃厚だ。
店に到着。場所は銀座。細い路地に風情のある店構え。店内も清潔で気持ちよい空間だ。まだ30代後半ぐらいに見える大将の挨拶も清々しい。
銀座に店を構えて応対も丁寧で店も清潔、これならマズいものを出される心配はない。
さっそく料理が出てきた。問題なのはイマドキの寿司屋ならではの「おまかせ」を大前提にしている点だ。
「おまかせ」自体は構わないし、そのほうが助かるお客さんも多いのが現実だ。でも、「おまかせ絶対主義」とでも言いたくなるような窮屈さが見えちゃうと、なんだかガッカリする。言葉は悪いが「底の浅さ」を感じる。
予約の電話をした段階で、嫌いなものはないかと確認された。それはそれで丁寧な対応かもしれないが、後から考えてみれば、客の顔を見る前からすべて店側の都合だけで仕切ると宣告されたようなものである。
「おまかせ」といえども、客側の気分やペースに応じて少しは臨機応変に対応してこそプロである。フレンチや懐石料理の店ではなく寿司屋である。銀座あたりでそれなりの値段の店を構える以上、そんなことは当然だと思う。
この日、温かい一品料理からスタートした。出てくるものはすべて美味しい。手も込んでいるし、味付けも絶妙だ。器だってこだわっている。
ビールからお燗酒に変える際には、私が持ち込んだ「マイぐい呑み」をわざわざお湯で温めてくれるなど気配りも凄い。良いお店だ。単純な私は上機嫌になってグビグビ飲み始める。
こういう流れになったら、握りよりツマミを多めにもらいたくなる。これって、ごく当たり前の客の心理だ。
で、大将にそんな気分を伝えるとともに、握りはどのぐらい出す予定かを尋ねてみた。
なんと12貫から15貫ぐらい出てくるらしい。
とてもじゃないが、そんなに要らない。握りはせいぜい7,8貫にして、その分、ツマミを多くして欲しいと頼んでみた。
丁寧な応対をする店だから、それに対して不満そうな反応をされたわけではない。でも、明らかに少し困ったような様子になった。
もちろん、店には店の段取りもあるだろう。それでも、ここはカウンターで店主と対峙する寿司屋であり、それも高級路線の店である。私の要求はトンチンカンではない。
私のそんな単純なリクエストへの大将の答えは「ちょっとお時間がかかってしまいますが・・・」というものだった。
この時、私の他にお客さんは2組。満席でバタバタしていたわけではない。少し不思議な気分になる。
それでも出てくる料理はウマいし、多少お酒も入っていたから、特別難しいことは考えずにノンビリ過ごす。
しばらくすると、私と同じ時間に食事をスタートさせたお客さんに握りを出し始めた。
ふむふむ、リクエストしなかったら、このタイミングで握りに移行するわけだ。確かにタイミングとしては順当だろう。などとボンヤリその光景を眺める。
そして、私には刺身が出てきた。普通に美味しい。その後も2,3種類の刺身が出てきた。
結局、同じ時間にスタートした他の客に出している握りのタネを私にはシャリ無しで出しているだけだった。
まあ、美味しい刺身だったので、それはそれで問題ない。ただ、「ちょっと時間がかかる」と言っていたのは何だったのか意味不明だ。
その後、突然、握りが目の前に置かれた。突然、ぽんと置かれて少し慌てた。「おまかせ」専門なら文句も言えないのかもしれないが、ちょっとビックリだ。
普通の感覚だったら「そろそろ握りますよ」とか「次からは握りになります」とか言いそうなものだが、若い大将は段取りで頭がパンパンになっていたのだろうか。
些細なことなのかもしれないが、客の心理なんて些細なことで乱れたりもする。美味しい寿司なのだが、私としては素直に美味しいと感じられない「偏屈オジサン」のスイッチが入ってしまった。
もちろん、文句を言うほど野暮ではないし、初めての店でそんな指摘をするほど親切?でもない。
続いてはトロが出てきた。私が苦手なトロである。握りに移行する段階でマグロは赤身しか食べないと伝えようと思っていたのだが、一方的な展開になっていたので伝えそびれた。
その後も、いくつか握りを食べた。ウマかったはずなのだが、私としては「店の都合」を食わされているだけという偏屈な気持ちがどうにも収まらない。
仕方なく、最後の3貫は好きなものを注文させてくれと大将に伝えてそうさせてもらった。
「店主はプロなんだから、おとなしく黙って出されたものを食え。」。そういう考えもアリだろう。でも、おこがましく言えば私だって客としてのプロである。自分なりの基準やこだわりもある。
カウンターで店主と向き合うという世界でも希な日本の食文化の華である寿司屋で、ただ出されたものを食べるだけなら実に味気ない。
極端な言い方をすれば、こっち側に座る客は、魚のことも寿司のことも何も分かっちゃいないとレッテルを貼られているような感覚にとらわれてしまう。
考えすぎだろうか。
ブロイラー飼育場に閉じ込められている鶏じゃあるまいし、窮屈で仕方がない。あれでは客も店も勉強にならないし、同じく客も店も育たない。
この店、ネットでの評判を調べてみたら絶賛の嵐だった。グルメサイトに書き込む人達の年齢層などを考えるとそういう結果になるのだろう。
決まったものを一方的に出せばいいのなら、仕入れロスも考えなくていいわけだから経営上も楽だと思う。
幅広く客の希望に応じようとする路線の店より圧倒的に有利だろう。ならば、そういう店と同等の値付けをしていること自体が疑問だ。半額ぐらいでいい。
魚に詳しくない、恥をかきたくない、同行者との会話に集中したい等々、さまざまな客側の理由でこういう路線の食べ方が支持されるのも理解できる。
でも、そんなスタイルだけで通そうとする店はあくまで特殊な形態であり、一般化してもらいたくない。「おまかせ」以外にリクエストされるのが苦手なら、はっきりそれを掲げてもらいたい。
分かっていれば私だってそんな店には行かない。そのほうがお互いイヤな思いをしないで済む。
ここ数年、都内の一等地で凄く若い職人さんがお寿司屋さんを新規開業する話を頻繁に耳にする。ひょっとすると「おまかせ絶対主義」みたいな風潮も影響しているのかもしれない。
もちろん、そうじゃない店もいっぱいあるだろうが、なんだか「若い店」を色眼鏡で見るようになってしまいそうだ。
こんな事を書いていると、すっかり自分が懐古趣味的偏屈ジジイみたいだが、そう思われたとしても、この“問題”についてはブツブツ言い続けたいと思う。
2015年11月16日月曜日
「イマドキ寿司屋」の弱さ
2015年11月13日金曜日
暁の頃 「きぬぎぬ」
ひとくちに夜と言っても、朝や昼に比べて時間帯が長い。大ざっぱに分ければ「宵」、「夜中」、「曙」の時間帯に分類される。
暗くなってから明るくなるまでの時間帯すべてが夜だが、宵の口と明け方ではまるで意味合いが違う。
妻帯者の帰宅時間をこの3類型に当てはめていろいろ想像すれば「夜の幅広さ」を実感できる。「曙」に帰宅したら家庭不和になる。
さて、「曙」の前の時間帯が「暁」である。私が好きな時間帯である。そんなシャレたことを言ったところで普段はイビキかいて寝ている時間である。
幼稚園から高校まで通った母校は学校名の最初が「暁」だったし、思えば母親の名前にも「暁」が使われている。
「暁」には縁があるみたいだ。イビキかいて寝ている場合ではない。
空が白んでくる少し手前の時間帯が暁だ。まだ暗い。でも朝は近づいているという時間だ。
井上陽水が『帰れない二人』で歌っていた♪ もう星は帰ろうとしてる 帰れない二人を残して ♪ といった雰囲気の時間である。
夜が終わっちゃう切なさが良い。何かを追いかけたくなるような、取り戻したくなるような時間だ。一人ぼんやりするも良し、誰かと一緒ならそれも良しである。
そんな時間まで誰かと一緒にいたのなら、その人とは親しい関係だ。深い夜の闇に溺れた時間が暁の訪れとともに過去になっていく。
名残り惜しい時間である。名残り惜しさという感情ほど人の心を揺さぶるものはない。そんな想いに浸るのには暁の時間帯は最適だ。
男女の熱い夜の余韻は暁の頃に一区切りつけるのが正しいと思う。だらだら明るくなるまで引っ張るのはヤボだと思う。
極めて個人的な意見です。
朝どころか昼までだらだら絡まっているのも刹那的で悪くはないが、やはり暁の頃に一区切りつけたほうがイキだ。
「きぬぎぬ」という言葉がある。実に色っぽい言葉である。以前、色恋小説の大家である吉行淳之介の小説を読んだ時に知った言葉だ。
「きぬぎぬ」は「後朝」と書く。まるっきり当て字だ。もともとは「衣衣」だったものが当て字に変化したらしい。
「衣衣」と「後朝」。二つ並べただけで色っぽい雰囲気が漂ってくる。そう思うのはスケベな私だけだろうか。
平安貴族の世界では、男が女の家を訪ねるのが色恋の基本だったそうだ。互いの身につけていた衣を重ねて布団代わりに夜を過ごす。
朝が来てそれぞれの衣を身につける。そんな意味を持つのが「衣衣」(きぬぎぬ)だ。その後「後朝」という文字を「きぬぎぬ」と読むようになった。かなり艶っぽい語源である。
なんとも風雅な話だと思う。
ちなみに、男が女の家を出て行く時間帯は曙ではなく暁の頃だったそうだ。それが一種の常識だったらしい。まだ暗く、星や月の灯りのもと去っていったわけだ。
文明の利器が何もない時代である。電話もない、メールもない。そんな状況の中で愛しい人と離れる名残り惜しい気持ちは現代人には想像できないほど深かったはずだ。
そんな名残り惜しさを暁の頃に感じてキュンキュンするわけだからなかなかロマンチックである。
実際、想いの深さを伝えるための「後朝の文」という手紙を送る習慣もあった。要は「サンキューメール」である。いや、そんな軽薄な言い回しではイメージが違う。いわば、想いの深さを伝える恋文である。
逢い引きの後の手紙は、届くのが早ければ早いほど、想いの強さや深さを表していたそうで、百人一首にもその類いのものがいくつもあるらしい。
いわば、名残り惜しいという感性が芸術につながったわけだ。
若い頃の話だが、情熱のひととき?を過ごした後、何があっても次の日の朝はギリギリの時間まで居座る人がいた。
夜中や明け方に帰った方が仕事に向かう上でも楽なはずだから、そのように勧めても絶対に帰らない。たとえ、こちらが帰りたくてもそんなことはお構いなしだった。
やはりこれも若い頃の話だが、逆に必ず帰る人もいた。夜を過ごした後、こちらが朝まで一緒にいてくれと頼んでも必ず明け方に帰っていく。
次の日が休みだろうと、いつも決まって暁の頃に身支度を始める。ビジネスライクに感じるほど徹底していた。
でも、不思議なもので、私が「後朝の文」を出したいような気分になるのは後者のほうだった。
きっと、必ず居座る人の方が私と親しく馴染んでくれていたはずなのに、私にとってはペースが合わずにテンポがずれちゃう人だと感じたのだと思う。
私自身が外泊が苦手だったせいもあるが、どこかのタイミングで一線を区切る習慣を維持するのはスマートだと思う。
情念の海に溺れて、節度も見境いもなく漫然と時間を過ごし、お互いに相手の見たくない部分まで見てしまえば、出るのは溜息ばかりである。
男女に限らず、人付き合いのキモって結局そのあたりに尽きるのかもしれない。
距離感の中でもつい見逃してしまうのが「時間的な距離感」である。その人と快適に一緒に過ごせるのはどのぐらいかという意味だ。
3時間か、24時間か、はたまた10日間なのか半年でも平気なのか。こればかりは人と人の相性だから試してみないと分からない。困ったものである。
さてさて話がまとまらなくなってきた。
私自身は「夜から暁まで」一緒にいられる人しか求めていないような書きぶりだが、決してそんなことはない。
暁まではもちろん、朝までだって有難い、2泊でも3泊でも嬉しい、たぶん1週間だって平気だ。もちろん「ちょんの間」だって大歓迎である・・・。
2015年11月11日水曜日
自慢合戦
2015年11月9日月曜日
食べ比べ
食べる楽しみやウマいものを求めることって、結局は「食べ比べ」に行き着く。
ウマいとかマズいとかを四の五の語るのは、突き詰めれば何かと比べてみた結果である。
マックのてりやきバーガーをマズいなあと感じるのはモスのテリヤキバーガーが好きだからである。そういうことだ。
思えば、焼鳥屋であれこれ食べること自体が鶏の部位ごとの食べ比べであり、おでん屋も同じ味付けで異なる具材を食べ比べしている。
寿司も同じだ。握りの場合、シャリと渾然一体になる魚介類の味わいの違いを食べ比べしているわけだ。
楽しむための食事の場合、「比べる」ことが一種のキーワードなのかもしれない。
のどぐろの食べ比べである。いつも行く高田馬場・鮨源での一コマ。片や皮だけ炙った生の刺身、もう一方は塩をふって4日目だとか。
のどぐろの刺身は、悪く言えばちょっとビチョっとした柔らかさを感じることがある。塩をした刺身は適度に水分が抜けて食感が締まった感じに変化していた。
ハヤリの「熟成」という言葉が適当かどうか分からないが、「時の経過」という手間の大事さは鮮魚だって同じである。
2種類ののどぐろはいずれも美味しかった。ジュワッと脂ののりを楽しむ一品とウマ味が凝縮された締まった一品。どちらもアリだ。こういう食べ比べは楽しいし勉強になるから大好きである。
こちらは赤ウニとバフンウニの食べ比べである。エゾバフンはウニ界における不動のチャンピオンみたいな存在だが、秋の赤ウニも負けていない。少しマイナーでマニアックな存在だが好きな人には堪らない一品である。
面白いもので、シャリと一緒に味わう時とウニ単独で酒のツマミにする場合では味の印象が変わる。こればかりは好みである。いいかげんな言い方だが、その日の体調によってもどっちに軍配を上げるかが変わる。
ウニを複数用意してあるお店だったら少しずつ食べ比べさせてもらうと勉強になる。これ以上ウマいウニはないと大喜びした直後に、それ以上にウマいと感じるウニが出てきちゃったりする。
ウニに限らず、そんな経験をすると、つくづく自分の味覚なんてアテにならないと痛感する。それなりに殊勝な気分になる。
食べ物のウマいマズいを語る際には、この「殊勝な気分」が欠かせない要素だと思う。
イクラも今の季節は作りたての醬油漬けとまったくの生の状態のものを出してもらう。生のイクラに塩をまぶして即席塩漬けイクラを作って食べ比べしてみる。これまた楽しい。
寿司ばかりではない。ウナギの生醤油焼きと魚醤の付け焼きである。日本橋「いづもや」で楽しめる。酒飲みにとってはウットリの食べ比べである。
アホみたいにウナギが好きな私はこの2種類の他に普通の白焼きも注文してシメに蒲焼きも食べることがある。合計4種類の味だ。そういう日はデロデロに酔っ払う。
こちらの画像は題して「ウナギとうなじ」である。これもまたある意味「食べ比べ」みたいなもの?である。不謹慎でスイマセン。。。
いずれを食べる際にも「殊勝な気分」を忘れないことが大事である。オラオラではダメである。。。
おっと、いけない。話がそれた。
外食だけでなく、空腹バリバリの時に家で食べるレトルトカレーも「食べ比べ」である。日本風、インド風、タイ風などレトルトカレーもいろいろである。
空腹で頭がバカになっていると、どれにすべきか決められず、つい2種類を同時に食べてしまう。ご飯を中心にカレーが混ざり合わない形状の皿があったら同時に3種類のカレーを食べたい。そのうちチャレンジしてみよう。
「ゆで太郎」に行っても、ついつい温かい蕎麦と冷たい蕎麦を両方食べたくなるし、コンビニでおにぎりを買うにしても必ず種類の違うものを複数買ってしまう。1個だけでガマンしようと思っていても比べたくなるから無理である。
ついでに言えば、変な二日酔いの日に無性に食べたくなるカップ焼きそばも、コンビニの店頭で悩み続けたあげく二つ買ってきて両方食べちゃったりする。
これは食べ比べとはちょっと違うか。いや違わないか。いずれにせよバカである。
私の住むマンションの近くに抜群に美味しいアイスクリームの専門店がある。「スペールフルッタ」という店だ。値段はかなり高いのだが、ありえないほどウマい。
日替わりで10種類近くのフレーバーが楽しめるだけでなく、冷凍庫の持ち帰り商品には日々変わるストックがラインナップされるから常に知らない味に出会える。
時々、娘が遊びにくると必ず立ち寄って2人で4種類は注文する。これも食べ比べである。何を頼んでも甲乙付けがたいので親子揃ってデブに拍車がかかる。
ここまで書いてきて気付いたのだが、結局あれもこれも食べ比べしたくなるのは、「我慢ができないワガママなヤツ」だからだ。
今更ながら気付いているようじゃ情けないが、自分を律して節度を持って生きている人なら、私のようなムダな行動はしないだろう。きっと体脂肪率も低いはずだ。
反省しようと思う。
なんだか変な結論になってしまった。
2015年11月6日金曜日
味覚と気分
ホリエモンという人は世間の注目を集めるノウハウに長けている。うまい具合に物議を醸す発言をする。さすがに頭がいい。
最近話題になったのは寿司職人の話。何年も悠長に修行するのはバカだというツイッターでの発言だ。
オープンしてまもない寿司店がミシュランの星付きになって、おまけにそこの職人達が、短期間で寿司職人を育成するアカデミーの出身だというニュースを受けた話である。
堀江氏は以前から「下積み原理主義」みたいな板前の世界の風潮をこき下ろしてきたそうだ。らしいと言えばらしい主張だろう。
あながち否定できないというか、多分、寿司という限定的な世界なら、センスの良い人間なら短期間で一定の技術を覚えることは可能なんだろう。
修行を始めて1年は掃除と雑用、その後の1年は皿洗いだけなどという面倒なパターンを続けていれば、握り方を覚えたり、魚の目利きの訓練も出来ない。確かに遠回りといえば遠回りである。
IT時代の寵児として既成概念に疑問を呈し、合理的な考え方をウリにしてきた堀江氏としては、因習的な修行のともなう職人の世界に違和感があるのだろう。
それはそれで一つの見識である。良いとか悪いではなく「それもそうだ」と思う人も大勢いるはずだ。
個人的な意見を言えば「ふむふむ、まあそうかもね」といったところか。それなりの寿司屋で過ごす時間に「ロマン」を求めたい私としては、堀江流合理主義はピンとこない。
いっぱしの顔した寿司屋の大将には、「必死に頑張った厳しい修行時代」というバックボーンを求めたくなる。そりゃあ寿司の味に関係ないのかもしれないが、そんなところにも惹かれる。
若造の時に、こんな経験をした、あんな事を学んだ、こんな目標を立てた等々、初々しい時代にキラキラした瞳で不条理に耐えてきたような歴史を歩んでいて欲しい。
ホロ酔い気分でウマい肴をつまんでいる時に、ボソっとそんな話の断片を聞かせてもらうのも客の楽しみかもしれない。
要は「気分」である。酒を飲む時も食事をする時も気分で味は変わる。ドンヨリ食べればドンヨリした味になるし、ウキウキ楽しく飲めば陽気でウマい酒になる。
それなりの寿司屋で過ごす時間も「気分」が大きく影響する。偉そうな大将に仏頂面で寿司を握られたってヒトカケラもウマいとは思わない。
なんだか一方的なおまかせ握りを40分ぐらいで食べさせられて3万ぐらいの御勘定を取る名人の店があるらしい。たとえ卒倒するほどウマかったとしても行きたくない。
あれこれ学びながら食べることも大事だろうが、個人的には無理だ。かしずきながら過ごす時間を「気分」が良いと思える人だったら快適なのだろう。
まあ、そういう店に喜んで行く人は、そういう店のそういう路線自体に「ロマン」を感じている。それはそれで特別な気分を味わうには大事な要素ではある。
結局は「気分」が大事という話である。
「気分」などという掴み所がない考え方は本来、味覚には関係ないのかもしれない。でも、ちょっと奮発してウマいものを食べたいとか、こだわったものを味わいたい時は「気分」が大事だ。
そこに登場する板前さんが、最近までアマチュアだったとしたら興醒めである。「数ヶ月もあれば綺麗に握れるようになりますよ」などというセリフは客の夢(ロマン)を壊すから聞きたくない。
物凄いウマい手打ち蕎麦が食べられると聞いても、場所が店主の家の一部を改造したスペースで、店主自体が2~3年前に脱サラしたばかりのオジサンだったりすると、どうしても高揚感は味わえない。
それって私の頭が古くさくて凝り固まっているだけかもしれない。あくまで個人の嗜好なので暴論だったとしても御容赦願いたい。
やはり、個人的には古色然とした造りの店で「それっぽい蕎麦」をたぐるほうが美味しく感じてしまう。
この画像は銀座の日本料理屋・三亀で一人ぼんやり食事をしていた時の一コマ。カウンターに陣取って熱燗を注文。カゴに無造作に積んであったぐい呑みから一つ選べと言われて手に取ったモノだ。
一見、ヘンテコな絵柄のぐい呑みに見えるが、実は美濃焼の名門の出で個性的な技法で人間国宝になった著名な陶芸家の作品である。その他もろもろの盃と一緒に無造作に混ざっていた。
一時期、アホみたいにぐい呑みや徳利収集に励んだ私にとっては、ウヒョヒョ~!って感じである。迷わずこれを一夜の相棒として掌でもてあそぶ。
当然のことながら「気分」はアゲアゲである。燗酒も普段よりウマく感じる。そんな気分だからもちろん料理もウマウマである。
「ワテの店のぐい呑みでっか?量販店で1個150円で仕入れてまっせ」。世の中の料理屋さんにはそういう店も多いはずだ。
“大事なのは酒の銘柄であって器ではない”と言われればその通りだろう。でも私はマニア垂涎の希少な純米大吟醸を150円の杯で飲むより、そこらへんの酒をこの画像の盃で飲んだほうが美味しく感じる。
そんなもんだと思う。
味覚って結局は、ロマンという名の勝手な思い込みや、頭の中に浮かぶ物語みたいなものに左右される。それが普通の人の現実である。
2015年11月4日水曜日
ミュージシャン気分
オヤジバンド、いや、素敵なオジサマバンドのライブがいよいよ今月末に迫ってきた。4年連続である。我ながらビックリである。
4年連続でマトモなライブハウスで結構な人数のお客さんの前で歌う。これって活字にするとまるでミュージシャンである。
5年ほど前、中学、高校の同窓会でギター談義に花を咲かせた友人が思いつきでアコースティックバンドをやろうと言いだしたのがすべての始まりだった。
その後、「アイツなら断らないだろう」という安易な理由でボーカルに誘われたのが私である。とくに楽しいことも無くボケっと暮らしていた私は当然の如く「面白そうだなあ。やるやる!」と応じて今に至っている。
先日、スタジオ練習の際、「マイ・マイク」を使っている自分にたじろいだ。自前のマイクを持っているなんて結構凄いことだ。ボウリング場に「マイ・ボール」を持参する人より珍しいかもしれない。
別に専用マイクが欲しかったわけではない。ライブ会場で使うエフェクター(音響調整装置)を諸々の理由で買うことになり、その機械で制御しやすいという理由でマイクまで購入したわけである。
そんな言い訳をしたところで「マイ・マイク」を持っている事実は変わらない。よっぽど上手に歌わないとみっともない。でも、音程が昔よりも狂いやすくなっているのも確かだ。加齢のせいだろうか。
ひょっとしたら年齢とともに歌に対する思い入れが強くなりすぎて、知らず知らずに情念の炎に包まれて音程が二の次になっているのかもしれない。
ウソです。
人間、半世紀も生きているといろんな機能がバテてくる。すべての感度が鈍感になっているわけだから、音感も狂うのかもしれない。メゲずに頑張って立て直そうと思う。
そういえば、腰痛治療をきっかけに年に何度か通うようになった謎の?整体師さんから興味深い話を聞いた。ろくに触りもしないのにナゼかこちらの身体のバランスを均等にしてくれる不思議な施術をしてくれるのだが、その人いわく身体の左右のバランスが狂っていると歌う際に音程が狂いやすくなったり音域がおかしくなるとのこと。ライブ直前にバランス調整に行ったほうがいいかもしれない。
さて、今年のライブも昨年と同じく終演後、移動せずに大人数でも宴会が出来る六本木のライブハウスを選んだ。
ライブ後の高揚感のなか、来てくれた皆様から儀礼的にお褒めいただいたり、キツいダメ出しをくらったりしながら飲む酒は最高である。
思えば、今年、すでに10回は重ねてきた練習も終わった後に酒を飲んでバカ話に花を咲かせたことのほうが記憶に残っている。
全然話は違うが、以前、リーグ戦に加盟してまで結構真面目に取り組んだ旧友達との草野球も、考えてみれば、試合後の酒が楽しみだった。
大人の趣味って結局は「どうやってウマい酒を飲むことにつなげるか」という一点に尽きるのかもしれない。
いかんいかん、そんなフラチなことを書いてはいけない。あくまで自分たちを厳しく追い込んで高いレベルでライブを成功させようという崇高な一念のみで活動しているのが我がバンドの特徴である。
今年のライブでは、ついに私もギターを持ち込む。「マイ・マイク」に加え「マイ・ギター」である。まるでミュージシャンである。
残念ながらギターの腕前は正真正銘のヘタレである。始めて1年ちょっとだ。突然上手くなるはずもない。根性が足りないから言い訳ばっかである。
わがオジサマバンドは高い音楽性を誇る?ので、さすがに私のレベルだとギターを手にする時間はほんのチョットしか与えられない。
一応、ネタばらしは禁止なので詳細は書かないが、他のメンバーのソロ歌唱の際、1曲だけだが、私がバックでギターを弾く曲もある。
自分は歌わずコードストロークを担当するのだが、これが実に楽しい。5年近くになるバンド活動の練習の中でこれが一番楽しかった。なんてたって歌うことを一切気にしないでいいわけだ。おまけに、まがりなりにも私の演奏で人が歌うわけだ。驚天動地である。
「奏でる」などという私の人生には無縁だった美しい言葉が現実のものとして私自身から発生するわけである。ドッヒャー!って感じである。失禁しそうだ。
元々の音楽的素養の無さのせいで「生まれ変わったら楽器が出来る人になりたい」と30歳ぐらいの頃から言い続けてきた。そんな私がその瞬間は間違いなくギタリストになっているわけだ。やはり失禁しそうだ。多分すると思う。
いよいよ本番に向けて仕上げ段階である。メンバーから私への小言や叱責、罵詈雑言、罵倒、人格否定、ムチ打ち、ロウソク攻めの日々ももう少しで終わりである。
MCの基本構成を考えるという一番大事?な作業は残っているが、演奏に関してはライブの後半に参加してもらうドラムとベースを担当するゲストメンバーとの調整ぐらいである。
油断せずに緊張感を持って頑張ろうと思う。
★★★・・ブログをお読みくださっている方でライブ(11月28日夜・六本木)観覧ご希望の方がいらっしゃいましたら、当ブログのコメント欄にてその旨お知らせください。コメントは公開しませんのでお気軽にお声がけください。詳細をお知らせいたします。
2015年11月2日月曜日
汁と混ぜるメシ
今日のタイトルは何だかヘンテコだが、適当な表現が思い当たらない。
お茶漬けや味噌汁かけご飯などのソッチ系の総称を何と呼べばいいのだろう。
俗に猫まんまという言い方がある。鰹節をご飯にまぶしたものだったり、味噌汁メシを指したり、いずれにせよ安直な食べ方を意味する。
猫まんまの例でもわかるように汁をご飯にかけて食べる行為は、なんとなく下品なイメージで世の中に認識されている。あんなにウマいのに何でだろう。
かっ込むような食べ方になるから行儀が悪いというのが理由だと思われる。ずるずると音も出ちゃいそうだし。
でも、食器を手に持って食べるのは日本ならではの文化だ。「汁と混ぜるメシ」をワシワシ食べたくなるのは日本的食生活における当然の帰結?とも言える。
お茶漬けを好みのアレンジで食べる時のアノ幸せな気持ちは、大げさではなく「生きてて良かった」と叫びたくなる。
岩海苔の佃煮、梅干し、シャケのほぐし身、すぐきの漬け物、イカの塩辛にタラコ。こんなラインナップを全部まとめてドンブリ飯にぶち込んで特製茶漬けを作ることがある。
至福の時間だ。アチコチでウマいものを食べ、それを得意になってブログで書いていることが馬鹿馬鹿しくなるほど美味しい。
カオスである。
味噌汁ぶっかけメシもウマい。もちろん、味噌汁なら何でもアリってわけにはいかない。
「許せない味噌汁」だったら最悪である。味噌汁は家庭によって思った以上に違いがある。具の好みも人それぞれである。
個人的に苦手なのが芋の入った味噌汁だ。地域によっては味噌汁の具として定番らしい。私はダメだ。カレーだって芋が入っていたら食べる気が失せる。
芋が嫌いなわけではない。芋が少し溶けだして汁自体にグジャっとした食感が混ざるのがダメだ。だいたい、芋とコメは相性が悪いと思う。食感の点で大いに問題がある。
話がそれるが、私に言わせれば秋の定番である「栗ご飯」だって疑問だ。栗も芋みたいな食感だからコメとは相容れないと思う。
白菜やニンジン、ゴボウあたりも味噌汁の具としては私の天敵だ。拷問である。加熱された白菜の匂いが嫌いだし、ニンジンはウサギが食べるものだし、ゴボウは木の根っこだから泥の味がする。
「汁と混ぜるメシ」の話が味噌汁論争に変わりそうだから軌道修正。
「汁ご飯」が素晴らしいのは小量でも大量でも楽しめる点だ。おでん屋で飲んだシメの「おでん出汁茶漬け」も最高だ。小さい茶碗に少しだけよそったご飯でも満足感がある。
スープ状の餡をかけた蒸し寿司も小量だからこそ嬉しい一品だ。ちょこっとだから有難く愛おしい。
汁メシはドカ食いの場面でも活躍する。
子供の頃、私にとって夏の定番が麦茶のお茶漬けだった。暑い盛りにドンブリ飯にドカンとなめ茸を盛りつけて麦茶をぶっかけて一気にかっ込む。一度でコメを2合ぐらい食べていた覚えがある。
やはり子供の頃、夕食がすき焼きだとドンブリ飯にすき焼き鍋の中の煮汁を大量に投入して、牛丼屋で言うところの「つゆだく」状態にしてせっせとコメばかりガッついていた。
尿酸値を心配して、すき焼きの煮汁を避けるようになった今とは大違いである。
ちょっと前だが、遅い時間に銀座の日本料理屋「大野」に立ち寄った。出てきたのは上等な真鯛を使った炊き込みご飯。たっぷりの鯛をほぐして旨味を楽しむ。
味付けが薄いかと思ったのも束の間、途中から別途、鯛の刺身とゴマだれ、それにダシが登場。後半は“スーパー鯛茶漬け仕様”で楽しませるニクいアレンジだった。
段階的に味わいを変えるという点では、ウナギのひつまぶしも似たようなパターンだ。1膳目はそのまま、2膳目は薬味を投入、3膳目は出汁茶漬けでウットリである。
ウマいものをよりウマくするだけでなく、マズいものをごまかすにも汁ご飯は活躍する。
チャーハンがマズい時は付属のスープをぶちかけると美味しくなるし、チンするだけのレトルトご飯もコンビニで売っているお湯を入れるだけの簡単スープをかけるだけで割とイケるようになる。
際限なく話が広がりそうである。
そういえば、「サイダーご飯」をご存じだろうか。「汁と混ぜるメシ」の話を書く以上、これに触れないわけにはいかない。
もう40年ぐらい前の話だ。「月刊ジャイアンツ」という野球少年向けの雑誌に巨人の新浦投手は「ご飯にサイダーをかけて食べる」と書かれていた。
子供心にビビった記憶がある。新浦恐るべしと思って、自分も小量だけだが試してみた。でも、ちょびっと口にしただけでよく分からなかった。
なんだか禁じられた行為に手を染めたような変な罪悪感のせいでしっかり味わえずに終わってしまった。
もう50歳になったことだし、今度改めて挑戦してみようと密かに決意している。






