2016年8月3日水曜日

スマホ撮影のコツとは


日々の暮らしの中で一昔前と変わったことの代表が写真だろう。携帯やスマホで簡単に撮れてメールでやり取りしたりSNSで共有する。昭和の人間から見れば産業革命レベルの変化である。

私自身、旅先にカメラを持参しても結局使うのはスマホだけだったりする。ここ数年でカメラ機能や画質が向上したから、凝った写真や専門的な写真以外はスマホで充分こと足りる。

SNSをはじめ、ネットにはありとあらゆる「普通の人の普通の日常の写真」が溢れている。食べたもの、買ったもの、目に入ったもの等々、まさに百花繚乱である。

私自身、ちょくちょくスマホを食べ物に向けてしまう。いい歳してスマートな行動ではないが、このブログを賑やかにしたいこともあって一種の習慣になってしまった。

行為の是非ウンヌンではなく、今日はスマホ撮影の私なりのこだわりについて書いてみたい。

露出もシャッタースピードもカメラ側が勝手に最適化してくれるご時勢だから誰でもそれなりの写真は撮れる。だからこそ、ほんの少しの工夫で見栄えが変わる。

写真の出来は突き詰めれば陰影と角度と距離である。人間の目は想像以上に優秀である。その瞬間目に見えているモノはその時点で綺麗だとか美味しそうだというデフォルメをまとっている。



そのせいで、シャッターを押す瞬間は脳の思い込みが勝ってしまい、少し遠くからだろうが、のっぺりした角度からだろうが、何となく撮影してしまう。

ハタで見ていて、もっと近寄ればいいのに、それじゃあ逆光なのに等々、もったいない場面を見かける。

上の画像、揚げ物に15㎝ぐらいの距離に接近して撮った一枚とボンヤリ遠くから撮った一枚である。食べたくなる画像はもちろん接近画像である。

イマドキのスマホカメラは驚くほど近接撮影が可能だ。その昔、誰もが苦労した、いわゆるマクロ撮影レベルの画像が簡単に撮れる。

シミやしわだらけの顔なら遠目にボンヤリ撮ったほうが良いだろうが、ウマそうな
食べ物はグッと寄ったほうが迫力が出る。

オートフォーカスは色合いの境目に反応するので、たとえば、このトンカツ画像だったら、肉と衣の境目辺りにフォーカスを合わせれば良い。



思い切って接近するだけでなく、角度もほんの少し気を使うだけで出来映えが変わる。

シンコの握りで比較してみる。上からかぶせるように撮影した一枚と横から撮った一枚である。

かぶせて撮るとノッペリしちゃう。寿司の命であるシャリも写っていない。横から撮影するだけで寿司の立体感が出る。




ウニの握り、赤身の握りそれぞれ、真上から撮るより“横顔”を意識したほうが雰囲気が出る。赤身の2枚目は変な角度だからちっともウマそうに見えない。

物理的にスマホをほんの10~20㎝、角度でいえば20度ぐらいズラすだけで出来映えに差が出る。



こちらは鰻重での比較である。真上から撮った画像のダメっぷりは言うまでもない。斜めから周辺の“景色”を入れてみたら何となくシックリくる写真になった。

食べ物画像ばかり載せてもしょうがないのでチョット路線を変える。

私の風呂上がりの姿を2枚紹介する。まあ、偶然の産物ではあるが、陰の有る無しで何となく立体感が生まれるという比較である。



こんな画像を旅先でせっせと撮影しているのもどうかと思う。はた目には普通に彫刻を撮影しているだけで、まさか顔をスッっ飛ばして局部中心にアップで撮影しているとは思われていないはずだ。

やはり陰影の効果はあなどれない。順光でバッチリ光が当たっているのも美しいが、ちょっと平べったい印象になる。

話は変わる。一時期、Facebookに「胸画像」をアップする変な習慣があった。食べもの画像ばかり載っているので、私も「食べたいもの画像」として頻繁にアップしていた。協力していただいた方々には大感謝である。



これも角度がすべてだと思う。正面からドンと撮っても、ムホ~という雰囲気にはならない。少し斜めを意識して撮ることがコツだと思う。



真っ正面だと健康的、斜めにすることでセクシーな雰囲気につながる。可能なら胸のインパクトが薄れないように距離は近いままで、太股までカバー出来れば、より一層ムホホ~な仕上がりになる。

そんなことを力説したところで、一体誰にとって参考になるのかよく分からないが・・・。

もちろん、胸や食べ物に限らず、普通に人物のスナップショットを撮る時も「やや横向き」を意識することで、雰囲気は大きく変わる。

女子の皆様の中には、写真を撮られる際にその辺を意識している人も結構いるようだ。

数人で写真に収まる際、撮られる瞬間に一歩顔を引いて、遠近法小顔効果を狙うズルっこい人もいる。それも一種の美意識だろう。

さてさて、ホントはセクシーなお尻画像の撮り方を延々と語りたいのだが、さすがにここで見本画像をアレコレ並べるわけにもいかない。

その代わりに昔懐かしの「衝撃画像」?を載せることにする。



パッと見、お尻に見えたアナタは負けである。ただのヒジ画像である。腕を内側に折った際のヒジの関節内側である。

大昔、こんな画像を撮って喜んでいたアホバカ少年は円熟期の中年になっても同じことをして喜んでいる。かなりマヌケである。

2016年8月1日月曜日

わいせつ みだら 淫行

8月である。真夏だ。暑いから今日は軽快な話?を書こうと思う。

私が浜田省吾師匠の次に尊敬する「みうらじゅん先生」がかつて週刊誌の連載コラムで「夜の漢字大賞」を提唱していた。

その漢字を目にしただけで、あらぬ妄想をしちゃいそうな文字を選ぶという高尚な企画だ。

「姦」「性」「汁」「蜜」「股」「勃」などのほか、なぜか「珍」や「具」もエントリーされていた。大賞に輝いたのは「嬲」(なぶる)。

個人的には「淫」が一推しだ。「みだら」である。音読みの「いん」ですら色っぽい響きに聞こえる。素敵な文字だと思う。

都知事選でみっともない負け方をした鳥越俊太郎氏のおかげで、このところ「淫」の文字をよく目にする。淫行騒動を起こしてくれた鳥越さんの功績である。

「淫行」の正しい意味?まで世の中に知られるようになったのだから石田純一が出馬するより意義深かったと思う。

淫行は一般的に未成年や18歳未満の子供とコトに及ぶことだとイメージしている人は多い。自治体の淫行条例という専門用語の影響である。

鳥越さんの件を報道した週刊文春もそうした一般的なイメージをあえて利用した。言葉ひとつで悪質なイメージは一気に強まるから、「疑惑」レベルの話に強烈なインパクトを与えようと知恵を絞ったわけだ。

相手の女性が成人だったから「淫行」という表現はおかしいという声は文春側にも寄せられたようだが、言うまでもなく「淫行」は字面の通り「みだらな行い」を意味する。未成年ウンヌンは関係ない。

性的に不道徳なことは全部が全部「淫行」に当てはまるわけだ。


話は変わる。

報道の現場では「みだらな行い」「わいせつな行為」という表現が頻繁に出てくる。明確な線引きは無いが、基本的にセックスの有無が分かれ目である。

要は「入れちゃったのか、Bまでだったのか」ということ。入れちゃった場合、それが無理やりだった場合には「暴行」という表現に格上げ?される。強姦という言い回しだと強烈すぎるので暴行という言葉が使われる。

そんなことを言うと「みだらな行い」はすべて同意の上だったという解釈になるが、そこまで細かい定義ではないから、「みだらな行いを無理やりに・・・」というケースもあるかもしれない。

まあ、はじめは本気で拒絶していたのに途中からノリノリになるというパターンもあるから、そのあたりはビミョーである。

さてさて、「みだら」「わいせつ」それぞれ掴み所のない言葉である。報道現場の使い回しは別として、一般的には両方とも「いやらしいこと」である。

調べてみても「みだら」の意味が「わいせつなここと」で「わいせつ」の意味は「みだらなこと」だったりする。

突き詰めればいずれも、「性に関して不真面目で乱れていて、だらしないこと。善良な性的道徳観念に外れていること」である。

善良な性的道徳観念などと言われても、善良の定義自体があやふやだから困る。性に関して不真面目かどうかと言われてもそれはそれで困る。誰の基準で判断するのだろう。

大真面目にSMの道を究めている人もいれば、大真面目にスワッピングをしている人々を目撃したこともある。あれはあれでかなり深い世界である。決して不真面目とは言えない。

私だって、コトに及ぶ状況になれば、いつだって大真面目である。どんな場所だろうと、どんな器具を用いようとも、どんなに奇想天外な行為になったとしても、極めて真面目に親密なコミュニケーションをはかろうと頑張る。

マグロ状態で相手におまかせ状態だったら「不真面目」だから「みだら」だが、真面目に奮闘している以上、「みだら」でも「わいせつ」でもないわけである。


中高年になると旧友と酒を酌み交わしていてもワイ談の度合いが減ってくる。「アッチのほうはどうよ?」という質問には「サッパリだよ」という回答が決まり文句になってくる。

由々しき事態である。「みだら」や「わいせつ」に振り回されていた若い頃を思えば、そんなセミリタイア状態ではダメである。

セミが大合唱する季節である。ミンミン、ジージー、ツクツク鳴いているのはオスだけだ。あれはすべて交尾相手のメスを探す叫びである。

セミリタイアではなく、セミを目指して頑張らないといけない。

2016年7月29日金曜日

指輪 ハセキョー 罰


「指輪されてませんね。独身なんですか」。
そんなことを言われた。大きなお世話である。

あんな小さいリングひとつで私の人生を分かったように語られるのはゴメンである。

結婚していた時も指輪などしたことがない。結婚式ですら借り物の指輪でごまかした。あくまで個人的な考えだが、男が指輪をはめることに違和感がある。

結婚指輪の習慣が日本に根付いたのは、ほんの40~50年前のことだ。水戸黄門の印籠のように天下無敵?みたいな存在になっているのが何となくしっくりこない。

だいたい、こんな季節に指輪をはめ続けていたら指が臭くなりそうでイヤだ。「結婚してまっせ」アピールをしたいのなら、他にも方法はあると思う。おでこに既婚と書いて過ごすとか。

なんなら「お歯黒」を復活させて男にも強制すれば、無気味な人ばかりになって不倫騒動も激減するんじゃなかろうか。

暑さのせいで乱暴な話ばかり書いてしまった。

http://www.nhk.or.jp/pyd/furenaba/

NHKのBSで放送中の不倫ドラマが物凄く面白い。「ふれなばおちん」というタイトルだ。ハセキョー演じる地味な主婦が若い男とゴタゴタしちゃう話である。


「触れなば落ちん」。はかなく脆く、すぐにでも崩れ落ちそうなことの例えである。何とも素敵なフレーズだ。

極論すれば、誰にでも当てはまる言葉だ。一種の事故と思えば分かりやすい。誰でも「魔が差す」場面はある。煩悩の塊である人間なら当然だ。

今は見逃したドラマもインターネットで最初から見られるから、アホヅラしてポケモンGOとやらをやっている暇があったら、このドラマを見たほうが余程タメになる。

ちなみに「タメになる」と「ダメになる」って濁点一つでまるで逆の意味になるんだなあ。。。う~ん、何とも深い話だ。

話がそれた。

昨年、結構人気を集めた「昼顔」というドラマより面白いのでオススメです。


ハセキョーの旦那役の鶴見辰吾がまた良い。大昔の「金八先生」で杉田かおるが演じた同級生と子供を作っちゃった朴訥な少年の未来を見ているようで感慨深い。

あの時代、手軽な妊娠検査薬なんか無かったから、ちょっとでも不安?があると大変だったことを思い出す。

また話がそれた。結婚指輪の話だった。

そもそも指輪の円形は永遠を象徴する形だ。永遠の愛を誓うという意味で結婚指輪の交換が行われるようになったらしい。

現在の離婚率を思えば残念ながら迷信だということがよくわかる。永遠という考え方がちょっと強引である。人間の感覚なんてそんなに真っ直ぐではない。小さなコトの積み重ねで簡単に破綻する。

指輪自体は紀元前から存在したそうだ。装飾品や武器として石や貝殻が活用されていたとか。

ついでに言えば、古代ギリシャ神話の中には神の怒りをかった誰かが罰として鉄の指輪をはめられた話があるらしい。

罰である。孫悟空が頭に鉄の輪をはめられたようなものだ。ひねくれ者の私としては「指輪=罰」論に何となくニンマリする。妙に納得してしまう。

愛に溢れた幸福な家庭を築いている人からはぶっ飛ばされそうだが、結婚指輪は罰みたいなものかもしれない。

たいていの人が結婚に辿りつくまでに別れもいくつか経験している。そこには痛みも悲しみも嘆きもあったはずだ。そんな過去への罰として孫悟空のように輪っかをはめることになったのかもしれない。

う~ん、なんか面白みがない説である。ひょっとしたら結婚まで辿りつかなかった過去の人達の怨霊?から身を守るための「お守り」だったりして。そっちのほうが分かりやすい。

まあ、もっともらしいことを書いてみたが、なんだかんだ言って結局は「犬の首輪」みたいなものだろう。

首輪をはめていない犬は世間から警戒されるし、それこそ狩られてしまう。そうならないための目印として首輪によって保護されている。

男女を問わず結婚は“家で飼われる”ようなものだから、首輪の無い犬のように野放しにしないための印として機能しているのだろう。

ちゃんと家庭を切り盛りしている人には不快な話を書いてしまってスイマセン!

あくまで男性の指輪という習慣に違和感があるという趣旨なので、負け犬?の遠吠えとしてご容赦願います。

2016年7月27日水曜日

焼鳥問題 葡萄屋


焼鳥と一口に言ってもスーパーで売っているベトベトの甘いタレをまとったヤツから銀座あたりでワインを主役に1700円ぐらい取るヤツまで様々である。

基本的には安くて気軽に食べられるものだが、安すぎてもマズい。ここが問題である。

ひとり気ままに大衆酒場で安酒をあおっている時に出てくる焼鳥は「フツー」である。マズいとまでは言わないが、ウマくはない。




幸せだなあ~とつぶやくぐらいウマい焼鳥を食べるには、それなりの店に行く必要がある。

ただ、「焼鳥の気分」だから豪華だとかオシャレだとかそんな要素は不要である。さりげなくウマい焼鳥が食べられれば充分である。

エラそうな親父が威張ってる店はイヤだし、かといって、さもこの店は特別なんだぞ的アピールがプンプンの店も何となく居心地が悪い。

普通にウマい焼鳥が食べたいわけだから、ソムリエが得意になってワインを語るような店もイヤだ。ワインに無理やり合わせたがる昨今の風潮はちょっとウザい。

たかが焼鳥、されど焼鳥である。わがままなシングル・オジサマとしては「頃合いの店」に行きたいわけだ。

頃合いの店といっても様々だ。20代、30代のオニイチャン達と私が同じ感覚であるはずはない。あまりカジュアルで大衆的に過ぎる店もビミョーだし、騒がしすぎる店も困る。

安くてウマいのは大歓迎だが、実際には、そういう店は予約が必須だったり、ぎゅうぎゅう詰めで息苦しかったり、食通らしきオッサンが哲学的な顔でうなずいていたり、なかなか厄介である。

大衆的過ぎず、かといって大袈裟な感じでもなく、予約なしでも入れて、常連が我が物顔で騒いでいることもなく、肝心の味も間違いない店。こういう路線の店は見つけにくい。

なんだか前振りが長くなったが、銀座一丁目というか有楽町の「銀座インズ」地下に構える「葡萄屋」は、そんな私の望みをかなえてくれる店だ。

落ち着きのある民芸調の造りで、席数も多い。無愛想ではないが、物静かに黙々と焼き場に立つ職人さん。お運びのおばさん達もこなれている。

やたらと威勢の良い掛け声ばかりが耳障りなイマドキの飲食店をうっとおしく感じる私にとっては居心地が良い。




この画像はこの店の名物「鳥味噌」である。先月、このブログでも紹介した。店でも買えるし、ネットでも買える。素直に絶品である。店に行くとこれが突出しで出てくる。

酒の品揃えが凄いわけでもなく、奇をてらったメニューがあるわけでもない。かといって気の利いた一品料理もあって、のんびり過ごすには丁度いい。




鴨のタタキである。他のものより高い値段設定だったからあえて注文してみた。残念ながら安い鴨がウマくないのは世の常である。変な言い方だが、高い方が期待できる。

高いといっても、それなりのお寿司屋さんで大トロを頼むことに比べれば、ボリューム、味わいともに満足感がある。

肝心の味だが、旨味たっぷりでウホウホニンマリするレベルだった。亡き大橋巨泉さん風に言えば「ウッシシ」である。

つけダレの味も最高だった。ワインが苦手なくせに、ついつい赤ワインを頼んでしまうほど鴨鴨しい味を堪能できた。




こちらは鶏レバの燻製だ。スモーキーかつネットリで酒のアテにバッチリである。こういう1品があればグダグダと飲める。突出しの鳥味噌、鴨のタタキ、レバの燻製。これだけで充分だと思えるほど。

もちろん、串焼きも正しく美味しい。肉質、焼き加減ともに上質だと思う。全体を通して感じるのは丁寧だということ。これは大事な要素だ。




こちらはシメの鳥茶漬け。ゴマだれベースのタレで食べて良し、ダシをかけて混ぜ混ぜ状態で食べて良しというパターンだ。

サラリーマンが毎日のように気軽に立ち寄れるほど気軽な感じでもないが、かといって、敷居が高いわけでもない。大人が時々ふらっと暖簾をくぐるのに適した店だと思う。


どことなくヨソ行きの空気が漂う銀座と、かしこまらずに気楽な有楽町という街の特徴がちょうど良く混ざり合った頃合いの良いお店だと思う。

2016年7月25日月曜日

ワインレッドの靴 バーガンディー


♪ 赤い靴 履いてた 女の子 ♪

童謡「赤い靴」である。「異人さん」に連れられて行っちゃう歌である。「異人さん」である。「ひい爺さん」ではない。

それはさておき、今日は靴の話。以前、黒い靴の話を書いた(http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2016/02/blog-post_24.html)が、今日は赤い靴ならぬワインレッドの靴の話だ。

靴好きの世界ではワインレッドという言い方はあまりしない。「バーガンディー」である。フランスのブルゴーニュの英名だ。すなわち赤ワインのような色の靴をそう呼ぶ。


以前からこの色の靴が好きなのだが、最近、は今まで以上にバーガンディーに惹かれる。根本がアマノジャクだからあまりヨソの人が履かない色を選びたがるのだろうか。

それなら他の色の靴でもいいはずだが、茶系は別としてそれ以外の色の靴には興味が湧かない。

黄色系や緑系だとさすがにスーツに合わせにくいが、紺色あたりならシュっとしたカッチョいい靴もある。でもナゼだか紺色は選ばないでバーガンディーに目が行く。

もともと、私が好きな色は緑である。クルマや家のカーテン、ポロシャツにしても緑が多い。織部の食器も好きだし、ビジネス用のバッグも濃い緑、普段着用のショートブーツも緑のスウェードがお気に入りである。

バーガンディー、すなわちワインレッドが特に好きなわけではない。そっち系統の色の服は着ないし、そういう色の小物は葉巻ケースぐらいしか持っていない。


靴に限ってバーガンディーにやたらとソソられるわけだ。靴屋さんに入ってもついつい目が行くのはバーガンディーである。つい頬ずりしたくなる。

色の好みにはその人の深層心理が表れるらしい。色彩心理といった話だ。

たとえば「紺色」を象徴するのは次のような要素だという。「繊細 知的 落ち着き 誠実 堅苦しい 義務的 優れた判断 鍛錬」。

フムフムといった感じだ。これがワインレッドになると随分様子が変わる。

「感性 大人 性的 信念 才気 才能 女性の怒り、悲しみ」。

何じゃそりゃ!って感じである。感性だの才能だのは良いが、“性的”って何だ?“女性の怒り”って何じゃらほいである。

まあ、私の場合、あくまで靴の色に限った色の好みだから「女性の怒り」とは恐らく無縁である。きっとそのはずだ。たぶん大丈夫だと思う。

オシャレ番長みたいなイタリア人の男は、その日、まずどの靴を履くかを決めてから服を選ぶそうだ。さすがである。

私にはそんな洒落心はないが、その日の予定によってバーガンディーの靴を優先的に選ぶことは多い。そういう日は当然、靴が先でスーツやネクタイは後になる。


今の季節は雨が多いので、お気に入りの靴を履けない日も多い。意気込んで履こうと思っていたバーガンディーの靴を断念するのはちょっとだけストレスである。

一応、結構な数の靴を揃えているから、自分の中で靴を一軍、二軍、そして三軍に分類している。雨の日は当然、三軍の出番なのだが、今のところ三軍にバーガンディーが一つもない。

二軍、三軍の明確な線引きはないが、お気に入りだったけど、ヨレてきちゃった靴が二軍、買ってはみたものの最初からシックリこない靴が三軍である。

上の画像の手前の靴はヘタれ気味なので二軍暮らしが長い。好きな靴なのだが、いずれ三軍に落ちる日が到来しそうなので「雨の日バーガンディー」として活躍してもらう予定だ。


この画像の靴はバーガンディーというよりマホガニーレッドというジャンルだ。まあ大ざっぱに言えばワイン系である。こういう靴を履く気分の日が多ければ多いほどウツウツした気分とは無縁でいられる。


ちなみに厳密なバーガンディーカラーはこっちの画像の色合いを指すのだと思う。赤よりも少し紫がかった風合だ。赤が強いよりもシックな雰囲気になる。

バーガンディー系の色でもあまり暗い感じが強くなるとマルーンというジャンルに変わる。栗色、すなわちマロンの派生系である。

バーガンディーは、どことなく官能的というか、チョロっとした洒落っ気が特徴だと思うので、個人的にマルーンに近くなるのは好みではない。


マルーンだと阪急電車の色である。ちょっと「くすぶり系」な印象がある。阪急ファンの人、スイマセンです。




話がとっちらかってきた。

ワインレッドを一言で言い表すなら「熟成の証」だと思う。「性的」でも「女性の怒り」でもなく、「熟成」こそが似合うイメージだと思う。

どう逆立ちしたって若者ではなくなった私が目指すべき路線も「熟成」である。そういう意味では足下から「熟成」を意識して歩んでいくのは正しい選択だ。

今日もそうやって何事も都合良く解釈しながら生きている。

2016年7月22日金曜日

Mな散歩


夏になると散歩に励みたくなる。春や秋の快適な散歩も良いが、炎天下に汗ダラダラになって歩くのは妙に楽しい。

Mである。ヤラれちゃってる感じがいい。キツい。ゼーゼーする。でも、その後の水風呂の気持ち良さったら何事にも代えられない無上の快感である。

散歩に出かける前に水風呂を用意しておく。水風呂ザッブンのために散歩に出るようなものだ。

歩いている途中にヘタレそうになると、ザッブンの瞬間を思い描いてもう一踏ん張りする気になる。

身体に良いのか悪いのかちっとも分からないが、精神的には間違いなくリフレッシュする。オススメです。いや、あんまりオススメできないか。


歩いているだけでなく、時にはバッティングセンターに寄り道する。週末でも炎天下の真っ昼間にバットを振ってる奇特な人は少ないから順番待ちの心配もない。

1ゲーム250円である。右打席で2ゲーム、左打席で2ゲームの合計4ゲームで100球ぐらいしか打たないが、フルスイングしていれば結構バテる。1000円で大満足だ。

左右の打席に経つのは身体のバランスを考えてのことだ。昔は野球少年だったからどっちでも同じように打てる。最近は視力の関係か利き腕の筋力の関係なのか、左打ちの方が打球が飛ぶ。

散歩する時もそれなりに左右の重量バランスは考える。道路は水掃けの関係上、道の端に行くほど傾斜している。

同じ側だけを歩くと尻の筋肉が変な感じに張ってくることもあるので、道路の左側を10分歩いたら右側に移動して10分歩くといった涙ぐましい?努力をしている。

腰痛持ちの人などにも大事な心掛けだ。

あちこち劣化してくるとそういう小細工も必要だ。そんな気遣いをしながら身体中の老廃物を汗によって流しまくって細胞が生まれ変わることを念じて歩いている。

散歩は妄想である。いきなりだが、妄想しながら歩くのが楽しい。ただ歩くだけならジムのウォーキングマシーンに乗って黙々と頑張ればいいのだが、あれは非常に退屈だ。


古い小さなお寺を見つければ由緒書きを読んで大昔に思いを馳せたり、要塞のような豪邸があれば住人の家族構成を勝手に想像したりする。

崩れ落ちそうなボロアパートの開けっ放しの窓からステテコジジイがチラっと見えれば、我が身の20年後を想像して身震いする。

寿司屋のオヤジが咥え煙草でかったるそうに水打ちしている姿を見れば、オドオドしながら修行していた頃は可愛い少年だったんだろうなと勝手に思い描く。

退屈そうに無言で歩いている中年夫婦を見れば、出会った頃はきっとラブラブだったんだろうと同情もする。

ボケ防止にも妄想は有効かもしれない。結構、脳ミソが動いている実感がある。すれ違う人々は私がその人の人生を勝手に妄想していることなど知るよしもない。

まあ、一種の変質者である。

今の住まいの近くには、小石川植物園や六義園など散歩にもってこいの場所がある。とはいえ、何度も行くと飽きるので、先日はバスに乗って下町方面に足を伸ばし旧古河庭園を覗いてきた。



元々は陸奥宗光の邸宅だったものが、その後は古河財閥の迎賓館として使われていたそうだ。

古い洋館が見下ろす洋風庭園の他に風流な日本庭園もあって、なかなか見応えがある。そんなことより傾斜地を使った造りが特徴なので頑張って散歩するのに最適だ。

その後は近隣の商店街をブラブラ。馴染みのない土地の商店街を散策するのも退屈しない散歩のコツだ。この日は駒込駅の外れの古い商店街を歩いた。


谷中、千駄木、根津あたりの「谷根千」もそうだが、駒込や巣鴨、日暮里あたりも昔ながらの街の気配が残っているのが魅力的だ。

飲食店やスーパーや量販店がチェーン店の攻勢によってどこも似たような店ばかりになってしまった昨今、下町エリアに残るその街独自の空気感は貴重になりつつある。

これからセミの大合唱が本格化する。私が世の中で一番好きな音色である。マンション住まいだから風鈴を遠慮?している私にとって蝉時雨ほど癒やし効果を実感するものはない。

よりゴージャスに?響く蝉時雨を求めてわざわざ汗だくになって歩き続ける――。

やはりMっぽい性分である。

2016年7月20日水曜日

素直に話を聞く姿勢


人の話を聞く。これって結構大事だ。わかっているけどなかなか難しい。

年齢とともに中途半端な自意識が強くなるから、人の話に素直に耳を傾けない。

てやんでえ~、うるせ~、何をエラそうに言ってやがるんだ等々、聞く耳を持たないで突っ張ってしまう。

もったいないことだと思う。若い頃の突っ張った態度が愚かだったことを自覚しているくせに中高年になっても似たような態度ではマヌケである。

歳を重ねるうちに、当たり前だが、周囲に年下の人が増えてくる。私自身、年下に何か言われても素直に聞けないような感覚が少なからずあったが、最近は割と素直に参考にさせてもらうことが増えた。

遅いぐらいである。早い時期から素直に聞く姿勢を持っていれば人として得るものは多かったはずだ。

若い人が好きなくだらない“陰謀論”などはゴメンだが、人には人それぞれの貴重な経験があるから、年齢に関係なくそれを糧にした話には重みがある。

壁に突き当たった時の心構えはもちろん、仕事の話、家庭の話、子育ての話など、どんなジャンルにおいても、それぞれの経験を元にした話には説得力がある。

個別事情は違えど話の芯みたいな部分は大いに参考になる。まさに「我以外みな我が師なり」である。

以前、ある人から子育てに関して示唆に富んだ話を聞いた。とても参考になった。

「子供の気持ちを安定させるには、前の奥さんをいたわる姿を見せろ。それなりに仲良くしろ」。要約すればそんな話である。

しょっちゅう会っている娘とは良好な父娘関係を維持できている。成績も問題ないし友達関係もうまく回っているようだ。

とはいえ、思春期真っ只中である。そうした表面的なこと以外にはそれなりに闇?っぽいこともあるみたいで、父親に見せない部分では色々あるみたいだ。

父親と母親が一緒に暮らしていないこと自体がイレギュラーだから、子供としては葛藤もあるだろう。

もちろん、私だって子供にとって大事な母親のことを子供の前で悪し様にバッシングすることはない。かといって、持ち上げたり、いたわるような話をしたこともなかった。

まあ、そんなアゲアゲモードになれるようなら今の暮らし方を選択していないわけだから当然といえば当然である。

「いたわる?仲良くする?そんなの無理無理」と頭ごなしに否定した私に、アドバイスしてくれた人は続ける。「その程度の演技もできないようなら子供のことなど守れるはずはない」。

おっしゃる通りである。私自身のこだわりや了見など子供にとっては何も関係ない。たとえ演技だろうと父親が母親のことをいたわるような姿勢を見せることは、子供にとってマイナスであるはずがない。

そんなことで思春期の子供の心が少しでも平穏になるならブツクサ言っても始まらない。その程度の努力?の必要性を人に言われるまで気付かなかったことが少し情けない。

以前なら「てやんで~、うるせいやい」と横を向いてしまったかもしれないが、このところ純情で素直?な私は、このアドバイスが胸に染みた。人の話を真摯に吸収すべきだと改めて思った次第である。

で、ここ数ヶ月、ガミガミ合戦はだいぶ減少し、今では「早くステキな女性を見つけなさい」などと親切な?ご高説まで拝聴している。とりあえずちゃんと柔和な顔で聞くようにしている。

いつまで続くかビミョーだが、ガミガミ合戦が減ったことで、何となく子供関係の色んなことが上手く回っている気がする。私自身の「心うらはら」など小さいことである。

やはり素直な心は大事である。すぐに斜に構えたり、自我ばかり主張したって大して良い結果にはつながらない。

今更だが、人様の言うことは真摯に受け止めるように心がけようと思う。


そんなことを言っていると「またお会いしたいわ~」、「今度デートしてくださいね~」などという夜の蝶からの誘いまでホイホイ真に受けて大変なことになりそうだ。

あくまで「時と場合による」という当たり前のことも自分に言い聞かせないとダメである。

でも、こんな画像の女性にそんなことを言われると、すぐに信じたくなってしまうから困ったものだ。

そんな調子じゃ変な壺とか消火器なんかを売りつけられてオレオレ詐欺にも引っかかりそうだから気をつけよう。