2016年10月5日水曜日

お高い洋食の魅力


私にとって「東京料理」といえば洋食だ。いわゆるニッポンの洋食である。寿司やウナギも大好きだが、あちらは「江戸」である。「東京」だと洋食が頭に浮かぶ。

ヘンテコな区分けでスイマセン。

クリームコロッケやタンシチュー、ハヤシライス、オムライスあたりである。東京が近代化された後にハイカラと称されていたのが洋食だ。

洋食の場合、気軽な定食屋っぽい店と高級路線の店に分類される。ただ、かなり高級路線の店でもフレンチやイタリアンあたりに比べると、何となくスペシャルな印象?に乏しいのが現状である。なんだか残念だ。

メニューの分かりやすさのせいだろうか。オムライスなんかは喫茶店でも食べられるメニューだから特別な感じにはなりにくい。

フレンチで見られるような「聞いたことのないメニュー、どんな料理だか想像つかないようなネーミング」は一種の魔力である。

外食の大事な要素といえば非日常性だろう。舌を嚙みそうなネーミングの料理が出てくることは演出効果として大きい。

そういう意味ではハヤシライスやオムライスだと分が悪い。いにしえのハイカラ時代は遠く過ぎ去り、すっかり料理として一般化したせいで、卒倒するほどウマい洋食だとしても「スペシャルだぜ!」という雰囲気になりにくい。

そんな不憫な感じ、不当な地位に甘んじている感じも私が洋食をこよなく愛する理由である。一種の判官ビイキみたいなものだ。

それ相応の洋食屋で味わう料理の美味しさは、大げさに言えば日本人の味覚に完璧に寄り添った完成品だと思う。

今やすっかり日本オリジナルである。洋食の派生系であるトンカツを例に取れば、多くの店が民芸調の造りだし、一緒に食べるのはパンではなくご飯である。もともとが西洋料理だったとは思えない進化だ。

日本人の類いまれなる応用力の象徴が洋食というわけである。

好きすぎて力説してしまった・・・。



資生堂パーラー銀座本店の「ミートクロケット」と「オムライス」である。コロッケと名乗らないあたりがニクい。そこはかとなく老舗高級洋食店の矜持を感じる。

真偽は定かではないが、その昔、芋系をコロッケと呼び、クリーム系はクロケットと称した時代があったという話を聞いたことがある。

こちらのクロケットはまさにそれ。ハムなどが入った上質なクリームコロッケだ。一口かじればウットリする。変な話、ご飯もパンも要らない。これだけを口の中に入れていたい。

オムライスは最近主流になってきたフワとろ系ではなくオーソドックスな路線だ。かといって普通の薄焼き卵とは一線を画した繊細な卵料理と表現したくなる仕上がり。素直にウマい。


こちらは舌平目のフライ。タルタルソースもバンザイ三唱したくなる味だった。バンズに挟んで「富豪フィレオフィッシュ」にしたい衝動にかられたことはナイショである。

銀座の資生堂パーラーといえば、どことなく「気軽に入れない洋食屋」の代表だ。オムライスやカレーがウリなのに不思議な話ではある。ちなみにメニューには1万円のカレーも存在する。あえてカジュアル化には背を向けているわけだ。でも、それはそれでニッポン洋食業界にとっては必要な“仕掛け”かもしれない。「ハレの日の洋食」というジャンルは世の中にしっかり根付いていて欲しい。


こちらも銀座にある人気店「南蛮銀圓亭」だ。資生堂パーラーほど敷居が高い雰囲気はないが、喫茶店・定食屋路線の洋食屋さんとは別のロマン?ある洋食屋さんだ。

ここは居心地のよいカウンター席もあるので、ちょっと嬉しいことがあった時などにふらっと一人で出かける。小皿料理が数多く揃っているので、それをツマミに最後にシチューをドンと食べたりする。


銀座だと他にも「みかわや」が”ハレの日の洋食”を代表するお店だ。ここも高レベルの洋食が堪能できる。

幸か不幸か、値段がちっとも手軽ではないので頻繁には行けない。ある意味、その渇望感も私にとっては大事な調味料みたいなものである。

富豪なら値段を気にせず食べ散らかしに行けば良さそうなものだが、私の場合は「富豪になりたい」と叫んでいるだけのエセ富豪なのでなかなか難しい。

でも、いつの日かホンモノの富豪になったとしても、高級路線の洋食屋さんには時々行ってドキドキするほうが楽しいと思う。

2016年10月3日月曜日

ゲロッピー


ゲロを吐かなくなった。いきなりだが今日はゲロの話です。ゲロだらけです。

10代の頃は飲むたびに吐いていたような記憶がある。

20代の頃も似たようなものだ。しっかり飲めばいつでもゲロ太郎だった。

社会人になって割と早い段階で社内の急激な世代交代のせいで年齢に見合わない役職に就いた。そのせいもあってやたらと仕事の会合が多く、若造である私はバンバン飲まされた。

あの頃は身体で受け止めるように飲んでいた気がする。帰宅した途端、真っ先にトイレに駆け込んでゲゲゲのゲーだった。

30代ぐらいでようやくコントロール出来るようになったが、それでも結構な頻度でゲロッピーになっていた。

40を過ぎたあたりでようやくゲロ激減生活になったように思う。バカみたいだ。

今年も、いや昨年もゲロッピーになった記憶がない。良いことである。こんな歳になってゲーゲーするのもカッチョ悪い。

と言いながら、脱ゲロに成功した今になってゲロ男だった時代を懐かしむ思いもある。無鉄砲に飲めなくなったという現実は“大人的予定調和”の極みである。無難に収まってしまった感じがちょっとだけ淋しい。

とはいえ、ゲロゲロゲロッピーの辛さは今の私にはキツい。体力的に相当消耗する。私の場合、一線を越えると一度のゲロではスッキリせず、朝まで何度もトイレに籠もって胃液しか出ないのにオエオエしちゃう。翌日はヘロヘロだ。

一応、昔から紳士を自認?していた私は、基本的に人前で暴発ゲロをぶっ放したことはない。ちゃんとコッソリ吐く。

時には友人と「連れゲロ」することもあったが、少なくとも路上にぶちまけたりすることはなかった。

昭和のあの頃は所構わず吐きまくるバカがいっぱいいたから私などは上品なほうだったと思う。

高校の終わり頃だったか、男女混合で旅行に行った時のこと。みんなでカードゲームをやっている横で酔って寝ていた友人が仰向けで寝たまま天井に向かって寝ゲロを爆発させたことがあった。

まさに阿鼻叫喚の世界である。寝ゲロが降りかかった女の子が悲鳴とともに瞬時に服を脱ぎだし「ゲロとストリップ」という一大スペクタルショーが展開された。青春の1ページである。

さて、若い頃は酒の力を借りて女のコをナントカしちゃおうと頑張ったりもした。でも結局しょっちゅう返り討ちにあった。すなわち、こっちが先にベロベロになっちゃうパターンである。

そういう時も当然、こっそりトイレで身軽?になってから戦いの場に戻った。無駄な消耗戦である。負け戦ばかりだった。

あの情熱はどこから湧いてきたのだろう。
今ではホロ酔い程度で満足して、とっとと帰ってガーガー寝てしまう。

自慢じゃないが女性からの誘いを断ったことさえある。

訂正します。ちょっと自慢でした。

というわけで、アイドル歌謡の歌詞だったら「サヨナラの数だけ大人になった」とか「涙の数だけ大人になった」となるところだが、私の場合は「ゲロの数」だけオトナになったわけである。

今は昔より酒量も減ったが、考えてみれば昔のほうが健康だったのかもしれない。ゲロを吐くという行為は自己防衛機能だ。身体がダメ判定をシビアにくだすことである。

不要と判断されたアルコールその他が身体から強制排出されるわけだ。悪い話ではない。吐かずに済んでいる今はすべてを体内に吸収している。

強制排出機能?は加齢とともに鈍感になり、その分「沈黙の臓器」である肝臓たちが毎晩毎晩フル稼働しているのだろう。漠然とそんな気がする。

今は飲み過ぎると次の日の夕方までスッキリしない。ようやく酒が抜けたと思えても身体の底に澱(おり)が溜まったような気がする。

朝までエンドレスで黄色い胃液まで出しまくっていた若い頃は、午後になれば突然すっきりした。そうなるとデトックス完了みたいな気分になってトンカツをドカ食いするのがいつものパターンだった。

高校生の頃、友人から教わった素敵なフォークソングがある。タイトルは「教訓Ⅱ」。作詞は「なぎら健壱」である。

サビが大好きで、昔は吐きながらよくこのフレーズを口ずさんでいた。

♪ 青くなって~ もどしなさ~い
  吐きなさい あげなさ~い ♪

もう私には縁遠い歌になってしまったが、これからまだまだゲロゲロゲロッピー生活を送る若者達に捧げたい。

2016年9月30日金曜日

パワーチャージ!


9月初旬にこのブログで「グダグダ退治」の話を書いた。要は気力が湧かずにグダグダしがちな日常を変えようという趣旨である。

気力が上がる漢方薬を飲み始めて1ヶ月が過ぎた。それこそ「気のせい」かもしれないが、それなりに効き目を感じ始めている。

♪ペン・パイナッポー・アッポーペン♪を口ずさむぐらいに元気である。

https://www.youtube.com/watch?v=Ei3STJUd0GI

根が単純だからそういう効能の薬を真面目に飲んだだけで、活気が出てきたと思えるのかもしれない。まあ、それならそれで良しである。

バイアグラだってニセモノを飲んでギンギンになる人が結構いるらしい。そういうものである。

「気」なんてものは、まさに気分次第である。漢方の名前は「補中益気湯」。何かを補って気を益々高めるという意味だ。

「気のせい」だから困ることもある。漢方が効いているならやめられない。やめたらグダグダが再来するんじゃないかと不安になる。

仕方なく1日3回、それも食前にキッチリ飲み続けないとならない。かなりメンドーである。

先日出かけた京都では、仏像巡りのほかに「気」を向上させる努力?もしてみた。

もともと今の時期の私には西の方角が吉方とのことで京都に行った。せっかくならパワースポットとやらに身を置いてみようと企んだわけである。

で、鞍馬山と貴船にいそいそと向かった。鞍馬山は義経伝説の場所でもある。子どもの頃、義経モノが好きだった私にとってちょっぴりウキウキする場所だ。


鞍馬寺の本殿に行くにはケーブルカーでショートカットすることも可能なのだが、パワーを吸収したい私としては安易な経路はパスして徒歩で山を登った。

そうはいっても30分程度の距離なので騒ぐほどではない。でも日頃運動不足の私には結構キツい。涼しかったはずなのに汗だくになった。

義経が弁慶をぶっ飛ばすぐらい強くなったのも当然だ。あんな場所で日々トレーニングすれば無敵の強さを手に入れそうだ。

さてさて鞍馬山である。いにしえの人々が畏怖を感じた独特な空気が山全体を覆っている。パワースポットとやらがどんなものかちっとも知らないが、確かにここには一種独特の「気」が漂っている。

「気」の感じ方は人それぞれ。ある場所に佇んでみて、その気配を不快に感じる人もいれば清々しく感じる人もいる。その人のその時点の心の在り方でも変わる。



なんだかスピリチュアルっぽい書きぶりになってしまったが、そんなつもりはない。すべて「気のせい」の話である。個人的に「気のせい」の「気」に敏感なタチなのでついウダウダ書いてしまう。

私にとって鞍馬山の「気」はいつまでも深呼吸を繰り返したくなる感じだった。その場にずっと佇んでいたい感覚とでも言おうか。


「何事のおわしますかは知らねども  かたじけなさに涙こぼるる」


その昔、かの西行法師が伊勢神宮にお参りした際に詠んだ歌である。大げさに例えるなら似たような感覚だったかもしれない。涙がこぼれるほど感動したわけではないが、何となく「かたじけない気分」?になった。


ということで、まずはパワーチャージが出来たので次なる目的地は貴船である。貴船はもともと「気生根」と書いたそうだ。「気が生まれる根っこ」である。そりゃあ行かねばなるまい。

ところが、さすがの人気観光スポットである。縁結びの神様である貴船神社界隈には騒がしい女性が多かった。そのせいで神聖な雰囲気はあまり感じなかった。仕方なくヨボヨボ歩く。


奥宮に龍穴というパワースポットがあったのでそのあたりをウロウロ。女性の多さゆえに私の邪念が邪魔をして神聖なパワーを実感することはなかった。

すっかり邪念オジサマに戻ってしまったので、ついでに季節外れの川床ランチを楽しんだ。

子持ち鮎などを突っつきながらヒンヤリとした空気に身を置く。土瓶蒸しの松茸がシャバ過ぎて唖然としたがなかなか快適だった。暑い夏の夜のほうが風情がありそうだが、昼は昼で清涼感たっぷりで悪くなかった。


その後、日帰り温泉に立ち寄って緑を眺めながら露天風呂を満喫。人がいなかったのでハマショーをうなったりしてホゲホゲ過ごす。

ということで、気力アップのために涙ぐましい?努力を重ねている私である。

10月末に口やお尻にカメラを突っ込まれる定期検査が待っている。そこで何も異常が無ければ、今回のパワーチャージの旅にも大いに意味があったと思うことにしよう。

2016年9月28日水曜日

仏像にオッタマげる 炭屋旅館


京都に行ってきた。目的は「仏像めぐり」である。我ながら渋すぎると思う。そんなことでいいのかと思う。

いまさら信仰心が芽生えたわけではない。ナゼか仏像が私を呼んでいる。今回、一気にたくさんの仏像を見たことで自分がなぜ仏像に興味を持ち始めたかが改めて分かった。

「仏像はロマンだ!」。よく分からないがそういうことである。


気の遠くなるほど長い年月を過ごしてきた佇まいに惹かれる。萌え萌えだ。昭和、大正、明治はもちろん、江戸、室町、鎌倉、平安時代それぞれの時代に人々が崇めてきたわけだから物凄い話である。

どれだけの人が願いを込めて祈り、どれだけの人の心の平穏につながったのかと考えるだけで超ド級のロマンである。ロマンぶりぶりだ。

2泊3日で10カ所のお寺をじっくり見て回った。市内中心地をはじめレンタカーを駆使して鞍馬山や大原の先まで行った。凝り性のB型らしい集中力?である。



この画像はわが国の国宝指定第一号の仏像だが、作られたのは「飛鳥時代」である。ホントかよ!と突っ込みたくなるほど古い。1500年ぐらい前だ。聖徳太子が生きていた頃である。オッタマゲである。

そんな来歴もさることながら、姿形の美しさが超絶的だ。さすがに仏像業界?人気ナンバー1である。究極的に美しい。

日本中の仏像を集めてオールスターチームを結成したら間違いなくセンターを務めるはずだ。


こちらは東寺にあるスペシャルな空間である。大スターが勢揃いである。圧倒されながら随分と長い時間鑑賞させてもらった。

ここには仏像ファンの間では「イケメン」として人気の帝釈天も置かれている。確かに美男である。


私としてはイケメンに対するジェラシーもあるし、最初の画像の弥勒菩薩のインパクトが強かったので、さほど印象には残らなかった。

今回は基本的には混雑している寺は避けたのだが、仏像が目的だから「三十三間堂」は外せない。過去にも何度か訪ねたがやはり圧巻である。貴重な仏像が千体も並んでいるんだからドッヒャー!って感じである。


若い頃とは違い今の私は仏像方面?の勉強にせっせと励んでいる。如来や菩薩その他の仏像の種類や意味合いも少しばかり覚えてきた。

ちょっとした「ウンチク野郎」である。今回の旅では「予習」の大事さを改めて感じた。付け焼き刃だろうとウンチク的予備知識があれば見るものに確実に彩りが加わる。

(画像はJTBパブリッシング発行の「京都仏像めぐり」「古寺を巡る」の画像を勝手に撮影したものです。ごめんなさい)

さて、さまざまな仏像にオッタマゲた今回の旅で、ある意味一番のオッタマゲが先斗町や祇園界隈に一歩も足を踏み入れなかったことかもしれない。過去には夜の散策が目的だったこともあったから随分と枯れてしまったものである。



初日は料理の美味しさで定評のある「炭屋旅館」に泊まった。仏像めぐりでヘトヘトになって夕方チェックインしてからは一歩も外に出ず。

ウマい料理にウンウン唸りながらクイクイ冷酒を飲んで、その後はテレビを見たり本を読んだりしてバタンキュー。画像の椀物が印象的だった。ハモや松茸はさておき黄色い丸形のモロコシ豆腐とやらのウマさに悶絶。



翌日も朝から動き回ってヘトヘトになって夕方ホテルに入る。一休みして街に繰り出すつもりでいくつか料理屋さんに目星も付けておいたのだが、どうにもこうにもバテ気味だったのでグズグズ過ごす。結局、そのまま街に出ることもなくルームサービスで夕食を済ますという暴挙にでてしまった。

その翌日も泊まろうかと思っていたのだが、朝から夕方まで仏像を見て回り、結局バテバテになったので夕方の新幹線で帰ることにした。

京都駅で複数の弁当を買い込む。老舗「いづう」の高級鯖寿司とその半値以下で買った気軽な鯖寿司を食べ比べて、安い方が断然ウマかったことにオッタマゲながら帰宅した。

ちなみに、仏像ばかり眺めて繁華街にまったく足を踏み入れなかったことを思うと、行くべきだったのは京都ではなく奈良だったと思う。

国宝に指定されている仏像の数は京都より奈良のほうが遙かに多い。その差は5~6倍だとか。

今回見たかったのに見そびれた仏像が京都にはゴロゴロあるし奈良にも行きたい。困ったものだ。

2016年9月26日月曜日

とんかつジプシー にし邑 かつぜん


相変わらずトンカツが好きだ。共食いみたいなものである。

月に10回は食べたくなる。実際にはそんなに食べないが、割といつでも頭の中はトンカツだ。


この画像は東銀座の人気店「にし邑」の上ヒレカツだ。正しくウマい。ここはカウンターが15席ほどの造り。昼時は行列が出来るらしい。

この日は夜の7時過ぎだったが、基本的に満席である。ただ、酒を頼んでダラダラしている客は私ぐらいなので回転は良い。

ポテサラをつまみにビールを飲んで、牛すじ煮込みで芋焼酎ロックをカピカピ飲む。私はトンカツ屋で飲むのが好きなのだが、人気店の多くが飲み屋的には使いにくい。

まあ、飲み屋さんじゃないから仕方がないが、それなりのツマミがあって、酒もそれなりに揃えている店なら黙々とトンカツを食べるだけではもったいない。

というわけで、画像のトンカツもご飯と豚汁はパスしてツマミとして楽しんだ。芋焼酎とトンカツの相性は捨てがたい。

トンカツはご飯の友として味わうのが王道だ。実際にそれが一番ウマい食べ方である。でも酒のツマミとして楽しむと妙な高揚感がある。プチ贅沢気分である。

トンカツに関しては「意識高い系」?を自認する私である。これまでもいろんな店を訪ねてきた。

一時期は高い値付けをしている店ほどウマいトンカツが味わえると思い込んでいたが、実際にはそんなことはない。

高い店には高いなりの理由もある。乱暴な言い方をすれば味の差ではない。雰囲気や居心地の違いだろう。

一年に一度か二度、なんとなく吸い寄せられるのが銀座交詢ビルにある「かつぜん」だ。とんかつ割烹と名乗っているだけあって物凄く高い。卒倒したくなる。

凄く高いせいでふらっと訪ねても席には余裕がある。高級割烹のようなゆったりしたカウンタ―席に陣取り、ダラダラ酒を飲みながらちょっとした料理をつまみ、シメにトンカツというパターンだ。

味は普通に美味しい。率直に言ってこの店のトンカツの5分の1ぐらいの値段でもっとウマいトンカツを出す店は簡単に見つかる。

でも、それはそれである。ゆったり落ち着く空間に身を置いてゆるゆると上質なトンカツを楽しめる店はなかなか無い。

トンカツは私にとって「神」である。特別な存在だという事実を確認する意味でもこういう店で「非日常系トンカツワールド」に身を置くことも悪くない。

回転寿司屋がどんなにウマい寿司を出そうとも、上等な寿司屋のカウンターに陣取って過ごす時間とは比べられないのと同じかもしれない。

私の場合、どうも「ゆるゆると酒が飲めるかどうか」で店の好みを判断してしまうようだ。純粋にトンカツ情報を欲している人には参考にならずにスイマセン!

先日、湯島界隈をぶらぶらしていた時に、渋い構えのトンカツ屋に遭遇した。古い民家風で店先のメニューには酒のツマミも並んでいる。

迷わず突撃した。モツ煮なんかを頼んで焼酎をグビグビ。昭和感ムンムンで居心地良し。湯島や上野界隈はトンカツの聖地のようにウマい店が揃っている。きっとこの店も名店なんだろうと期待する。


シメのトンカツを食べてびっくり。マズい。揚げ過ぎだったのか苦みさえ感じる。たまたまだったら悪いので店の名前は書かないが、ションボリしながら店を後にする。

別な日、疲れ気味だったので酒も飲まずに「ゆで太郎」で蕎麦でも食べて帰ろうとしていた時のこと。通りすがりで入ったトンカツ屋が大当たりでちょっと興奮した。

池袋の雑踏に隠れるように地味な看板を掲げて営業している街中のフツーのトンカツ屋だ。店の名は「清水家」。数々の有名店にもひけをとらないウマいトンカツが味わえた。

当然、値段も街中のフツーのトンカツ屋価格である。まさに目からウロコである。ゆっくり酒でも飲みながらという路線ではないが、単純明快にウマいトンカツを食べるだけならバッチリだ。

それにしても軽く蕎麦を食べるつもりがトンカツ屋に入ってしまう私の行動パターンが心配である。

最近、私が真剣に考えているのがトンカツ愛好家を表現する言葉である。マヨネーズ好きを「マヨラー」と呼ぶようにトンカツ好きにも素敵な呼称をつけたい。

これまでも、炭水化物が大好きな人を「タンスイカブラー」、タルタルソース好きを「タルタル人」、ピラフ好きを「ピラファー」、ソース好きを「ソースマン」、その他「コレステローラー」などとアレコレ勝手に表現してきたが、トンカツはなかなか難しい。

「トンカツラー」では頭髪問題みたいだし、「トンカツァー」では発音しにくい。

「トンカチスト」はどうだろう。ちょっと大工さんみたいだが、キリッとした響きで悪くない。

今後もトンカチストとして共食いを続けようと思う。

2016年9月23日金曜日

ゾワゾワする言葉


リテラシー、アカウンタビリティー等々、ビジネスの世界で飛び交う外来語、カタカナ言葉がちょっと苦手だ。

そういう私自身も気付かぬうちにそれっぽい言葉を使っているが、せいぜい20年前から浸透しているようなトレンドとかバーチャルとかバリアフリーとか、ソープランド(これは違うか)あたりに止めている。

仕事先の関係者から面と向かってアセスメントだのコンセンサスだのアジェンダとか言われると何だかゾワゾワした気分になる。

私が社会人に成り立ての頃は、今のようなカッチョ良さげなカタカナ用語はあまり目立っていなかった。それよりも日本語自体を難解な表現にしたがる傾向が強かったと思う。

「幸甚に存じます」「当該案件については」「包括的に考慮する」といった感じだ。

今でも普通に使う言い回しだが、若い頃はこういう馴染みのない言葉を使うと「賢い人」になったような気がした。

いま思えばマヌケだが、ある意味可愛いかったのだろう。

島国根性のせいで外来語をどこか格好良く感じるのが、われわれニッポン人のシャバい部分である(「シャバい」が分からない人はおそらく30代以下の若い人かと思われる)。

戦争中は「敵性語」が使えなかったせいで野球の審判はストライクを「よし」、ボールを「ダメ」、アウトを「それまで」と叫んでいたそうだ。確か学校で習った話である。

そんなバカみたいなトラウマ?のせいもあって「カタカナ=お洒落」的なDNAが日本人全体に染みついているのかもしれない。

仮に「敵性語」が使えなかったら毎日あらゆる場面で厄介だろう。「コピー頼むよ」は「複写願います」だし、「メールしておいて」は「電子手紙の送信乞う」になってしまう。

昔、さんまやタモリが英語を使わずにゴルフをするテレビの企画があったが、アレは結構おかしかった。まともに会話が成立しない。

https://www.youtube.com/watch?v=WhXj-5ZKK1E

ちなみに銀座のクラブだったら「倶楽部」で済むが、ホステスさんは「社交嬢」、シャンパンは「発泡葡萄酒」になってしまう。

チャンスボトルは「空瓶好機」だし、アフターに行くのも「閉店後交流」になってしまう。実にメンドーだ。

なんだか話がズレてしまった。

カタカナ言葉に話を戻す。たとえば「マンパワー」や「スキル」なども、要はただの「人材」であり「技術」のことでしかない。なぜかカタカナ語にして得意になって語る人が多い。

なんとなく格好つけたい気分で言葉を言い換えるのなら御愛敬だが、言葉の言い換えによっては物事の本質を隠す目的があるから厄介である。

統制や統治だと高圧的なイメージがあるから「ガバナンス」に言い換えるようなパターンだ。

簡単なことを難解に見せようとする一種の見栄ならまだしも、時にはタチの悪いゴマカシもある。売春を援助交際と言い換えるようなマヤカシだ。

カタカナ言葉からは逸れるが、典型的な例をあげてみる。

事故のことを「事象」、老朽化を「高経年化」、汚染水は「滞留水」。これらは“原発業界”の用語である。考えてみればヒドい言い換えである。

以前、作家の村上春樹さんが原子力発電を「核発電」と呼ぶべきと提唱していたが、まったくその通りだと思う。よく考えれば「原発」という言葉自体も実に分かりにくい。うさんくさく思えてくる。

外来語をカタカナ言葉にして使いまくる一方で、外国語に直訳できない表現が多いのが日本語の特徴である。独自の文化を背景に発達した日本語は言葉の組み合わせによって意味や意図が微妙に変わる。日本人からみても難しい。

わが国にはかつて、全滅を「玉砕」、撤退や敗走を「転進」と言い換えて深刻な事態を隠そうとした黒い歴史がある。姑息な言い換えは悪質な嘘になることもある。

言い換えの裏側に潜んでいる思惑には気をつけたいものだ。

2016年9月21日水曜日

セックスと税金


知り合いから聞いた話。とある女性が交際倶楽部とやらに登録して稼ぎまくっているらしい。うらやましい話である。

うらやましいといっても、行為の話ではない。税金のことを考えずにガッポガッポ儲けている点がうらやましい。

聞くところによると1ヶ月あたり「実働」は1週間にも満たないのに年間の稼ぎは軽く500万を超えるらしい。

変な趣味を持つ相手だと1度に30万以上包んでくるそうだ。まあ、変な趣味に付き合うのもご苦労なことだが、痛いとか苦しいわけではないらしい。やはり費用対効果という意味ではチャらい話である。

その女性には一応、本業らしきものがある。それをタテにしおらしい一般人のフリをしながら、かなりの人数の“パパ”を手玉に取っているとか。

いまハヤリ?の一般人を装ったプロである。交際倶楽部のような場所で女性を探す男のほうもどうかと思うが、私のような純情でウブな男にとっては、世の女性陣の「粉飾」ぶりが恐い。

カタい話になるが、身体を売って稼いだカネであっても税金はかかる。反復継続して仕事感覚でこなしていれば事業所得という区分になる。

もちろん、そんなカネを申告する人はいないだろう。足がつくこともないから事実上、税金はかからないわけだ。

一体、どれだけの無税天国状態なんだろう。大真面目に納税している私からすれば腹立たしい話である。

少し前の話だが、某AV女優が脱税で摘発されたのだが、それをめぐる一悶着がちょっと面白いので紹介したい。

そっちの業界ではそれなりに活躍していたのにまったく無申告だったことが摘発のきっかけ。

税務署サイドがその女性の銀行口座を調べ、出演料などの本業収入を洗い出したが、アダルトビデオの仕事以外にも多額の収入があったことが発覚。

その女性は個人的に付き合った相手からお手当を得ていたわけだが、その金額が常識外れに高額だったわけだ。

世の中にはお金持ちがゴロゴロいるから、人気AV女優を愛人にしたつもりで、月に100万、200万払う御仁もいるのだろう。

そんなパパを複数持てば年収はウン千万円である。実際、この事例でも数年間で億単位の収入が無申告とみなされた。

ところが、女性側は一連の収入を身体を売った稼ぎではなく「慰謝料」だと反論したそうだ。税理士の入れ知恵だろうが、なかなか「いとをかし」?な主張である。

婚約不履行などの際にやり取りされる慰謝料は、精神的・肉体的な苦痛への賠償的な意味合いだから普通は課税されない。それを引き合いに出して売春収入を課税対象から除外しようと狙ったわけだ。

慰謝料が非課税になるのは「社会通念上相当な金額」という前提があるし、このケースでは相手が複数で、交際期間や金額からみても、女性側の言い分は単なる屁理屈。突飛な主張が裁判で通用するはずもなかったわけだ。

さてさて、最近は「愛人のカジュアル化」という言葉を耳にする。昔のようにスケールの大きいパパさんを探すより、5万~10万程度で月に一、二度相手すれば済むパパさんを複数つかまえる女性が多いんだとか。

良し悪しウンヌンではなく、そんな乱れた話が増えているのなら、税金問題以前に売春禁止法との絡みが気になるところである。

愛人といえば、ヒヒオヤジに囲われて家賃やお手当をもらって暮らすイメージである。身体が見返りだから突き詰めればセックスをカネで売っている形だ。

「カネでセックス=売春」かといえば、そうではない。わが国の法律では「不特定多数」を相手にすることが規制の対象だ。「特定のヒヒオヤジ」を相手にする一般的な愛人の場合は対象外である。

ということは、複数のパパさんとエッちらオッちら励んでいる場合には、売春禁止法に引っかかる可能性が出てくるわけだ。

さきほどのAV女優のケースは脱税だけでなく売春禁止法違反でも摘発されかねないイメージだが、調べてみたらそんなこともないようだ。

「不特定多数」と「特定多数」では意味が違う。すなわち特定された相手なら100人だろうと売春禁止法には引っかからないという理屈だ。

なんだかヘンテコな話である。

時々みせしめのように摘発されるソープ嬢が気の毒に思えてくる。ソープ嬢の場合、相手が不特定多数だから摘発の対象になるが、一般人を装って多くの金満オヤジを股にかけるプロ売春婦にはお咎めナシ。

なんともビミョーな話だと思う。

今日は何となくまとまりのない話に終始してしまった。