今日は更新をサボります。穴埋めとして過去ネタを2つ載せます。硬軟それぞれ一つづつです。
源氏名についての話
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/09/blog-post_10.html
もうひとつは終戦記念日にちなんだ話
https://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/05/blog-post_18.html
2018年8月15日水曜日
2018年8月13日月曜日
家族とか夫婦とか
「家族という病」「夫婦という他人」「極上の孤独」。ベストセラーになった下重暁子氏の新書シリーズだ。それぞれサラっと読んでみた。面白かった。いちいちウンウンとうなずける話が多かった。
平たく言っちゃえば、家族なんてあんまり期待しちゃダメ、夫婦なんてしょせん他人だ、一人で生きるのが快適だといった趣旨である。
お説ごもっともである。というか、イヤミったらしくいえば、こんな当たり前のことが支持されてベストセラーになることが世間の硬直化を表しているのかもしれない。
家族の絆は何よりも美しい、独身でいることは罪だ、みんなで一緒に連帯しましょうといった意識は一種の社会規範になっている。それが間違いだとは思わないが、闇雲にそれだけが絶対のように押しつけられるのは違う気がする。
家族が原因の不幸もあるし、夫婦関係で人生が壊れることだってある、仙人のような一人暮らしに無上の喜びを感じる人もいる。
当たり前だが、心が平穏であるかどうかは人それぞれだろう。事情を知らないヨソの人が杓子定規に価値基準を押しつけるのは醜いことだ。
先週、“元家族”と2泊3日の旅行に出かけた。今年も草津温泉である。離婚してから6年ぐらい経つのだが、夏の小旅行がなんとなく恒例行事になってきた。
このブログでも何度か書いてきたが、下の子はダウン症だ。何だかんだと手がかかる。
高校生の娘とは二人で旅行に行ったりするが、息子と二人での旅はちょっと厳しい。でも息子にもそんな楽しさを味あわせたい。そんな理由で元家族旅行をするようになった。
わが家のダウンちゃんは来年には中学生になる。チン毛ボーボーだから母親や姉と女湯に行かせるわけにもいかない。すぐに行方不明になりかけるし、男手として何かと私が奮戦することになる。
元嫁さんともさすがに小旅行の際は普通に過ごす。いまさらギスギスする必要もない。みんなでワイワイと食事をしたり、ボウリングに励んだり、カラオケをうなったり、花火をして楽しく過ごした。
で、人並みに家族というものの良さを感じてきた。気ままな独り身の快適さは何よりだが、家族単位で過ごす時間は、それはそれで趣がある?のも確かだ。
子ども達とのたわいの無いやりとりの中で成長を実感したり、親として喜んだり心配になったり、そういう一連の心の動きが、日頃ボケーっと暮らしている私にとっては人生の一種の潤滑油になっている。
もちろん、別々に暮らしていても子ども達のことはしょっちゅう考える。でも3日間とはいえ、ベタベタと一緒に過ごしたことで見えたものや感じたことは普段とは少し違う。
良くも悪くもいろいろな感情が湧き出てくる。それもこれも家族を持ったこと、子どもを持ったことで得られたわけで、今現在はどうあれ、そんな境遇を経験したことは幸運だったと感じる。
この時期、戦争関連のドキュメンタリーなどで若くして戦死した人達の話に触れる機会が多い。
家族を持ちたくても叶わなかった人、恋愛すら知らずに逝った人、幼子を残したまま無念に散った人。そんな先人達の犠牲を考えると、なんとなく自戒の気持ちが強くなる。
もちろん、冒頭で紹介したベストセラーのように家族という存在への過度な期待は自分の首を絞めかねないことも理解できる。親子という関係が絶対的なものでないことも現実だ。
シンドイのなら無理して家族を続ける必要はないと思う。頑張ってダメならしがみついたって仕方がない。スッキリした方が賢明だろう。
とはいえ、ただ安直に「家族なんて脆く幻みたいなものだ」と切り捨てちゃうのはさすがに淋しいことだ。それはそれで意味はある。
子どもに恵まれなかった夫婦でも、お互いをいたわりあって、長い年月を経た後は、互いが自分の一部みたいになる人もいる。そこで得る感覚や感情はやはり貴重なものだと思う。
親子関係にしても、確かに絶対は無いのだろうが、それでも「ほぼほぼ絶対」みたいなレベルにあることは間違いない。
個の時代と呼ばれる今、結婚に興味を持たない若者が増えている。その気持ちも分かるが、若いうちから刹那的にならずに、一度ぐらい家族作りにトライするのも悪くない。
ダメならダメでしょうがない。何とかなる。・・・はずだ。無責任なようだが、そのぐらいのノリで向き合わないと始まらないと思う。
そんなことを書いていると、まるで私が家族を求める淋しいオジサンみたいである。ちなみに、いまさらまた家族を作ることなど1ミリも考えていない。これから人に気を使って生きるのはキツい。無理だ。
70歳ぐらいをメドに生活の本拠を介護付きの施設にする計画も立てている。それが淋しいことだとは思わない。そこを拠点に外では好き勝手に出来たら最高だろう。
なんだか話がまとまらなくなってきた。
草津で花火をした際に指にヤケドをした。今も頻繁に薬を塗っているのだが、痛々しい指先を眺めながらも微笑ましい気分になる。これも子ども達のおかげだ。
花火の相手が違う相手だったら、指先を見るたびにイラついたかもしれない。
そんなもんだと思う。
2018年8月10日金曜日
プルームテックに手を出す
プルームテックという電子タバコをちょくちょく使うようになった。生粋の愛煙家?としてはちょっとシャクだが、便利だから状況に応じて普通のタバコと使い分けている。
電子タバコといえば「アイコス」が定番みたいだが、プルームテックも急速に普及しているようだ。特徴は匂いがほぼ無いことだ。
煙はそこそこ発生するのだが、水蒸気のような煙だからすぐ消えるし、何よりも匂いが無いから使い方によっては禁煙の場所でもコッソリ利用できる。
禁煙の場所ではホントは使ってはいけない。私だって一応わきまえているが、人間だからインチキもしたくなる。人の目がなければ禁煙の場所でもプハプハしてしまう。
トイレでコッソリなんてパターンは案外多くの人がやっているかも知れない。高校生みたいで情けないが、禁煙ファッショの昨今だからそんな活用法もありえる。
私の知人は禁煙の場所でプルームテックを使う場合、煙を吐き出す時におしぼりを口に当ててごまかすらしい。なるほどって感じだ。
良い子はマネをしてはいけない・・・。
長距離路線の飛行機でビジネスクラスぐらいの座席感覚があって、なおかつナイトフライトで消灯されていれば、はっきり言ってプルームテックを吸っても周囲にはバレないと思う。
あくまで例え話である。そのぐらい周囲に煙や匂いを撒き散らすことがないという例え話である。
電子タバコはタバコの葉っぱを燃焼させる仕組みだが、本物のタバコとは似て非なるモノだ。タバコのほうが断然ウマい。
それでも、「ビタシグ」などの代用品に比べれば、レッキとしたニコチン吸入グッズなので「タバコが吸いたいぜ」という欲求にギリギリ応えてくれる。
ビタシグについて考察した話はコチラ。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/07/blog-post_5.html
アイコスのほうが本物のタバコに近いが、あれは私の美意識?ではNGである。箱からストローで牛乳をすすっているように見えてしまう。中途半端に思える。
プルームテックの利点はライターも灰皿も不要なところだ。もちろん、充電という面倒な作業が必要だが、複数のプルームテックを用意してアチコチで充電しておけば何とかなる。私も最近ようやく慣れてきた。
電子タバコに手を出したのには理由がある。自社ビルの老朽化で、近い将来、職場が移転する可能性が出てきたためだ。
今は社内の空きスペースでスパスパできるが、移転したらそうもいかないだろう。匂いの無いプルームテックに慣れておけば、タバコに厳しい環境に変わった時に便利だと考えたわけだ。
おまけに今の我が家は禁煙条件の賃貸マンションである。だから基本的にタバコはベランダで吸う。でも、室内でスパスパしちゃうこともある。そうするとやはり匂いが残る。退去の際のトラブル回避のために、室内ではプルームテックを中心にし始めたわけだ。
ちなみに、子ども達と会う時にも今までは基本的にタバコを我慢していたのだが、プルームテックなら気にせずプカプカできる。これが一番便利さを実感している点かもしれない。
なんだか言い訳ばかり書き連ねてしまった。愛煙家にとって邪道?な電子タバコに手を出してしまったことに一種の敗北感にも似た気持ちになっているのも確かだ。
ハヤリものに乗っかってしまった居心地の悪さというか、ラーメン屋に並んでしまうカッコ悪さみたいなヘンテコな気分である。
まあ、こればっかりは仕方がない。そういう時代だと居直ろうと思う。切なる願いは電子タバコの一層の進化である。
ハッキリ言ってタバコの美味しさには遠く及ばない。まだまだ“ナンチャッテ”のレベルである。
発売当初はクソマズかったノンアルコールビールが徐々に進化してそれっぽい味に近づいているように、電子タバコもステップアップして欲しい。
2018年8月8日水曜日
ななつぼし スペシャル茶漬け
美味しいコメが食べたい。昔からコメには妙に執着心が強く、いろいろな銘柄を試してきた。
もちろん、どんなコメだって炊き方が正しくなければダメだし、炊飯器の個性によっても出来上がりは変わる。一般家庭レベルでは一概に良し悪しを判断できない。
最近私がハマっているのが「ななつぼし」である。北海道のコメだ。「ゆめぴりか」をイマイチだと感じていたせいで、北海道産を敬遠しがちだったのだが、ある時、「ななつぼし」が抜群にうまく炊けたので大好きになった。
ここ数年、「つや姫」を中心に食べていたのだが、浮気心は常にあって、ネットに出回っている品種ごとのコメの特徴などを調べていた。
多くの人が好む「コシヒカリ」は私の好みではない。粘っこい感じのコメにちょっと抵抗があるので、「ササニシキ」のようなアッサリ系を年柄年中探している。
食感の評価はなかなか難しい。人によっては粘りけが強くモチモチなコメを絶賛する。炊くときの水加減でも印象は変わるから、クチコミはあまり頼りにならない。
私の場合、言葉にするなら「粘りけが少なく粒感があってハリがある」ようなコメを求めて迷走し続けているわけだ。
「ななつぼし」を東芝製のわが家の炊飯器で炊く場合、コメ2合なら水を1.6合あたりの目盛りに留めて「早炊き」機能を使う。今のところこれでバッチリだ。
「つや姫」、「あきたこまち」あたりが主流だった我が家のコメストックはだんだん「ななつぼし」ばかりになってきた。
硬めに上手く炊けたコメの美味しさは“汁っぽく”味わう際にも際立つ。お茶漬けにしてもコメの粒感が負けないからグジャグジャした印象にはならない。
夏バテ対策でちょくちょく食べるスペシャル茶漬けの画像だ。見た目は美しくないが、これが結構ウマい。胃腸が疲れているときにも最適だ。
具材は、梅干し、海苔の佃煮、鮭のほぐし身、なめ茸、すぐきが基本だ。焼きタラコを載せることもある。
これらの具材は混ざり合ってもそれぞれの味を壊さない。混ざったら意味不明になっちゃう組み合わせとは違い、ミックスされてもそれぞれの味が台無しになる感じはない。
効能はよく分からないが、梅干しは夏バテ予防の王道だし、なめ茸はネバネバ効果がありそうで、すぐきも発酵食品である。きっとヘルシーだろうと勝手に思い込んでいる。
思い込みもまた大事である。
スペシャル茶漬けを食べる時は、お気に入りの唐津の抹茶碗を使う。結構な値段の作家モノなのだが、小どんぶりサイズで使い勝手が良い。何より「唐津の抹茶碗でお茶漬け」という贅沢感がお茶漬けのシャビー?なイメージを払しょくする。
これまた思い込みである。
ここ2週間ぐらいで朝食にこのお茶漬けを4回も食べた。朝からハンバーグでもカレーでも食べられるタイプの私だが、さすがに暑さのせいで弱っているみたいだ。
弱っていても食べないのは悪循環だから、サラッとかっ込めるお茶漬けがこの時期はオススメだ。
そういえば先日、酷暑の中、神宮球場で友人達と野球観戦という名の飲み会をした。汗を異様にダラダラ流しながらビールをカピカピ飲んでいたらプチ熱中症みたいにダルくなってしまった。
ダルさに加えて3時間ぐらいナゼか片耳が聞こえなくなるという体調不良に陥った。幸いにも野球観戦後の飲み屋で水ばっかり飲んでいたら復活できた。大事に至らなかったのはスペシャルお茶漬けのおかげだと思っている。
やはり思い込みは大事である。
2018年8月6日月曜日
官能的か保守的か
新しくなったトヨタクラウンが売れている。発売1か月で月間販売目標の7倍の受注があったとか。
「いつかはクラウン」。昭和のキャッチコピーだ。憧れのマトだったクラウンもレクサスの台頭で、その位置付けがビミョーになっていた。
ノンポリのオッサンが選ぶクルマ(失礼!)というイメージを払しょくするためか、一気にスポーティーさをウリにしてイメチェンを図ったのだろう。
確かにクラウンにしては攻めたデザインだ。個人的には欲しくはない。乗り心地も走りも装備も絶対に間違いのないレベルにあることは分かる。でも興味が湧かない。
歴代のクラウンよりはスマートだと思うが、あまり色気を感じない。欲しいと思わない理由はそこだ。
もっと言えば、スポーティーさを目指した「無理やり感」が目についてしまう。大胆なデザインに進化してきたレクサスLSのほうが曲線の使い方が巧みでさすがに色っぽい。
単なる道具だと割り切れば色気もヘチマもないわけだが、クルマに嗜好性を求めた場合、「色気」は大事な要素だと思う。
色気というか、官能的というか、セクシーというか、表現は抽象的だが、そういう興奮系?の気分にしてくれるクルマが好きだ。
車庫に向かい、クルマの顔を正面から見て、ドアを開けてシートに座り、エンジンを始動させてハンドルを握る。この段階で気分をアゲてくれるクルマを相棒にしたいと思う。
気分をアゲてくれるのは五感に響くすべての部分だ。ドアの開閉音、シートのホールド感、ステアリングの手触り、いろいろなスイッチを押した時の指の感触などなど。そういう細かい点に納得できたらベストだ。
ヘンテコな例えだが、何度も懲りずに肌を重ねたくなる女性も同じだろう。顔だけ、スタイルだけといった部分的な魅力だけでは長くは続かない。総合力こそが決め手だ。
私がいま乗っているのはイタリア車だ。フェラーリではない。ランボルギーニでもない。そんな高いのは買わない。買えない。
イタ車はすぐ壊れるイメージがあるが、私のクルマは1年経った時点でまだ一つも不都合は起きていない。酷暑にも耐えている。
色気に惹かれて選んだ。欧州車の中でもドイツ車とは違うスケベセンス?はなかなかのものだ。イタリア的美意識みたいな矜持を随所に感じる。
クルマに限らず、色気のあるもの、艶っぽいもの、官能的な匂いのするものには魅力がある。50歳を過ぎ、そろそろ枯れてくる年代だからこそ、そういう感覚には執着していたい。
私が身につけるもので唯一真剣に向き合うのが靴だが、こちらも色っぽさを基準にしてしまう。
紳士靴の最高峰と言えば英国の誇るエドワードグリーンやジョンロブになるのだろうが、それとは別に色気のカタマリのようなイタリア製も大好きだ。ステファノブランキーニあたりの個性的な色気は、もはや一つの文化だ。
色っぽいもの、官能的なものを突き詰めると質実剛健や合理性とは別なこだわりやゆとりにつながるのだろう。ムダに思えるような部分にもあえてこだわることがオツというわけだ。
そうは言っても、その部分が「これ見よがし」になっちゃうのはカッチョ悪い。「さりげなく」が大事だと思う。
話は飛ぶが、色気がある人といえば、男女を問わず割とさりげなさの中に艶っぽさを感じる。これ見よがしな「叶姉妹」よりも「木村多江」のほうが色気を感じるのもそこが理由だろう。画像はネットから拝借しました。スイマセン。
いま何かと話題のネット洋服屋さんの社長がSNSで発信する「これ見よがし」な感じが世間のオトナ達をイラつかせている。
まあ、やっかまれるのも当然なほどのお金持ちだから仕方ないが、あのさりげなくない感じは確かにスマートではない。いわば色っぽくない。叶姉妹的である。
随分と話がとっ散らかってしまった。
なんだかんだと書いてきたが、私自身はコンサバを重視する保守的な傾向も強い。だから大胆な格好も出来ないし、屁の突っ張りみたいな小っぽけなこだわりだけをイジイジと守っている。
もっと色気や艶っぽさを前面に押し出してみたいが、“保守ブレーキ”が邪魔をするから、いろいろとあと一歩が踏み出せない。
官能的な生き方と保守的な生き方の狭間で悶々としている。だからいつになっても平凡というワクは超えられず、違う景色を見ることもなく老け込んでいくのだろう。
なんだかビミョーな結論になってしまった。
2018年8月3日金曜日
長嶋一茂と寅さん
長嶋茂雄の息子だから子どもの頃から有名人だった。私と一茂は同じ歳だ。私は大の巨人ファンだったから、子どもの頃から新聞や雑誌で一茂情報を目にしていた。
その後、大学生になった私は、クラスメートになった友人が六大学野球のマウンドにあがると聞いて神宮球場に応援に出かけた。相手は立教である。主軸打者は一茂だった。
我が友人はいとも簡単に一茂にホームランを打たれた。友人ピッチャーと一茂ではオーラが違っていたことを思い出す。
その頃、なぜだか街で一茂を見かけることが重なった。いつも場所は六本木。常に一茂は綺麗な女子を連れていた。
我が友人ピッチャーは、ずんぐりむっくりした体型で苦学生を絵に描いたような男だった。それに比べて一茂の颯爽とした感じはまさに異人種。当時、スマートな野球選手は珍しかったので印象的だった。
その後、一茂は紆余曲折を経て今のポジションにたどり着いた。
バカ息子だのボンボンだの言われた一茂もとっくに50歳を超えた。今になって人気が沸騰した理由は、彼が漂わす独特の居直り感と達観だと思う。
偉大な長嶋茂雄の息子に産まれて、同じ野球の道を選んだものの大成しなかったわけだから、ああ見えて葛藤やストレスは凄かったはずだ。
あの余裕と居直りは間違いなく今の年齢だからこそ滲み出てくるものだろう。
何かにしがみついてない感じとでも言おうか。媚びへつらわず、あくまで我が道を行くマイペースな言動がウリになっている。
中高年にとっては大事なことだ。大事だけどなかなか実践できないのが現実だ。あちこちに気を使い、しがらみに縛られている中高年のほうが圧倒的多数である。
一茂の自由さは中高年にとって痛快に映る。同年代であれば、かくありたいと願う人も多いはずだ。
ちょっと大げさだが、今の一茂人気は「寅さん」的な意味合いがあるのかもしれない。
フーテン暮らしで気ままな寅さんに昔のオジサン達は拍手喝采を送った。真面目にコツコツ働く現実の生活をひととき忘れるために寅さんに夢を託したわけだ。
一茂にも似たような要素がある。ムダに明るいし、我が道を行く的な無頼な言動は独特だ。日々窮屈に暮らしている中高年にとっては一種の清涼剤みたいなものだ。
朝のワイドショーで見る一茂はヘンチクリンなことをしょっちゅう語っている。話している内容はさておき、見習うべきは予定調和をまったく気にしない姿勢だ。
なーなーでコトを済ますことに慣れてしまった世の中から見ると妙に新鮮に見える。いいぞ一茂!
私もすっかり一茂ファンになってしまったようだ。
今日は中高年にとっての「居直る」ことの大事さをアレコレ書くつもりだった。その一例として一茂に触れるつもりだったのに、結局、長島一茂論に終始してしまった。
2018年8月1日水曜日
六本木 ウニホリック ウニの夜
夏休みの娘からアレコレと誘われる。スポンサーとして引っ張り出されるわけだが、先日は「ウニ専門レストラン」に行きたいとのこと。
ウニのウマいヤツは上等な寿司屋で食べるのが鉄則だと正論を振りかざしたのだが、娘としてはインスタか何かで見た“映え”そうな店に行くことが第一目的らしい。
仕方なく従う。
出かけたのは六本木の「UNIHOLIC」(ウニホリック)という店。レストランというよりウニ居酒屋、ウニバーといった風情の店。
若い頃は私もウニと名がつけば何でもかんでも嬉しく食べた。年とともに銘柄や産地やミョウバンがどうしたこうしたと面倒なことを言うようになった。残念なことである。
初心に戻って好奇心旺盛にどんなウニだろうと喜んで食べようと思ってメニューを吟味する。なかなか面白いメニューがある。若者ウケするはずだ。
とりあえず、種類と産地の違う生ウニの3種盛りと変わった味付けの3種盛りを頼む。
生ウニはフツーだ。それよりも画像奥の3種盛りのほうが興味深かった。
見た目ではちっとも分からないが、右からウイスキー漬け、塩麹、山椒塩での味付けである。ウイスキーはラフロイグだったかボウモアだったか忘れてしまったが、ソッチ系の煙っぽい風味をまとっていた。
ハイボールを飲んでいたので妙に合う。悪くない。というか、ツマミとしてはかなりウマい。お寿司屋さんで生ウニを食べ比べることが絶対だと信じている私には新鮮だった。
これはウニとアボカドのユッケ。フツーに美味しい。この店でもそうだが、いろんな店でわざわざ肉にウニを乗っけて食べさせるパターンを見かけるが、アボカドに混ぜるぐらいの方がアザとくなくて良い。
ウニパスタである。フツーに美味しかったけど、クリームの味が強くてウニ風味がイマイチ。これならディープな街・巣鴨の名門酒場「千成」のうにスパゲッティーのほうがオトナとしては嬉しい。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/02/blog-post.html
食べ盛りの娘はツマミよりもメインを多めに食べたいようで、「南部鉄器で炊くウニいくらご飯」なるムホホな一品が出てきた。
使用前使用後?の画像だ。当然グチャグチャに混ぜあわて食べてこそ美味しい。特に特徴はないがフツーにウマい。
全体としてフツーだった。それはそれで良かった。
その後、ミッドタウンに移動して虎屋茶寮でかき氷。宇治金時タイムである。さっきの食事の反省会のようにウニに関するウンチクをしばし語る。
やはりウニはお寿司屋さんで食べるのがベストだ。塩でウマいウニ、醬油のほうがウマいウニ、握りにしてもウニによっては海苔の有り無しで味わいが変わる等々のウザったい話を聞かせる。
邪道な方向に走ったり、見た目が面白い食べ物を求めるのはカッチョ悪いとクドクドと娘を教育する。娘はウザそうな顔で聞いたふりをしている。
娘には早くからさまざまなものの本質を知って欲しいといういじらしい親心である。
結局、コンサバなものにこそ本質があるなどと保守的な話を得意になって語った。
とかいいながら、普段の私は馴染みのお寿司屋さんで「ウニをパフェみたいに盛りつけてちょうだい」などと邪道極まりないことを言っている。
こういうのは娘には内緒である。
















