2018年11月19日月曜日

「今日から俺は」、「江戸前の旬」


家庭人だった頃よりテレビを観るようになった。“一人暮らしあるある”だと思う。

集中して観たいし、CMで途切れるのもイヤだから、ほぼすべて録画だ。夜中や休日にじっくり楽しむ。

大河ドラマ「西郷どん」は欠かさず観ている。そろそろクライマックスだから何かと大変だ。春夏あたりにはホノボノしていた雰囲気も今では緊迫感の連続だ。


西郷さん役の鈴木亮平はとても良い。細くなったり太ったりと大変そうだが、脇役の誰に食われることなく徹頭徹尾、完璧に主役を張っている。

幕末の激動期ネタだから内容的にもハマる。鶴瓶演じる岩倉具視も怪人ぶりが良い。玉山鉄二演じる木戸孝允がカッコ良すぎるはちょっと気になる。

これから西郷さんは帰郷して、その後は西南戦争で非業の死を遂げる。そんな誰もが知っている世界がどのように描かれるのか、残りの放送は4回だ。終わっちゃうのが寂しい。

「西郷どん」は「せごどん」と読ませる。私もまだまだ現役として「せごどん」ならぬ「性豪どん」として奮戦しようと思う。

話がそれた。


秋の連ドラで抜群に面白いのが「今日から俺は」だと思う。80年代を舞台にしたツッパリ高校生を描いたコメディだ。

なんとなく見始めたのだが、やたらと面白い。50をすぎたオトナが観る番組なのかビミョーだが、徹底したバカっぽさに完全にハマった。観ていない人にネット配信で第一話から見直すことを勧めたいほどである。

主演の賀来賢人という俳優は喜劇役者に舵を切ったら卓越した存在になるのではなかろうか。

前クールの朝ドラ「半分青い」で主人公の親友役だった清野菜名ちゃんも妙に可愛い。「半分青い」では死んじゃったから、元気な高校生として蘇ったことが嬉しい。

もともと、この秋スタートのドラマは「下町ロケット」しか興味がなかったのだが、今や「今日から俺は」のほうを1万倍ぐらい楽しみにしている。

佐々木蔵之介、黒木瞳、中山美穂が出演している「黄昏流星群」も自動録画しているのだが、いまいちハマらず、録画した数回分がいまだに観ないままである。

弘兼憲史原作の原作コミックが大好きで、コンビニで売られている総集編みたいなものはついつい買ってしまうほどだ。

だから期待して見始めたのだが、個人的には、黒木瞳と中山美穂がちょっとピンと来ない。好きな人には申し訳ないが、食傷気味というか、“いまさら感”が強い。


こちらはBSテレ東の深夜ドラマ「江戸前の旬」である。おそらく誰も観ていないと思うが、これまた単純明快に面白くてハマった。

原作は何十年も続いているコミックなんだとか。原作に出てくる主人公や親方の雰囲気とドラマのそれとは全然違うらしい。それでも、原作を知らなかった私は素直に楽しんでいる。


親方役の渡辺裕之が良い。懐かしい顔だ。その昔の『ファイト一発』の人である。それ以外には知っている俳優さんが出ていないところが深夜ドラマっぽくて素敵だ。

アマノジャクだからちょっとチープな香りがする深夜ドラマに惹かれる。でも、飲みの席などで当たり障りないテレビの話をする際に誰からも共感されないのが困ったものである。

2018年11月16日金曜日

日米野球とハマショー


野球少年だった子どもの頃、「大リーグ」といえばとてつもなく強い印象があった。まだメジャーリーグという呼び名が定着していない昔の頃だ。

今では日本人選手の体格も進化して昔ほど格差は無くなったが、昭和の人間である私にとって「大リーグ」は特別だ。畏敬の念は消えない。


数年に一度の日米野球の際はちゃんとチケットを買って球場に足を運ぶ。普段のプロ野球の試合と違って、メジャー側の攻撃の際は鳴り物ガンガンのやかましい応援がない。これが嬉しい。

打球音、剛速球を受けるミットの音など球場の音が生で聞こえてくる。テレビとは違う臨場感が味わえる。

レベルがどうだとか、スーパースターが来ていないとか、今回のメジャー軍団はあまり評価されていない。でも、しょせん「日本に来てもらっている」のが現実である。

お願いする側とお願いされる側である。全然違う。日本の選抜チームがアメリカに招待されることはない。もし呼ばれたとしても毎試合、球場を満員にするほど観客を集められるかも怪しい。

そう考えると「大リーグ」の威光は別格だ。今回もワクワクしながら観戦していたが、前半、中盤とモッサリした試合展開だったので、途中で帰ってしまい、その日のハイライトシーンは全然見られなかった。

短気は損気である。

もう一つ、昔から追いかけているものの話を書く。ハマショー先生である。中学生の頃から聴き始め、今も私の中では心の師匠である。


先日、ファンクラブ会員限定ライブに行ってきた。ちゃんとウルウルしてきた。

わがオジサマバンドはあさっての日曜日に年に1度のライブをやるのだが、その直前の最終練習の日にハマショーライブが重なってしまった。

バンド練習を頑張ってこなし、本番に向けた決起飲み会を泣く泣くあきらめ、東京国際フォーラムへ。

今回のハマショー師匠のステージは、70年代に発売したアルバムの楽曲だけを披露するコンセプトだ。

私が聴き始めて熱中したのがまさに70年代である。中学から高校に上がるぐらいの多感の頃だった。

何が嬉しかったかといえば、二部構成の一部のほうはハマショー師匠がアコースティックギターで弾き語りに専念したことである。

「あの頃の僕」「君に会うまでは」「路地裏の少年」「19のままさ」「君の微笑」などなど。知らない人にはまったく分からない話でスイマセン。

知っている人にとっては涙チョチョ切れである。おまけに師匠のライブにしては珍しく最初から座ったままだから、客も座ったままでじっくり聴き込めた。

この歳になると、立ったまま「ウォ~ウォ~」と叫び続けるライブは疲れちゃうから大助かりだった。

普段のライブならオープニングからドッカンドッカンなのだが、今回はコンセプトのせいで中高年にはラクチンなスタイルだった。

近頃の師匠のライブは入場時に座席が指定される仕組み。座席の良し悪しは運まかせである。

その昔、私のようなフラチな客がネットオークションでチケットを高値で買ったりしたせいで厳しくなってしまった。私のせいである。

昔の悪行のバチがあたったのか、今回は2階席のほぼ最後列。最悪の場所をあてがわれてしまった。

まあ、それでも師匠の弾き語りは非常に素晴らしく、音響も良かったので、ずっと座れていたことと合わせれば満足する時間だった。

で、第2部のバンド編成でのドッカンドッカンをあの席で立ち上がって堪能するのは厳しいと思い、途中休憩の段階で帰ってしまった。実に外道であり、だらしない話である。

チケットの抽選に外れた人も大勢いるわけだから最後まで聴くのがファンとしての仁義であり礼儀である。ファンの人、ゴメンなさい。

一応、疲れていたのも理由だ。ハマショー師匠を参拝しに行く前に、私自身のバンド練習が4時間ぶっ続けだったから、耳もノドもバテバテだった。

オジサマだから無理は禁物である。

その分、あさっての自分のライブでは弾けようと思う。

なんだか、ハマショー師匠の話題に絡めて、自分のライブがどうしたこうしたとか書いちゃっている自分がミュージシャンみたいで滑稽である。



2018年11月14日水曜日

同窓のよしみ


わが母校は千代田区にある暁星学園。フランス人が設立したカトリック系の男子校だ。私は幼稚園から高校までずっと通った。

なのにフランス語は話せないし、キリスト教にもまるで縁がない。クリスマスとか嫌いだし。。。

あまり規模の大きくない学校だから同窓生に出会うと独特な親近感を覚えるのが卒業生に共通する感覚だ。

実際に、在学中に関わりが無かったような年齢の離れた同窓生と、大人になってから付き合いが始まるパターンも珍しくない。

今月下旬にも後輩が経営する某老舗料理店に10コ下ぐらいの後輩から我々の代ぐらいまで数十名規模で集まって宴会がある。よく分からないのだが私も参加するつもりだ。

先日、わが母校の中高年同窓生の星?である俳優の香川照之を囲む会合に顔を出した。歌舞伎関連の応援組織の集まりだ。


もともと発起人的に動いたのが、私の同級生連中だったのだが、ひょんなことから私も少し絡むことがあったので、この日は参加させてもらった。

市川中車を名乗って歌舞伎に進出してから6年。息子の市川團子もすっかり大きくなって有望株として期待されている。

息子に身長を抜かれたことを嬉しそうに語るカマキリ先生だが、久しぶりに見た顔にはやはり疲労の色が濃い。

中高年が頑張れば若い人よりは疲れる。当たり前だが、彼はその見本である。

我々凡人は疲れるまで奮戦しないオッサン的ゴマカシ術ばかりが上手くなるが、彼の場合は何事も一生懸命だ。そりゃあ疲れるはずだ。

おまけにサービス精神の塊みたいなところがあるから、その日の会合でも歌舞伎ファンの皆さんに熱心かつ至極丁寧に接していた。あの謙虚な姿勢にはいつも感心させられる。

さて、今日は彼の話ではなく、その会合で感じた「同窓のよしみ」の有り難さである。

この日は食事会みたいな感じで、分かりやすくいえば、結婚披露宴で丸テーブルに案内されるようなスタイル。

我々同級生の面々は、母校の先輩後輩とともに陣取った。先輩も後輩も旧知の人々だったので、アッという間に歌舞伎とは無縁の話ばかりで盛り上がった。

同窓の空気の中に入るとどうしてもその当時の感覚というか”キャラ”が頭をもたげてしまって、ムダ口を叩いてしまうのが私の悪いクセだ。

有名老舗和菓子店を営む先輩相手にはヤンチャな後輩キャラになって、その先輩のウザかった点を強調する。大手出版社社長を務める後輩には、ワイ談爆弾を投下するだけでなく、飛行機の中でどうやってニコチンを吸収するかを先輩ヅラで指導。

教育関連会社の社長を務める同級生には、ヤツの昔のエロ武勇伝を周りの人々に吹聴する。やはり同級生のスーパードクターには、中高年不倫の危なさを知ったような顔をして切々と説く。

やはり同級生である某文京区長は夫婦で参加していたのだが、ヤツの昔からの策士ぶりを奥さん相手に大げさに語る。

控えめに書いたが、酒も入っていたし顔なじみが多かったからついつい過剰にムダ口を叩いてしまった。

「思い起こせば恥ずかしきことの数々」。寅さんの口癖だが、まさにそんな感じである。同窓という空気の中に入ると、一瞬にして気持ちがゆるんでしまう。

おそらく甘えに似た感覚なんだと思う。幼い頃から多感な頃まで、鳥カゴみたいな狭い世界で保護されて生きてきたから、その郷愁につられて無垢な頃の気分が甦ってしまう。

いっぱしの中高年になって無邪気な少年みたいなことを言うのも情けないが、私にとって同窓の空気はそういう有難さがある。

実家に対する安心感みたいなものだろう。一貫校という、いわば揉まれない環境ゆえのヌルさでもあるが、人生も後半戦に入った今ぐらいの歳になると、そんな安心感があることは有難い。

ちなみに、わが母校は設立の経緯のせいで、小学校の頃から行事の際にはフランス国歌を歌わされる謎の伝統がある。

勇ましい革命の歌なのだが、意味も知らずに叩き込まれて、しょっちゅう歌わされた。卒業後も同窓生が大勢集まるとフランス国歌を歌い出すイヤミったらしい?習慣がある。

私はどちらかといえば、右寄りだしフランスにちっとも愛着心はない。それでもそんな場面になるとガンガン歌ってしまう。いつも違和感を覚えながらもしっかり歌う。ヘンテコである。

同窓生にとっては、校歌とは違う一種の応援歌とか寮歌みたいな位置付けに近いのだが、ヨソの国の国歌である。よく考えればやっぱりヘンテコだ。

もう数十年にわたってそう思っているのだが、結局、合唱が始まると得意になって歌ってしまう。

きっと死ぬまで変わらない習慣なんだろう。

2018年11月12日月曜日

イクラの国に生まれて

何はさておきイクラである。イクラを美味しく食べる国に生まれ育ったことは物凄い幸せである。

イクラの語源はロシア語だ。あちらでは魚卵はすべてイクラと呼ぶそうで、キャビアのことは黒いイクラ、我らのイクラのことは赤いイクラと呼ぶそうだ。

そんなロシアでもイクラはあまり食べないそうで、主に日本に売りつけるんだとか。どんどん売ってくれって感じだ。

何もムダにしないイヌイットもナゼかイクラは食べずに捨ててしまうらしい。捨てずに日本に送って欲しいものだ。

ちなみにアメリカやカナダでもイクラが食べられることは少ないようで、釣り用のエサに加工されちゃうんだとか。実にもったいない。

これらの話はネットからのパクリである。すいません。


醬油漬けと生の食べ比べ画像である。生イクラは夏の終わりから今ぐらいまで限定の貴重な逸品である。この季節以外は、どんな名店だろうとイクラは冷凍モノである。もちろん、冷凍だって美味しい。

生卵の味そのものみたいな生イクラだけが季節限定である。コレはコレで独特のウマさがある。まさに鮭サマサマである。

産卵のために命がけで川を遡上して涙ぐましい努力に明け暮れる鮭。そんなヤツらを思うと精一杯イクラを頬張らないといけないと思う。

ついでにいえば、そんな鮭を情け容赦なく捕まえて生のまま齧り付いちゃうクマには、醬油を使ったほうがイクラが遙かに美味しくなることを教えてあげたい。

話がそれた。


イクラに合う酒は断然日本酒だろう。とくに塩イクラだったら、他にツマミが要らないほど抜群の相性だ。

醬油漬けもしかり。合わせるのは焼酎のロックも悪くない。やはり”和酒”こそ鮭のために献杯するには最適だ。

いまどきのお寿司屋さんでは得意になってワインを飲んでいる人が多いが、イクラが出てきたらどうするのだろう。あれほど相性の悪いものはない。

イクラとワイン。考えただけでも気持ち悪い。お好きな人には申し訳ないが、あれだけは避けるべきだろう。

子どもの頃、お寿司といえばイクラだった。出前の一人前の中にポツンと一貫だけ輝いていた。最初に食べるか最後まで残しておくかいつも悩んだ。

今では好きなだけオトナ食いしちゃうので、当時のあの恋い焦がれるような気持ちは薄れてしまった。それはそれで寂しいことだ。

とはいうものの、人様の家で出前のお寿司をご馳走になる時は、1個しかないイクラをどのタイミングで食べようかこっそり悩んだりする。

ついでにいえば、お通夜に出かけて悲嘆に暮れた顔をしながら、精進落としの席ではイクラのことばかり考える。

大きな桶にいっぱい並んでいる寿司の中にイクラが何個残っているかチェックして、人の目を盗んで2つ以上食べようと企む。

うまくコトが運ぶと何かに勝った気がする。実に不謹慎だが、”ホトケほっとけ”の精神も時には大事だと自分に言い訳している。

なんだかオチのない話になってしまった。

今夜もイクラを肴に酒をかっ食らおうと思う。

2018年11月9日金曜日

揚げ物 天使か悪魔か


体重調整中である。ダイエットと呼ぶほど頑張っていないのだが、6キロほど落とそうと企んでいる。

9月の終わりぐらいからちょっとずつ食べる量を減らし、つい先日、気づけば5キロ減になっていた。でも油断したらすぐに1キロ戻っていた。

毎年、この時期に体重を少し落とす。年に1度のオジサマバンドライブに向けた調整がその理由だ。分母が分母だから5キロぐらい落としたところで人に気付かれることもない。

でも、5キロ落とすとさすがに体調に影響する。階段の上り降りや長い時間歩くと違いを実感する。間違いなく健康に良い。

1年に1度ぐらい体重調整する習慣をつけるのは悪くない。中高年になると代謝が悪くなるから放っておいても太る。

私も呼吸しているだけで太るような気がする。大アクビしようものなら2キロは増える。タバコの煙を吸っても太る。

昔は体重を落とすのも簡単だったが、同じやり方では落ちなくなった。やはり動いていないことが理由だろう。

それでも2か月弱で4,5キロ落ちたわけだから我ながら上出来である。節制したつもりはない。飲みの席で極端に食べ物を減らしたことと、深夜に何も食べなかったことの2種類だけだ。それ以外はいつも通りである。

まあ、その程度だから5キロの壁をまだ越えないのだろう。ここから2キロほど落とすには、朝飯のドカ食いを減らして、ハードな散歩なんかも取り入れないとダメそうだ。

それだけではない。アイツを我慢する必要がある。アイツ、すなわち「揚げ物」である。憎いけど恋しいアイツである。


正しいカキフライの食べ方画像である。タルタルソースをしっかり、ソースもちょこっと混ぜてがっつく。こういうものばかり食べていたら体重は減らない。

揚げ物ってなんであんなにウマいのだろう。罪なヤツである。タルタルソースもそうだ。いつだって浴びるほど食べたい。


ちょこちょこ出かける目白の「鮨おざき」で作ってもらったエビフライである。タルタルソースもいっぱいである。お寿司屋さんで注文するには邪道極まりないが、空いている日だったから許してもらう。

タルタルの量が海老に比べて多すぎるが、海老を食べた後もタルタルソースだけをつまみにするから適量である。タルタルソースにレモンを合わせてもよいし、ちょろっとソースをまぶすのも良い。


こちらは銀座の小料理屋「おかやす」での一コマ。カキフライにハムカツである。タルタルもたっぷりで嬉しい。銀座でハムカツにありつけるのも貴重だ。

この茶色い眺めを目にするだけで心が穏やかになる。離婚寸前にこれを見せられたら復縁しちゃうぐらいユル~い気分になる。そのぐらい平和でハッピーな景色だ。

平和でハッピーな気持ちにしてくれる一方で、体には無駄なカロリーとして蓄積していく。まさに「憎みきれないろくでなし」そのものである。


この画像は先週のある日、体重が5キロ落ちたことに喜んで飲んだ日のもの。新橋の小料理屋さんでクジラベーコンにカキフライをつまみに焼酎のお湯割りをグビグビ。

ついでに頼んだ肉豆腐が、すき焼き並みのデカい鍋で出てきた。油断してムホムホ食べたら途端に1キロ増である。

揚げ物のせいというより肉豆腐のせいで太ったことにしよう。揚げ物ばかり悪者にしては可哀そうだ。

ライブまであと1週間ちょっとだ。必然的に体重調整も終わる。それまでにあと2キロ頑張れたら、何はともあれトンカツをしこたま食べようと思う。

2018年11月7日水曜日

セクシーは難しい


義理だの付き合いだのと数々の言い訳とともに銀座のクラブ活動を続けている。最初に足を踏み入れてからもう四半世紀になる。物好きといえば物好きである。


昔なじみの女性が立派にママさんになっていれば、誕生祝いなどの節目に呼び出されるとなかなか断りにくい。いそいそ出かける。

お布施みたいなものだ。効果があるかどうかは謎である。国連加盟料みたいなものかもしれない。それを負担したからといって何を得られるかは分からないが一応払っている。

10年以上続けているこのブログでも銀座ネタの閲覧数は多い。そっち方面の話を書く際には、イメージ写真も盛り込みたい。見栄えの良い衣装の女性がいると、ついついエロカメラマンになってしまう。

顔は撮らないという私流の撮影パターンが知られてくると、積極的にモデル役を務めてくれる女性も増える。有難いことだ。



結果、コレクション?は着々と増えてしまった。あと10年も続けていれば結構面白い写真集的なモノが出来るかもしれない。

店で撮るだけでなく、ウナギを食べに行けば「うなじとウナギ」をつい画像に収めたくなる。それを撮ってどうする?と自分でつぶやいちゃうような画像もある。


夜のクラブ活動ネタをアレコレ書いても、画像なしで活字だけだと、なんとなく内容が伝わらない。新聞や雑誌だって同じだ。ちょっとした画像が一枚あるだけで、目を引く効果はある。

わが社の編集会議でカット写真の大事さをエラそうに語っている私としては、スキあらば麗しい画像を撮らないと気が済まない。

で、過去の画像フォルダをオネエサマがたに見せながら、ほんの少し角度が変われば写り方がまったく異なることや、被写体への距離が少し変わるだけで臨場感に違いが出ることなどを大真面目に語る。

時には水中写真の撮影テクニックの話なんかも盛り込みながら、エロとは無縁な顔で撮影術を高尚に語る。相手の警戒心を解くことが狙いだ。こすっからい作戦である。

でも、女性陣もそれっぽい衣装での自らのセクシー画像を目にする機会はないから、案外ノリノリになることも多い。いい感じに撮れた画像を欲しがる人も多い。

そういう画像を営業メールに添付して馴染み客に送ったりするのだろうか。送られてきたほうも悪い気はしないだろう。

そうやって、なんだかんだと自分のエロ行動を正当化するのが私の得意ワザである。


私はもともとオッパイ星人ではない。お尻フェチだから本当は胸画像より尻画像のほうが嬉しいのだが、夜の衣装はどうしても胸元強調系が中心だ。

お尻をこっちに向けてもらって撮影することなど出来ないので、胸元以外だと太ももがターゲットである。

胸元より足のラインのほうが撮影は難しい。それこそちょっとした角度の違いで迫力?に違いが出る。会心の一枚はなかなか撮れない。

とある日、脚線美バリバリの女性を相手に熱心に太ももの美しさを語り、どの角度が綺麗に映るかを身振り手振りを交えて楽しく研究していた時のこと。

着物姿のせいで“ふともも談義”に交われない女性がシビレを切らしたのか、はたまた負けじ魂に火がついたのか、裾をめくりだした。サービスショットのチャンスである。



やたらと協力的だったので、ドシドシ撮らせてもらったのだが、思ったよりもセクシーな感じにならない。やはり脚を見せる前提の衣装じゃないと無理がある。

さんざん撮っておきながら「なんかビミョーに違うんだよな~」などと巨匠風にダメ出しをする。

内心ドキドキしたくせに、そんなところでカッコつけようとするのが男の悲しいサガである。

セクシーは難しい。つくづくそう思う。

以上、エロカメラマンの言い訳でした。

2018年11月5日月曜日

小さな喜び 小さな恥


何か楽しいことないかな~。口癖のようにつぶやいている。とくに悪いこともなく健康に暮らしているわけだから、そう思うだけでワガママである。

どんよりした気分でもないし、頭の中が霧に包まれているような感覚もない。これって幸せなことだろう。

よく考えれば、「小さな喜び」をいかに積み上げられるかが、大過なく暮らしていくうえでのカギだと思う。


先日、週末の昼間のこと。ダラダラ過ごしていたら、高校生の娘から「ヒマだったら学園祭に来い」との司令を受け、夕方の予定までのわずかな時間をぬって行ってきた。

高速をぶっ飛ばして学校に着き、30分程度の滞在時間だったが、娘がキチンと青春を謳歌している姿を垣間見ることができた。

これって「小さな喜び」だろう。急な誘いだったから一瞬ウゲっと思ったのだが、そんな機会ももう残りわずかだ。帰る道すがら、一人じわじわと喜びを感じた。

他人様から見ればどうでもいいことだが、じわじわ喜べることがあるのは幸せだ。布団カバーを取り替えた日の眠りみたいな「小さな喜び」をひとつひとつ大げさに実感することで心は平穏になる。


某日、とあるホテルのバーでとても美味しい「フローズンストロベリーマルガリータ」を飲んだ。これまたどうでもいいことだが、私にとってマトモなバーで甘い酒をグビグビ飲むことは喜びである。

バーに行くと、たいていは「マッカランをロックで」とか言って氷をカラカラ鳴らしながら気取っている。ホントは女子が飲むような赤や緑や青の甘い酒を飲みたいこともある。

この日はカウンター席ではなかったし、バーテンさんからの死角の席だったこともあって、周りの目を気にせずグビグビ飲んだ。

もちろん、連れの女性が飲みたがっているフリをして注文するわけだ。意味のない自意識過剰ぶりである。それがオジサマとしてのこだわりだから仕方がない。

そんな自意識から脱皮して派手な色のフルーツカクテルを堂々と注文できるようになりたいが、やはりヘンテコな姿だ。こっそり楽しむことも「小さな喜び」だ。


別な日、銀座のとあるバーで一息ついていた時の画像だ。グラスワインではない。ラムネだ。「バーでラムネ」。これはハッピーである。小さな喜びの最たるものかもしれない。

酒の美味しさも充分知っているつもりだが、ひとしきり飲んで疲れた夜に飲むラムネのウマさは格別だった。

ついでにちょこっとシュールな話をひとつ。


Googleのストリートビューの画像である。わが社の社屋の裏通りなのだが、画像を少し上に上げて拡大すると非常階段で黄昏れている男が映っている。

私である。なんてこった。世界に向けて私がサボっている姿が映し出されていた。「小さな恥ずかしさ」である。

小っ恥ずかしいったらありゃしない。