2021年6月16日水曜日

お別れの味 銀座そうな グラパレ


好きだった店が閉店してしまうのは淋しい。先日、銀座の隠れ家「そうな」が閉店しちゃうと聞いて慌てて訪ねてきた。

 

いざ閉店すると知ってノコノコ顔を出すのはちょっとカッチョ悪い。残念がるならもっと頻繁に顔を出しておけって感じである。

 

コロナ禍でも時々は覗いていたが、やはりこの半年ぐらいは出かける頻度は激減していた。後悔先に立たずを実感する。

 

2年前にこのブログで「ヤバい味」だと書いたが、カウンターだけの隠れ家的空間で、おまけにタバコだって吸えちゃう私にとっては天国みたいな店だった。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/09/blog-post_25.html

 

閉店はするものの、同じく銀座8丁目に漢字表記の系列店「惣菜」がある。ヤバい味にムホムホしたくなったらそちらに行けばいいわけだが、「そうな」の怪しげな?風情は独特の良さがあったので実に残念である。

 






 

からすみビーフン、贅沢トリュフたまご、ウニとトリュフのグラタン、タルタルソースとカニコロッケである。どれも官能的だった。

 

官能的な味とはエロい味である。エロいという言葉は料理を褒める言葉としては最上だと思う。人間の欲求を興奮と感動とともに満たすわけだからエロそのものだろう。

 

「そうな」における私のお気に入りがトリュフを使う料理に使うクリーミーなエロ系ソースだ。

 

いつもうっとりしていたのだが、先月ふらっと訪ねた時にも、これをベースに即興でエロパスタを作ってもらった。ウニクリームパスタだ。

 


 

カウンターだけの小さな店だったから混雑状況によっては様々なアレンジも気軽にお願いできた。今後は「惣菜」のほうにちょくちょく通ってワガママが言えるようになりたいものだ。

 

さて、閉店といえば、いよいよ最終段階なのがホテルグランドパレスだ。6月末に閉館しちゃうから、私が小学生時代から愛しているシャトーソース付きのピラフとの別れも近づいている。

 


 

先日、娘や息子を引き連れて夕飯を食べに行ったのだが、まもなく無くなっちゃうのかと思うと、ついついセンチな気分になる。

 

子供達が小さかった頃は、1階カフェレストラン「カトレア」のランチビュッフェやディナービュッフェにちょくちょく通った。

 

ホテルのビュッフェといえば、品数の多さを競うばかりで肝心の味がイマイチのケースが少なくない。その点、グラパレのビュッフェは品数こそ少なくパッと見の派手さはないものの、一つ一つが丁寧に作られており、その質実剛健な感じが好きだった。

 



 ビュッフェを楽しむ子供達を横目に私はピラフばかり食べていたが、子供が嬉々として食べていたカレーはいつも横取りして食べるぐらい好きだった。

 

この日、娘がカツカレーを注文したので、少し奪って久しぶりに味わってみた。タマネギの甘みが物凄くインパクトがある。昭和ニッポンの味、丁寧に仕上げられた洋食カレーの味だ。

 

ピラフ攻めしか頭に無かった私だが、このカレーもわが人生に寄り添っていた。私自身の子供時代にも時々食べていたことを思い出す。

 



 グラパレ閉館までまだ2週間ほど猶予がある。安直にウーバーイーツを頼んでウチでダラダラ食事をするぐらいなら、あと3回ぐらいはせっせとピラフを食べに行きたい。

 

 

 

 

2021年6月14日月曜日

哀しみの理由


知恵の悲しみという言葉がある。作家・開高健が残したものだが、経験や年齢を重ねるうちに素直に喜べなくなったり、満足感のハードルが上がってしまうことを言う。

 

知ってしまった哀しみと言い換えることも出来る。子供の頃はスーパーで売っている安い真空パックのウナギに感動したのに、大人になってウマいウナギを味わえば、昔の喜びは消え去ってしまう。

 

初めて手に入れたマイカーがボロ車でも感激したのに、その後、ランクアップを重ねればボロ車には見向きもしなくなる。

 

加齢とともにあらゆる場面で「知ってしまった哀しみ」に直面する。向上心を持って上昇することは大事だが、その分、小さな喜びや感動を失っていくのが人生なのかも知れない。

 

私自身、たとえば若い頃は単に露天風呂があるだけで嬉しいから温泉選びにとくにこだわりは無かった。ところが、いまや泉質がどうだ、部屋に露天風呂が付いているか、夕食は部屋食か等々、ワガママなことばかり頭に浮かぶ。

 

愛車の冴えない国産車を自慢しながらピカピカに磨いたのも今や昔、今となっては、やれジャガーはどうだ、マセラティもいいぞ等々、見栄を張ったようなゴタクばかり並べる。


意識しているつもりはなくても、徐々にワガママになり贅沢になっていく。これってなかなか厄介なことである。

 

話は変わるが、殺されちゃった紀州のドンファン氏も、ある意味、知ってしまった哀しみのせいで悲惨な末路を迎えたのだろう。


 



本来、自分のことを相手にしないような妙齢の魅力的な美女が金目当てとはいえ自分になびいたら幸せな錯覚が始まる。そして結局「もっともっと」でエスカレートしていく。

 

財力を武器に取っ替え引っ替え女性に入れあげていくうちに冷静な判断力も失われてしまったのではないか。

 

ハニワや土偶みたいな顔立ちの女性と恋に落ち、その恋を実らせ、ヨソ見する暇もなく生涯仲良く暮らせるような人は、ある意味とても幸せだと思う。

 

幸か不幸か、凄い美人さんやボッキュンボンの魅惑的な女性とネンゴロになってしまえば、ついついそんな路線を上書きしたくなるのだろう。


変な話だが、高級ソープの物凄さ!?を知ってしまうと大衆店には行けなくなるような感覚かもしれない。

 

食べ物と比べたら悪いが、似たような感覚だ。ウマいカレーライスを知ればもっとウマいカレーライスが食べたくなって、凝り性な人なら終わりなき追究を続ける。

 

ウマいカレーを知らずにいれば、いや、“もっともっと”を求める執拗さを持たなければ落ち着いた日々が過ごせるのに「強烈な印象」という厄介な魔法が時に人を狂わせる。

 

恋を知らない少年は一心に勉学に励むのに、恋を知ってしまうと頭が混乱する。その恋の印象が強烈だと、その後も恋を求め続ける。

 

青年になって純愛を知ると、美しい純愛を探してさまよう。もっと良い相手がいるはずだ、もっと素敵な純愛を味わいたいなどとエスカレートしていく。

 

スケベ太郎みたいな人だって同じだ。ふとちょこっと足を踏み入れた変態の世界。初めのうちはシャレで済んだはずが、気付けばどっぷりと変態の道を歩み始める

 




変態的行為が標準になれば、いつしか変態の自覚も無くなり、どんどんエスカレートしていく。これまた知ってしまった哀しみである。

 

そんな変態スケベ太郎だって、もともとは上に書いたような恋すら知らない少年だったわけで、大人の階段をのぼりながら「もっともっと」という姿勢がヘンテコな方向に進んでしまうわけだ。

 

覚醒剤などの薬物に手を出す人だって、最初はほんの出来心だったはずだ。自ら常習者になろうと思って始める人はいない。

 

中毒物質と話をマゼコゼにするのは違うような気もするが、「もっともっと」という執着心は一種の中毒性があるのも確かだ。

 

あらゆる分野のマニアやコレクターと呼ばれる人も同様だ。そういう執着気質がある人なら、一歩間違えばさっき書いた変態スケベ太郎になっていてもおかしくはないわけだ。

 

何が書きたかったのかよく分からなくなってきた。

 

やはり、足るを知るという精神と、何事においても過度な執着心を持たないように意識することは大事だと感じる。

 

そんなフラットな気持ちで暮らしているほうがきっと平穏無事な日々を過ごせるのだろう。



 

 

 

2021年6月11日金曜日

ラッキーピエロの旅





先週末、函館に行ってきた。朝出発して翌日昼過ぎに戻ってくるお手軽旅だ。函館だけで展開されている「ラッキーピエロ」で食べ散らかすことが目的だ。

 

ラッキーピエロ、略してラッピだ。函館通を自認する私がラッピに辿り着くまでの経緯は昨年秋に書いた。

 

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/10/blog-post_5.html

 

今回も相棒は娘である。まもなく成人する娘が今も気軽に父親に付き合ってくれることはハッピーピエロ?である。

 



峠下総本店という店舗がワンダフルだという情報を入手したので今回はそこに行くことを主題に出かけてきた。

 

こんな時期だから飛行機はガラガラ。貯まりまくっているマイルを使った無料航空券での往復だから、苦境にあるANAには申し訳ない気持ちだ。

 




函館空港でレンタカーを借りて峠下総本店を目指す、大沼公園に近い立地だが、高速を使ったら40分程度で到着。

 

ハンバーガーショップというよりデカいファミレスである。冬は庭園部分がイルミネーションでピカピカになるらしい。

 




 

ハンバーガー以外にメニューが豊富なのが嬉しい。まずはカツ丼、焼きそば、トンカツバーガーである。

 

ラッピの料理はファストフードとはいえ、丁寧に真面目に作られている印象がある。焼きそばも何の変哲も無いオーソドックスさが良い。正しく美味しい。

 




トッピングはチャイニーズチキンだ。この店のスペシャリテ!?として知られるチャイチキことチャイニーズチキンバーガーに使われている独自の味付けの唐揚げだ。

 

ソフトクリームやシェイクも美味しいからそれを目的に行くだけでも楽しいと思う。

 

その後、大沼公園を散策したり、とりあえず赤レンガ倉庫街あたりを歩いて時間をつぶす。

 




 

とにかく人がいない。観光産業にとっては瀕死の状態と言えるほど淋しい雰囲気にちょっと驚く。

 

東京にいると緊急事態宣言下とは思えない人出だが、東京の“慣れっこ感”みたいな感覚は全国的に見れば異常な状態にあることを痛感した。

 

泊まったのはラビスタ函館。屋上にある天然温泉がウリのホテルだ。温泉も人が少ないから快適に過ごした。

 




 

夜はホテル近くの居酒屋で海鮮三昧。お客さんが少ないから欠品も多いのは仕方ない。それでもウニの一夜漬け、スジコ、タラコ、コーンバター、ホッキバターといった北海道的な食べ物をむさぼる。

 






他にもメジマグロ刺身、キンキの湯煮などを食べて、シメはウニ丼、イクラ丼。他にも極上岩海苔でつくったおにぎりがとてもウマかった。

 




以前は函館に来れば朝から夜まで海鮮ざんまいの時間を過ごしたが、ラッピ中毒になったから海鮮を食べながらも明日のラッピでは何を食べるかを親娘で議論する。

 

翌日、まずは朝市周辺を散策。どんぶり横丁も人がいない。実に淋しい景色だ。函館には20回以上来ているが、こんな光景はもちろん初めてだ。

 




 

適当にウチで食べる土産などを買い、海鮮料理に背を向けてブランチのためラッキーピエロに向かう。空港に近い戸倉店だ。

 

オムライスとラッキーエッグバーガーと豚丼を注文する。豚丼がメニューにあるのは知らなかったので焼きカレーを食べるつもりを急きょ変更した。

 

オムライスも豚丼も丁寧かつ真面目に作られた味がする。さすがラッピである。娘が頼んだブルーベリーシェイクも妙に美味しかった。

 






今回の旅ではラッピのオリジナルTシャツやキャップ、マグカップ、など土産もたくさん買ってしまった。


私はいったい何がしたいんだろう・・・。

 

まるで回し者のようだが、やはりラッキーピエロは素敵な店だ。例外的に千歳空港に支店があるらしいが、基本的に函館市内だけで展開されている経営戦略がニクい。

 

おまけに函館の主だったところならどこにいてもラッキーピエロの店舗が目に入る。「函館イコール海鮮ドカ食い」を長年にわたって続けてきた私の行動パターンは一気に変化してしまった。

 

これまで函館ではお寿司屋さんだけでも30軒ぐらいは食べ歩いてきたが、今後は市内17カ所のラッピ全制覇が目的になるような予感がする。

 

 


 

 

2021年6月9日水曜日

コロナ後の世の中


遅かれ早かれワクチン接種が進み、コロナ禍という言葉は過去のものになる。ある程度は以前のような日常に戻る日は近い。

 

そろそろコロナ後のアレコレを睨んで行動したり考えたりする時期だとも言えよう。

 




 

上の画像は昨年初めて緊急事態宣言が出た後の銀座の姿だ。ここまで人がいない状態はさすがに今後はあり得ないだろう。

 

すっかり萎縮しちゃった社会はアッという間に前の姿に戻るのか、それとも様々な後遺症みたいな変化を定着させるのか、目先の利く人はそのあたりにアンテナを張って一儲けするはずだ。

 

リモートや時差出勤が当たり前のようになった会社勤めのスタイルがまったく元通りに戻るのだろうか。

 

リモートで出来ちゃう、在宅のほうが効率的といったケースも多いわけで、コロナ前の状態にそのまま戻ることは考えにくい。

 

社内での飲み会や宴会、社員旅行といったニッポンの会社ならではの習慣も“絶滅危惧種”みたいな状態だが、コロナ後も衰退傾向は変わらないのだろう。

 

世の中がドライになるに連れ、その種のベタな文化みたいなものは無くなってきた。善し悪しを語る話ではないのかも知れないが何となく淋しい。

 

昭和の終わりに社会人になった私としては、その種の「鬱陶しい事」のおかげで社会を学んできた感覚がある。

 

上座だ下座だ、お酌のマナーがどうだといった話に始まり、空気の読み方や目配りの大事さなどは、どうしたって教科書的に教わるものではない。

 

人との密な交流によって覚えていくのが普通だった。ネクタイを緩めるタイミングひとつを年配者から叱られたこともあった。それこそ無理して飲んでゲロを吐きまくりながら大人の世界に仲間入りしたような感覚がある。

 

社会を渡っていく上では、座学で学べないことのほうが重要であり、その講習所は飲み会や宴席といったアナログな場面だったわけだ。

 

伸び盛りの若年世代がそういうものと無縁になれば、世の中の醇風美俗みたいな感度は必然的に低くなっていく。ドライな社会に拍車がかかるようでちょっと心配だ。

 

飲食店経営者からはコロナ後の復活には時間がかかるという意見が多く聞かれる。一度失われた習慣がすぐに元通りにはならず、家飲みに慣れた人は家飲みをベースに、時々は外飲みをするといった“リハビリ”時期が続くという予想だ。

 

その一方で、我慢していた好きなことを一気にやり直し始めるという声もある。合コンや風俗通いといった人流、濃厚接触の極みみたいなジャンルは愛好家?が一気に戻ってきて反動バブルみたいな状態になるという予想だ。

 

萎縮社会が定着するか、反動バブルが来るのか。きっと両方とも正解だろう。

 



 

ちなみに、すっかり銀座のクラブ活動をご無沙汰している私だが、コロナ後に前のように行き始めるかはビミョーだ。一度止めちゃった習慣は既に習慣とは呼べない。

 

以前は、しがらみというか、繋がりみたいなきっかけでちょくちょく出席?していたわけだが、そうした糸が限りなく細くなっちゃった今となっては行かないことに違和感が無い。

 

そんなものだと思う。誰だって習慣にしていたことが何かの理由で止まってしまうことはある。そうなると、不思議なもので、それに変わる別な習慣を作って過ごすようになる。

 

そう考えるとコロナ後の社会は淘汰の嵐が一層進むだろう。どんな分野も活況と沈没の両極端に分かれるような気がする。

 

なんだか煮え切らない話に終始してしまった。

 

全然話は変わるが、コロナ後にまつわる余談を一つ。

 

なんでもかんでも除菌する生活スタイルのせいで「普通の菌」にすら弱い人が増えるという話もある。

 

とくに子供は本来いろんな場面でいろいろな菌に触れながら耐性をつけて育っていくのに、それを怠ったせいで弱体化しちゃうんじゃないかという心配もあるらしい。

 

まあ、コロナ禍が35年と続いたわけではないので心配するほどの話ではないはずだが、ちょっと恐い話だ。

 

思い返せば、私が子供の頃はミミズを捕まえた手をそのまま洗わずにスイカにかぶりついたり、電車のつり革に神経過敏になることも無かった。

 

一説によるとコロナ禍の当初に言われた日本人が重症化しにくい、いわゆるファクターXは、結局は過去のウィルス感染歴と解釈するのが自然だとか。

 

すなわち、中国に近い日本など東アジアは以前から数え切れないほどの種類の“コロナっぽいヤツ”と呼べるウイルスがちょこちょこ流行していたという説だ。

 

ただの風邪やタチの悪いインフルなどとみなされて片付けられてきたそれらの“コロナっぽいヤツ”のせいで、根本的な耐性が世界の他の地域よりも有利に働いたという解釈だ。

 

そう考えるのが確かに自然だ。昨年このブログでファクターXはウォシュレットかもしれないと珍説を書いたが、どうやら違ったみたいである。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/05/blog-post_27.html?m=1


なんだかんだ言っても日本の新型コロナによる死亡者数は、結局は通常のインフルエンザと変わらないレベルだった。

 

指定感染症としての「2類指定」をいつまでも見直さない国の姿勢を改めて問い直す必要があると思う。




2021年6月7日月曜日

酒を出す店は悪いのか


世の中に漂う空気ほどよく分からないものはない。曖昧で頼りないものに思えて、その一方で結構なパワーを持っている。

 

いわゆる同調圧力ってヤツもそのひとつだ。インターネット社会は私刑社会とも評されるが、その流れがコロナ禍で一層強まっている。

 

神経質に相互監視が行われ、異質な行動や意見、目立った存在はすぐに攻撃の対象になる。事なかれ主義が正義かのように勘違いされ、結果、自ら考えるという当たり前のことがおざなりにされる。

 

お上にとっては好都合だろう。飲食店への“要請”はその最たる例だ。東京では夜8時には閉めろ、酒は出すなという話が今や常識になっている。

 

リモートワークの奨励だけでなく、今度は出社した人は夜8時にまでに仕事を終わらせろなどと言い出した。根拠不明、まさに「やってる感」のためだけの号令だ。

 

大事なことは何か。本来はその一点を考えればいい話だ。人が密に集まらないこと。それこそが感染予防の目的である。

 

それなのに「酒を飲むな、夜は街にいるな」がメインの目的のようになってはいないか。実にトンチンカンだろう。

 



 

見回り隊の人々が、堂々と営業している風俗店を素通りして隣にあるガラガラの飲食店が酒を出していないか必死にチェックしていたという話を聞いた。もはや喜劇だ。

 

感染防止措置なのか禁酒法なのか、目的は何なのか。実にトンチンカンだ。

 

昼時に混雑する定食屋でグループが大声で騒いでいても問題ナシ。かたや夜に一組、二組程度の客が静かに酒を飲んでいる店は悪の権化のように扱われる。

 

要請に応じた飲食店への補償金がスピーディーに手当てされているならまだしも、多くの店が今年初めの分すら受け取っていないそうだ。

 

死活問題に直面する飲食店が要請に応じなくなっているのも当然だろう。

 

なんだか重苦しい書きぶりになってしまった。

 

というわけで、私は混雑している店は避けているが、今もアルコールを提供する店にちょくちょく通っている。どの店もしっかり感染予防に努めているので呑気に晩酌を続けている。

 



 

お酒を出す店もトラブルを避けるために、電話問い合わせの際には酒は出さないと答えたり、混雑していない時に限って酒をOKにしたり、中には外からの視線を気にしてウーロンハイや緑茶杯だけを出すなど臨機応変に対応している。

 

なんだかその臨機応変に対応させているエネルギーが無駄なことに思えて仕方がない。

 

時短営業要請だけでアルコール禁止ではなかった頃と、アルコール禁止にした今とを比べて明確に感染状況に差が出ているならともかく、よく分からないムード、雰囲気で右往左往させられる人たちがとても気の毒だ。

 

聞くところによるとオリンピックの選手村ではコンドームが無償配布され、酒の持ち込みも認められるそうだ。

 

そんな話を聞けば、必死に苦境に耐えている飲食関係者や一般国民が不快に思うのも無理はない。


まあ、選手村は宿泊施設だから酒を飲むのは問題ないのだろうが、飲食店への酒の持ち込みすらお上から規制されているご時世だから、ツッコミたい人が続出するのも理解できる。

  

いずれにせよ、すっかりオリンピックが“鬼っ子”みたいになってしまい、現場で頑張っている人やアスリート達はやたらと肩身が狭い思いをしているらしい。まさに負の循環だろう。

 

未知のウイルスであるコロナが原因だから仕方ないという理屈もあるが、はっきり言って詭弁だ。

 

政府による後手後手かつ細切れの政策、外交の失敗など、今の混沌とした状況は人災という側面が大きいことは間違いない。



2021年6月4日金曜日

冷やし中華は白米である!?

 

本番である。本番だ。別にイヤらしい話ではない。季節到来、冷やし中華を満喫できる季節である。

 

冬でも冷やし中華が食べたくなる私にとって、これからはスーパーの陳列棚にもネットショッピングの世界でも様々な冷やし中華が並んでいて嬉しい。

 

変態ぎみの私は外食では冷やし中華を食べない。あくまで家メシが基本だ。具材を乗せずに素っ気ない状態で食べるのが一番だと思っているからだ。

 



 

だいたいサラダじゃないのに何故キュウリが当たり前のようにトッピングされているのか、何故ハムを千切りにするのか、何故あの美しい麺を隠すのか、私にとって店の冷やし中華はちっとも魅力的ではない。

 

それ以前に麺の量が少ない。トッピングを先に全部食べてしまってから麺に向き合ってみると一目瞭然だ。呆れるほど麺の量が少ない。あれが許しがたい。

 

家メシとしての冷やし中華なら2玉しっかり茹でてドカンと皿に盛り付けて余計な装飾を排除できる。

 

一応、チャーシューを用意したり、冷凍保存しておいた牛皿を解凍してトッピングすることはあるが、麺そのものをツルツル食べるのが大好きである。

 

私にとっては、いわば白米みたいな存在である。おかずを別に用意して具の無い冷やし中華をコメのように主食とするわけだ。

 

市販の冷やし中華の味には正直さほど大きな違いは無い。スープというかタレの味に違いがあるぐらいだろう。

 

私はゴマダレが好きではないから必然的に王道の「甘酸っぱ醤油系」ばかり食べる。やはり冷やし中華と言えばあのスープが基本だ。

 

ゴマ自体は大好きで、わが家にもすりゴマが常備してあるのだが、いわゆるゴマダレの味は何となくニセモノっぽい気がする。

 

だからゴマが欲しい時は基本の“甘酸っぱ醤油ダレ”にすりゴマをジャバジャバと投入する。

 



 

ゴマダレだとネチョネチョ感ばかりが際立つのだが、すりゴマぶりぶりバージョンにするとゴマの風味がしっかり感じられてモゾモゾ感も良い感じだ。

 

よく分からない説明でスイマセン。

 

すりゴマぶりぶりの楽しさは、ソーメンを食べる時も同じだ。かつてこのブログで「ホンモノのゴマダレ」を熱く語ったことがある。

 

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/04/blog-post_24.html

 

最初からゴマダレを使えばいいとご指摘を受けそうだが、まったく別モノである。ぜひトライしていただきたい。

 

最近はスーパーに置いていないような冷やし中華をわざわざネットで取り寄せることも増えた。正直、どれを買ってもビックリするほどの違いはない。

 




 

とはいえ、「わざわざお取り寄せしたんだもんね」という達成感みたいな悦びを味わえる。

 

「オレって冷やし中華だって遠方から取り寄せるほどこだわりの強い男なんだぜ」と誰もいない自宅で一人つぶやく。

 

こういう時間がシングルライフの何よりの楽しみである。気が狂ったのかとか、淋しそうで可哀想などと思ってはいけない。

 

ちなみに喜多方の有名店「河京」の冷やし中華が最近のお気に入りだ。スープが優しい味で嬉しい。酸っぱさがほぼ無いので好き嫌いが分かれるかも知れないが、朝飯に冷やし中華を食べたくなる私にはマイルドさが好都合である。

 

冷やし中華といえば、一般的にキュウリやキンシタマゴ、ハムあたりが千切りになって乗っかっている姿を想像する人が大半だと思う。

 

私の場合、冒頭の画像のような一皿こそが冷やし中華である。スッポンポンである。暑い季節に余計な衣は脱ぎ捨てて解放感たっぷりになっている姿が美しい。

 

この夏、あと何十食ぐらい食べるのだろうか。

 

 

 

2021年6月2日水曜日

秘すれば花 下ネタです


このブログを読んでいる知り合いから「最近は下ネタが少ない」とお叱りを受けたので今日はワイ談です。

 

死語になった下ネタワードの代表格が「へアヌード」である。90年代初めに世の中を大騒ぎさせた“ヘア論争”は特定の年代の男子にとっては非常にインパクトが強かった。

 

いま考えれば、まさに不毛な論争だった。ダジャレです。すいません。

 

ウィキペディアで「ヘアヌード」を調べると実に面白い。あの時代を覚えている男にとっては読み物として充分に楽しめる内容にまとまっている。

 



 

ネットを開けば無料動画でもノーカット丸出し、満漢全席!?が当たり前になった今の時代からは想像も出来ないほど牧歌的だった気がする。

 

陰毛が写っているか否か。このテーマは昭和の頃に思春期を過ごした男子にとっては、米ソ冷戦の行方より重大な関心事だった。

 

海外旅行土産の雑誌はアンダーヘアが写っているのが当然だったが、あれはあくまで「外国人の密林」。当時の青少年にとって「日本人の密林」は屋久島の縄文杉のように未踏の世界だった。

 

90年代初めに実質解禁となったわけだが、解禁とともに世の中から失われてしまったのが想像力、妄想力のたくましさである。

 

本気で淋しいことだと思う。今の時代に思春期を迎える男子達に心底哀れみを覚える。気の毒である。

 

想像をかき立てることが大人への階段だった。禁断のノーカットエロ本を入手した時の感激や、いざ本物を間近で見たときの達成感は強烈だった。

 

今や何の苦労もなく、ネット動画ですべてが見られるし、いざ本物に対峙できたとしても脱毛全盛だから、そもそも密林が伐採されていることも珍しくない。

 

隠されている、簡単に見ることができないからこそ神秘であり憧れを募らせる。渇望感こそ人間にとって大切なモチベーションだと思う。

 



 

和装のうなじに惹かれるのも全てを包み込んだ衣装のせいで、女性の魅力的なラインがそこしか垣間見えないからだろう。

 

スッポンポンの女性を前にして、うなじをじっくり眺める男がいないのが何よりの証拠である。

 

ミニスカートから覗く脚線や胸元の開いたドレスにドキッとするのも、肝心な部分が見えないことが理由だ。

 

やはり、真っ裸の女性を前にしたら脚や胸元を凝視することはない。秘すれば花という言葉に通じる真理だ。

 




 

その昔、筒井康隆の短編だったか、記憶が定かでは無いのだが、風刺の効いた小説で、未来の社会におけるエロを描いた話があった。

 

ヘア解禁のあと、局部モロ出しも当たり前になると、その次は内臓を見たくなって、内臓画像がエロ本みたいな対象になり、しまいにはガイコツの姿こそ究極のエロになっていくという話だ。

 

レントゲンのガイコツ画像を見て男達が狂喜乱舞、大興奮に陥るわけだ。実に哲学的?な未来予想のように思えた。

 



 

ヘアヌードの話から随分と関係ない方向に話が飛んでしまった。

 

思い返してみると、牧歌的だった昭和の頃に少年時代を過ごしたことは幸せだったのだろう。

 

今よりも禁断の世界が多かった。だから必死に想像し妄想し、仲間とともに研究に励み、突破することへの創意工夫をこらした。

 

そこから生まれた悲劇喜劇もいっぱいあった。あの情熱やエネルギーが若さであり、大袈裟に言えば生きる悦びだったのかもしれない。

 

なんだか堅苦しい書きぶりになってしまった。

 

最近は気のせいか、ダボダボの服を着た女性が多いような気がする。ハヤリなんだろう。男としては少し淋しい。あまりダボダボだと想像力、妄想力を発揮するのも一苦労?である。

 

暑くなる季節だし、女性の皆様には面積の少ない服装で闊歩してもらいたいものである。想像力、妄想力という社会にとっての活力の根源を枯らさないためにも切にお願いしたいものである。

 



 

ジェンダー、ジェンダーと騒がしい今の時代、こんなことを声高に叫んでいると逮捕されそうだが、大半の男がごく普通にそう思っているのは確かだ。