2013年1月7日月曜日

泉質主義

今年もよろしくお願いいたします!

今年最初の更新は温泉ネタです。

泉質主義なる言葉をアチコチで見かけるのが草津温泉だ。ただの沸かし湯みたいな温泉とは比較にならない「質」が草津のウリ。


年の瀬は草津でノンビリしてきた。30年、いや35年ぐらい前から草津の湯には縁がある。私が小学生の頃、祖父が突然、草津に別荘用マンションを購入して以来、ことあるごとに訪ねている。

若い頃は、「ナゼに草津なんだ?」と不満もあった。伊豆高原とか箱根、軽井沢あたりだったら「女子連れ込み系リゾートマンション」として悪用したのだろうが、草津は群馬の山奥の渋い温泉地だ。名物なんて饅頭ぐらいだ。若者としては今ひとつ愛しきれなかった。

ところがどっこい、知らぬ間に熟女好きになっていくように、年を重ねるにつれ草津温泉の魅力というか、凄さに目覚めた。

若者ではなくなった証拠とも言えるが、圧倒的な泉質は狂おしいほど素敵だ。タダで泊まれるなら毎週でも通わないとモッタイナイと思う。

大学生の頃、暇にまかせて一人でアチコチの温泉に出かけた。当時は泉質などお構いなしで、露天風呂の広さや風情ばかり気にしていた。つくづく草津通いだけしていれば良かったと思う。

いつでも行ける、何度も行った。こんな感覚だけで草津に背を向けていたわけだが、オッサンになった今、あの泉質の良さを手軽に味わえる環境が心底ありがたい。今度、墓参りに行ったらとことん感謝してこようと思う。

草津には何種類もの源泉があるが、共通しているのが酸性が強いということ。1円玉を浸しておくと1週間もあれば溶けて無くなるほどのパワーだとか。

温泉が目に少し入っただけで痛いし、簡単に湯あたりする。皮膚の弱い部分がかぶれることもある。湯上がり後の保温性も高く、雪見の露天風呂と洒落込んでも、寒さに負けずに楽しめる。

高原の気候のせいで夏場はエアコンも不要なほど涼しいが、やはり寒い季節にこそ強烈な温泉パワーの有り難さは実感できる。日本一の湧出量を誇るだけに道路の凍結抑止や融雪にも温泉の熱が活用されている。冬こそ狙い目かもしれない。

別荘マンションの地下大浴場も昔から源泉かけ流し状態。何年か前に改装したのでヘタな安旅館よりも余程快適だ。窓を開け放てば雪見露天気分も味わえる。なにより年末年始だろうとガラガラなのが有難い。3回に2回は貸切状態で温泉に浸かれる。


風情とか情緒が欲しくなったら、草津には日帰り温泉の名所がいくつかある。町営の西ノ河原露天風呂というアホみたいにでかいアッツアツの露天風呂もあるし、別な場所には大滝の湯という施設もある。

大滝の湯では、サウナもあるし、白濁の露天風呂もあるし、数段階の湯温の浴槽に順番に入る合わせ湯という草津ならではの湯浴み法も体験できる。

若い頃から温泉が好きで全国各地の温泉を訪ねてきたのだが、ついつい子どもの頃から馴染んでいる草津が温泉の評価基準みたいになってしまった。これって結構不幸なことかもしれない。

江戸時代から温泉番付で横綱だったほどの温泉場が草津だ。ここを基準にすると、なかなか感動するような温泉には出会わない。

もちろん、全国すべての温泉を知っているわけではないが、これまで草津以外で泉質に感動したのは北海道の登別温泉と鳥取の皆生温泉ぐらいしか浮かばない。

今は亡き作家・開高健が、経験の積み重ねや知りすぎてしまったことの反作用を「知恵の哀しみ」と語っていたが、私の温泉観はまさにそんな感じなのかもしれない。

普通に有難いはずの温泉なのに草津の湯に比べて物足りなく思う感性は、贅沢ながら不幸なことであり、一種「哀しみ」なのかもしれない。

まあ、そんな気取った分析をしてみたが、実際には、情緒のある佇まいの宿で、ウマい食事を出してくれて、ついでに綺麗な女性なんかが同行してくれれば、泉質なんか気にせずウホウホ喜んでしまうのが私の常である。

「偏屈からの脱出」を心掛けるのが今年の目標だ。そういう意味では、そんな単純なウホウホ野郎でいたほうが幸せかもしれない。

2012年12月28日金曜日

偏屈だから笑っていよう

今年も間もなく終わりだ。今日で仕事納めの人も多いみたいだが、どなたさまも1年間お疲れまさまでした。

たかだか1年前には思いもよらなかったことが身の回りに起きるのが世の常である。

私自身、今年は大きく変化した年だった気がする。

細かいことは数限りなくあったが、個々のあれこれはさておき、最近、自分自身を振り返る時、着々と「偏屈ジジイ」に向かっていることを実感して困っている。

年をとると怒りっぽくなるといわれる。死んだ祖父もそうだった。老境に入ってからはいつもブリブリ怒っていた。

多分、いろんなことがもどかしくてイライラするのだろうが、私の年齢ではチト早い気がする。もっと大らかで悠然と構えていようと反省している。

作家・伊集院静のエッセイがかなりの売行きらしい。週刊誌の連載が元になっているようだが、大人がシガラミ抜きに放つ正論の小気味よさがウケている。

私も読んでみたが、いちいちうなずく論調が多い。ただ、一方で感じたのは、昔、この人が書いていたエッセイと比べると怒っている場面が増えたということ。

勝手な推測だが、これも年齢の影響だろうか。腹が立つことが社会中に蔓延しているからこその怒りなのか、年齢による怒りっぽさなのか、大いに気になるところだ。

さて、私自身の偏屈ぶりというか、イライラの原因は何が原因だろう。やはり社会状況のせいなのか、単なる加齢のせいなのか、つくづく前者であって欲しいと願っている。

先日、クリスマス嫌いを反省して、何年か前に公開されたディズニー映画「クリスマスキャロル」をレンタルして見てみた。街中で嫌われている偏屈ジジイが聖夜に改心するストーリーなのだが、あまりに教条的だったのでイライラして途中でやめてしまった。

先日もクリーニング屋さんのオバハンと少しばかり揉めた。1万円札しか手持ちが無いことをきちんと低姿勢で詫びながら代金を支払おうとしたのだが、オバハンがことさら迷惑そうな態度に出やがった。大いにキレてしまった。

詳細は恥ずかしいから書かないが、そんなことばかりだ。タクシーを拾っても、道を知らないことを悪びれない運転手だったらサッサと降りるクセも付いてしまったし、席が空いているのに平然と待たせるような店では毒づいてしまう。

我ながらカッチョ悪いと思う。でも、すぐにイラついてしまう。きっと重度のワガママなんだろう。毎日5回ぐらいは心の中で「短気は損気」とつぶやいてみるのだが、低レベルの対応に直面すると、スイッチが入ってしまう。

でも、状況に応じた神経の使い方が出来ない人が世の中に増殖しているように思えて仕方がない。

何でそこでそういう言い方をするのかなあ、何でこういう時にはこういう対処が出来ないのかなあ等々、自分を棚に上げて悶々としてしまう。

何様だ!?オレ・・・って感じである。

こういうことって書いてみることで、意外に自己反省につながったりするからダラダラと書き殴ってしまった。

猛省しようと思う。

偏屈になると何が困るかというと、自分自身が楽しくない。これは最悪である。自業自得だから誰のせいでもないのだが、大げさにいえば、振り上げた拳が迷走しちゃう感じだ。

笑うことで免疫力が上がることは医学的にも常識だし、いまや「笑い療法士」なる資格まで注目されているそうだ。

来年は「笑うこと」を人生の重要課題に位置付けようと思う。「笑門来福」をモットーに過ごしてみようと思う。

年末年始は、きみまろのCDを聞きまくったり、寄席に出かけたり、ユーチューブでオバカ動画でも探して、今更ながら「ミスター・ビーン」でもじっくり鑑賞しようかと考えている。

手軽に爆笑できる映画とか動画とかご存じの方は是非教えていただきたい。

皆様良いお年を!

年明けは1月7日から更新を再開する予定です。

2012年12月26日水曜日

熱海と伊東

ふらっと熱海と伊東に出かけてきた。旅と呼ぶには大袈裟な1泊の日程で、ちょろっと命の洗濯をしてきた。

転地療法という言葉でも分かるように、人間誰しも普段とは違う場所に身を置くと途端に気分が変わる。

煮詰まったり気分が滅入ったら、束の間でも近場でもいいから枕を変えて眠ってみるとリフレッシュする。そんなことを実感した。

新幹線でサクッと熱海に行って、老舗レストランでウマいものを食べて、ぶらぶら海を見ながら散歩したら、一足延ばして伊東で温泉三昧。これが今回のスケジュール。

熱海も伊東も勝手知ったる場所である。知らない場所を旅するのもワクワクするが、その逆も良い。アセアセせずにノンビリできる。


熱海のレストランは洋食の名店「スコット」。有名な店だが、今までは熱海だ伊東だというとすぐに寿司屋とか活魚料理屋を目指していたので初めての訪問。

シチューだのクリームコロッケだのグラタンだのオムライスだの、一連のニッポンの洋食が大好きな私にすれば天国みたいな店だった。

古めかしい店の造り、分かりやすいメニュー構成、ちょっと強気な値段設定も悪くない。そこそこの値段が付いていないと、この手の料理は大してウマくないことが多い。


この日、食べたのはエビフライ、グラタン、タンシチューなど。全部ウマかった。シチューは少しクドかったが、赤ワインと一緒に味わえばまた別な印象があっただろう。

妙にウマかったのがエビフライ。エビと衣の一体感が独特で、久しぶりに正しい?エビフライに出会ったような気がした。タルタルソースをベタベタつけて白ワインをグビグビ飲んで簡単に昇天。

その後、伊東に向かった。聞くところによると伊東は源泉数が日本トップレベルの多さだという。子供の頃、祖父が別荘を持っていた関係で身近な存在だった伊東だが、そんな話を聞くと途端に有難い場所に思えてくる。

無色透明な温泉だから今までとくに感慨もなく浸かっていたのだが、有難い話を聞いたせいで、今回泊まった宿の湯が保湿性、保温性の高い有難いものに感じた。


「淘心庵米屋」が今回の宿。全部で17室の規模。のどかにホゲホゲするには適度な規模だ。

すべての部屋にかけ流しの半露天風呂が付いているせいで、お客さんの多くは部屋に籠もるタイプの宿みたいだ。そのせいで大浴場も独り占めできた。前の日に本屋でまとめ買いした「黄昏流星群」をサウナにこっそり持ち込み、フムフム言いながら読破したりして気持ちよい時間を過ごした。

大人向けのマンガは温泉宿でただノンビリしたいときには最高だと思う。そんな真理?にこの年になって気づいた。

そういえば、もう20年ぐらい前に我が社が発行する新聞で劇画を連載したことがある。脚本は私が作っていた。漫画家さんと頻繁に打ち合わせをしながら、ちょっとしたシナリオライター気分だった。

税務調査官が主人公の変な劇画だったのだが、無理やりお色気シーンも盛り込んで好き放題作っていた。

あのマンガが大ヒットしていたら、今頃は印税がっぽがっぽでモナコあたりで暮らしていたのだろう。残念だ。


さて、妄想はさておき、伊東の温泉の話だ。

泊まった部屋はこの宿で一番眺望が良いという部屋。竹林の向こうに小さめの滝が見える。夜にはライトアップの効果で、紅葉がハラハラと滝や竹林に舞い散る風情を眺めながら湯浴みが出来た。

風流な景色を眺めていたかのような書きぶりだが、実際にはこの風呂でも部屋の中でも「黄昏流星群」三昧だった。

部屋はさほど広くないが、いわゆる和モダンの作りで落ち着けた。ローベッドが配置されているから布団の上げ下げで人が来ることもない。

食事は部屋とは別のフロアの個室に用意される。絶品というほどでもないが、季節感が上手に盛り込まれた品々に大満足だった。

夜の遅い時間には小ぶりの特製ラーメンが振る舞われ、朝食も品数豊富で、納豆嫌いの私には塩辛を選ばせてくれるなど全体的に丁寧なサービスが受けられた。

肝心の料金は伊豆箱根あたりの老舗高級旅館に比べれば3割ほど低い値段設定。部屋を選ばなければかなりリーズナブルに泊まれるみたいだ。

せっかくの1泊旅行だからあまりに大衆的なところはゴメンだが、凛とし過ぎちゃって逆にくつろげないような超高級宿も困る。

そういう意味では実に頃合いの良い宿だと感じた。

頭をカラッポにしたいような時には、気軽な1泊旅に限る。最近はそんな気分になりやすいから、こんなふらり旅をちょくちょく続けてみようと思う。

2012年12月21日金曜日

ヘビ・バンザイ

あと10日もすれば新しい年になってしまう。

なんてこった!って感じである。

年齢が上がるに従って時間の経過を早く感じるのは脳の構造上仕方のないことらしい。

子どもの頃の夏休みはあんなに長かったのに、今では1年が3ヶ月ぐらいの感覚で過ぎていく。あっという間に死んじゃうんだろうなあ。。。

それにしても早い。つい先日、紅白とかガキ使を見ていたつもりが、既に355日も前のことだったとはビックリだ。

ところで、年末の妙な気ぜわしさが鬱陶しくて仕方がない。今年こそは考えを改めようと決意している。

正月を迎えることに一喜一憂しないで、単なる月替わりと思い込むことにする。12月が終わって13月になるというか、ただカレンダーが一枚めくれただけだと思うようにしたい。

そうでもしないとせわしなくてしょうがない。

「今年のことは今年のうちに」とか、「1年の総決算を」とか、そういう考えが慌ただしさを招く。

考えてみれば、私の誕生日は10月だから、1年単位でコトを考えるのなら、そこが境目だ。我が社の決算は8月だから仕事上も12月に何かの節目があるわけではない。

住まいもマメに掃除しているから大掃除などは不要だし、たまに気にする占いだって、古式ゆかしいものだと節分が年の変わり目だったりする。そう考えると年末年始にバタバタする必要はないはずだ。

こんな戯れ言を綴れば綴るほど、この考えが極めて正しいと深く納得する。年末年始なんか知らんぺったんゴリラだという思いを改めて強くするのだが、やはり40ウン年のDNAは厄介だ。どうしても「年末年始」が気になる。

年賀状を書かねば、とか、正月用に新しい下着を買おうかとか、ついつい世俗の垢?に振り回されそうな自分がいる。

困ったものだ。

週刊誌のエッセイか何かで「大晦日の除夜の鐘は大きなお世話だ」と誰かが書いていた。百八つの鐘の音が人間の煩悩を洗い流すのが除夜の鐘だが、それ自体がお節介だという指摘だ。

激しく同意したい。まったくその通りだ。煩悩が無くなったら何が楽しくて生きているのか分からない。煩悩あっての人間サマである。

煩悩まみれだから世の中に味わいがあるというものだ。

だいたい、たかだか40歳を「不惑」だなどと誰が決めたのだろう。実にバカバカしい。そういう迷信でオトナを去勢しようったってそうはいかない。

40歳で惑わなくなるような人間は傑物か偉人か宇宙人、はたまた単なるアホだろう。面白味もヘチマもあったものではない。

惑ってナンボ、惑ってこその人生に意味がある。来年も再来年もその先も大いに惑い続けようと思う。倒れるまで惑ってやろうと決意している。惑わないようでは早々にボケてしまうだけだ。

惑うの「惑」という字は「ワク」と読む。重なれば「ワクワク」である。死ぬまでワクワクしていたいから「不惑」などという迷信に騙されてはいけない。

大きな声では言えないが、来年私は何度目かの年男だ。確か3回目だったかな。。。

巳年、すなわち蛇だ。ヘビには愛らしいイメージはないが、干支の中ではメデタイ生き物の筆頭格である。

相場用語で「辰巳天井」なる上げ潮バリバリの言葉もあるし、そもそもヘビは弁天様の使いだから財運を司る土俗的信仰の対象でもある。

食料を襲うネズミを退治することから穀物の神になり、転じて福の神に昇華したわけだ。

顔は人間で顔から下はとぐろを巻いたヘビの姿をした御神体を祭る神社が日本中にあるらしい。

それだけではない。脱皮を繰り返すことから「再生」のシンボルとして尊い存在と見る民間信仰は世界中に存在するとか。

キリスト以外の生き物に再生されちゃっては都合が悪いから、キリスト教国ではヘビは悪者にされたらしいが、アジアの農業国ではヘビは大事な存在だ。

財を運んで再生する。実にいいではないか、ヘビ!

冷血動物みたいなマイナスイメージだって「冷静沈着」というポジティブな解釈をすれば悪くない。とぐろを巻いた姿も良く言えば思索にふける哲学的なものにも見える。

ヘビ・バンザイである。

新しい年も「迷えるヘビ」となって楽しく生きていこうと思う。

2012年12月19日水曜日

頂き物

今年も各方面からお歳暮をいただいた。有難い限りです。この場を借りて心から御礼を申しあげます。


仕事関係の他、銀座関係?からもアレコレと気の効いたものをいただいた。皿とか漆器とか立派なものだと嬉しい気持ちになった数秒後に日頃の散財を反省する。と同時に「顔出さないとマズいかな」という気持ちになる。

「銀座のお歳暮は脅迫状だ」。

物騒な言い回しだが、そういうことだ。

私は元来、物凄くいい人であり、気が弱く、単純で小心者で気配りしまくっていないと死んでしまうタチなので、お歳暮なんかをもらっちゃうと、その店に行かねばならないと素直に思う。

そうは言っても面倒くさがりで出不精で、物忘れが激しいタチだから、結局、新しい年になった頃にはお歳暮への感謝の気持ちが頭から消え去ってしまう。

ご容赦いただこう。

さて、頂いておいてアーダコーダ言うのも何だが、正直、有難いものと困ってしまうものとが存在する。

ナマモノ。これはチト困る。会社宛にナマモノが送られてくると置き場所にも困る。一応オフィスにも冷蔵庫はあるが、贈り物はたいてい大袈裟な梱包だから仕舞い込むにも一苦労。

持ち帰るのを忘れて時間が経ってしまうこともある。魚介好きな私でも、そういう意味でエビとかカニ攻撃には頭を抱える。

ナマモノといっても、毎年、仕事関係の知り合いから頂く和菓子は私の楽しみのひとつだ。賞味期限2~3日の商品だが、事前にわざわざ配達希望日を聞いてもらえるので助かっている。


親戚が経営する岐阜の老舗和菓子屋さんの商品なのだが、悶絶するほど美味しい「いちご大福」を中心に毎年12月のトゲトゲした気分を和らげてくれる。

だいたい、12月は肝臓が日々お疲れ気味である。アンコは肝臓機能に良い食べ物だ。夏場より今の時期に有り難さを痛感する。

一般的なお歳暮商品といえば飲料系だ。酒の銘柄にこだわりがないからアルコール類などは素直に「ラッキー」と思える。珍しいジュースなんかも有難いが、油とか醤油は自分のこだわりもあるから、部下にお裾分けしちゃったりする。

お寿司屋さんから貰う上等の海苔とか、そのお店の「ならでは系」も有難い。ちょっとトクした気分になれる。

個人的な意見で恐縮だが、「選べるカタログ系」は好きではない。最近はカタログ自体が妙に分厚い。パラパラ見ていく作業を強いられることが面倒だったりする。ワガママですいません。

3~4種類から選べるのなら楽しいが、分厚い冊子の中から選べと言われると萎える。放っておくと忘れた頃に業者から催促が来る。贈ってくれた人にも放置していたことがバレるのもイヤだから、欲しくもないものを選んじゃったりして、商品が届く頃には「コレなんだっけ?」という事態になる。

バチが当たりそうだから適当にしよう。

さて、最近なぜだか自炊する機会が増えた私にとって、妙に嬉しいのが「そのまま食えるもの」だったりする。

高級レトルト食品とか高級缶詰スープとかその類が妙に私の心を引きつける。自分では何となく買いたくない値段の商品だ。

スーパーに行けば、カレーとかシチューとかパスタソースとかレトルト食品が百花繚乱状態である。「富豪」を自認する私としては100円均一のカレーとかは欲しくても我慢する。ついついもうちょっと高いヤツを買ってしまう。

とはいえ、1個500円以上もするような高価なレトルトカレーなどはさすがに躊躇する。「5倍もウマいはずがない」とセコビッチな自分が贅沢したい私にささやく。

いつも悶々とする。こういう場面での数百円の差は実に悩ましい。

高級スーパーなんかに行くと1000円近いレトルト商品もチラホラあるのだが、たいていは我慢して横目で睨んで終わりにしてしまう。

そのくせ、スーパーの帰りにタクシーに乗って散財するのだからバカである。意味不明だ。

そんなアホな、いや、いじらしい私なので、先日いただいた「資生堂パーラーのビーフストロガノフ」には少し萌えた。我ながらミーハーである。

「ホテルオークラのスープ」にも萌えた。

日常の買い物の時だったら、つい敬遠しそうな妙な高級感がある。自分で買うのではなく、頂き物だから嬉しく感じる典型的なパターンだ。

ブランドの魔力に騙されていようとも、なんとなくワクワクする。

実は、今日のこの内容は、1ヶ月ぐらい前に書きたかったのだが、そんなフシダラなことを書くと催促みたいになっちゃうから今頃になって書いてみた。

なかなか奥ゆかしい。

さて、話は変わる。先日、レトルトパスタソースを使って米を炊くと簡単にピラフが出来るという噂を聞いて試してみた。

結果はいまいち。でも、分量の加減や選ぶレトルトソースの選択次第では、お手軽簡単ピラフが出来そうな手応えは掴んだ。

来たるべき新年は、高級レトルト食品の研究に精を出して革命的なマイメニューを誕生させようと思っている。

2012年12月17日月曜日

いにしえの野球選手

昔のヒーローといえば野球選手だった。

小学生の頃、巨人ファンだった祖母に連れられ、しょっちゅう後楽園球場に足を運んだ私だが、子どもから見た野球選手は神様みたいな存在だった。

ある日、試合後、球場近くを歩いていたら脱兎の如く走ってきた大男とぶつかりそうになった。ファンから逃げてきたジョンソン選手だった。

「ジョン損」と呼ばれて散々な目に遭っていた大リーガー(当時はメジャーリーガーとは言わなかった)の大男だ。

脅えた顔で逃げてきた彼は一瞬、私にすがるような目をした。とはいえ私は子どもだ。オドオドしていただけで、ジョンソンは「ちぇ、話にならないぜ」と言いながら?去っていった。

高田選手の大ファンだった私だが、当時の巨人選手の名前は背番号順にすべて覚えていたほどで、いまも懐かしく思い出す。

衝撃的だったのは「張本入団」である。パリーグの暴れん坊というイメージだった彼は、巨人に来た途端、王選手の露払いかのように紳士的におとなしく過ごしていたが、バッターボックスから滲み出る迫力は、巨人選手しか知らなかった私を畏怖させるには充分だった。

そんな「張さん」に先日、とある店で遭遇した。ちょっと興奮した。仕事柄、著名政治家とか文化人枠?の人と接する機会はあるが、スポーツ系の有名人と会う機会はない。

小沢一郎が隣の席でカレーライスを食べていた時よりも100倍は興奮した。

イマドキの野球少年が大人になった時に、イチローと遭遇するようなものだろう。気分は途端に子どもの頃に戻った。

店の人の計らいで挨拶させてもらって握手もしてもらった。すっかり野球少年モードになった。

いまでは、すっかり「張本イコール“渇のオッサン”」だが、とにかく野球界では凄い人だった。

ちなみに、昔の有名スポーツ選手が老境に達して、イロモノみたいに扱われているのを見ると少し切ない。

ボクシングでは具志堅の圧倒的な強さに国民は皆熱狂したのに、いま彼がテレビに出てくると、皆が笑う準備をしてしまう。ちょっと切ない。

ガッツ石松にいたっては論外である。「幻の右」に熱狂した記憶は遠くなり、きっと若者からはお笑い芸人だと思われているのだろう。

子どもだったからそう思うのかもしれないが、昔のスター選手はもっと神秘的だった。変なバラエティ番組でイジられたり、便利屋みたいに軽薄な番組でへらへらしていなかった。

あの神秘性がなくなっちゃったのは残念な気がする。

野球選手で言えば、巨人ファンの私から見ればパリーグの野村とか東尾、山田久志、村田兆治とか鈴木啓示あたりは、独特な存在感があった。ほかにも阪急の長池、福本とかロッテの有藤とか、クセモノばかりで巨人と当たらなくて有難く感じたほど恐い存在だった。

セリーグでは大洋の平松とかヤクルトの松岡、中日の星野、広島の外木場あたりは物凄く迫力のある存在だった。ヤクルトの大杉とか大洋の松原とか、数え上げればキリがない。シピン、ボイヤーの米国的迫力コンビも絵になっていた。

なんか「張さん」のせいで、昔の野球のことばかり思い出してしまった。

あの頃、野球選手と言えば、決してスタイリッシュではなかった。ちょっと野暮ったい感じで多くの選手がビミョーなパンチパーマで私服姿などは「白いパンタロン」みたいな感じだった。

でも、その変な感じが、野球界という異質な空間を芸能界とは一線を画した確固たるものとして象徴していたように思う。

なんか懐古趣味に走ってしまった。

結論がまるで無い話になってしまってスイマセン。

2012年12月14日金曜日

政治改革のまやかし

師走の選挙で騒々しい日々だが、いまになって、かつて大騒ぎした「政治改革」って何だったんだろうと思う。

日本新党ブーム、細川政権誕生による、いわゆる55年体制の崩壊の中で鳴り物入りで関連法が導入されてから18年。政治の質が向上したのかは甚だ疑問だ。

改革ではなく「変更」に過ぎないと当時から指摘されていたが、選挙制度改革を例にとっても20年近く経ったいま、弊害ばかりが目につく。

重複立候補によって有権者による「落選させる権利」が軽視されたことが第一。主要政党の場合、小選挙区立候補者の全員が重複立候補しているケースも珍しくない。

せっかく落選させたのにゾンビのように甦ってくる制度は民意とは程遠い。小選挙区制では、結果的に政党名が勝負を分けるから、なんとかチルドレンの増殖に象徴されるように政治家個人の資質が二の次になる。

わけの分からない議員センセイが多くなったのも現行の選挙制度が原因だ。

こうした弊害は、既にここ何度かの選挙で指摘され続けてきたが、改善される気配はまったくない。18年前の政治改革が国民の熱い支持を元にしていたから制度の硬直化を招いているとしたら本末転倒だ。

選挙制度とは別の大問題も存在する。卑劣極まりないインチキが罷り通っているのが政党交付金だ。これも18年前の政治改革で誕生した。

企業団体からの政治献金を廃止する代わりに、国民から吸い上げた税金で各政党に資金をばらまくことが決まった。あくまで企業団体献金廃止の見返りという約束での制度創設だったが、実質的には企業団体献金はいまも平然と続いている。

これまで数千億円もの血税が当然のように使われ、公金目当ての新党誕生が風物詩になる始末。ケムに巻かれたというより、単純明快に騙されただけの話。

共産党が大嫌いな私だが、共産党だけは当初から政党交付金の受取りを拒否し続けている。その点だけはスジが通っている。

日曜日にくだる国民の審判がどう転ぶか、民主党の下野だけは子どもでも分かるが、その後の政権の枠組みがどうなるかはまだ流動的だ。

選挙結果の検証も大事だが、選挙制度をはじめとする政治の在り方への議論を忘れてはならない。「選ばれる側」が自分達に都合の良い制度を作っていても仕方がない。「選ぶ側」からの目線で建設的な議論を深めたい。