あと10日もすれば新しい年になってしまう。
なんてこった!って感じである。
年齢が上がるに従って時間の経過を早く感じるのは脳の構造上仕方のないことらしい。
子どもの頃の夏休みはあんなに長かったのに、今では1年が3ヶ月ぐらいの感覚で過ぎていく。あっという間に死んじゃうんだろうなあ。。。
それにしても早い。つい先日、紅白とかガキ使を見ていたつもりが、既に355日も前のことだったとはビックリだ。
ところで、年末の妙な気ぜわしさが鬱陶しくて仕方がない。今年こそは考えを改めようと決意している。
正月を迎えることに一喜一憂しないで、単なる月替わりと思い込むことにする。12月が終わって13月になるというか、ただカレンダーが一枚めくれただけだと思うようにしたい。
そうでもしないとせわしなくてしょうがない。
「今年のことは今年のうちに」とか、「1年の総決算を」とか、そういう考えが慌ただしさを招く。
考えてみれば、私の誕生日は10月だから、1年単位でコトを考えるのなら、そこが境目だ。我が社の決算は8月だから仕事上も12月に何かの節目があるわけではない。
住まいもマメに掃除しているから大掃除などは不要だし、たまに気にする占いだって、古式ゆかしいものだと節分が年の変わり目だったりする。そう考えると年末年始にバタバタする必要はないはずだ。
こんな戯れ言を綴れば綴るほど、この考えが極めて正しいと深く納得する。年末年始なんか知らんぺったんゴリラだという思いを改めて強くするのだが、やはり40ウン年のDNAは厄介だ。どうしても「年末年始」が気になる。
年賀状を書かねば、とか、正月用に新しい下着を買おうかとか、ついつい世俗の垢?に振り回されそうな自分がいる。
困ったものだ。
週刊誌のエッセイか何かで「大晦日の除夜の鐘は大きなお世話だ」と誰かが書いていた。百八つの鐘の音が人間の煩悩を洗い流すのが除夜の鐘だが、それ自体がお節介だという指摘だ。
激しく同意したい。まったくその通りだ。煩悩が無くなったら何が楽しくて生きているのか分からない。煩悩あっての人間サマである。
煩悩まみれだから世の中に味わいがあるというものだ。
だいたい、たかだか40歳を「不惑」だなどと誰が決めたのだろう。実にバカバカしい。そういう迷信でオトナを去勢しようったってそうはいかない。
40歳で惑わなくなるような人間は傑物か偉人か宇宙人、はたまた単なるアホだろう。面白味もヘチマもあったものではない。
惑ってナンボ、惑ってこその人生に意味がある。来年も再来年もその先も大いに惑い続けようと思う。倒れるまで惑ってやろうと決意している。惑わないようでは早々にボケてしまうだけだ。
惑うの「惑」という字は「ワク」と読む。重なれば「ワクワク」である。死ぬまでワクワクしていたいから「不惑」などという迷信に騙されてはいけない。
大きな声では言えないが、来年私は何度目かの年男だ。確か3回目だったかな。。。
巳年、すなわち蛇だ。ヘビには愛らしいイメージはないが、干支の中ではメデタイ生き物の筆頭格である。
相場用語で「辰巳天井」なる上げ潮バリバリの言葉もあるし、そもそもヘビは弁天様の使いだから財運を司る土俗的信仰の対象でもある。
食料を襲うネズミを退治することから穀物の神になり、転じて福の神に昇華したわけだ。
顔は人間で顔から下はとぐろを巻いたヘビの姿をした御神体を祭る神社が日本中にあるらしい。
それだけではない。脱皮を繰り返すことから「再生」のシンボルとして尊い存在と見る民間信仰は世界中に存在するとか。
キリスト以外の生き物に再生されちゃっては都合が悪いから、キリスト教国ではヘビは悪者にされたらしいが、アジアの農業国ではヘビは大事な存在だ。
財を運んで再生する。実にいいではないか、ヘビ!
冷血動物みたいなマイナスイメージだって「冷静沈着」というポジティブな解釈をすれば悪くない。とぐろを巻いた姿も良く言えば思索にふける哲学的なものにも見える。
ヘビ・バンザイである。
新しい年も「迷えるヘビ」となって楽しく生きていこうと思う。
2012年12月21日金曜日
ヘビ・バンザイ
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