帰国していますが、今日もアーカイブ(過去モノ)を」いくつか載せます。水曜から通常通り更新します。
吉原 意気地
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2012/02/blog-post_27.html
酒の思い出
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/11/blog-post_04.html
父親の存在
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2008/12/blog-post_16.html
2015年3月30日月曜日
2015年3月27日金曜日
アーカイブです
久しぶりに潜水旅行に出かけているので、ちょっとの間、更新をお休みします。
いくつかアーカイブを載せてみますのでよかったら覗いてやってください。
桜の季節
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/03/blog-post_23.html
渋谷 15の酒 毛髪
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/05/15.html
変態バンザイ
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2011/11/blog-post_18.html
2015年3月25日水曜日
TOTO
80年代を代表するロックバンドといえば「TOTO」だ。先日、元ベーシストが50代の若さで亡くなったニュースを見て無性に懐かしくなった。
YouTubeって実に有難い。いとも簡単にかつての名曲を楽しませてくれる。「TOTO」に関しても、当時好きだったのに忘れていた曲を見つけて妙に熱くなった。
数日の間、自宅のパソコンからはこの曲ばかり流れていた。
「Stop Loving You」という曲である。歌い出しの部分はモゾモゾした感じだが、サビに向かっていくメロディーラインのカッコ良さがタマランちんである。今聴いてもシビれる。
https://www.youtube.com/watch?v=bYr3OJOXk60
20代の頃、恋心を感じるとすぐにこの曲が頭に浮かんだ。いやはや何とも懐かしい。ジーンとくる。あんな感情はもう味わえないのだろうか。いやいや、そう決めつけちゃったらダメである。
さてさて、TOTOといえば、この曲よりも前にピークを迎えていた。誰もが聞いたことがあるはずの「Africa」が大ヒットした前後数年が全盛期だったはずだ。ゴツいアンチャンがリードボーカルだった頃だ。
https://www.youtube.com/watch?v=FTQbiNvZqaY
「Africa」は名曲中の名曲だからyoutubeをアレコレ覗いていると、こんな素敵なおっさんコンビのアコースティックカバーも見つかる。得体の知れないおっさん(有名な人だったらゴメンナサイ)がピザ屋の店先で一生懸命歌ってる姿もかなりイケてる。
やはりメロディーラインが秀逸だから聴き入ってしまう。それにしてもアメリカの人は何であんなに高いキーで歌えるのだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=MLrC7e3vSv8
TOTOの全盛期、私は高校生だった。当時、若者は洋楽を聴くことが一種の嗜みみたいな感じだった。洋楽チャートを毎週気にすることが生活習慣になっていた。
あの頃の若者文化の特徴だった気がする。その後、歌謡曲や演歌、ニューミュージックとは違う若者がカッチョいいと思う邦楽のバンドやミュージシャンがバンバン登場する。そのせいもあって猫も杓子も洋楽を聞きかじる時代は終わった。カラオケの普及が若者の嗜好を大きく変えた形だ。
当時は私も若造だったのでノリノリの洋楽に惹かれたが、ディープパープルやツェッペリンのような激しすぎる感じは性に合わず、かといってエアサプライあたりの爽やかすぎる感じやボズスキャッグスのエロ過ぎる感じも好きだったが少し物足りない感じがした。
そんな中で出てきた「TOTO」はやたらと格好良かった。軽すぎず重すぎず、それなりにハードロック系の迫力もあるのにどこか洒脱なイメージがあって、あの時代の躍動感にピッタリだった。
私が15~16歳の頃のアルバムに収録されていた「Gift With A Golden Gun」、「Goodbye Elenore」あたりにはシビれた。今でも時々鼻歌でフムフム歌っている。
その後、「Rosanna」や「Africa」、「99」あたりの世界的ヒット曲につながっていく。
個人的な感覚だが、同じ時代に人気だった「ジャーニー」や「ボストン」などに比べると、どことなく洗練された雰囲気があった。「シカゴ」も洗練路線?でヒット曲を連発したが、「TOTO」には一種独特な疾走感のような勢いがあった。
メンバーの風貌も何となく普通。そこがまたカッコよかった。「ロックミュージシャンだぜ~」って感じの気合いバリバリの服も着ていない、カメラの前でベロも出さない。
アメリカのそこら辺のアンちゃんみたいな感じが「腕っこきのスタジオミュージシャンあがり」という彼らの経歴も相まって新鮮に見えた。
ノリノリの曲は自分の部屋で爆音で聴き、洒落たバラードはデートの時のBGMに活用した。
https://www.youtube.com/watch?v=r7XhWUDj-Ts
単なる個人的感覚、かつ自分の世代的共感ではあるが、80年代の洋楽はいま聴いても古さはちっとも感じない。音がキラキラ輝いていたような気がする。
「TOTO」がバリバリだった時代。
懐かしき青春の日々である。
2015年3月23日月曜日
菩提樹 エビカツ
普段、何でも分かっているような顔をしてエラそうに暮らしているが、その実情はたかが知れている経験とチンケな思い込みが基盤である。
何だか仰々しい書き出しになってしまった。たいそうな話を書こうとしているのではない。
たとえば、女性問題を誰かから相談されたりする。「オレの経験ではさあ~」などと達人ヅラして語ってしまうが、はたして私にどれほどの経験があるというのだろう。
女性に縁がない人に比べれば恵まれていたが、しょせんはチョボチョボである。世の中には100人斬りのマイスター?みたいな人もいる。
まだまだ現役続行である。ドラゴンズの山本マサを見習ってダラダラ頑張らないといけない。
ちなみに、寝付けない夜にヒツジを数える代わりに私が実践するのが「過去の〇〇を数えること」である。
旅行に行ったことがある外国の国名、これまで乗り継いできたクルマの車種、使ってきたカメラの商品名、ハマショーのアルバムタイトルなどなど。
そんな真面目な?テーマのほか、交遊のあった女性を数えるという悪趣味なことにトライすることもある。バカである。
そんなことばかり考えているアホと思われそうだが、そんなことはない。
あくまでブログの内容を楽しく?アレンジするために必死に軟派系の話を無理やり捻り出しているだけだとご理解いただきたい。
普段私が考えているのは、千里同風、恒久平和、経世済民、安居楽業、八紘一宇といったことばかりである。ウソだが。
さて、そっちの話だ。もちろん、深い深い関係になった女性は多くはないから、数えるのは「手をつないだことがある人」とか「1対1で食事をした人」など中学生並みにハードルを下げる。
そこまでハードルを下げると長く生きてきたわけだからそれなりである。幼き日々の甘酸っぱい記憶の中で眠りに落ちたりする。
もしかすると、若かった頃の元気さやマヌケさを懐かしく思い返して、老け込まないように自分を鼓舞しているのかも知れない。
とはいえ、まあ悪趣味な話ではある。またまた自分の恥をブログを通して世間にさらしてしまった。
まあいいか。
それにしても話が大きくそれた。今日書きたかったのは「エビカツ」だった。
冒頭に書いた「自分の経験値など大したことない」という話は、バツグンに美味しいエビカツに遭遇して思い知らされたことだ。
「エビカツ?エビフライじゃなきゃダメだぜ」
これが私の基本姿勢である。というかエビカツという料理自体、そうそうお目にかかるものではない。
エビフィレオとかエビカツバーガーとかその手の店で出てくるぐらいだ。
そうしたファストフードのエビカツは、あくまでコッテリソースと衣を楽しむイメージで、カツの中味は「エビも混ざってる練り物」みたいなイメージがあった。
水道橋にあるトンカツ主体の洋食屋さん「菩提樹」で食べたエビカツは、私にとってのエビカツ概念を覆してくれた。
プリプリのエビの身とタマネギだけで作られているらしい。食感も風味も紛れもなくエビがブリブリ。エビ丸出しって感じだった。素直に美味しい。
エビフライも大好物なのだが、あいつはウホウホ喜んでかじるとすぐにシッポの部分に近づいて切なくなる。
おちょぼ口で少しずつ食べない限りすぐにシッポに到着しちゃう。だからチビチビ食べるハメになる。
その点、エビカツはシッポという残念な箇所がはじめから存在しない。グワシっ!とかじってもシッポが接近してこない。モゴモゴするほど口の中いっぱいにエビカツが溢れる。
味は二の次みたいな書き方になったが、意外にこの点は評価ポイントかもしれない。
エビフライの場合、なぜか衣が剥がれやすい。衣が剥がれちゃった時の剥き出しになったエビの弱っちい姿は見たくない。見てはいけない気がする。エビカツの場合はその点でも安心だ。
この店のタルタルソースもウマかった。エビフライという細い物体にタルタルをトッピングするのは案外やっかいだが、エビカツなら断面にドヒャーとぶちまけてもタルタルソースが脱落することがない。
エビフライから外れて皿に落っこちたタルタルソースほど悲しいものはない。舐めたいけどそうもいかない。フォークでは救いきれない。犬死にである。
エビカツは「タルタル人」である私のパートナーとして信頼できる存在である。
この菩提樹という店は、水道橋に本店を構える「かつ吉」の系列。丸の内や日比谷、渋谷の支店でもエビカツはレギュラーメニューになっているようだ。
トンカツのサイドメニューにオススメである。いや、エビカツがメインでトンカツが脇役でもいい。
どっちでも同じことだが・・・。
オススメです。
2015年3月20日金曜日
偏屈
最近読んだ二冊の本のおかげで「偏屈」をちょっと肯定したい気分になった。
偏屈を辞書で調べると「性質がかたくなで、素直でないこと。ひねくれていること」である。
私自身、年齢とともに偏屈ぶりが加速しているような気がする。このままではイカンと思っている。
でも、偏屈は「こだわり」と密接に関係している。こだわりや主義主張がない男になるのもイヤだから上手に折り合いを付けるしかない。
2冊の本とは「我、拗ね者として生涯を閉ず」(本田靖春)と「あなたに褒められたくて」(高倉健)である。
前者は10年前、後者は20年以上前に刊行された本だ。前者は古本屋で買った。健さんの本は再版本が今も書店で平積みになっている。
本田靖春さんという人は高度成長期の読売社会部のスター記者で、その後フリーになってノンフィクションの名手として活躍した。
晩年の病床で生涯を振り返る鬼気迫る回想録である。
なんてったって自ら「拗ね者」を自称するだけに偏屈ぶりは相当なものだ。好き嫌いがはっきりしているというか、全部が嫌いなんじゃないかというほど舌鋒鋭い。
回顧モノだから自らの武勇伝自慢がちょっと鼻につくが、そういう箇所の書きぶり一つとっても予定調和のような謙遜はなく、ただただ潔く自分の思うがままを吐き出している。
現在よりもムラ社会的要素が強かった昭和の日本で徹頭徹尾、自我を押し通した生き様は驚異的だ。
好き勝手に生きることは誰もが憧れるが、この人ぐらい突き抜けていると見知らぬ人、ましてや故人なのに心配したくなる。
きっとあらゆる局面で軋轢に押しつぶされそうになったはずだ。肩に力を入れ続けて生きていたのではないか。
いや、ひょっとするとそんな気負いなどまるで無く自我を押し通すことが自然体だったのかもしれない。そうでもなければ拗ね者を徹底することは不可能だ。
だとしたら、ある意味とても羨ましい。でも、この人のことを嫌っていた人は多そうだ。きっとナベツネさんなんかハラワタ煮えくりかえっているような気がする。
お次は健さんである。「高倉健」のイメージを壊さないために相当な努力していたようだが、良くも悪くも「偏屈」だから、アノ姿を徹底できたのだろう。
エッセイの中にもそんな姿を感じさせるエピソードがいくつもあった。
村田兆治投手の引退をテレビで知って無性に花を届けたくなった健さんは、付き合いがあるわけでも無い村田投手の家を探し出して不法侵入?ばりの意気込みで手紙と花を置いていく。
感激した村田夫人経由で新聞記事になりそうになるが、健さんはそれを頑なに拒否する。拒否することを素直に詫びているのにナゼだか公にすることを嫌がる。
見方によっては単なる頑固である。健さんも自ら素直ではない性格のことを認めている。冒頭で書いた「偏屈」の意味を見ても分かる通り、端的に言って健さんも偏屈である。
変な言い方になるが、「健さん」のカッコ良さは「偏屈」が大前提になっていたわけだ。
「男の中の男」。健さんを象徴するイメージだ。いわば、「男の中の男に必要なのは偏屈である」という三段論法が成立する。
偏屈バンザイである。
いまの世の中に足りないものは「健全な偏屈」ではないだろうか。偏屈というと誤解を招くが、最低限の自己主張は必要だ。
長いものには巻かれろ、物言えばくちびる寒し・・・。これらの考え方は日本人の一種の美徳かも知れないが、行き過ぎると何も考えない弊害を生む。
何も考えずボケっとしていたらラクチンだろうが、時には自分のこだわりを押し通すのも人生を豊かにする一助になる。
2015年3月18日水曜日
オトナの注文の仕方
「情報を食べる」という言い方があるらしい。安直なグルメブームを揶揄した言い方だ。
「雑誌に紹介されたから」「ミシュランの星がついたから」「食べログの評価が高いから」等々、結局は飛び交う「情報」に引き寄せられて嬉しそうに列に並ぶ。
味覚なんか二の次で、単に情報を確認しているという話である。評判の良い店に行ったという事実だけが喜びになっているらしい。
もちろん、判断材料としてそうした情報を参考にするのは普通のことなのだろうが、巷に飛び交う「情報」を盲目的に頼って自分の好みや自分の判断を引っ込めちゃうことがもったいないと思う。
お寿司屋さんやちょっとした料理屋での「おまかせ」というスタイルもビミョーである。
カウンターで食べる店だったら尚更である。板前さんと対峙する意味がまるでない。料理する側だって間違いなく張り合いがないと思う。
「何を頼んでいいか分からないから」。そういう気持ちも分かる。でもそれなら尋ねればいいだけの話だ。
自分はどんなものを食べたいのか、どんなイメージでその店に来たのか等々、いくらでも伝え方はあるだろう。
ロクに答えない店なら、ビール1本飲んで帰っちゃえばいいし、実際にはマトモなレベルの店ならそんな心配は不要だろう。
「常連でもないのに尋ねにくい」。そんな考えもある。それも気にしすぎだ。尋ねる行為に常連もヘチマもない。威張る必要はないが、こっちはお客様である。
「前に違う店で食った〇◎がウマかったから、それはあるか?」とか「この店には◎△産のマグロはあるか?」とか、知ったかぶって余計なことを言い出す野暮天は問題外だが、普通にオススメを聞いて自分の好みも伝えれば充分だろう。
「ネタや食材に詳しくないし・・・」。そんな理由で押し黙っちゃう必要はない。こっちは料理人じゃないんだから詳しくなくて当然である。
こってり系が欲しい、サッパリ系が欲しい等々、そんな程度の要求で充分だと思う。
お寿司屋さんを例に取るなら、せめて「ツマミを4、5品欲しい。温かいものも入れてくれ。その後で握りを5貫ぐらいもらえればいい」といった程度の希望を伝えるだけで、店側もやりやすくなる。
それだけの情報があれば店としても的確に段取ることができる。食材に詳しいかどうかなど関係ない。
当り前のことのようで、意外に難関に思っている人が多い。謙虚な日本人の特徴だろうか。いや、謙虚と萎縮は違う。最低限の自分の意見は伝えた方がいいと思う。
意見や希望を伝えることは我を通すことやワガママとは違う。大げさに言えば一期一会を大事にすることにだってつながる。
あくまで店が大忙しの時には遠慮する必要はあるが、たとえば、揚げ場や焼き場があるお寿司屋さんだったら、牡蠣をフライにしてもらったり、アジフライ、エビフライだってワガママというほどの注文ではないと思う。
刺身で食べられる上モノのサンマをあえて塩焼きにしてもらえば絶品だし、生牡蠣を焼き牡蠣にしてもらったり、その他の魚だって鮮度が良いのだから焼きモノにしてもウマい。
こういう注文をワガママとは言わない。タルタルソースまで作ってくれとか寿司飯で炒めご飯を作ってくれといった悪ノリはワガママだが、イクラの握りを海苔無しで食べたいから小鉢にシャリとイクラだけを入れてくれと言ったってワガママという程ではない。
なんかキリがなくなってきた。
ちょっと話を変える。
先日、護国寺近くのホテル椿山荘に出かけてきた。フォーシーズンズホテルが撤退して大家だった椿山荘が直営する形になってから初訪問である。
カフェレストランで腹ごなしをしたかったのだが、昔あったはずのオムライスがメニューから消えていた。
仕方なくカレーでも食べようかと思ったのだが、ボーイさんが「オムライス、お作りしますよ」と微笑んでくれた。
私の名誉?のために補足すると、ボーイさんには、かつてのオムライスが美味しかったことをちょこっと伝えただけである。断じて恐い顔で強要まがいの物言いをしたわけではない。
こういうのはワガママとは言わない。私の紳士的な?物腰と上等なサービスを会得している店側との呼吸が合ったという話である。
実に有難かった。近いうちにまたオムライスを食べに行きそうだが、その時もあくまでコッソリと「相談」という形でオーダーすることが大事だと思う。
冒頭からウジウジ書いてきたそれっぽい店のカウンターでの過ごし方だが、意見や希望、好みを伝えるという行為のキモは「相談」に尽きる。あくまで相談するという姿勢が大切だ。
お仕着せに満足するだけでなく、腕の立つプロの板前さんや職人さんを奮い立たせるような「相談」をどんどんするのがベストである。
2015年3月16日月曜日
たんや又兵衛
白子とかアンキモとか珍味ばかり食べていた頃は尿酸値が高くて困っていたが、最近はだいぶ改善された。
以前より珍味に萌えなくなったことが理由だが、世の中そんなに甘くはない。今はコレステロールの数値が高値安定状態である。
コレステローラーである。
生卵かけご飯を筆頭にタマゴ方面はすべて好きである。イクラもタラコも愛している。肉に関してもレバーなど内臓系が好きだ。ウナギも好きだ。乳製品も好きだ。
そんなヤツがコレステロール値が低いはずはない。わかっちゃいるけどナンチャラである。
ということで、牛タンを食べに行ってきた。意味不明でスイマセン・・・。
牛タンはヘルシーなイメージがある。内臓系のこってりしたウマさとも違うし、脂ギトギトってわけでもない。
あとあと調べてみたら、サーロインよりコレステロール含有量が多いらしい。見かけ倒しである。あの軽やかでサッパリした牛タンがコレステローラーの敵だったとは驚きである。
でも牛タンはウマい。とくにウマい店の牛タンは目ん玉飛び出そうになるほどウマい。
焼肉屋の牛タンは薄っぺらいことが多くてイヤだ。麦飯とセットで定食風に食べさせる仙台系?の店の牛タンのほうが好みだ。
厚切りにしてこその食感である。
で、富豪を名乗っている以上、仕方なく最上級の牛タンを食べに行った。いつもピーピーしている割にはエンゲル係数がハチャメチャである。
前振りが長くなりすぎてしまった。
「たんや又兵衛」である。10年以上前に六本木の店に何度か行ったことがあるが、この日は銀座店。数寄屋通りにぽつんと佇む店だ。
数寄屋通りは銀座の中で私が一番好きなエリアだ。おでんのおぐ羅、魚河岸料理を名乗る佃喜知、レバ刺しも常備されている東京やきとり亭、シメの皿うどんにソースをかけて悶絶する割烹おかやす等々が点在している。
ヨダレがぶりぶり出てしまう通りである。「ヨダレ通り」である。銀座を代表するクラブ「麻衣子」も数寄屋通りにある。違う意味でヨダレが出てしまう私だ。
話がそれた。牛タン専門店の話だった。
熟成肉とやらがブームになる以前から熟成させた上質な牛タンにこだわる店だ。3本も食べたら満腹になりそうなほど大串にドカンと刺さって供される。
値段が高いのがこの店の特徴だ。高いけどウマい。いや高いからウマいのか、実に悩ましい問題である。
単品で注文したら1串2千円、いや3千円近かったような気がする。調子に乗ってオーダーすると結構青くなるので、コースを頼んで足りなければ追加するというのが精神衛生上はオススメである。
ただ、個人的な意見だが、牛タン以外の串は「普通」である。あのぐらいなら気の利いた肉料理屋なら食べる機会はある。
この店では牛タンに集中したほうが楽しめる。酒の品揃えも豊富で、店内の雰囲気はいたって普通。少し高級な串焼き屋といった風情である。
メニューに一切値段が書かれていない。普通はビビる。私もビビる。でもMな私には堪らない。
客層も余裕のありそうなオッサン中心である。良くも悪くも銀座っぽい店と言える。
敷居が高いわけではないが誰でもウェルカムっていう雰囲気ではない。変な緊張感は無いものの分かっている客しかいない独特な空気感がある。
そういう店が好きな私にとっては居心地が良い店だ。コレステロール問題と相談しながら時々出かけようと思う。







