2024年12月25日水曜日

東京と船


唐突だが、東京の水上交通の未発達ぶりが実に惜しい。江戸の頃には大川と呼ばれて都市機能の大動脈だったのが隅田川だ。中央区民になって以来、私にとって隅田川が身近になったせいで“宝の持ち腐れ”状態を実感するようになった。

 

我が人生の前半、中盤は杉並区、新宿区、豊島区、文京区が拠点だった。そちら方面だと隅田川には縁がないが、台東区、墨田区、江東区、中央区、港区、北区、品川区、足立区、葛飾区あたりだと隅田川は気軽に訪れられる水場だ。

 

川沿いは遊歩道が整備され散歩するには快適だが、水上交通という点ではまるで活かされていない。もったいない話だ。浅草からお台場方面までは申し訳程度に水上バスが出ているが、それにしても便数は限られており生活密着型と言うには程遠い。

 

観光遊覧コースみたいな使われ方もしているが、今ひとつマイナーな存在だろう。パリのセーヌ川だってバンコクのチャオプラヤー川だって隅田川に比べれば、観光や市民の足としてバンバン利用されている。

 

東京はどの国よりも遥かに人口の多い過密都市なのに隅田川を中心とした水上交通がまるで未発達なのが不思議だ。聞くところによると複雑な利権や魑魅魍魎の絡みがあるせいで低利用にとどまっているそうだ。

 

いずれ都知事選の争点になるぐらいに盛り上がってくれることを願う。間違いなく東京での動き方に革命的な変化が生じると思う。

 


 

と、小難しい話を書き始めたのは、先日、用もないのにプチ船旅気分を味わったからである。最近始まった「船旅通勤」というフレコミの小型船でのプチクルーズに乗ってみた。

 

日本橋の真下の船着き場から豊洲までを20分弱で結ぶコースだ。10人ちょっとも乗れば満員の小型船だが、利用者は少ない。散歩のついでに目に入ったので予約無しで乗ってみた。

 




 

隅田川の本流に入るまでは首都高の下をノロノロ進む。視界がひらけたらズンズン進んでアッという間に豊洲に着いた。全行程をズンズン進んだら10分で着いちゃうぐらいの近さだった。

 

豊洲の巨大モール・ららぽーと前の船着き場で降ろされたので用もないのにららぽーとを散策、1時間後に出る戻りの船に乗りたかったので軽く散策した後はフードコートで夕飯を食べた。

 



同行者は娘だ。最初は近所でジャンクフードでも食べようというノリで散歩に出たからそれっぽい食べ物を4つも注文。チキン南蛮定食、チャーシュー麺、ローストビーフ丼、牛すじ丼である。この量が我が家の「普通」である。

 

散歩気分で日本橋の家を出ただけだったのに、船のお陰で豊洲が徒歩圏になっていた。これってちょっとビックリである。つくづく今回の船がこのコースの単純往復でしか使われていないことがもったいないと感じた。

 



日本橋の真下にこのぐらいの船は余裕で着けられるわけだから、そこを起点に浅草方面や竹芝方面、はたまたお台場方面あたりまで定期船を運行するのは難しい話ではない。

 

それぞれ両国や築地、箱崎、月島、浜離宮、清澄白河、深川、勝どきあたりに停船させれば新たな交通網として便利だし、観光資源としても大いに期待できる。実際、既に船着き場がある場所も多いのでちっとも難しい話ではないと思う。

 

やる気になれば木場や葛西、ディズニーエリアまで結ぶことも可能だろう。浅草とディズニーランドが船でつながっていたらインバウンド需要も爆発しそうだ。

 

そもそも江戸時代は水上交通が基本だった。古地図を見ても「まるでベネチア」状態である。現に私が今住んでいるご近所の町名も堀留町だの小網町、小舟町、蛎殻町など水の都だった名残りを伝えるものが多い。

 

また当時は吉原遊廓へ遊びに行くにも隅田川から今の三ノ輪、山谷あたりを船で経由して向かうのがイキで優雅とみなされていたそうだ。江戸人のほうが今よりもプチクルーズを上手に活用していたわけだ。

 

東京の電車網はそれはそれは細かく張り巡らされている。おまけにバス網も電車を補完するように整備されている。おまけにタクシーも都心部では簡単につかまる。その他にも地域ごとのコミュニティバスも低料金で走っている。

 

地方に比べれば恵まれているのは百も承知だが、大動脈・隅田川とその支流に目を向けないのは摩訶不思議としか言いようがない。

 

その昔、映画「釣りバカ日誌」で会社に遅刻しそうになった西田敏行扮するハマちゃんを釣宿のオヤジ(アパッチけん)が渋々釣り船で送り届けるシーンがあった。そんな使い方はさすがに極端だが、そのぐらい気軽なノリで川が活用されたら楽しい。


利権だか何だか知らないが、せっかくの水の恵みを賢く利用できていない現実は都民にとって大きな損失だ。大胆に都市部の水上交通が進歩することを願う。





 

 

 

 

 

 

 

2024年12月23日月曜日

12月の日本人


ここ数年、世代間断絶を思い知らされることが増えた。学生さんならいざ知らず、20代の社会人の中に西城秀樹や沢田研二を知らない人がいた。ビックリである。

 

新聞も読まないテレビも見ない、ネットの世界で関心のあるテーマだけに没頭する人種が増えてきたから異なった世代の知識の隔たりは想像以上に広がっている。

 

もちろん、50代の人間と20代の人間だったらある程度は差があるのは当然だが、このままいけば10歳ぐらいの年齢差でもギャップが広がるような社会が到来しそうだ。

 

良いか悪いかを考えても仕方ない。それが現実だ。私が少年時代は情報ルートはテレビか新聞だけだったから雑学的知識として旧世代絡みのことも普通に知っていた。

 

20年、30年前のヒット曲や映画スター、過去のベストセラーやハヤリもの、世間を騒がせた事件等々、たいていのことは聞いたことがあった。

 

逆にそれを知らないと年上の人たちとの会話ができずに困った。学ぶともなく自然に学んでいたのが若者のごく当たり前の姿だったと思う。

 

なんだか愚痴になりそうだから本題に入る。

 

12月といえば私にとってはクリスマスよりも「忠臣蔵」である。47人の旧赤穂藩浪人が亡き主君の仇討ちとして吉良上野介の屋敷に討ち入ったいわゆる赤穂事件である。

 

これまた若い人の多くが知らないからビックリである。日本人の心に刺さる歴史上の一大トピックだと思うのだが、歴史の授業で時間を割いて教わるわけでもないせいか「大石さん?WHO?」である。

 

当然、大石さんの「内蔵助」を読めるはずもなく、「くらのすけ?俳優の佐々木蔵之介ですか?」というトホホな展開になってオジサマとして悲しみの涙を流すはめになる。

 

忠義を果たす、臥薪嘗胆の日々といった日本人の精神性を表す典型的なストーリーである。昭和20年の敗戦後はマッカーサー占領司令部は忠臣蔵の放映や上演を長く禁止したほどだ。そのぐらい日本的なストーリーなのに若い世代が興味を持たないことはちょっと寂しい。

 

このブログでもだいぶ以前から「日本の12月はクリスマスじゃなくて忠臣蔵です!」と声を大にして主張してきたが、私のこの政治運動?が広がりを見せることはまったくなく、もはや矢折れ弓尽きそうな情勢である。

 

浮き様になりたい

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2015/12/blog-post_14.html

 

クリスマスと忠臣蔵

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/12/blog-post_24.html

 

ここ10年ぐらい世間で話題になるような忠臣蔵関連のドラマや映画がないのも痛い。阿部寛や役所広司や真田広之や山田孝之や鈴木亮平やキムタクあたりをフルキャストで揃えた超スーパー時代劇をどこかが制作してくれないとますます状況は厳しくなる一方である。

 

忠臣蔵は昭和3040年代ぐらいに制作された長編映画がある意味で完成形みたいなところがある。そのせいもあってか後年に作られた映画などは別な視点にこだわったり部外者をキーパーソンにするなど変化球に走ってきたきらいがある。

 



「決算・忠臣蔵」「身代わり忠臣蔵」などといった近年の映画のタイトルからもその迷走ぶり?は示されている。どうやってもストーリーは単純だから制作者側はアレコレと工夫をこらしたくなるのだろう。

 

だからこそ、それこそ逆張りの精神で徹底的にベタな「大忠臣蔵」を改めて制作してほしい。それこそが若い世代に忠臣蔵ワールドの魅力を伝える最善策だと感じる。

 

いっぱしの大人なら誰も知っているストーリーを一から丁寧に作っちゃうのはかえって面白いと思うのだがいかがだろう。ついでにいえば映画や大河ドラマで見せられてきたストーリーの多くが後の世の創作だからもっとアレンジを加えてもいい。

 

大石さんが江戸に向かう際、ある御家人のフリをして宿に逗留するのだが、そこでホンモノに遭遇しちゃって丁々発止で乗り切るシーンや、亡き殿の未亡人のところに討ち入り決行を伝えに行った際に敵のスパイがいることに気づき「討ち入り?やるわけおまへんがな」とトボけて帰っていくシーンなど定番の名場面はすべて作り話である。

 

そういうシーンを後から創作した先人には敬意を評したい。そういうエピソードこそが忠臣蔵を後世で輝かせてきたわけだ。だからこそ今後は宮藤官九郎や三谷幸喜あたりがまったく新たなシミジミ泣けちゃうような切ないエピソードを作り込んで加えることで今後100年の忠臣蔵盤石体制を築き上げてほしいと思う。

 

クリスマスだから今こそみなさんで忠臣蔵を鑑賞したいものである。Amazonプライムなどでかつての名作はたくさん観られる。片岡千恵蔵や長谷川一夫、三船敏郎あたりが大石内蔵助役を演じた重厚な作品が数々あるので、クリスマスがダメでも年末年始は忠臣蔵三昧で過ごすのもオツだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月20日金曜日

愛人という呼びかた


このブログを書き始めた当初は、職場のSEO対策に貢献できればいいと考えていた。当初は無理やり仕事のネタにこじつけたりもしたが、あまり面白くなかったから途中からは単純な個人的雑記になった。


そんな経緯で十数年もの長きにわたって雑多な話を脈略もナシに書き続けている。今では仕事絡みの話にはあえて触れないことが基本になっている。

 

税務関係の新聞などを発行していると意外に俗っぽいテーマにぶつかることは多い。愛人にかかるコストを会社の経費に混ぜちゃって税務署とスッタモンダするようなケースがその代表だろう。

 

15年ぐらい前にはそんな観点でアレコレ書いたこともある。

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/03/blog-post_29.html

 

それにしても「愛人」って響きは何だか素敵だ。愛情より性愛の「愛」の意味合いが強い感じが良い。独身になっちゃった私には使えない言葉だから妙に惹かれる言葉だ。

 

とはいえ「愛人」が既婚者専用の用語に落ち着いちゃったことは問題だろう。今の時代、結婚という形を選ばない人は増えているから独身オジサマにも愛人という存在や呼び名を解禁?してほしいと思う。

 

「おめかけさん」「二号さん」などは既婚者限定でも仕方ないが「愛人」の範囲はもう少し広がってもよい。「恋人」というのはニュアンスが違うし、かといって「セフレ」だとあまりに味気ない。やはり「愛人」というポジションは一種独特な意味合いを持っていると思う。

 



独身である私も当然ながらあれこれ付き合ってくれる女性はいる。「恋人」「セフレ」「愛人」「女友達」のうちどれが適当だろうか。さすがに「女友達」などという表現はあんまりだ。バカな人の答えかたみたいだ。創意工夫も洒落っ気もまるで無い。

 

なんだかどれもピンとこない。「ガールフレンド」だと子供っぽいし、突き詰めて言うとしたら「お連れさま」が適当だろうか。さすがにそれもヘンテコか。

 

温泉旅館の仲居さんは怪しげなカップルが来た時には「お連れさま」を多用する。不倫相手なのに「奥様」と呼んじゃったらマズいし、「お嬢様」だとこれまたスケベオヤジが気を悪くする。なかなか難しい問題である。

 

なんだかんだ言って、どこでもだれでも気軽に「愛人様」と呼べれば一件落着だろう。やはり「愛人」の使用範囲を既婚者や年齢に限らず広げるのが無難だと強く感じる次第です。

 

私の場合も仲良しの女性は「愛人」と分類するのが適当だと感じるが、ちょっと大げさにも思える。難しいところだ。それにしても既婚者の頃は第三者に説明するのも「愛人」の一言で済んだ。既婚者カードを使えなくなっただけで愛人という用語が使えないのは非常に不便だ。

 


いま思いついたのだが、男女ともにお互いにとって都合の良い相手ならば「都合さん」という呼び名も悪くない。「2号さん」にも響きが似ているし、一応そっちのニュアンスが感じられる。女性の立場から男性を表現するのにも使える。

 

「都合さん」。どうだろうか。コンプラコンプラやかましい今の時代にはさすがに受け入れられないか。実に残念である。

 

まあ、こんな話をあ~だこ~だと書いているのは平和の証である。

 

ついでだから上の方のリンクで貼った「愛人をめぐる税務署との攻防」について、ちょこっと耳にした話を書いておく。

 

とあるドクターが愛人を住まわせているマンションの家賃を「資料室」名目で経費処理していたのが税務署にバレた。毎月数十万円の経費が否認されちゃうと追徴される税額もバカにならない。

 

ところが、ドクター側の顧問税理士もなかなかのやり手で税務署にしっかり反論。いわくその愛人宅には古いカルテが保管されていたからあくまで資料室であると譲らなかった。実際は少量だったようだがたまたま保管していたらしい。

 

結果、痛み分けのように毎月数十万円を経費計上していた賃料の半分は資料室としてのコストとして損金に認められたそうだ。黙っていたら賃料全額が経費にならなかったわけだから、ちょっとしたポイントに精通しておくことは大事だということ。

 

なんだか当初の話から随分脱線してしまった。「富豪記者」というタイトルを掲げる以上、こういう話も時には書くようにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月18日水曜日

ヤンチャメシ、「グラコロダブチ」


来年には還暦だというのに私の怪しげな食への欲求は変わらない。年甲斐もなくジャンクフードへの愛は昔より強まっているかもしれない。老人になると赤ちゃん返りするらしいがそれに近い感覚だろうか。

 

マックの冬の定番・グラコロは今シーズンは濃厚タルタルバージョンも登場した。ちょっと興奮して味わった。ついでに言えば標準バージョンのグラコロがやや物足りなく感じてヘンテコなアレンジに挑戦するハメになった。

 

かつてネット情報をきっかけにコッソリ試して以来、クセになった「フィレオダブチ」の進化系である。フィレオダブチとはフィレオフィッシュの下のパンを外して、上のパンを外したダブルチーズバーガーと合体させるという怪しいシロモノである。

 



魚と肉という組み合わせにも関わらず、さすがに、というか、しょせんはマックの味だから味が喧嘩せずに妙な相性の良さを発揮して想像以上にウマい。食べ応えもかなりのものである。

 

それを手本に今回試したのは、グラコロとダブルチーズバーガーの合体版である。「グラコロダブチ」である。我ながら実にヘンテコな発想だと思う。富豪記者ブログというタイトルに反して最近はジャンクフードのことばかり書いているが、「平気でパンを除外する」という点については富豪級?である。

 

さて、グロコロダブチである。この日は夜の時間だけ提供される「倍ダブルチーズバーガー」を使ってみた。肉が倍になっている富豪級?の一品である。

 

肉が4枚のチーズバーガーとグラコロの合体である。外したパンにべっとり付いているソース類を合体する側に必死に移してエイヤっと強引に2つをくっつける。この瞬間が堪らない。背徳感の塊みたいな気分になる。

 


 

で、感想はというと「ちゃんとウマかった」の一言である。何よりも食べ応えが最高だ。ビックマックよりも遥かに重量感を満喫できる。ガッツリ気分の時なら最高の一品だ。ただ、唯一の失敗は標準のダブルチーズバーガーを使うべきだったという点だろう。

 

倍ダブチの場合、肉が4枚入っていることがアダとなる。グラコロとの味のバランスがちょっと悪かった。肉の味が勝ってしまいせっかくのグラコロのエロティックなトロ~リ感が薄まってしまった。次回は標準ダブチで試してみようと思う。

 

お次はこれまた富豪とは程遠いカップラーメンの話である。某日、何気なくネットニュースを眺めていたら札幌の味噌ラーメンの人気店「みそ吟」のカップ麺が発売されたことを知る。

 

「みそ吟」は何年か前に札幌に行った際にふらっと入って感動した店である。翌年にも札幌に行く機会があったのだが、あまたある味噌ラーメン屋には見向きもせず再訪した。2度目なのに変わらずに感動した。

 

そんな「みそ吟」の名を冠するカップ麺なら食べないわけにはいかない。ローソンでの限定販売らしいのでネットニュースを見てから数分後にはウーバーでデリバリーしてもらった。こういう行動は富豪級?といえよう。クドいか…。

 



お湯を入れてもどかしい気持ちで待つ。ウッキウキで待つ。普段なら1,2分で食べ始めちゃうのだが、期待の一品だから規定時間を守って待つ。

 

で、実食。ふむふむ。普通のカップ麺だった。美味しいか美味しくないかと聞かれたら普通に美味しいのだが、私の中の「みそ吟」への思い入れのせいでとくに感動はなかった。まあ、カップ麺で感動するほうがヘンテコな話ではある。

 



でも、一応スープの味が実際の店の味に近いような印象はあった。具材はコーンぐらいだ。追加でコーンの缶詰をドカンと入れてスープとともに味わえば束の間の札幌気分が楽しめるような気もする。

 

最近はこうした怪しげな食べ物ばかりに目が向く。富豪を目指しいるのにちっとも実現しないのは、日頃からヤンチャメシばかり食べたがる精神性の問題なのだろうか。

 

 

 

 

2024年12月16日月曜日

ワガママ万歳


好きなものしか食べない。出来そうでなかなか出来ない。例えば美味しい豚汁が出されたとする。豚汁にはなぜかニンジンやごぼうも入っている。そういう敵みたいな食材を避けて豚汁を楽しめばいいのだが、いい歳したオジサマが人前でそんな食べ方をするのは恥ずかしい。仕方なく余計な具材も食べてしまう。すごく残念な我慢である。

 

我慢をせずに生きていられたら幸せだ。そんな路線を目指す私は出来る限り好きなものしか食べないことをモットーにしている。


野菜類は青汁やサプリに頼っている。血圧やコレステロールも薬でコントロールしている。ならばわざわざ苦手なものを口にしなくてもいいはずだ。

 

それでも豚汁の例えのような場面はあるから困りものだ。人様の目線という厄介な制約があると仕方なく嫌いなものまで口にする。私が一人メシ、かつ自宅メシが好きな理由は自分を無法地帯に解き放てるからだろう。

 

ハンバーガーのパンの大半を捨てて中身だけ食べるとか、ピザの生地だけ残して具材だけ食べるとか、フライドチキンの皮と衣を剥がして食べるとかの私が実践している罰当たりメシはすべて自宅での隠密行動である。

 

外食の場合、そもそも野菜が出てこないジャンルを選ぶことが大事だ。お寿司屋さん、鰻屋さんに行く頻度が高いのも実は苦手なヤツらを目にしなくて済むからである。

 

若い頃は焼肉屋ばかりに出かけていたが、あれも野菜抜きが徹底できたからだろう。すき焼き、しゃぶしゃぶだとそうもいかない。どうしても白菜攻撃に難儀するハメになる。

 

最近も私のワガママな食生活は相変わらずだ。このまま病気もせずに生きていられたら、いずれ標本にされるぐらい貴重な検体になるかもしれない。

 

先日、銀座の焼肉屋「にくTATSU」に出かけた。赤身肉を中心に久しぶりに牛肉を貪ったのだが、一番印象的だったのがサイドメニューの「タンかつサンド」だった。ちょっと感激してしまった。

 



かなり厚切りの牛タンのフライが薄いトーストに挟まれていた。ソースとマスタードが味の決め手みたいですべてのバランスが絶妙。普通にタンを焼いて食べるより遥かにウマかった。カラシでななくマスタードが効いていた印象だ。

 

こういう未知の食べ物がウマいとつくづく苦手なものを食べることの無意味さ?を痛感する。それこそ苦手なものを食っているヒマなんかないと叫びたくなる。

 

お次はイクラ丼である。ファストフードの良識派である「なか卯」が期間限定で売り出している。なか卯はウーバーで利用することが多いのだが、ナゼかイクラ丼はデリバリーメニューにはない。仕方なく店舗で「豪快盛り」と名付けられた最上級バージョン!を頼んでみた。

 



豪快盛りはイクラが通常の3倍になるそうだ。画像では分かりにくいが、もっとイクラを平たく盛り付ければ迫力のある見た目になるはずだ。


実際に食べ始めたらイクラがなかなか減っていかないことが嬉しかった。てんこ盛りなのに2千円程度の値付けだったからコスパとしては悪くないと感じた。

 

でも、なんでわざわざネギをトッピングするのだろう。バ◯丸出しである。彩りのためだろうが、ちっとも彩っていない。やっつけ仕事の最たるものだ。


野菜嫌いの私だが、薬味のネギは好きだから最初の一口ですべてのネギを退治した。目障りだから抹消したわけだ。カツ丼の上のグリーンピース並みに無意味なトッピングだ。

 

お次は自宅での自作の一品。牡蠣のパスタである。この日ははごろもフーズの「まぐろのガーリック醤油」というレトルトパスタソースをベースにアレンジしてみた。


牡蠣は20個ぐらい入れたかったのだが、この日はスーパーで調達できた10個だけで我慢する。ついでにアサリの缶詰と別途小さめのツナ缶一個も追加投入。

 



野菜はもちろんナシだ。最後に乾燥バジルを少しふりかけて完成。実に簡単だ。当然、まな板と包丁を使わないという私の自炊ポリシーは遵守されている。簡単に作れるのに本気で美味しく仕上がった。

 

まぐろやツナはDHAとやらが豊富らしいし牡蠣は海のミネラルと呼ばれるし強壮効果もある。おまけに追い投入したオリーブオイルも抗酸化作用が高い。いわば超ヘルシーな一品という見方もできる。

 

屁理屈みたいに聞こえるかもしれないが、良い面だけに注目すれば肉類や魚介類はすべてスーパーフード?である。


イクラだって牛タンだってそれぞれ健康に良い面での特徴はある。そう考えれば好きなものを好きなだけ食べるという行為も実に健康的である。

 

何事もポジティブシンキングが大事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月13日金曜日

隠れマヨラー


マヨネーズが大好きな人のことをマヨラーと呼ぶ。私はマヨネーズにはさほど熱い思いは持っていない。避けているわけではないが、あれをブリブリ投入することに妙な罪悪感を覚える。

 

最近はハム、ソーセージ類をなるべく食べないようにしているが、以前はマヨネーズと醤油をヘドロ状になるまで混ぜてそれをハムにベトベト塗りたくって炊きたてご飯の上にバウンドさせて食べていた。

 

ヘドロマヨ醤油と名付けたその一品はいわば私の青春の味だった。でも醤油と混ぜて色味をマヨ感からズラすことでマヨネーズへの罪悪感を薄めていたような気もする。


ストレートにマヨネーズをぶりっと加えることに対してナゼか遠慮してしまう。どうしても「マヨネーズは罪」という意識に囚われてしまう。

 



だから自分のことをマヨラーだとは思っていないのだが、その一方でタルタルソースをこよなく愛しているのも事実である。あれはマヨネーズがベースだが、強いネーミングのインパクトもあってマヨ感からちょっと離れている気がする。

 

「それってマヨだろ?」と聞かれても「いや、タルタルだぜ」と否定形で答えられるほど別物的なイメージがある。でもタルタルソースの味の80%はマヨネーズの味かもしれない。

 

結局は私も単なるマヨネーズ好きという結論になってしまった。隠れキリシタンならぬ隠れマヨラーといったところだろう。

 

どこの店に行こうがタルタルソースが付属している食べ物があれば脇役のはずのタルタルソースだけの画像を撮影してしまう。これを撮ってどうするんだという感じだが、魅惑的な姿にウットリしてしまう。

 



冬場はカキフライを食べることが多いが、あくまで主役はタルタルソースである。私にとってカキフライが脇役である。ピントだってタルタルに合わせる。食べ物を美味しく撮影するその道のプロでもこういう画期的な作品?は撮らないはずだ。

 

実際に食べる際にも牡蠣の風味などお構いなしにタルタルソースまみれにしたくなる。どっさり盛ったタルタルにソースをちょこっと垂らしてしばし眺める。ボッキュンボンのグラビアを鑑賞するのと同じぐらいハッピーな気分になる。

 



口に放り込めば幸せは一層加速する。牡蠣の風味はほんの少し感じられれば十分である。衣の油とタルタルソース、そしてソースが融合する。まさに三位一体である。エビフライだろうと同じだ。正直に言えば揚げ物の衣さえあればそれだけで「スーパースペシャル三位一体」を堪能できる。

 

ちょっと話が変わる。先日、久しぶりに自宅で寿司飯大会を開催した。自分好みに強めの味付けにした寿司飯を食べることが目的で、刺身類はさほど重要ではない。

 

この日も精魂込めて寿司飯を作ったのだが、回転寿司屋でしか味わえない貴重なネタである「コーンマヨ」が無性に食べたくなって適当に自作してみた。さすがにコーンとマヨネーズを混ぜるだけではあの謎めいた美味しさにはならない。

 

マヨネーズに加えて少量の醤油や麺つゆ、お湯でとかした粉末コンソメなどをテキトーに混ぜてみたら運良くそれっぽい味に仕上がった。

 



色々試している間は缶詰のコーン自体の水っぽさと上記のタレ?の水っぽさが相まってサラッとした汁状のままだったが、何度かザルでこして新たにマヨを追加投入しながら味付けを加減するうちに良い感じに粘っこさも出た。

 

自慢の寿司飯と一緒に海苔で適当にくるんで食べたらちゃんとコーンマヨ寿司として成立していた。なんだか嬉しくてバクバク食べてしまった。


コーンマヨとツナマヨはおそらく30年もすれば江戸前鮨の定番ネタになっているだろう。その頃にはきっと私の先見の明が世間から評価されるはずだ。

 

で、調子に乗って作ったコーンマヨだが、結構な量が余ってしまった。はて、せっかくの逸品を捨てるのも惜しい。というわけで、炒め飯の具材として活躍してもらうことにした。

 


 

いわばコーンマヨチャーハンである。意外に知られていないが、寿司飯って案外応用が効く。ドリアみたいにアレンジされて出されたことがあるのだが妙に美味しくて驚いた覚えがある。

 

塩コショウで炒めるだけでも酢の効果のせいで結構旨味たっぷりの味になる。そこにコーンマヨを投入するわけだからマズいはずがない。


私は天性の料理人と呼ばれるぐらいセンスの塊?だから、具材になるコーンマヨの分量に応じて白米の量や塩コショウの加減を決めた。すべて目分量である。実にテキトーだが勢いでササっと炒めてみた。

 

結果は大成功だった。また作れと言われても無理なほど見事な仕上がりだった。自画自賛である。実際、コーンマヨを作る段階からすべてが目分で、その場の勘に頼ったから二度と同じものを作れないのも確かだ。

 

まあ、それ自体がこういう料理モドキの楽しみでもある。

 

いずれにせよ、マヨネーズをそのままドバドバ食べちゃう勇気がないくせにマヨネーズを基本にしたアレンジモノは必死になって食べたがるのが私の特徴である。

 

結論。なんだかんだ言ってもしょせん私は声高らかにマヨラーだと宣言できない臆病な男なんだと思う。

 

 

 

 

 

2024年12月11日水曜日

冬備え


冬の楽しみといえばアン肝やカラスミ、白子といった不健康系の食べ物だろう。成人病予備軍の天敵、いや親友である。

 




最近、何度か訪ねた銀座の「四季遊」という店で出てきた面々である。ここは夜のオネエサンとの同伴御用達みたいな雰囲気の穴場的な店だ。喫煙可能なのが最高でウマい食べ物もアレコレ用意されている。

 

妙に美味しいマカロニサラダもあるし、キーマカレーや稲荷寿司といったシメにバッチリなニクいメニューもある。カウンター中心のゆったりした造りでメニューに値段表示が無い点など、この街だからこそ成り立つようなお店だ。

 



先日はお稲荷さんを4つも食べてしまった。珍味系をツマミに飲んだ後でホッコリするには最高だった。そのぐらい食べておけば深夜にペヤングを食べずに済むので実に健康的である。

 

いかんいかん、今日は冬の話だった。

 

12月だからまもなく今年のふるさと納税も期限を迎える。今年も寄付金額のワクを使い切れずに終わりそうだ。シャバダバである。

 

来年の確定申告で精算されるとはいえ、先に出費が必要だからセコビッチである私はついチマチマした寄付ばかり繰り返してしまう。ドカーンと何十万もの寄付枠を使えばいいのに、結局、セコセコと返礼品を選ぶのが好きなんだと思う。

 

現在の税制上、ふるさと納税は唯一といえる高所得者優遇制度である。所得が高ければ高いほど寄付枠は大きい。近年のステルス的な増税で可処分所得を減らされ続けた高額納税者にとっては国への意趣返しとしてバンバン利用するべきだろう。

 

で、12月もドシドシ寄付して返礼品がアチコチから送られてくる予定だから予備の冷凍庫を買ってしまった。以前に持っていた予備の冷凍庫は一昨年の引っ越しの際に置き場所に困って処分しちゃったから小型の新製品を買い直すはめになった。

 




テレビ通販の「レジェンド松下」の口車に乗って購入した冷凍庫である。手頃なサイズの割には結構な収納力があったので悪い買い物ではなかった。ダイニングテーブルの横の空きスペースに収めて早速イマドキの冷凍食品を買い漁ってみた。

 

チキンライスやチャーハン、パスタなどを調子に乗って買い過ぎたせいで、ここ数日は冷凍食品ばかり食べている。意味不明だ。年末に向けて冷凍庫の空きスペースをキチンと用意しないといけない。

 

隠れた冬の楽しみになったのが「ジェラピケ」の部屋着兼寝間着である。昨年、男性モノのLサイズが想像以上にゆったりしていることを知って一気に3セットほど買った。モコモコふわふわな生地が私を幸せにしてくれる。

 

帰宅してネクタイを外してウザったいスーツを脱いだ後にジェラピケに着替えた時のアノ解放感は、旅先の温泉に浸かった時の得も言われぬ快楽的安堵感にも匹敵すると思う。

 



話は脱線するが、一応私も現役男だから時には女性相手にちょっとしたプレゼントを渡すことがある。高価で大げさだと何かと問題や誤解を生むのでモノ選びには以前から結構難儀していた。

 

ジェラピケを知って以来、私のそんな悩みは消え去った。自分用の部屋着や寝間着として買うにはちょっと手を出しにくいジェラピケの上下セットをもらって嬉しくない女性はいないらしい。


というわけで今では誰にでも一律にジェラピケを渡す。安直だがそれで万事OKである。




 

 

 

 

 

 

2024年12月9日月曜日

豚いち様

 

何年か前から「徳川慶喜」を身近に感じるようになった。別に縁もゆかりも思い入れもないのだが、今の住まいに近い日本橋を通るたびに橋の揮毫を眺めて彼の達筆ぶりに感心する。

 


 

それだけでなく、最後の将軍・慶喜さんの大好物が豚肉だったと知ったことで妙に親しみを覚えている。一橋家出身の彼のことを「豚いち様」と呼ぶ人もいたらしい。

 

幕末期には薩摩藩の家老が頻繁に慶喜さんから地元の豚肉を所望されて困っていたという話も史実として残っている。鹿児島の黒豚をそんな頃から愛していた点が何だか素敵である。豚肉が大好物の私としてはそれだけで身近に感じる。

 

我が家の冷凍庫に常備している肉類はほぼ豚肉である。いつの頃からか牛肉より断然豚肉派になった。ただただウマいとしかその理由を説明できないのがシャクである。

 

外食する際も肉の気分だったら基本は豚肉を食べたくなる。最高峰?はトンカツだがそれ以外でも何でも好きだ。締まった肉質の食感、脂身の甘みは牛肉よりも軽やかなのが良い。

 



ウナギ気分で老舗の鰻屋さんに行っても、白焼きや鰻重の前に角煮を注文して嬉々として食べてしまう。この画像は日本橋本町にある「大江戸」での一枚。


この店の一品料理は何を頼んでも味付けが江戸っぽく濃い。角煮もしかりだ。甘じょっぱい味付けに悶絶できる。鰻屋さんの一品にしては実に攻めた料理だと思う。

 

薩摩が豚肉文化を広めるきっかけになった琉球王国のソーキも豚肉料理の中ではトップランカーだと思う。骨付き肉の野趣あふれる味付けはそのまま食べても良し、沖縄そばに乗っけても良しである。

 



有楽町の交通会館地下にある沖縄そば専門店に時々行く。沖縄そばが食べたいというよりソーキをグワシっとカジりつきたい気分の時に出かける。


ソーキそばに別注でソーキの単品も頼むのが私のお決まりだ。これだと2千円ぐらいになってしまうが、1000円のラーメンを2杯食べるより満足感は遥かに大きい。

 

鹿児島の芋焼酎や沖縄の泡盛に抜群の相性なのが豚肉料理だろう。それぞれトンコツ煮やソーキ煮を作る際には芋焼酎や泡盛も味付けに使うことがあるそうだから組み合わせて楽しめばハッピーになることは間違いない。

 



大衆料理のエース・モツ焼きも豚肉ラバーには欠かせない食べ物だ。昔と違って今は鮮度の悪いモツ焼きを出す店が激減したからハヤっている店ならまず外さないのも嬉しい。ホッピー片手にガッツリ食べると日頃のウサ晴らしになる。

 

先日、同級生3人で人形町の小洒落た居酒屋「竹とんぼ」を訪ねた。界隈のお店の中ではちょっと上品系?のお店だからモツ焼き盛り合わせも綺麗に盛られて出てきた。わざわざ串を抜いて並べてくれている。3人飲みの席に合わせてこういう配慮をしてくれるのは名店だと思う。

 



煙モーモーのガサツな雰囲気の中でモツ焼きをがっつくのもオツだが、これはこれで私のような上品が服を着て歩いているようなオジサマには悪くない。上品な顔をして上品に食べ尽くした。

 

思えば最後の将軍・徳川慶喜さんの生きていた頃は肉食の黎明期である。そんな時代に豚肉をこよなく愛した人が今の時代にタイムスリップしたら狂喜乱舞するのは確実だろう。

 

年末や正月はナゼか時代劇を見たくなる季節だ。将軍様がタイムマシンに乗って現代社会にやってきて極上の豚肉料理を毎食毎食食べて悶絶するような奇天烈な時代劇を制作してほしいものだ。主演は松重豊で決まりだ。

 

 

 

 

 

 

2024年12月6日金曜日

「女々しくて」待望論

 

ドラマ「不適切にはほどがある」を毎週欠かさず見ていたが、「ふてほど」という略語は初めて知った。流行語大賞だそうだ。ふーんって感じである。

 

今年のハヤリ言葉といえば「裏金議員」、「103万円の壁」、もしくは「5050」が妥当だと感じる。ちなみに大谷選手のホームラン50本、50盗塁の「5050」すなわちフィフティー・フィフティーに関しては日本語の意味さえ変えてしまうほどだと聞く。

 

野球以外の日常会話ではフィフティー・フィフティーといえば、コトが上手く運ぶかどうか「五分五分」みたいなケースで使われるのが一般的だ。「お前、あのコを落とせるかよ? うん、フィフティー・フィフティーかなあ」みたいな感じである。

 

ところが大谷翔平さんの活躍のせいで「フィフティー・フィフティー」を2つのことを同時に出来ちゃう、いわば“両取り”みたいな絶好調を意味する言葉だと勘違いする若者が出てきたそうだ。

 

「契約取れそうか?」に対する答えが“五分五分”なのか、別の契約まで取れそうなほど絶好調なのかでは意味がまるで変わる。大谷翔平の力は日本語の意味さえ変革するほどなのかと変なところで感心してしまった。

 

さて、この時期になるとNHKの紅白に関する話題もメディアを賑わす。今年は、いや今年も知らない歌手ばっかりだが、いい加減、見せ方を大改革しないとダメだと思う。私自身は石川さゆりをじっくり鑑賞できれば一応満足はする。けん玉も飽きたし、ディズニーモノもうさん臭い。

 

具体的にどうしてほしいのか…。ぶっちゃけて言ってしまえば、ヘタに若者に迎合するよりも思い切って3分の2ぐらいは懐メロ大会にしたほうが楽しそうだと思う。子門真人が出てきて「泳げたいやき君」を歌えば高視聴率は確実だろう。

 

ちょっと話は飛躍するが、ゴールデンボンバーは毎年出すべきだと思う。それも毎年「女々しくて」だけでよい。知っている人は少ないが、彼らは毎年年末になるとその年のトピックを「女々しくて」のメロディーに乗せて歌うことを恒例にしている。

 

流行語大賞のノミネートが決まったら即座に歌詞作りに取り組み、それはそれは見事に1年の出来事を振り返っている。ただただ感心してしまう。

 

youtubeのアドレスを貼っておくのでぜひ鑑賞してもらいたい。前半、中盤は歌詞作りのドキュメントで、肝心の歌は最後の5分ぐらいの箇所で披露されている。これはもっと世間から評価されて然るべき才能だと思う。

 

完成まもない2024年版がこれ

 https://youtu.be/YaMNLD1fF58?si=5DI2Sm8bTbhZVCSQ



ついでだから2023年版はこちら

 https://youtu.be/V4g22_ijLTQ?si=MId18Zr74GDGDw-t

 

毎年こんな努力を続けているわけだから紅白には特別枠で毎年出場してもらって、その年の世相を「女々しくて」のメロディーに乗せて歌ってほしい。国民的番組にふさわしい企画だと思う。

 

今日はこんなところでオシマイ。

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月4日水曜日

炊き込もう!

 

某日、綺麗なオネエサンと牡蠣を食べに行った。牡蠣もウナギと同様に男性が元気でいるために大事な食べ物である。寒い季節になると本能的に牡蠣をぶりぶり食べてぶりぶり元気になりたくなる。

 



自宅でも冬になるとヤケッパチみたいな牡蠣のパスタを自作する。レトルトパスタソースに牡蠣を別途加えるだけだが、一度に20個ほど牡蠣を投入して作るパスタは間違いなくウマい。

 

この日は銀座にある「かなわ」という牡蠣中心のメニューが揃う店。焼き牡蠣、牡蠣グラタンの他、変わり種みたいな牡蠣料理をあれこれ食べたのだが、私が一番気に入ったのは牡蠣ではなく鯛の炊き込みご飯である。

 

牡蠣を目的に行ったくせに牡蠣のことはほぼ記憶にない。上等な鯛めしをワシワシかっこんでいる時間が一番幸せだった。

 




 コメが大好きな私は当然のように炊き込みご飯も好きだ。釜飯も好きだ。ピラフも好きだ。リゾットもドリアも好きだ。チキンライスも握り飯も全部好きだ。

 

炊き込みご飯は一見すると地味でパンチが効いていないから若い頃はさほど嬉しくなかったが、正しく歳を重ねてくるにつれてアノ旨味をたっぷり含んだ滋味あふれる感じにワクワクしてしまう。

 

ダシと旨味。これって日本料理の真髄である。それが日本人の心であるコメにまとわりついて出てくるわけだから、まさにワンダフルジャパン!としか言いようがない。

 

その昔、北海道の安宿で1人用サイズの釜飯が出てきたことがある。小さい釜の中にはダシとコメ、そこに少々のタラコだけ。テキトーなツマミを肴に酒を飲みながら待っていたら30分ほどで炊きあがった。そこにバターをひとカケラ落として全体をかき混ぜて完成。ひとくち食べて悶絶した。やたらとウマかった。今でも忘れられない。

 

炊き込みメシのウマさって世間ではさほど話題にならないが、簡単に出来上がる割には凄まじく衝撃的な美味しさだと思う。日本人にとって当たり前過ぎて珍重?されていないが、その実力は世界遺産である日本料理の中でも特筆すべき存在だと感じる。

 

私も一応自炊の真似事をする。自分流の超簡単クッキングの基本は「包丁とまな板を使わない」というこだわりである。その条件の中でも実に手軽に簡単に仕上がるのが炊き込みご飯である。

 

この秋はキノコの炊き込みご飯にハマって何度も作った。「作った」という程の作業を必要としないことが有難い。作業といえばせいぜいキノコを手でむしるぐらいである。

 




2合のコメを炊飯器に入れる。水は少なめにするが絶対条件だ。目盛りでは1,5合あたりの分量で充分だ。そこに醤油、麺つゆ、みりん、酒をちょっとづつ追加。ここからがポイントで、そこに加えて粉末のお吸い物の素を2袋投入する。

 

ネットで見かけた作り方なのだが、どこのスーパーでも見かけるような「松茸風お吸い物」の粉末を使用する。で、ここにむしったエリンギ、ぶなしめじをどっさり投入して炊飯器の早炊きボタンを押すだけである。

 

大丈夫か?っていうほどの量のキノコ類を投入するのも大事だ。奴らは縮む。だから炊飯器のスイッチを押す前は水分が届かないぐらいのカサまでキノコが盛られていてもヘッチャラである。

 

炊きあがったら混ぜ合わせるだけ。ついでにゴマを投入するのもアリだ。茶碗によそったら小ねぎか、ちぎった大葉をテキトーに散らしても良い。たまたまイクラが冷蔵庫にあった時にトッピングに使ったら最高だった。

 


 

たったこれだけで実に美味しい炊き込みご飯が出来ちゃうわけだから炊飯器って素晴らしいと思う。この基本バージョンに鮭を加えるのもオススメだ。

 

鮭の切身を二切れほど用意してフライパンで軽く半生程度に焼く。焼いて剥がしやすくなった皮を捨てて、ついでに身肉をほぐしながらる目に付く骨を除去。それを上で書いたキノコ類たちと一緒に炊くだけである。

 

やはりキノコだけの時より旨味が強まる。よりゴージャス感も出る。色合いという点でもなんだか「キチンと料理したようなシロモノ」に仕上がる。ついでに自分がちゃんとした料理ができる人だと錯覚できてしまう。

 




普通の家庭なら小ねぎをカットするのもひと手間だが、我が家の場合、スーパーで売っているカット済みネギの小型パックを冷蔵庫に常備しているから手間はゼロだ。

 

このブログでは以前にも安直にタケノコご飯を作る話を書いたことがあるが(https://fugoh-kisya.blogspot.com/2022/06/blog-post_13.html)炊飯器一つでいっぱしの自炊気分に浸れることが、しがない?独身男にとっては結構幸せだったりする。

 

 

 

 

 

 







2024年12月2日月曜日

老舗の看板

気づけば12月である。オッタマゲだ。確かつい先週ぐらいに除夜の鐘を聞いた気がするのだが、今年も12分の11が終わってしまった。

 

とかいいながら、例年この時期に行う我がオヤジバンドのライブが終了すると、私にとっては1年が終わったような錯覚を覚える。あとは惰性で過ごしていると新しい年が来る感じだ。

 

11月で野球シーズンも完全終了してしまった。プレミア12もそうだが、高校、大学野球の明治神宮杯も終わってしまった。突如アマチュア野球観戦に目覚めたのが私にとっての今年一番のトピックだったから何だか気が抜けたような感覚に陥っている。

 

ここから先はライブに来てくれた銀座組のいくつかの店にお礼行脚に行ってコスパ的にまったく割に合わない酒を飲んだり、ライブ前の禁欲生活の反動でいろエロな?行動に励んだり、寒空の下で何かと頑張ることになる。

 


 

11月は何かとバタバタしていたからこのブログの更新をサボっちゃうこともあった。いったい何をしていたのかと自分の行動記録を見返してみたのだが、別に騒ぐほど多忙だったわけでもない。

 

相変わらずウナギもドカドカ食べていた。元気が出る食材の代表格みたいなものだから、ひょっとすると何とか日々を過ごせているのはウナギのせいじゃないかと真面目に思うようになってきた。

 

年間にどのぐらいウナギを食べているのか調べたことはないが、シーズン中は毎月大谷翔平のホームランの数と鰻屋さんに行く回数を競っていたぐらいだから普通の人よりは遥かに多いはずだ。

 

牛丼屋で出てくるカジュアル鰻丼も含めたら年間に50回では済まないかもしれない。毎週毎週行くわけでもないが、夏何は4日連続で鰻屋さんに行くこともあったから、やはり月に4,5回平均ぐらいにはなるかもしれない。

 


 

仮に1年間まるでウナギを食べずに過ごしたら一体どれほどの元気が私から失われていくのか。ひょっとすると引きこもって寝てばかりいるかもしれない。逆にまったく食べなくても何も変わらないとしたら私のウナギ愛も怪しくなってしまう。

 

もちろん、美味しいから食べたくなるのだが、ここ数年は「元気になるはず」というおまじないみたいな効果に期待して食べているケースが大半だろう。

 

先日、銀座でちょっとした用事が夜の7時半ぐらいに終わったので、何かウマいものでも食べようとぶらぶらしてみた。結局、ウナギぐらいしか食べたいものが浮かばず近場で探すことにした。銀座6丁目付近にいたのだが、思いつくのは蒸さない関西風の鰻屋さんぐらいだ。

 

タクシーで日本橋エリアまで移動しようかと思ったのだが、それも面倒に感じて銀座シックスの中に「伊勢定」の支店があることを思い出した。横浜だかどっかの支店で食中毒を起こしたらしいが、別な店舗なら気にすることもない。

 

で、銀座シックスの最上階の店に行く。何だか妙に高級感を押し出している店舗だった。こりゃあ外国人観光客向けだなと感じたのだが、頭の中はすでにウナギがニョロニョロしていたから突撃してみた。

 

いやはや高級料亭並みの静謐な空間である。働いているオバサマたちもやたらと丁寧だ。メニューの値段を見たらそりゃそうだと理解したが、逆に考えれば日本橋の伊勢定本店よりもすべてを高値でラインナップする以上、味の方も期待できるのではと割り切ることにした。

 




うざくに白焼きを頼んで熱燗を楽しんでから鰻重でシメることにする。他にも一品料理はあったが高いし、どうせ食べきれないからシンプルに直球勝負である。

 

うざく登場。なんだか普通と違う見た目だ。たいていはキュウリやワカメの酢の物の上にウナギの切り身が乗っているのだが、こちらはウナギの下に万願寺とうがらしである。いくら辛くないとはいえ私にとっては苦手な食材だ。

 

3切ればかりのウナギにはとんぶりがトッピングされていた。まあ、高級志向の支店だからちょっと風変わりなアレンジをしたいのも分かる。でも保守派バリバリの私にとっては迷惑な組み合わせだった。

 

とはいえ、熱燗の出し方が気が利いていたからすぐに風変わりな路線にも理解を示す気になった。燗が冷めないように熱々状態がキープできる容器で提供された。酒の味も非常に良かった。こういう演出に私は弱い。

 



で、白焼きである。焼き加減、塩加減ともに文句なし。とはいえ、妙に小骨が多いのが残念。こればかりはウナギの個体差というか下仕事をした職人さんの個人差もある。我慢我慢。

 

その後、上の画像の鰻重がやってきた。こちらも焼き加減も丁寧で味も悪くない。ちゃんと美味しい。ところがやはり小骨問題がこちらにも存在した。こうなると個体差、個人差とはいえない。単純にダメだと思う。

 

せっかく店内のしつらえやサービス面を頑張っているのに肝心のウナギの仕上がりが不十分なのは論外だろう。実に惜しいと感じた。その点さえ問題なければ接待みたいな場面や勝負メシ?みたいな時に使えそうだったのに残念だ。

 

長年支持されているような老舗人気店の安定感は捨てがたい。看板は老舗でも支店になると怪しくなっちゃうケースはどんなジャンルも同じだ。

 

というわけで、結局ウマいものを食べたい時は、自分がよく知っている味が安定している店に行くべきだと今更ながら痛感した。逆に言えば、歳とともに開拓精神が薄れていくのも仕方がないことだと妙に納得した。