2020年6月15日月曜日

浜離宮 花菖蒲 水上バス


さっぱり分からない東京アラートとやらは解除されたが、世界に目を向ければ今も1日で10万人規模の感染者が発生しているから油断は出来ない。

海外との往来もいつまでも制限できないから、パンデミックが過ぎ去ったつもりでホゲホゲ暮らすわけにはいかないわけだ。

この暑さの中でもマスクをしていないと変な視線を浴びがちだ。マスクの中が汗だらけだと二重アゴ解消には効果がありそうだから良しとしよう。

休日に散歩に出ても結構な人出だ。わが家の近くには隅田川が流れているのだが、川沿いは墨田テラスという名前で遊歩道・公園みたいに整備されている。

散歩にはもってこいなのだが、マスクもせずにゼーゼーとランニングしている人も多い。ちょっとイヤだ。

もっと人のいない快適な場所はないかと考えて、先日はタクシーに乗って新橋に近い浜離宮庭園まで足を伸ばした。




元は徳川将軍のレクリエーションの場だ。世が世なら庶民は立ち入れなかったわけだが、今は300円払えば快適な散歩が楽しめる。

休日でもあまり人はいない。観光客がいないからガラガラだ。感染対策上は実に安心な散歩コースである。300円で安全が買えるなら安いものだ。

都内の有料の公園は今更ながら散歩に最適だ。文京区に住んでいた頃は、すぐそばに小石川植物園、少し行けば六義園があったから時々ぶらぶらと歩いた。小石川後楽園も穴場だった。

新宿に住んでいた頃は新宿御苑に行ったし、杉並区の実家住まいの頃にも井の頭公園まで出かけた。

無料の公園も含めれば都内には結構快適に散歩できる大型公園は多い。今回初めて行った浜離宮は水辺もあって、まさに都心のオアシスのように感じた。



さえない梅雨空の散策だったが、紫陽花や花菖蒲が目を楽しませてくれた。春の花も良いが今の時期も魅力的な花は多い。

スマホのカメラを花に向けるとその場で花の名前を教えてくれる便利なアプリを教わったので、花菖蒲とやらの名前を知ることが出来た。便利な時代になったものである。

浜離宮で歩き疲れて、帰路はまたタクシーに頼ろうかと思ったのだが、公園内に水上バス乗り場があった。

おまけにタイミングよく浅草方面行きが出発間近で、次の停船場所はわが家にほど近い聖路加ガーデン前だという。わずか5分程度の乗船時間だ。まさにバス的な使い方である。料金は400円。

5分で400円は高いようにも思うが、タクシーだったら700円ぐらいの距離だからコスパは悪くない。おまけに人のいない屋上デッキで風を浴びての快適な時間だ。感染対策上もバッチリである。



ただ歩くために300円、少し移動するのに400円。二人だったら2倍必要だ。これって倹約家からみれば無駄に思えるだろうが、今のご時世、人混みを避けて快適に過ごすためにはちっとも贅沢ではない。

Uber Eatsで割高な値段設定のメシを注文したり、妙に高い配送料を取る店を選ぶことを思えば、こういう出費ははるかに建設的?な出費だ。

ちなみに、この数ヶ月、Uber Eatsを使いまくったので、クレジットカード明細からウーバーの分を抽出して計算してみた。

先月の1ヶ月だけで5~6万は覚悟していたのだが、想像以上だった。ウン万円、いや“言えない万円”だった。

一人暮らしとしては異常な金額だ。反省しようと思う。

2020年6月12日金曜日

煩悩王、抗体検査、五輪

煩悩王。お笑いタレント渡部のスキャンダルを報じるメディアの表現だ。実に的確な呼び方だ。



高級料理を食べまくり、美人女優と結婚し子供も生まれて幸せそうなのに、セフレとムホムホ三昧だったわけだから、まさに煩悩の塊だ。

世の中のバッシングはかなり厳しい。まあ仕方ないことだが、そうは言っても仕事を全部失うような話なのだろうか。世の中に溜まりまくっているフラストレーションのはけ口が全部彼に集中しちゃったような雰囲気もある。

嫉妬の怖さみたいな感じもある。ハタから見れば最高のライフスタイルだったから嫉妬の裏返しが猛烈なバッシングにつながる。

私は渡部ファンではないし、どちらかといえば嫌いなタイプだ。擁護するわけではないが、要は浮気だ。浮気というより”浮身”と表現したほうがいいかもしれない。覚せい剤でもなければ人を殺めたわけでもない。変な話、奥さんが美人だったからコトがやたらと大きくなっている気がする。だとしたらヘンテコな話だろう。

浮気を肯定するわけではないが、そんなものは当事者がゴタゴタすることであって、奥さんや迷惑をかけたセフレとの揉め事に他ならない。

昭和の頃に浮名を流しまくった勝新やショーケンに対して「そんなもんだろう」と反応していた世の中と今の社会の空気はずいぶん変わった。昭和の火野正平はメディアに追いまくられてもケロッとしていた。

そういえば、その昔、幼女わいせつという許しがたいトンデモ事件を起こしたプロ野球のピッチャーだって、その後、普通に復帰して試合で投げていた。いまさらながら社会の変化に驚かされる。

まあ、あれだけの売れっ子だったのだから、そんな社会の様相をちゃんと警戒しきれなかった彼の失態ではある。

それにしても場所が「トイレ」である。なんともまあショボイ話だ。不倫で使うアパホテルでポイントを貯めていたことで非難された某袴田さんや、愛車ランドクルーザーの車内が定番だった某原田龍二さんもそのセコさが叩かれたが、トイレに比べればマシだ。

いわば、セコいと批判された彼らの”復権”になったわけだ。ついでにいえば、かつて高年俸なのに五反田のラブホを使ったセコさが揶揄された元巨人の某"モナ岡"選手だって復権である。

不倫は蜜の味、人の不幸も蜜の味だ。だから浮気だ不倫だと大騒ぎする風潮はまだまだ収まらないだろう。なんだかんだ言ってバレたら負けだ。

さて他人の浮気話だけで終わるのもシャクだから話題を変える。

先日、抗体検査を受けてきた。このブログでも「感染済みかも」と書いたことがあるが、今年初めに高熱で寝込んだことなどで、ひょっとしたら既にコロナの抗体があるのでないかと期待していた。

行きつけのクリニックから抗体検査キットが届いたという連絡を受け、いそいそと出かけてきた。採血して15分ほど待って結果が出た。まったくの無反応だった。現在はもちろん、過去にも感染歴はなかった。まだまだ慎重な行動を続けなければならない。残念である。



ソフトバンクグループが全社員4万4千人に抗体検査をしたところ陽性だったのは0.04%だったとか。数千人に一人ということになる(計算が違ってたらゴメンナサイ)。おまけに店舗スタッフより本社やコールセンター関係者のほうが陽性率が高かったそうだ。

なんだかよくわからないが、こうなると日本人は「滅多にコロナにはかからない」という話に思えてくる。抗体検査そのものの精度やウイルス自体に謎が多いから滅多なことは言えないが、謎は深まるばかりだ。

もちろん、高齢者が亡くなるリスクが高いのは確かだし、無症状の人が活動しまくっている以上、感染が収束しないのも事実である。ワクチンも特効薬もない以上、今年の秋冬からまた大騒動になるのは至極当然のことだと認識する必要はあるだろう。

先日、来年に延期されたオリンピックを簡素なスタイルにするという方方向性を組織委が示した。必死に開催に向けて頑張っている方々には申し訳ないが、本気で来年オリンピックをやれると思っている人は果たしてどのぐらいいるのだろうか。

センバツ出場校を招いての特殊な交流試合を開催することは決まったものの、例年通りの夏の甲子園すら出来ない状態の国である。わずか1年後にオリンピックを行うことは現実的ではないだろう。

五輪中止を語ることがまるでタブーみたいになっている点が気になる。政府や関係者が本音では開催は無理と思っているにもかかわらず、ババを引きたくないとか、メンツがどうだとか、そういう思惑でダラダラと時間を経過させれば、莫大な経費が流出し続ける。

コロナ禍が秋冬以降から再燃すれば、今度は長期戦になる。対策予算も青天井になることを想像すれば、何が必要なのかは自ずと分かる。取り越し苦労になったとしたらそれはそれで喜ばしいが、危機管理という意味では楽観は禁物だ。

なんだか今日は話がアチコチに飛んでしまった。

2020年6月10日水曜日

カレーを食べてきた歴史


「今日はカレーよ!」
「ワーイ、やったあ!」。

昭和の夕暮れを思い起こさせるフレーズである。あの頃、いや今も世の中の子供にとって“お母さんのカレー”は御馳走だ。

私は苦手だった。アマノジャクで言っているのではない。本気で苦手だった。

理由はただ一つ。野菜である。お母さんカレーは私に言わせれば野菜料理だ。子を思う親心が生んだ食べ物である。

いつだったか、私が子供達に会いに出かけた際、元嫁さんが作っていたカレーをみて卒倒しそうになった。数々の野菜に加えインゲンまで投入されていた。

児童相談所に通報しようと思ったほど衝撃的だったのだが、子供達は慣れているせいで普通にバクバク食べていた。

妙な疎外感と孤独を感じた一瞬だった。

私は生まれた時から野菜が嫌いだ。世間にそう公表していたにもかかわらず、子供の頃に食べる家でのカレーといえば、芋やニンジンが当然のようにゴロゴロ入っていた。

嬉しくなかったなあ。

次の日になると一層美味しくなるとか言われるが、私にとってはマユツバだ。イモが溶け出してジョルジョルした食感が強まるから全然ダメ。

いま思えば罰当たりなガキである。でも、大人になった今もそういうカレーは苦手だ。



当時、ボンカレーが一世を風靡していたが、あれにも困った。パッケージからしてお母さんカレーがコンセプトである。芋やニンジンが主役みたいな食べ物だ。

いまやボンカレーも進化して昔とは比べられないような凝りまくった種類も発売されているが、芋やニンジンは常に不動のポジションだ。だから私は苦手だ。

カレーはもはや国民食と呼ばれる。その原点がそれぞれの家での“お母さんカレー”である。そう考えると私は「非国民」なのかもしれない。

小学生の頃、学校の近くにインドカレーの老舗「アジャンタ」があった。親に連れて行かれて初めて食べた時は衝撃的だった。

辛さそのものに衝撃を受けたのだが、それと同じぐらいに具が鶏肉だけだったことに嬉しい衝撃を受けた。芋もニンジンも見当たらない。素直にハッピーだった。

アジャンタは今は麹町店だけになったが、今も時折無性に食べたくなる。私にとって本格インドカレーの原点みたいな店だ。

その後、私が大学生ぐらいの頃だろうか、レトルトの世界に「カレーマルシェ」が登場して風向きは変わった。野菜ゴロゴロとは無縁のカレーだ。

芋やニンジンを排除したカレーは欧風カレーやインドカレーの世界では珍しくなかったが、普通に家で食べるレトルトカレーというジャンルにおいてはあれが革命的だった記憶がある。

今はレトルトカレーも進化して、昔のような非常食的なイメージは無くなった。高級路線になればヘタな店で食べるより美味しい。



ひとつ2千円を越えるようなレトルトカレーも試してみたことはあるが、カレーの好みは人それぞれだ。必ずしも高ければ良いというわけでもない。

私が好きなガヴィアルのカレーと100時間カレーは同じメーカーの商品だ。このほかにはヱスビーのプレミアムフォンドボーディナーカレーのレトルトも好きだ。

だいたい一つ400500円ぐらいだ。レトルトにしては高いが、“本気レトルト”って感じのこういう価格帯には想像以上にウマいカレーがいくつもある。

結局、欧風系が好きみたいだ。私の場合、カレーを食べるのは朝が多い。朝カレーだから辛すぎるのはイヤだし、バターチキンとかもキツい。自ずとマイルド系になる。

マイルド路線を前提にしているわけだから、ちょっと偏った意見ではある。本気でウマいレトルトカレーを探している人にはあまり参考にならなくてスイマセン。

余談。前にも書いたが「なか卯」のカレーが妙にウマいので、相変わらず誰彼構わず勧めまくっている。回し者みたいである。牛丼「松屋」のカレーもウマいが、私は「なか卯」派である。

まとめ。とにかく、大人になって良かったことの一つが野菜ぶりぶりカレーから解放されたことである。

その一点だけでもオジサンとして生きていることは素晴らしいと思う。

2020年6月8日月曜日

豚丼と日本人の呪縛


東京には豚丼専門店が少ない。由々しき問題だ。1300万人都市にしてはごくわずかな数だろう。

人口16万人の帯広市は街を歩けば豚丼屋だらけだ。素晴らしいことだと思う。その一点だけをみれば私は帯広に移住したい。



都内で肉系のどんぶりモノと言えば牛丼である。まさに完全制圧だろう。徳川家康みたいだ。

牛丼屋がおまけみたいにメニューに加えている豚丼はあるが、たいてい美味しくない。きっと豚丼勢力が増長しないように、わざとシャバダバな商品にしているのだろう。

知る人ぞ知る人気店「豚大学」にしても都内に3店舗しかない。その他の人気店も個人店が中心で、学生街にぽつんとある程度だ。



豚丼勢力が伸び悩んでいる大きな理由がある。すなわち「牛肉は豚肉よりエラい」という日本人に染み渡った固定観念である。

昭和の高度成長期の人間模様を描いて大ヒットした映画「ALWAYS 3丁目の夕日」では肉じゃがの肉が豚だったことに生意気な子供が文句を言うシーンがあった。

豚は安モノ、劣るモノ。そんな呪縛に囚われている日本人は想像以上に多い。牛丼があんな安く食べられるのに、豚丼専門店の豚丼のほうが高価なわけだから、牛丼の家康状態は揺らがないわけだ。

そりゃあ牛丼だってウマい。大昔より肉もマトモになったが、そうはいっても出がらしみたいな肉である(すいません、言い過ぎです!)。すき焼き重、ステーキ丼といった本格派の牛と比べれば別モノみたいな肉だ。

だからあの値段で提供される。それをしっかりとマトモな豚肉を使った豚丼と比べて、高い安いを考えるのは意味が無い。

豚肉のほうが牛肉より美味しい。私はそういう感覚だ。牛丼が300円ぐらいで食べられるとしても、1000円超えのウマい豚丼があればそっちを選んでしまう。

わが家の冷凍庫には牛肉はない。肉は豚肉だらけだ。週末の朝昼兼用メシは豚肉を焼いて食べることが多い。いろんなタレが常備してあるので、その日の気分で使い分ける。

先日Uber Eatsで豚丼を探してみた。芝公園にある「じゅじゅ庵」という店があったので早速注文してみた。




醤油ベースの味付けの豚丼とガーリック風味の豚丼を試してみた。バイクで10分以上かけて運ばれてきた割にはさほど冷めていなかったので大満足。近くに住んでいたら頻繁に通っちゃいそうだ。

わが家のそばにある「日本豚園」という居酒屋が宅配専門メニューにしている豚丼もちょくちょくウーバーで持ってきてもらう。今後は「じゅじゅ庵」もヘビーローテーションになりそうだ。

先月このブログでヤケッパチみたいなチャーシューメンの話を書いた(http://fugoh-kisya.blogspot.com/2020/05/blog-post_13.html)が、その店のチャーシューにすっかりハマってしまった。

先日はチャーシューだけを持ち帰って豚丼にアレンジしてみた。我ながら素晴らしい発想だと思った。



速攻でかっ食らってしまったので画像はない。市販の豚丼のタレを軽く合わせながらフライパンで軽く温め直し、ほかほかご飯の上にデンと並べてみた。幸せだった。

最近はちっとも旅行計画が立てられないので、貯めまくっているマイルが少しずつ有効期限が近づいている。

失効しちゃうのはシャクに障るから近いうちに帯広に飛んで豚丼屋めぐりでもしてみようかと思う。

2020年6月5日金曜日

マズいアメリカ、マズい炊き込み


アメリカがマズいことになっている。人種差別問題をきっかけにした抗議デモが暴徒化し、首都ワシントンに軍が配備されたとか。マズい事態である。

世界の警察と呼ばれた頃のイメージは地に落ちたと言ってもいい。物騒な国、乱暴な国、オッソろしい国である。なんだか切ない。

切ない理由は私自身が自分がアメリカに憧れた世代だからだ。音楽、ファッション、食べ物に至るまでアメリカが最高!みたいな空気の中で子供の頃から若者時代を過ごしてきた。

憧れていたというより、憧れるように仕向けられていたのだろう。戦後統治をきっかけに刷り込まれた「アメリカって凄いんだぜ」という感覚は、戦後生まれならほとんどの世代に共通している。

私自身、学生時代は「ベストヒットUSA」を毎週欠かさずチェックし、フォード・ブロンコやシボレー・ブレイザーに憧れ、ウェスタンブーツを履いてカッコつけていた。

街にはナゼか派手なスタジャンを着て、ドジャースなど大リーグ球団のヘルメットを合わせる若者が溢れていた。

行きたい旅先もヨーロッパより断然アメリカだったから、私も実際にパリの小径に佇むよりロスの雑踏に身を置く方が嬉しかった。

まさに「偉大なるアメリカ」って感じだった。そんなアメリカがマズいことになっているのは何となく淋しい。

戦後の日本にとってはアメリカは親みたいな存在だったわけだが、その功罪はともかく、今は時代の転換期なのだろう。

トランプ政権が繰り出す数々の“アメリカの本音”をオヨヨ~、マズいぞ!って感じる人は多い。単なる追随が既に限界にあることは明白だ。

マズい事態のあの国とどう向き合うかは成熟した日本に突きつけられた厄介な課題だろう。

マズいマズいと書いたついでに、マズい食事の話に移ろう。なんともまあ強引な話題転換である。

先日、油断してマズい食事を作ってしまった。味付けには天性の才能があると根拠もなく勝手に思い込んでいる私にとっては惨劇だった。

とある日、チキンライスっぽいもの、ピラフっぽいもの、炊き込みご飯っぽいものが食べたい気分になった。

要は白米じゃないメシが食べたくなったわけだ。思いついたのが炊飯器任せの簡単炊き込み作戦である。

かつてレトルトパスタソースを使って上手に即席ピラフもどきが作れた経験と、アレルギーが気にならなかった頃に頻繁に作ったサバ缶を使った炊き込みメシの成功体験があったせいで、余裕しゃくしゃくで取り組んでみた。


2合の米に水は1.4合分ぐらいの量を投入。そこにレトルトのミートソースを1人前、塩こしょうをテキトーに、そしてぶつ切りのチキンをドカドカ投入、他にトマトケチャップを4周分ぐらいビューッ、隠し味のつもりでウスターソースを2周分ぐらい追加して、早炊きでスイッチをポンである。



出来た時の画像だ。なんだかマズそうである。

食べてみた。マズい。今時はしっかりマズいものを食べる機会はなかなか無い。ちょっとマズいだとか、あまりウマくないという食べ物はあるが、明確にマズいというケースは貴重だ。

仕方なくケチャップを追加でブチユっとかけてみた。ちょっとは食べられる味になった気がした。



結局、鶏肉ばかり食べてコメの多くを残してしまった。敗北である。

以前、上手に作れた時との違いを考えてみた。

バター、オニオンペースト、粉末コンソメといったメンバーを招集するのを忘れたのが大きな敗因だろう。

簡単クッキングとはいえ、用意万端にして気合いを込めて挑まないとマズいものしか出来ない。

反省だ。ケチャップばかり好むアメリカ人なら食べてくれたかも知れないが、ビミョーである・・・。

なんだかシッチャカメッチャカな結論になってしまった。



2020年6月3日水曜日

デブのコツ


なかなか体重が落ちない。マメに歩いたり、乗っているだけで運動になるというブルブルマシーンを使っているが、ちっとも効果はない。



この歳になると基礎代謝が無くなっちゃうから、呼吸しているだけで太る。アクビをしたら1キロぐらい増える気がする。

さて、デブの原因は食べ過ぎである。言い換えればデブになるコツはバカみたいに食べることだ。これは真理だ。

自分の行動分析をして気付いたのだが、私がデブになっているのは「複数」がキーワードである。

外食の場で1品しか注文しないというパターンは私にはない。飲み屋ならいくつかツマミを頼むのは普通だが、酒抜きの場でも複数の注文をしてしまう。

ラーメンにも餃子を追加するし、ソバ屋に行っても暖かいソバと冷たいソバを頼むのが標準形である。

先日、久しぶりに日本橋の「大江戸」にウナギを食べに行った。まだまだ飲食店は大混雑という状況にはない。人気店にも予約無しでふらっと入れることが多い。

だからまた太るという悪循環でもある。

鰻重だけを食べてサッと帰るのもイキだが、私はどうしてもそれが出来ない。ダラダラとアレコレ食べながら過ごしてしまう。



アンキモ山椒煮と生ウニで冷酒をカピカピ飲み始める。幸せだ。鰻屋さん独特のアノ香りの中でウナギを待ちながら飲む時間は最高だ。

このあとで鰻重を食べればいいのに、そうしないところが私がデブでいるコツである。



白焼き登場だ。わさび醤油で楽しむ白焼きは冷酒のウマさを引き立たせる。日本酒だって高カロリーだからデブという見地からは悪循環である。

白焼きでウナギをしっかり一尾食べているのだから、ここで終了でもおかしくはない。カロリー的にも充分だし、白焼きを食べ終わった時点で、冷静に考えれば空腹ではなくなっている。

でも、でも。でもである。この後、鰻重を食べずに帰ることは難しい。それが常識だ。常識であり流儀であり仁義でありマナーであり習慣である。



で、鰻重がやってきた。せめて一番小さいサイズを頼めばいいのに、ウナガー、ウナギストとしての矜恃がそれを許さず、大きめのサイズを注文してしまう。

デブ完成である。

別な日、胃と腸の検査後に洋食屋さんの揚げ物およびタルタルソースが食べたくなって「銀座スイス」に出かけた。カニクリームコロッケとエビフライを両方注文しようと思ったのだが、体重を気にして断念、ミックスフライだけにしてみた。



これにご飯をもらえば充分に幸せなはずだが、そうはいかないのが私の病的な特徴である。

こういう店のライスは盛りが上品なのが問題である。ダンディーなふりをしながらの一人メシだ。「ご飯は大盛りでね!」と明るく頼む勇気はない。自意識過剰なバカである。

悩んだ末の結論はオムライスだ。ライス大盛りよりカロリー的には断然多い。でも腹ペコだったせいで、余計な注文の仕方をしてしまった。



デブ完成である。

つくづく思う。後悔ってどうして後からやってくるのだろう。ウナギの時もオムライスの時も、注文したり食べている時は単に幸せでウッシシな気分だった。

たいていは翌日に後悔して自己嫌悪になる。分かっちゃいるのにやめられないってヤツである。

何十年も同じことをしている。そんなブレない愚かさもデブのコツだろう。

2020年6月1日月曜日

歴史モノ


最近、時代劇を観たり、時代小説を読む機会が増えた。きっと非日常に浸りたい気分がそうさせるのだろう。

歴史上の架空の話である。非日常の極みだ。何かと厄介な今の世の中から目を背けたくて、究極のアナログな世界の中に逃避しているわけだ。

自宅で暇なときはAmazonプライムで無料で観られる時代劇を楽しんでいるが、最近ハマったのが、「山本周五郎時代劇 武士の魂」という番組だ。



3年ほど前にBSで放送されていた一話完結式の時代ドラマである。あまり有名な俳優は出ていないし、全体の作りがちょっとシャビー?な感じもあるのだが、物語自体に力があるからグイグイ引きこまれた。

1話あたり45分程度だからラクチンだ。映画みたいに構える必要はない。出演者も毎回違うからいちいち新鮮だ。



お茶をすすりながら、私が大好きな越後製菓の「きなこ餅」を食べながら作品の世界に浸る。実に快適。今の私にとって一番安らげる時間である

Amazonプライムといえば、いま私がイライラして仕方がないのが映画「柘榴坂の仇討ち」がナゼか視聴できないことだ。

権利の関係なのか、「現在再生できません」という表示がずっと続いている。以前、映画館で観たのだが、最近になって原作本を読んで感動しまくったので改めて観たくて仕方がない。

ヤフオクでレンタル落ちの中古DVDも探してみたが見つからない。困った困った。



原作は浅田次郎の短編集に収録されている。「桜田門外の変」で主君を守れなかった護衛役の武士をめぐる維新後の切ない姿を描いている。

何とも言えない男の悲しさ、武士の矜恃みたいな世界が切なくて泣ける話だ。時代の移り変わりについて行けないという点では、現在の中高年だって身につまされる話である。

時代劇や時代小説が魅力的なのは、潔さやスジの通し方みたいな部分が爽快に思えるからだ。見終わった後、読み終わった後にジンワリしながらすっきりした気分になる。

先々週のことになるが、仕事で書いたコラムにも歴史モノの魅力をマクラに使ってみた。ついでだから、そのまま載せてみる。


▼私事で恐縮だが、家にいることが増えたせいで読書の時間が増えた。このところ時代小説ばかり読んでいる。山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平等々、どの作品も独特の味わいがある
 ▼なぜ今になって時代小説ばかり読むのか不思議に思ったのだが、多くの作品に共通する人間の矜恃みたいな部分に惹かれていることに気づいた
 ▼「徳」、「信」、「義」といった今の時代では時に綺麗事と片付けられてしまうような往事の人々の生き様に潔さや清々しさを感じる。自分もそうありたい、世の中にもそうであってほしいという気持ちになる
 ▼コロナ渦という大変な状況の中で無理強いされそうになった検察庁法改正案。いったんは取り下げられたが、廃案ではなく継続審議だ。絶対的な数の力を持つ政権与党はこの秋にも成立を目指すという
 ▼検事総長を違法に任命する暴挙を正当化する滅茶苦茶な辻褄合わせが発端だ。「徳」は誰かさんの「得」、「信」は不審の「審」、義はまさに「偽」に置き換えられる
 ▼矜恃のカケラも感じられない。絶望的な悪政だ。時代小説に例えるなら悪代官による“勧悪懲善”である。あり得ない話だ。