2022年2月18日金曜日

寿司の修行


このブログでは寿司の話をどのぐらい書いてきただろう。随分アレコレと持論を展開した気がする。イマドキのおまかせ一辺倒のやたらと高価な寿司屋の在り方にブツクサ言ってみたり、かといって職人の矜恃が感じられないダメな店を嘆いてみたり、国民食である寿司に関してはいろいろと思うところがある。

 


 

ネットのクチコミが評価の基準みたいになっている今の時代、お寿司屋さんの良し悪しは分かりにくくなった。ラーメンの世界と同じで「普通」というカテゴリーがないがしろにされている傾向がある。

 

ラーメン屋さんもこねくり回したような得体の知れないラーメンばかりが話題になり、街場のごく普通に美味しいラーメン屋さんは世間の評価という点では埋没しがちだ。

 

どんなジャンルの料理も同じだろうが、お寿司屋さんもさまざまだ。回転寿司から住宅街の個人店、繁華街の宴会中心の店、昔ながらのワザに固執する店、ミシュランに載るような尖っている店まで多種多様だ。

 

30歳ぐらいのまだ若かった頃、私はとある修行を始めた。寿司屋の客としての修行である。お寿司屋さんのカウンターに一人で座って絵になるようなオジサマになりたいと決意したことがきっかけだ。それはそれで修行である。

 

随分とお金も使った。数限りないほどアチコチの店のノレンをくぐり、時には恥をかいたり叱られたり反省ばかりの修行を重ね四半世紀が過ぎた。一人で5万円を超えるようなお勘定になったことも何度もある。いや、それより高い店も経験した。

 

少なくとも修行を始めた頃よりは知識も増え、空気の読み方も分かるようになったのだが、それとともに逆に修行に向ける執念が弱まり今では開拓精神は薄まってしまった。

 

別に何かに辿り着いたつもりはなく、いいお店があれば通ってみたい気もするのだが「まあだいたい分かったよ」的な達観の境地に入ってしまったみたいだ。

 

結局のところ、行きやすい立地にあってそこそこ私の好みや路線を知ってくれている大将がいて、その店ならではの気の利いたツマミもあって、肝心の握りはシャリが私好みで、ついでにいえば一人3万とかアホみたいな値付けをしていない店なら間違いなく快適だ。今はそんな店に週に一度ぐらい通ってる状態だ。

 


 

ツマミを34品、刺身もちょこっともらって、アルコールは最初のビールに続きお銚子を2本か3本程度で済ませて握りを8貫ももらえば満足だ。

 

最近はそんなパターンで1時間からせいぜい1時間半で済ませる。その昔はお寿司屋さんに行けば2時間を超える長っ尻が普通だったが、今は随分と簡略化?してきた感じだ。

 

客としての“修行”をサボるようになってから、その昔は敬遠していたようなチェーン展開している大箱系のカジュアルなお寿司屋さんにも行く機会が増えた。

 

どうでもいい相手との会食の際に使わせてもらう。どうでもいいと言っても悪い意味ではない。ドカ食いする若者とかグルメ指向に無縁な人とか、義理で食事をご馳走するハメになった若い女性なんかを連れて行くには最適だ。「普通」の感じが使い勝手の良さだろう。

 

職人さんとの距離が近すぎず、写真付きのメニューもあって、ウンチクなんか引っ込めて居酒屋感覚でいろんなものをバンバン注文して気軽に過ごせるのがメリットだ。

 


 

この画像は「築地すし好本店」で出されたふぐ刺しとヒレ酒だ。大箱系カジュアル店とはいえこういう気の利いたものが出てくるわけだから悪くない。

 

もちろん客単価が違うから高級店に比べればネタの質に劣る点はあるが、大資本ならではの大量仕入れの強みもあってウマいものは結構ある。やる気のない個人店で何かをゴマしたようなネタを口にするより遙かにハッピーだ。

 

築地界隈には他にも「築地玉寿司本店」があり、こちらも時々利用する。大箱系のお店はアルコールの種類も多く普通の寿司では出てこないようなジャンクな一品料理もあるのが楽しい。

 

ここでは車海老の茹でたてを握ってくれたり季節ごとに結構上質な旬のオススメもあって、いわゆる寿司飲みをするにはちょうどいい頃合いかも知れない。

 

大箱系の店はたいていシャリに気合いが入っていないことが残念な点だ。さすがにそのあたりはいっぱしの高級店とは大きく差が付く。一品料理をアレコレ食べながら酔っ払ってシメにちょっとだけ握りをもらうパターンになる。

 

とはいえ、この種のお店にはそれっぽいお寿司屋さんでは決して食べられない怪しげな寿司があるのが実は嬉しい。

 


 

アボカドサーモンロールである。まさに邪道である。でもその邪道こそが嬉しい時もある。


江戸前にこだわる老舗寿司屋で「やっぱり煮蛤が最高だ」などと気取るのも良いが、カジュアルな店で「アボカドサーモンロールちょうだい」と注文する時の高揚感!は独特だ。

 

普段「オレって寿司には結構うるさいんだよ」みたいな顔でウンチクを語ってしまう自分の殻を破って、本当はただのジャンクフード好きなオッサンであることを世間にさらしたような解放感に浸れる。

 

麗しきマヨネーズの曲線を見ながら、四半世紀にわたった寿司客修業時代に思いを馳せる。随分と分かったような顔をして邪道か否かを熱く語ってきた。寿司を語るにも肩に力が入っていたような昔が懐かしい。

 

気付けばアボカドサーモンロールを喜色満面で頬張り、「コーンマヨもあれば最高なのに」などと口にするようになっている。

 

世の中結局そんなものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

2022年2月16日水曜日

水パイプ シーシャ


若者の間でシーシャが大人気だ。私のような昔の人間からすると水パイプと呼んだほうがシックリくるが今ではシーシャという名前を知らない若者がいないぐらい浸透しているようだ。

 


 

15歳でタバコを覚えてしまった私は煙が出るものはたいてい好きだから葉巻も大好きだし、シーシャも当然嫌いではない。

 

葉巻を覚えたのは20代半ばの頃。潜水旅行で頻繁にカリブ海に出かけていたのがきっかけだ。現地のオッサン達がごく普通の感じで咥えている姿に惹かれて地元の葉巻屋さんで一から教わった。

 

それこそTシャツにビーサンでラフな感じに葉巻をくゆらす光景が印象的だったので、日本のやたらとカッチョいいシガーバーで妙にキラキラしたグッズをひけらかしながら葉巻をくゆらす文化がちょっと苦手だ。

 

アマノジャク精神と節約志向?のせいでカッターもライターもあえて安物を使い、季候の良い時期に屋外でボケっと楽しむのが一番だと思っている。

 

シーシャを知ったのは葉巻デビューからちょっと後のことだ。25年ぐらい前にエジプトを旅した際に体験したのが最初だ。

 


 

紅海沿いのリゾート地・シャルムエルシェイクではレストランやカフェ、バーなど多くの店で水パイプが主役のような感じで置かれていた。夜な夜なプカプカとふかしては中東気分に浸っていた。

 

すっかり気に入った私は手軽な値段の水パイプを購入し家でも楽しもうと思ったのだが、50キロ以上もの潜水撮影機材を持った旅だったので、手荷物で運ぶのが億劫になって途中で手放してしまった。

 

あの時、ちゃんと持ち帰っていたら今頃は老舗シーシャバーのオーナーとして暮らしていたかも知れない。さすがにそれはないか。

 

その後は海外旅行の際にシーシャを置いてあるカフェやバーを見つけて楽しむぐらいだった。まだ日本にシーシャバーなどなかったので、私にとっては異国で楽しむアイテムだったわけだ。

 


 

この画像はスペインを旅した際の一枚だ。スペインはエリアによってはアラブ的な空気が濃いからシーシャを置いている店はそこら中にあるのが印象的だった。歩き疲れて一息入れる際のシーシャがウマかった。

 

10年ほど前に池袋をさまよっていた時にシーシャバーを見つけ入ってみた。たまたまその店が悪かったのか、なんだかワルの巣窟みたいに小汚く暗くてヘンテコな雰囲気の店だった。

 

客層もチンピラみたいな若者だらけでスーツ姿のオジサマである私の場違い感は半端なかった。それこそカリブ海で普段着の気軽な葉巻を経験した後に東京のカッチョいいシガーバーに入った時の違和感と同じヘンテコな感じだった。

 

さりげない感じとは程遠く、皆さんシーシャをふかすことに妙にイキってしまっている感じが気持ち悪くて早々に引き上げた。

 

それ以来、シーシャとはあまり縁がなかった。湯島にあったミュージックバーにシーシャがあったので時々そこでナイジェリア人オーナーとバカ話をしながらプカプカした程度だった。

 

ところが最近になって成人した我が娘が気付けばいっぱしのシーシャ愛好家になっていて、都内のアチコチでシーシャをプカプカしている残念な事実を知った。

 

私に肩車をされていた幼かった娘が今や私にシーシャのうんちくを語るようになった。なんとも複雑な気分である。諸行無常である。

 

娘がワルの巣窟みたいな怪しい店に通っていたら心配で仕方ないが、娘いわく今は健全なカフェみたいなシーシャ専門店が増えていてちょっと前とは様相が変わっているという。

 

実際に連れて行かれた店もごく普通のカフェのようだった。客層もごく普通の若者が中心で、その昔私が池袋で迷い込んだ怪しさぷんぷんな雰囲気はまったくない。

 

気付かぬうちにシーシャの世界は日本でもだいぶ一般化?してきたようだ。チンピラ御用達といった私の偏ったイメージはすっかり過去のものだったみたいだ。

 


 

とはいえ、娘がシーシャをプカプカしている姿はどうにもしっくりこない。単に大人になったと喜んでばかりもいられない。シーシャだってタバコほどではないにしろニコチンは含んでいるわけで中毒物質であることは間違いない。

 

娘によると今の若い人たちはシーシャもふかすだけで肺には入れないらしい。それを聞いてちょっと安心したが、何事も慣れるにつれてエスカレートするから油断は出来ない。

 

聞くところによると娘はマイシーシャまで購入して家のベランダでプカプカしているらしい。オイオイって感じである。

 

親子揃って煙り好き。こればかりはさすがオレの子だなどと喜んではいられないような気がする。

 

 

 

2022年2月14日月曜日

堕落は素敵?

 

いまどきのコロナは何度も感染するらしいからわりと家にいる時間が増えた。良いことである。一人暮らしなんて糸の切れた凧みたいなものだから時にはおとなしくしようという心掛けは大事だ。

 

家で食事をする機会も増えた。自炊といってもせいぜい肉を炒めたり御飯を炊いたりするぐらいで、あとはレトルトやらデリバリーを活用している。

 


 

時には得意?の牡蠣ぶりぶりパスタを自作することもあるが、これも火を通した牡蠣をレトルトのパスタソースに加えるだけだから自炊と呼べるほどのモノではない。

 

それにしてもウーバーイーツの存在が私の日常を支えてくれると言っても過言ではない。ウーバーがまだ普及していない地域の人が心底気の毒に思える。

 

割高と言ってしまえばそれまでだが、エンゲル係数を気にしないふしだらなシングルオジサマにとっては、玄関まで届けてくれる手軽さは捨てがたい。おまけに容器だって捨てれば済む。横着の極みみたいな話である。

 

朝っぱらから頼めるから何もしたくない気分の時はスタバやらベローチェ、マックあたりの朝飯っぽいものとコーヒーを頼んで安直に済ます。ここから先の画像はスマホ上のウーバーの履歴だ。

 

 

早ければ注文後15分もしないうちに届く。都心に暮らしている利点だろう。マンションの窓を開ければ往来のクルマがうるさいというデメリットはあるが、デリバリーの便利さは都心暮らしの大きなメリットだ。

 

コーヒーもしっかり暖かいうちに届くのが嬉しい。少し冷めていてもレンジで20秒ぐらいチンすれば熱々になるし実にラクチンだ。

 

甘いモノが食べたくなったらコンビニスイーツを頼む。ウーバーに参加しているローソンのスイーツが中心だ。


わが家の目の前にはセブンイレブンがあるのだが、コートを着てサンダルを履いて、鍵をかけてエレベーターを待って辿り着くのが億劫に思えてついついウーバーを頼る。まさにダメ人間である。

 

 

ウーバーではどんなジャンルの料理も探せるから昔の“出前”のイメージとは違う。まさに何でもアリである。メシより酒の気分の時は居酒屋みたいなお店や焼鳥屋さんから酒のツマミっぽい料理をアレコレ持ってきてもらう。

 

居酒屋的なラインナップを揃えて録画してあった「球辞苑」やら「月曜から夜ふかし」やら「雲霧仁左衛門」を観ながらノンビリダラダラと酔っぱらっていくのも楽しい。タバコだって吸い放題だ。

 

やはりダメ人間である。

 

 

昭和の頃、出前といえばお蕎麦屋さんか町中華、ピザに寿司といったイメージだった。そんな時代に育った私は様々なジャンルのモノが運ばれてくるだけでいまだに気分がアガる。

 

スペイン料理やらビストロの料理やら美味しいクロワッサンが食べたくなれば妙に高いけどロブションからもデリバリーしてもらえる。

 


                   


 ロブションのクロワッサンにわが家にストックしてある怪しいミルクジャムやピスタチオクリームなんかを塗りたくって食べているとシングルライフの侘しさ?を完全に忘れる。

 

掃除も一応ちょこちょこやっているが、面倒な部分は家政婦さんがやってくれるし、クリーニングだってスマホをちょこっとイジるだけで玄関先まで取りに来てくれて玄関先まで持ってきてくれる。

 

食べ物だけでなく、ちょっとした日用品や本など欲しいものはAmazonがヘタすればその日のうちに届けてくれる

 

20代の頃の一人暮らしを思い出すと別な世界、いや別な宇宙に暮らしているかのように世の中は変わった。便利さは人を堕落させるが、これから先も私はどこまでも堕落していくのだろう。

 

堕落という言葉は辞書によると次のような意味だという。

 

1 生活がくずれ、品行がいやしくなること。節操を失うこと。身をもちくずすこと。

 

2 物事がその本来あるべき正しい姿や価値を失うこと。

 

なんだかこれを読むと私の生活は堕落というにほどではないみたいだ。節操はないかも知れないが別に品行がいやしいってほどではない。とりあえず身を持ち崩しているわけでもない。

 

2の「物事の正しい姿を失うこと」のほうが的確かも知れない。そうはいっても人生何が正しい姿なのかよく分からないし、あんまり気にしても仕方ない話ではある。

 

堕落は素敵。とりあえず今日の結論はそれにします。







 

 

 

 

 

2022年2月9日水曜日

橋めぐり

 

健康増進のためになるべく歩くようにしている。今更ランニングなんかを始めたら死んじゃいそうだからウォーキングである。ただ歩くだけでもこの歳になると充分に意味のある行動だろう。

 

もともと旅先などの見知らぬ土地では平気で2万歩ぐらい歩けるのだが、見知った場所ではなかなか歩数が稼げない。何かしら目的というか、自分の中にテーマを作っておかないとひたすら歩くのは難しい。

 

運良く今のわが家の近くには隅田川沿いの遊歩道が整備されている。隅田川テラスという名称で結構な距離がちょうど良い散歩コースになっている。

 

信号は無い、車も通らない、人混みも無い、水辺の気持ちよさを味わえる。隅田川にさほど遠くない場所に住んでいる都民にとってのオアシスといっても過言ではない。

 


 

季節を問わずしょっちゅう隅田川沿いを歩いているのだが、最近なんとなく興味を持ったのが橋である。橋めぐりを目的にするのも悪くない。普段なんとなく目にしていた橋にもいろんな姿形がある。

 

クルマで動いていたら分からない橋の個性を目にしながら歩くのは結構面白い。途中、スマホでその橋の由来やエピソードを調べるのも楽しい。

 

上の画像は佃大橋の夜景だ。わが家から徒歩5分ぐらいで行けるので、もっとも頻繁に目にしている橋だ。かの池波正太郎が昔のエッセイでこの橋が出来たことで渡し船の風情が失われたことを嘆いていた。

 


 

佃大橋から築地方面に向かった次の橋が勝どき橋である。日露戦争での旅順陥落を祝う「勝ちどき」にちなんで命名された。昔は上に跳ね上がって船を通したそうだ。そんな昔の逸話を重いながら見学するとちょっと楽しい。

 

いつも同じエリアばかり歩くのも退屈するので、時にはわざわざタクシーに乗って遠征する。人形町を超え浜町あたりまで行ってから浅草方面に隅田川テラスを歩くコースだ。

 

こちら側は江戸情緒の演出が多く、その昔、それぞれの橋が名所だった当時の浮世絵が壁面に描かれていたり東京っぽい雰囲気を味わえる。

 


 

こちら側も永代橋、両国橋、清州橋といった昔からよく聞く有名な橋が続いている。清洲橋の美しさはなかなかのものだと思う。勝どき橋とともに国の重要文化財になっていると聞いたことがある。

 

永代橋という名前も忠臣蔵ファンには妙にそそられる。周囲に赤穂浪士休息の地みたいな記念碑があったりして歴史的な情緒が感じられる。

 


 

職場と家が近くなってからクルマを使う機会が減ったが、クルマだったら瞬時に通過してしまう橋にもそれぞれの味わいや歴史がある。散歩がてら橋めぐりと洒落込むことはアナログ的な楽しみとして新鮮だ。

 

ひょっとしたら老後の趣味のひとつとして有望かも知れない。都内はもとより日本中にさまざまな橋がある。それぞれの情緒や歴史を感じるのは意外に楽しいかも知れない。

 

昔から老後の趣味というテーマを漠然と思い描くことはあったが、以前よりも真剣に考え始めている自分がいる。昔はオチャラケ半分にあれこれ想像していたが、さすがに還暦も遠くない歳になってきたから本気で考えないと手遅れ?になっちゃうかもしれない。

 

これまでも老後の趣味として白黒専門の写真を楽しもうか、日本中の城めぐりをしてみようか等々、テキトーにいろいろ考えてきた。写真も城も現実的だと思うが、一番安上がりで済みそうなのは橋めぐりかもしれない。

 

老後の趣味

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/01/blog-post_22.html

 

城めぐり

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/05/blog-post_12.html

 

姫路城萌え

http://fugoh-kisya.blogspot.com/2016/04/blog-post_27.html

 

いずれにせよ、こんなテーマを真面目に考えるようになったことは複雑な気分ではある。歳をとった証だ。まあ実際に歳をとってきたのだから仕方がない。

 

このブログだって今年で15年目である。15年といえば生まれた子供が元服する年月である。当初から中年男としてアーダコーダ書いてきたわけだから、それから15年も経てば老境も確実に近づいているわけだ。

 

書く内容がドンドン枯れてくるのは由々しき問題である。もっと色っぽい話なんかを書くように心を入れ換ることにしよう。

 

 

 

 

 

2022年2月7日月曜日

焼肉と時代


思えば焼肉というジャンルは随分と進化した気がする。私が若者だった頃はロースかカルビかタン、その他レバーやミノといったラインアップが基本で、イマドキの焼肉屋さんで当然のように出てくるミスジやイチボ、トモサンカクなどは聞いたことがなかった。

 

だいたい、オシャレとかデート向きというカテゴリーとは無縁の存在だったのが焼肉屋だった。叙々苑が人気が出てきた頃から様子が変わってきたが。それまでは何となく薄暗く脂っぽくて匂いも強烈な店が大半だった。

 

私が子供の頃、実家で絶対的な存在だった祖父はニンニクが嫌いだったせいで、外食で肉といえばステーキかしゃぶしゃぶが定番で焼肉屋さんに連れて行ってもらった記憶はない。

 

そのせいで独特な匂いを漂わせる焼肉屋さんの前を通るたび一体どんな味なんだろうと物凄く興味が湧いた。一種の憧れみたいな感じだった。

 

その後、しびれを切らした私は母親にせがんで焼肉屋さんに連れて行ってもらった。10才ぐらいだっただろうか。今の時代の子供よりは遅いデビューである。

 

当時は肉食獣のような状態だったから初焼肉の衝撃は大きかった。すき焼きみたいに余計な野菜が目に入ることもなく、ただ肉ばかりという一点に興奮した。荻窪駅のちょっとハズレにあった薄暗い感じの店だった。

 

一応、ステーキやしゃぶしゃぶで真っ当な肉を食べていたから肉自体の印象はそんなにないのだが、何が強烈だったかといえばあのタレである。

 

初めて味わうタレのウマさに我を忘れて肉をタレでビシャビシャにして白米にバウンドさせて貪り食った記憶がある。

 

気のせいか、当時の焼肉のタレは今よりもやや甘さが控えめでスッキリサラっとしていた印象がある。今も住宅街にひっそり構えるドンヨリ系?の昔っぽい焼肉屋さんではそんな感じのタレに出会うことがある。そういう店では肉なんか二の次で“白米バウンド”を楽しむ。

 

その後、私が大学生ぐらいの頃から焼肉屋さんの雰囲気が変わってきた。30年以上前のことである。バブル前夜という時代背景のせいでちょっと高級で洒落た雰囲気の店が増えてきた。

 

ちなみに高校生の頃、くだらない都市伝説的な話が広まっていた。「焼肉屋にいるアベックはもうやっちゃってる関係だ」。アベックという言葉自体が既に死語である。男女が既に深い仲になっているかどうかは思春期の小僧にとっては一大関心事で、その線引きが焼肉屋だった。

 

今では考えられない発想である。そのぐらいデート向きの洒落た感じの焼肉屋が無かったという逸話だ。50代以上の年齢の人なら共感してくれるはずだ。

 

さて、必然的に焼肉のトリコになった私は高校生ぐらいから焼肉ばかり食べるようになった。高校1年の時、飲酒喫煙不純異性交遊で停学処分を食らったのも格安食べ放題焼肉の店でのバカ騒ぎが発覚したせいだ。今だったら食べたら死んじゃいそうな怪しい色の安い焼肉をしょっちゅう食べていた。

 

30代前半ぐらいまで私の人生は焼肉一色だったといっても過言ではない。それもカルビばかり好んで食べた。タンは女の食べもの、ロースは年寄りの食べ物などと称してひたすらカルビ三昧だった。

 

いま私はカルビは一枚も食べられない。おそらく一生分のカルビを食べきってしまいコップの目盛りが溢れたのだろう。いまは赤身肉を23切れ食べてあとはツマミを突ついて酒を飲むのが基本になってしまった。

 

先日、日本料理と焼肉を組み合わせた新感覚の焼肉屋というフレコミの店に行く機会があった。銀座にある「はせ川」というお店だ。

 


 

前菜で出てきた炊き合わせみたいな料理や小鉢類が本格的な和食の味ですっかりヘタレオヤジになった私は妙にホッコリした。

 

湯葉みたいな年寄り向けの一品料理もあって「焼肉はもう無理」という人にも優しい。ユッケのような一品も赤身を使っているから有難かった。

 



用意されている肉の種類も豊富で、タンは34種類あったし、薄切りか厚切りかを選べるのも楽しい。希少部位のほかに赤身肉も数種類あるようで和食っぽい気分でちょこっと焼肉を食べるという楽しみ方が出来そうだ。

 

ちょっと気になったのがタレ問題である。わさびや岩塩、醤油、味噌ダレなどが仰々しく用意されるのだが、いわゆる普通の焼肉のタレが無い。子供の頃、あのタレに興味乱舞した私としては何だか物足りない。

 

とはいえ、メインの焼肉は今やほとんど食べないヘタレな私だからさほど気にせずやり過ごした。これも焼肉屋さんの進化の一つの形なのだろう。

 



でも20代の頃の私だったらタレのために焼肉を頬張っているような感じがあったから醤油だの味噌ダレを「星一徹」(星飛雄馬のパパ)のようにひっくり返したかもしれない。

 

器の使い方も正しい日本料理店の雰囲気で個室の造りも落ち着くし、なかなか使い勝手の良い店だと思う。ちょっとお高いがタレ問題を気にしない人にはオススメだ。

 

なんだか今日は思い出話を書いているのか、新しく知った店を書いたのかよく分からない話になってしまった。

 

いずれにせよ、焼肉屋でカルビを無尽蔵に食べられた若き日々が時々恋しくなる。あの頃、深夜の焼肉屋でカルビを45人前平然と食べた直後に眠りに落ちていた成れの果てが逆流性食道炎オヤジという現在の姿である。

 

ちょっと切ない。

 

 

 

 

 

2022年2月4日金曜日

いまさらゼリー


ここ最近、体調を崩すことが増えたから日々の生活の何かを変えようと漠然と考えている。やはり基本的な免疫力を高めることは大事だ。納豆を食べればいいのか、ピーマンを食べればいいのか、何が有効か悩ましい。

 

「何かを変える」ことがまずは大事だから、コンビニスイーツをちょっと制限しようと決意した。実にどうでもいい変化だが、これだけでもヘルシーライフへの第一歩だ。

 

イマドキのコンビニスイーツは美味しい。美味しいということは身体に毒だという意味でもある。生クリームがワンサカだし脂肪分もぶりぶりだろう。

 

で、今更ながら私が目を付けたのが「みかんゼリー」である。最近ふとした時に食べてみて意外にウマいことに感動してちょっとクセになりつつある。

 

これなら生クリームぶりぶりのスイーツよりは遙かにマシだろう。なんてったって果物である。ゼリー部分に糖分が多いのだろうが、ゼリーはしょせん液体だ。たぶんカロリーはゼロだ。肝心のみかんも揚げたり焼いたりしていいないからカロリーはきっとゼロだ。

 



 

コンビニで買うだけにとどまらず、ネットスーパーでの注文の際も必ず買うようになったし、わざわざAmazonでちょっと良さげなみかんゼリーをまとめて注文するようになった。

 

賞味期限もしっかり長いし、ストック大王である私としては冷蔵庫にみかんゼリーがわんさか並んでいるだけで健康になったような気がするから不思議だ。ウッシシである。

 

冷凍したみかんゼリーをちょっと溶けたあたりで食べるのも悪くない。生クリームぶりぶりスイーツよりも口の中がサッパリするし、冷やせばきっとカロリーはゼロだから良いことづくめである。

 


 

とはいえ、クドい甘味がウリのコンビニスイーツも時々は食べる。絶縁するほど薄情ではない。あれはあれで罪悪感を感じながら食べれば、その姿勢を神様が評価してくれてカロリーはゼロに近づくはずだ。

 

イマドキのスイーツはマリトッツォに代表されるように生クリーム系が人気だ。私も生クリームは大好きだが、身体のことを考えれば毎日のように食べるわけにはいかない。

 

クリームよりもヘルシーといえばあんこだろう。元々は豆だからカロリーはゼロだ。たぶん。あんこの美味しさはお茶を飲む日本人にとっては最高だ。もっともっと評価されて然るべきだ。

 

時々、こしあんだけを買って適量を小皿に盛りお茶の共にすることがある。シンプルだがお茶との相性は抜群だし、あんこだけという潔さのせいで何かに勝ったような気がする。

 

あんこの外に餅やら衣がないわけだからムキ出しのフルヌード状態である。食べられているあんこからすれば「そのまま食うのかい!」と突っ込みたくなるはずだが、その潔さのせいできっとカロリーはゼロだと思う。

 



 こちらはウーバーイーツで届いたイチゴ大福である。こしあんやつぶあん、白あんやカスタードなど様々なライナップがあるがキモはイチゴである。イチゴという果物のせいで断然スッキリサッパリするから面白い。

 

イチゴも身体にはやたらと良いと聞く。ビタミンCはレモンより豊富だと聞いたことがある。本当だろうか。たぶんウソだろう。でもとにかく健康には良いらしい。

 

みかんゼリーのようにイチゴのむき身がゴロゴロ入ったゼリーはあるのだろうか。ちょっと見たことがない。Amazonで調べたらわずかにそれっぽい商品があったが12個からしか注文できなかった。大ハズレだったら困るのでちょっと買えない。でも気になる。きっとそのうち買ってしまいそうだ。

 

ゼリーなんて子供の食べ物だと思っていたが、この歳になってムホムホ喜んで食べている。何事も決めつけたり思い込みで判断してはいけないと痛感する。

 

これからしばらくはゼリーにハマりそうだ。ネットであちこちから取り寄せるようになったらそれはそれで糖分の摂り過ぎでマズいかもしれない。

 

 

 

 

2022年2月2日水曜日

コンビーフ、そぼろ 生姜焼き

 

年末に駆け込みでドバドバとふるさと納税に励んだ。自分の寄付枠はまだまだ余裕は残っていたのだが、セコセコと返礼品を選んでいたら使い切れずに終わってしまった。

 

自分の枠をめいっぱい使ってこそ意義のある制度だと思う。ここ数年、中堅・高所得者層の税金や社会負担は上がる一方だ。せめてもの意趣返しとして実質無税で返礼品をワンサカ手に入れるのは、ちょっとしたレジスタンスを楽しむ方法でもある。

 

一人暮らしだから返礼品はついつい便利な食料品を選ぶ。いまや我が家のコメはふるさと納税のお礼で送られてくる山形米だけになった。

 



 これは最近届いた缶詰だ。北海道・上士幌町からの返礼品。たかが缶詰されど缶詰である。その名も「十勝ハーブ牛と塩だけで作ったコンビーフ」である。絶品だった。旨味に甘味、まさに私好みである。

 

コンビーフの缶詰に良い印象がない人にこそオススメしたい。一般的なコンビーフ缶には一体どんな不純物が混ざっているのかと逆に心配になる。

 

コンビーフチャーハンを作ってみようと思っているのだが、そのまま食べるのが妙に美味しくて、いつも炊きたて御飯のお供にしている。おかずにするにはほんの少しウスターソースをかけるのが良い。何杯でも御飯をオカワリしたくなる。

 

8缶も届いたのだが、予備にもっと欲しくなり追加で手配しようとしたら「ふるさとチョイス」では次回は4月発送だとか。きっと大人気商品なんだろう。

 

続いては青森県・鰺ヶ沢町からの返礼品「長谷川の自然熟成豚で作った生姜焼き」である。湯煎するだけで食べられる味付け済みの生姜焼きが冷凍で送られてきた。

 


 

生姜焼きの冷凍などと聞くとマズそうだが、実際に食べてみたら目からウロコだった。素直に美味しい。味付けには好みもあるだろうが、肉質が非常に良い。そこら辺のスーパーで買ってきた豚肉を自分で調理するより遙かに美味しかった。

 

長谷川自然牧場という知る人ぞ知る業者さんの自信の一品らしい。しっかり投入された豚肉の食感がかなりのレベルでこれまたリピートしようと思っている。

 

他にも凄く美味しかったウニの瓶詰めや筋子の醤油漬けにムホムホしたのだが、不思議と気に入った商品は再度頼もうとしても品切れになっている。やはり良いモノはいつまでも残っていないのだろうか。

 

横着な私はこれまでにも湯煎やレンチンですぐ食べられる商品を随分と手に入れてきたが、よく考えたら自分でも簡単に作れそうなモノも多い。

 

そうは言っても簡単便利ならば実質タダなわけだからどんどん頼んでしまう。先日届いた「そぼろ」もその一つだ。

 



 鹿児島県・日置市からの返礼品。地元で人気の食堂のオリジナル商品だとか。甘すぎず辛すぎず出汁のきいたニクい味だった。これまた湯煎するだけ。そぼろ丼にして食べたら大満足だった。縁もゆかりもない町の食堂で作られたそぼろを東京の地で一人ムシャムシャ食べてニンマリ出来るのだから便利な時代になったものである。

 

牛丼の松屋の工場がある埼玉・嵐山町からは冷凍牛丼の素が10個も届いた。あれどんぶりメシに2つほどぶちかけると幸せになるので牛丼気分の時に食べようと思う。

 

ラーメン福しんのチャーシュー3種セットなる冷凍モノもドカンと届いた。沖縄からは湯煎するだけで食べられるソーキがドカンと届いた。

 

他にも喜多方ラーメンや乾麺の冷やし中華もドカンと届いた。タダでさえストックの多いわが家が食料品で溢れかえっている。再感染も怖いからしばらくは籠城生活を基本にして過ごしてみようかと思う。

 


 

各自治体からの受領書もワンサカ届いたのだが、わりと頻繁に寄付をしている北海道増毛町からの書類を見るたびに毛が増すような秘密の返礼品を用意してくれないかと切に願っている。