2025年9月19日金曜日

危うし、ドカ食い


ドカ食い男。魅力的な言葉だ。単純に豪快なイメージがある。これに対して「食が細い男」は線が細く頼りない感じだからカッチョ悪い。どう考えてもドカドカ食べる男のほうがエネルギッシュだろう。

 

私自身、ドカ食いには結構な自負があった。いまそれを過去形で語っていることに忸怩たる思いがある。還暦を前に我がドカ食い人生も終焉を迎えそうで切ない。そんな状況にストレスすら感じる。

 

いい歳して牛丼特盛に牛皿まで追加して注文しちゃうのはバカである。バカだと自覚していてもそれが出来ちゃう自分がちょっと誇らしかったりする。

 



酒を飲んだ後にラーメン屋で当然のようにチャーシュー麵大盛りを頼み、寿司屋でしっかり食事した後にマックのフィレオフィッシュとビッグマックを食べちゃう行動は私にとってわりと普通だった。50代後半になってもそんな行動様式は不変だった。

 

人から見ればバカげた行動だから、一応オモテ向きには「恥ずかしいこと」「反省すべきこと」と表明してきた。でも実際には「オレって結構ヤンチャなんだぜ」的な自己肯定感に浸っている自分もいた。

 

男たるものウサギみたいにチマチマと野菜なんか食えないぜ!といった無駄なツッパリ精神と考え方の根っこは同じだ。「ジャンクなものをドカ食いするワイルドなオレ」。それを一種のライフスタイルとして貫いてきたのが私の生きざまだった。

 

なんだか大げさな書きぶりになってしまったが、そんなドカ食い人生が危うくなってきた。寄る年波のせいか、この半年の節制生活の副作用か、情けないことにちょこっとした量の食事で満足している自分がいる。健康には良いと分かっているのだが、言い知れぬ無念さみたいな感情も渦巻く。

 

まるで「普通の人」である。ドカ食いを得意とする「普通じゃないオレ」であることにどこか変態的優越感?に浸っていた私にとっては危機的状況である。

 

喜多方ラーメンの人気チェーン店「坂内」が9月になるとヤケクソみたいなチャーシュー祭りを実施する。チャーシューが23枚も乗っかっているハッピーなラーメンが食べられるキャンペーンだ。

 

今年は、ネット上の告知を見て心が揺れた。なぜなら今年からヤケクソチャーシュー麺に小型サイズが登場したせいだ。麺は半盛でチャーシューは15枚程度だとか。今までならそんな中途半端な商品をクサしたはずの私がそっちのほうに惹かれた。

 

その時点で敗北である。あくまでアノ挑発的ですらある23枚入りチャーシュー麺をシレっと平らげるのが正しき男の姿だ。そう信じてきた私にとっては小型サイズによろめきかけた事実は敗北でしかない。

 

で、瞬時に心を入れ替え、通常版のヤケクソチャーシュー麺を食べに行った。でも例年のようにワクワクしない。どこか自信を失っている自分がいた。私の心の動きだから当然私にしか分からない話だが、身体の中を冷たい風が通り過ぎていくような寂しさを感じた。

 



で、ヤツが運ばれてきた。やはりワクワクよりも不安が募る。完食は無理かも…。せめて肉だけは全部食べるぞと弱々しい気持ちで箸を手に取った。

 

もともとこの店のチャーシューは好きだ。美味しく食べ進む。満腹にならないように心なしか急いで豚肉を味わう。山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」があるが、まさにそんな感じだ。分け入っても分け入ってもチャーシューが次から次に出てくる。

 



結論から言えば完食出来た。喜ばしいことだが、食後の感想が例年とは違った。今までは「たいしたことないぜ」だったが、今年は「厳しかった、苦しい」である。

 

敗北はしなかったが勝利もしていない。ついでにいえば「これを食べるのも今年が最後かな」という心の声も聞こえた。完食した達成感よりも自らの限界がすぐそこまで来ていることを痛感させられた。

 


もっと言えばこの時はすこぶる空腹だったのにこのザマである。午前中に胃の内視鏡検査を受けたので朝から何も食べておらず検査後に職場に戻ったりして、結局チャーシュー麺と対峙したのは夕方の5時だった。最高潮レベルで空腹だったのに余裕しゃくしゃくで食べられなかったことが残念だった。

 

ドカ食い人生も風前の灯火である。

 

というか、チャーシュー麺を食べただけの話をここまで膨らませて書いてしまう私のクドい文章にお付き合いくださりありがとうございます!

 

 

 

 

 

 

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