2011年6月15日水曜日

座敷わらし

ときどきこのブログにコメントをいただく。有難いことだが、1ヶ月ほど前にいただいたコメントを見過ごしてしまった。反省。

いろいろシステムを研究して、コメントをもらったらその旨メールが自分宛に届くように今更ながら設定することができた。今後はちゃんと反応できます。

見過ごしてしまったコメントは障害を持つお子さんを授かったお父さんからだったので、自分の経験を少しでもお伝えしたかったのだが、ボケッとしていて失礼してしまった。

突然の境遇の変化に困惑するお気持ちは痛いほど分かる。早々に憂い無く受入れられる人など存在しないはずだから、どうやって折り合いを付けていくかは大事な問題。

私だって大した経験があるわけではない。扱いやすかった上の子と違ってテンヤワンヤだ。これからぶつかるであろう色々な壁が正直憂鬱で仕方がない時もある。そうは言っても、子育ての壁なんてものは健常、障害に関係なく共通だろうからなるべく考えないようにしている。

ということで、今日は久しぶりにわが家のダウンちゃんの話を書く。

ダウン症の最大の特徴は発達が遅いこと。だからトピックが少なくて、ここで進化?を書こうと思ってもあまり変化はない。

とはいえ、人様に読んでもらうほどの進化ではなくても、当事者にとっては結構大きく進歩している部分もある。親としてはノロさにいらつきながらも嬉しいし、励みになる。

次に誕生日が来れば5歳になるのだが、相変わらず話さない。いや、本人は話しているつもりだ。私の携帯電話もスキをみせるとイジリ倒される。いつまでも会話のフリをモゴモゴしている。電話ごっこだ。

「ウンウン」と「バイバイ」ははっきり口にしているが、あとはウニャウニャ言ってるだけだ。

ダウン症の子どもの言語発達は遅いのが普通だが、発声は遅れていても言語の理解自体は進んでいる。絵本に描かれたものを指さし、それが何であるかはたいてい理解している。親兄弟にしか分からない音声だが、確実にその対象物の名称を発声している。トテトはポテト、アーペンはラーメンを意味するのだが、私が苦手とするフランス語よりは充分解読可能だ。

先日、生後間もない頃から2歳になるまでお世話になった某大学病院でのダウン症専門の赤ちゃん体操に出かけていき、OBとしてダウン症の後輩達に希望の光?を振りまいてきたらしい。キチンとした姿勢で立って、しっかりとした歩調でずんずん歩く姿だけで、生後間もないダウンちゃん達には希望を持ってもらえる。調子に乗って踊ったりしたらしい。図に乗るところは誰に似たのだろう。

私自身、この集いを初めて見に行った時、キチンと椅子に座ってニコニコ幸せそうにしている2歳ぐらいのダウンちゃんの姿に大いに勇気づけられた。生まれて間もない頃は、情報に乏しく八方ふさがりだったから、この手の集いのおかげで随分と助けられた。

いっぱしの先輩になったウチのチビが、後に続く困惑状態の人達に少しでも役に立てるなら嬉しい。そう考えるとわが家のダウンちゃんは、ボケッと生きている私なんかより真っ当な使命を帯びて生きているのかもしれない。ちょっと綺麗事みたいだが、そう思うようにする。

ダウン症の子どもにとって先天的に性根の優しい性格は共通しているようで、同じ支援学校に通うお仲間も総じてポワンとした気分にさせてくれる。

先日、わが家のチビと二人で散歩に出かけた。ヤツは広い緑地公園で縦横無尽に探索に励む。落ちているゴミでも平気で手に取る危なっかしさには参る。葉っぱをちぎったり、カラスを追い回したり、蜘蛛の巣に手を突っ込んだり結構チャレンジャーだ。そう書くと微笑ましい親子のひと時のようだが、実際は戦争状態だ。汗だくになる。私にとってのメリットは運動不足解消だけである

知らない人に勝手に手を振って愛想を振りまくのも困る。不思議と喜んで応えてくれそうな人に手を振っているようにも見える。変なテレパシー能力でもあるのだろうか。

この日も突然、公園のベンチでグタっと寂しげにしていたお爺さんのもとに駆け寄り、横に座って手を握って見つめ合っている。有難いことにお爺さんは喜んでくれた。

本当は迷惑だったかもしれないが、アイツは「勝手気ままな癒しオーラ攻撃」が得意技なので許してもらおう。

最近は、少しづつだが、分別がつき始めた。皿やコップを面白がって引っ繰り返さなくなったし、痛い時に泣かずに耐える姿勢も見せ始めた。絵本を持ってきて読めとせがむこともできるようになったし、テレビを見たい時もわざわざ別な場所からリモコンを持ってきた上でアピールする。

幼児用安全対策商品である「通せんぼゲート」も、台を持ってきて安々とロックを解除して突破するようになった。こちらが咳き込んだりすれば、「でーじょっぶ?」(大丈夫?)と尋ねてくれるようになった。


食事や飲み物のお代わり要求もスムーズになった。不要なもの、嫌いなことをすべて「ヤー!」と強い口調で叫んでいた悪いクセも改善。「いらない」と冷静に伝達できるようになった。

まあ家族以外には「いらない」は「ふにゃにゃい」にしか聞こえないが随分と進歩した。

トイレで大に励む時には、なぜか私だけに変なプレイ?をせがむクセがある。以前、便秘気味だった時に便器に座るヤツのへその下あたりをぐりぐりと手のひらでマッサージしたことが気に入ったらしく、いつもせがまれる。

不思議と母親や姉には要求しない。妙な習慣がついてしまったものだ。どうやら、そのぐりぐり加減にもヤツの好みがあるようで、母親だと微妙な力加減が気に入らないらしい。

私のぐりぐり攻撃を受けると、温泉宿に置かれたマッサージチェアに座るオッサンのような表情になる。おまけに満足すると「オッケー」とはっきり告げる。発達の一環ではあるが、私にとっては不気味な作業を担わされて正直迷惑ではある。

どうせならトイレよりベッドで、美しい女性の別な部位をグリグリ攻撃したいのだが、現実はそうもいかない。

天真爛漫なわが家のダウンちゃんは、規則正しく遊んでばかりなので、早く寝ちゃうと翌朝5時過ぎには目を覚ます。結構な頻度でノコノコ私の寝室にやってくる。

不器用にゴソゴソガチャガチャとドアノブと戦い、なんとか扉が開くと暗がりをものともせず私の顔のあたりまで突入する。

一人ぐっすりと熟睡している私は、暗がりにボンヤリ登場するヤツの姿と動きが「座敷わらし」みたいで、いつも本気でギョっとする。

おまけに最近は、ちょっとした金属音を耳にすると仏様に手を合わせるかのように合掌ポーズをするクセがある。明け方の部屋でそんな格好をされるとホントに恐い。

自分の子どもの姿なのに妖怪に見えてビビってしまう私だ。でも拝む姿がなかなかサマになっている。変なオーラもあるみたいだし、「仏教業界初のダウン症坊主を目指す」という壮大なプロデュース計画を企もうかと考えたくなる。

ちなみに、座敷わらし伝説は、その家に幸福とか繁栄をもたらすのが通説であり、いなくなっちゃうと没落するというオチがついてまわる。

恵比寿様や福助とか、日本中に伝わる福子伝説のルーツを以前に書いたことがある。いずれも元をたどると障害児やそれを取り巻く周囲の人の奮闘ぶりにつながるという内容だ。

勝手な想像だが、座敷わらしの話も障害児を授かってしまった家を巡る言い伝えがルーツにあるような気がする。

そう考えると、ウチの座敷わらしも貴重な存在なのかもしれない。私も拝まれているうちが花かもしれない。没落するのも困るから、いなくなられてもマズい。「座敷わらしが運んでくる繁栄」だってまだ実現してもらっていない。

そのうち、アイツの拝み倒し攻撃で億単位の宝くじを当てるつもりだ。そうなったらヤツも本物の座敷わらし
になる。休眠宗教法人でも買い叩いて、座敷わらし神社でも作って、アイツを神主に仕立てて非課税特権で大儲けだ!。幸運を呼ぶ座敷わらしグッズとかも作ってバンバン売りまくってみよう。

不謹慎な話になってしまった。

結局、邪念ばかり浮かぶ私の脳みそが問題だ。МRI検査では問題ないのだが、ついつい怪しい思考に頭が動く。障害児を持つ親になると多くの人が人格者になるらしいが、私の場合、どうにも情けない。

銀座あたりに出かれば、シュっとした顔を作って格好つけていればいいものを、美しい女性を相手にスペシャルな猥談に命を懸ける。おまけに年齢のせいか、内容がどんどんエスカレートしている。

ちっとも進化をしないのは私かもしれない。

2011年6月13日月曜日

AKB

AKB48の商売上手にはうならされる。総選挙とやらに絡んでウン十億円のCD売上げを記録したらしい。お祭り騒ぎで経済活性化に貢献してもらえれば結構毛だらけだ。

少年達が小遣いをはたいて、はたまた泥棒してまで投票権付きCDを買う心理がいじらしい。

オトナ達は子どもを煽る商魂を批判している。もっともらしく聞こえるが、成功したビジネスへのやっかみだろう。

ビジネスである以上、利益追求が単純な目的。いつの時代も同じ。ピンクレディーの子ども向けグッズなどはありとあらゆる分野に存在した。私も野球選手のカードが入ったスナック菓子を食べもしないのに大量に買った。

AKBの騒動では、同じCDを20万円分も購入したファンの声がスポーツ新聞に出ていた。「上位に押し上げて活躍させてあげたい」。なるほど、これって一種のタニマチ気分を味わいたい心理だろう。

ヒヒオヤジがお相撲さんを連れて飲み歩いたり、古くは江戸の豪商が歌舞伎役者のスポンサーになったり、応援することで自己満足につながる心理は誰にでもあるようだ。

歌舞伎町のホストに入れあげるオネエサマやオバサマだって、お気に入りのホストが売れっ子になるためにドバドバ散財する。

財布のヒモはつくづく不思議だ。困っている友達にはせいぜい2万円しか貸せないのに、AKBには20万円捨てちゃう。ダンナの誕生日プレゼントは2千円のハンカチなのにホストにはベルサーチのスーツをあげちゃう。

そう考えると、「応援するためのお金」は相手のためでも何でもなく、自己満足とか自己陶酔のために使う金だ。応援される側も恐縮する必要なんて無いのかもしれない。

海外旅行のお土産みたいなものだろうか。親しい間柄は別として、ばらまかれるような義理みやげには、どこかイヤらしさがあったりする。

「ハワイに行ってたんだよ。ワイキキじゃないよ、マウイだよ、どうよ、まいった?」みたいな押しつけがましさが漂っていたりする。

素直じゃない私だけがそう感じるのだろうか。だったらスイマセン。

いずれにせよ、渡される側ではなく、渡す側だけが嬉しいパターンは多い。えらそーに書いているが、私自身も思い返せばそんなマヌケなお土産を買ってきたことが何回もあるような気がする。

あんまり斜に構えたことばかり言っていると誰からもお土産やプレゼントをもらえなくなるから適当にしておく。

さてさて、「AKBとタニマチ気分」の話だった。

応援したい心理でお金を落とす行為が、一種の自己満足である以上、後になってウジウジ言い出すのが一番みっともない。

「あんなに応援してあげたのに」。こういう恨み言はそれこそ野暮だ。自分の喜びのためにやった行為なのに思うようにいかないと、相手をことさら責める。結構この手の話を耳にする。

夜の世界でもお気に入りのオネエサンを店でナンバー1にしてやろうとか、その手の話が飛び交っている。

AKBのCDがドンペリやバカ高いボトルに変るだけで、オジサン達もやっていることは同じ。毎日が総選挙みたいなもんだろう。

残念ながら私にはそんな財力はないし、競い合いの片棒を担ぐような闘争心にも乏しい。というか、そこまでしたら不純な期待が大きく膨らんで、怪しいヒヒオヤジになりそうだから、それが恐い。だからそういう渦に巻き込まれないようにしている。

そう書いてみると改めて頼りにならない男みたいでちょっと情けない。もう少し協力的姿勢を心掛けねばなるまい。

AKBを応援する爽やかな若者と違い、多くのオジサン達はウジウジしているから問題だ。

「この店にどんだけカネを落としたと思ってるんだ」とか「あのコは喰わせもんだよ。随分カネを使ったのに、どうにもなんない」とか、野暮のオンパレードだ。

好きでその店に通って、勝手にそのコを口説いていたわけで、文句を言うのは野暮天だ。誰が聞いても情けなく聞こえるだろうに平気で野暮天話を口にする御仁が多い。
カッチョ悪い。

綺麗どころから聞かせてもらえる「ヒヒオヤジ達との暗闘話」は実にタメになる。びっくりするぐらい稚拙な作戦で彼女たちを意のままにしようとするオジサンが多すぎる。誰もが「そりゃ無理だわ」と思うような手口で玉砕している。

玉砕して逆ギレするアホも結構いるらしい。男たるもの、適度な品性は必要だとつくづく感じる。

ダメ男の話を聞くだけで勉強になる。まさに夜の学校だ。間抜けな先人の失敗事例を反面教師にすれば、きっと「シュッとした男」になれるはずだ。理屈の上では。。。

ちあみに、ダメ男事例はいくらでも聞き出せるが、その逆の性交いや「成功事例」については、なかなか綺麗どころ達が口を割らない。そりゃそうだ。

どうも話がとっちらかってしまった。

AKBに投資した少年達の多くが、カネを使ったところで思うようにならないことを若くして学べばそれ充分だ。オッサンになった時に教訓を忘れないようにしてもらいたい。

2011年6月10日金曜日

粋と野暮

先日、携帯が急に使えなくなった。何やら一部の回線異常が起きたらしい。こんなに小さな機械が使えなくなるだけでアタフタするのだからだらしない。実にヤボだ。

ヤボといえば、その日のドコモのホームページだ。回線異常を知らせする告知ページで、原因について「ネットワークの輻輳」と書いてある。「輻輳」って何だ?

こう見えても私は文化系出身で、国語は出来るほうだったし、漢字も読めるほうだ。「ふくそう」と読むらしいが、ドコモはルビすらふっておらず、当然、意味も記載していない。アホちゃいまっかって感じだ。

通信が集中してつながりにくい状態を意味するらしいが、だったらそう書けばいい。お客目線が欠如。実に野暮ったい話。

テレビのクイズ番組は最近すっかり教養自慢モノばかり。一般的ではない変な漢字とか熟語を羅列する。ちょっとした学歴自慢の面々が威張って読み方や書き方を答えている。

あれもヤボの典型だろう。そうは言いながら見てしまう私もヤボではある。

粋と野暮。なかなか難しいテーマだ。江戸っ子である私としては、すべての行動目標はイキであることなのだが、これが難しい。

つまらない自慢もするし、変な見栄も張る。酔えば話がしつこくなるし、知ったかぶりもする。好きな人が出来ればドタバタしてしまう。

まるでヤボだ。

会食中には宗教と政治の話はタブーとされている。確かにヤボだ。そうはいっても、古代ローマ人の変態セックスの横行がキリスト教によって抑制されたとか、総理大臣に向かって生卵を投げつけてみたいとか、ついつい宗教と政治をネタに酒を呑んでしまう私だ。

寿司屋のカウンターでサササっと握りをつまんで「ごっそーさん」とか言って立ち去ろうと思っても、いつもダラダラ長っ尻。

一応、やせ我慢が美徳だと思っても、これまでの人生、据え膳を食わずに耐えた記憶もない。

ちっともイキではない。問題だ。

イキとヤボを自分なりに勝手に解釈してみた。人間誰しも基本的には野暮な生き物で、そのみっともなさを自覚することで、ハードルの高いイキを目指す。すべてがイキな御仁など天然記念物みたいなもの。イキじゃないからイキに惹かれる。

イキに惹かれない、イキを目指さない、ヤボに気付かないことがヤボなんだろう。そういう意味では、私の場合、ヤボを自覚しているから少しはイキな部分があると思い込むことにする。つくづく凡人の考える自己弁護だ。実に深みも味もない考え方だ。われながらウツウツする。

もう少し自己肯定してみよう。何かしらのトラブルに直面しても、騒がない、動じない、バタバタしない(フリをする)ことを基本路線として自分に言い聞かせてはいる。せせこましいことを気にしない(ように意識しているつもり)、ネチネチした言動は避ける(ように頑張っているつもり)。

ホラを吹くこともなく、自分を飾ることなく、大事な事には口が固く、誰かを頼り切るわけでもない。等々。すべて目指しているだけかもしれないが、目指すことが第一歩ではある。

まあ、そういうことを力説していること自体がとてつもなくヤボではある。

変な話、ブログを書いていること事態がヤボの極みかもしれない。どこに行った、何を喰った、すべった転んだをダラダラ人様にお読みいただくわけだから、間違ってもイキではない。

結局、私は「野暮天」だという結論になってしまった。

「富豪記者」というタイトルも「野暮天エセ富豪記者」の略語ということでご容赦いただくことに一方的に決める。

ヤボだから食べ物の話でも書く。

先日、珍味不足の日々を嘆いてみたが、ある晩、久々の珍味攻め。幸せだった。その後2,3日は珍味を控えめにした。その辺がイキではない。



銀座・九谷で食べた「ますこ」だ。「鱒子」と書いたほうがいい。「ますこ」だとうらぶれたスナックの名前みたいだ。

スジコよりも小ぶりでジュワンとしたエロスが口に広がる。魚卵は素敵だ。エネルギーが充電される。無口になって笑顔になる。

つまみだけで飽きたらず、寿司飯と一緒に巻いてもらった。これまた官能的だ。大勢の子どもを殺戮した感じだ。



北海道産の上質なたらこも軽く炙って酒の肴にする。子持ちシャコもほんのり火を入れてもらってグビグビ呑む。魚卵オンパレードだ。海中に暮らす面々からは間違いなく「子ども殺し!」とか非難されているはずだ。

その償いはコレステロール値の上昇で許してもらおうと思う。

2011年6月8日水曜日

男の背筋

60才、70才ぐらいでピシッとしている男性を見ると憧れる。40代程度の分際でオッサン症状を肯定してしまう自分はまだまだだ。

その昔、有名なサミュエル・ウルマンの詩を知って鬱陶しく思ったものだが、いまでは妙に納得する。

「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」。

ふむふむ。確かに若い頃に聞かされても「別に」って感じだ。でも、立派な中年になると心に染みる。

大人の分別は大事だが、「分別」が「ジジ臭さ」と同義語になってしまうとタチが悪い。好奇心とか情熱とか一生懸命さとか脇目もふらぬ一途さなどは、年齢に比例して弱くなるものだが、それであきらめていては老化が待っているだけなのだろう。

見習おう。内田裕也。ロッケンロールだ。

冗談はさておき、シュッとした初老の男性達は結局、自分の律し方が巧みなのだろう。巧みというか、自分を律する努力をいとわないのだろう。

私のような怠け者は、週末ともなれば髭も剃らずに頭もぼさぼさで寝間着兼用の部屋着で平気で近所をウロウロする。

こういうだらしなさの有無が「シュッとした初老」、「キリッとした老人」になれるかどうかの分かれ道なんだと思う。

先日、ひょんなことから20年近く前に死んだ祖父の礼服を見る機会があった。晩年に「やんごとなき方面」からお招きを受けた際に新調したモーニングだ。

礼服は他にもあっただろうに、その時新しく仕立て直す発想が既に私とは違う。着る機会も滅多にないわけだし、私だったら面倒くさく感じるだけだろう。

裏地を見て唖然とした。トラの顔が4箇所にあった。変だ。タイガースファンだったわけではない。単に寅年生まれだったせいで、わざわざ余計な細工をしたわけだ。


ヤーさん趣味があったわけではない。真っ当な老紳士だったし、着ていく場所だって「やんごとなき場所」なのに、トラの顔を入れちゃうセンスは凄い。

センスが良い悪いではない。というか、正直センス悪い。そこが問題ではない。遊び心というか、こだわる姿勢に見習うべき点がある。

この日、他にもいくつか祖父のスーツを見たのだが、一見ごく平凡なスーツの裏地が全面羽を広げたクジャクだったりしてぶっ飛んだ。

浅草的趣味といってしまえばそれまでだ。決してマネしたいとは思わないが、平凡に飽き足らない姿勢という部分は教訓にしたいと思った。

服の趣味はともかく、祖父を思い出すたびに、いつもキチっとしていた印象が頭をよぎる。「キリッとした老人」だったが、相当自分に厳しくしていた。

休みの日でも髪をセットして、折り目の入ったズボンをはき、出かける予定などなくてもボウタイを締めていることも珍しくなかった。

無精髭で髪が乱れているような姿を見たことがなかった。ある日、体調を崩して寝込んでいた際に部屋に様子を見に行った。そこで見た「素の状態」、すなわち型通りに老いた姿に驚いた記憶がある。

毎日顔を合わせていたはずなのに、枯れかけている姿を見たことがなかった。別人のような姿に驚いてしまったわけだ。逆に言えば、祖父が日頃いかに気を張って過ごしていたかということだろう。

そんな人生後半戦の生きざまを目の当たりにしても、若かった私は「ご苦労なことだ」ぐらいにしか思わなかった。自分が年を重ねるうちに、気力とか生命力は、結局日常のちょっとした姿勢に大きく左右されることを実感しはじめている。

ちゃんとしようと思う。

体形を気にすることも大事だ、鼻毛をキチンと抜くことも大事だ。下半身にまで進出してきた白いモノを見過ごしていてはダメだろう。ちゃんと退治しよう。

ガラにもなく熱くなるような恋もしよう。人様に愚かだと言われても情熱を捨てないようにしよう。いろんなことに執着して、こだわりを持って背筋をシュッと伸ばしていこうと思う。

そんなことを思いながら、先日仕立てた夏物のスーツは全部表も裏もごく平凡。こだわりのカケラもない。

酩酊して乗りこむ深夜のタクシーでは、ネクタイを突き出た腹のあたりまで緩めて、ベルトも外しちゃってゲップとかしている。

ちっともシュッとしていない。

どこから改造すればいいのだろう・・。

2011年6月6日月曜日

インチキ野郎とイカサマ集団

インチキ野郎とイカサマ集団などと書くと随分感情的な言い回しに見えるが、つとめて冷静に的確に表現してもこの言い方が妥当だ。

菅直人首相と民主党のこと。「もうやめる」、「いや辞めるなんて言ってない」等々。先週の内閣不信任決議案をめぐる茶番は、まさに歴史的な愚挙であり、歴史的な国民の愚弄だろう。

ここまでヒドいとは思わなかった。鳩山由紀夫というお人も単なるアホなのか一流の詐欺師なのかサッパリ分からなくなった。ご自身が前言を翻すのを得意とするペテンのくせに菅首相をペテン呼ばわり。喜劇だろう。

結局、記者会見でしつこく聞かれたことで辞めるタイミング、すなわち「原発対応への一定のメド」を「冷温停止になったら」と語ったインチキ首相。少なくとも来年の1月ぐらいまで辞める気なんてサラサラないと白状したわけだ。支持者であろうが無かろうが、国民みんながお口あんぐり状態だった。

もはや首相と表記するのもイヤだ。どう頑張っても「主将」程度だろう。いや、世の中の主将達に失礼だから「インチキ氏」と呼ぼう。

その後、内外からの激しいバッシングを受けて、この週末、ようやく8月ごろの退陣を示唆し始めたが、この節操のなさも気持ち悪いし、8月というメドだって、いつまたホゴにするかわかったものではない。

おまけに週末になって、世論の反発にビビった民主党執行部の面々が、ドサクサで居座りを狙っていたはずのトップの姿勢を打ち消すのに躍起になってアーダノコーダノ屁理屈を並べた。これまた醜悪そのもの。姑息で卑怯でハチャメチャな集団と非難されても仕方あるまい。

インチキ氏のああまでして権力にしがみつく人間性って何なんだろう。醜悪極まりない。

しょせん、無責任に文句ばかり叫ぶ市民運動家であり、しょせん無責任に好き勝手ほざくミニ政党の人間が間違ってあのポストに就いてしまったわけだ。

私自身、民主党有力者から「あれほど人徳がない人も珍しい」などと以前から聞かされてきた。そんな人間が首相にまでなれるのか疑問だったが、これほどのインチキを平然とやってのける特異な性格だから永田町を泳ぎ切ってきたのだろう。

15年ほど前、まだ売り出し中だった菅直人氏に1時間以上インタビューする機会があった。言いたいことを一方的にまくしたて、あまり聞く耳を持たないタイプだったことが印象的だ。

著書の自慢をさんざん聞かされたので一冊もらって帰ろうとしたのだが、定価で買わされた恨み?で批判しているわけではない。でも妙に高い本だった・・。

同じ日本の男として、潔さがまったくない精神構造が信じられない。変な話、インチキ氏の身辺警護はこれからかなりピリピリするはずだ。

議会の手続きをインチキで逃げ切ってしまった以上、インモラルな手法で「攻撃」を考える動きが出てきてもおかしくないと思う。遊説中や移動中に生卵とか腐ったトマトとかが飛んでくるようなシーンが頭に浮かんでしまう。そんなキナ臭い動きが出てきてもおかしくないぐらい怒りを感じている人は多い。

さて、今後の国会展望はまったく読めなくなった。というか、どうにも動かないだろう。懸案事項は全てコトがスピーディーには運ばない。インチキ首相とイカサマ集団の国会運営である以上、それも仕方ない。

わが社の編集幹部に展望を聞いてみたのだが、その中に一つ、ゼヒ見てみたい事態が起こりえる可能性があるという。

参議院では多数を占める野党が問責決議案を提出する。当然可決される。ただし、衆議院の内閣不信任案とは違い、インチキ氏は知らん顔で済ますことが出来る。

ここで、「反菅姿勢」を鮮明に打ち出している西岡参議院議長が大胆な行動に出るという仮説だ。

参議院議長は三権の長であり、参議院に限って言えば絶対の存在であり、色々と権限もある。問責可決で参議院からダメ出しされたインチキ氏に対して「登院停止」を通告。

天下の総理大臣が登院停止だ。参議院の衛視、すなわち制服を着た門番達は議長による登院停止処分を粛々と遂行する。

参議院本会議場に入ろうとするインチキ氏を衛視が制止する。「あんたは入れません。お引き取りを」と押しくらまんじゅうが展開される。

いやあ、ゼヒ見てみたい。そんな醜態をさらす可能性もあるわけだ。まあそこまでの事態は現実的に起こるかどうかは微妙だが、先週の茶番自体が非現実的だったのだから意外に現実になるかもしれない。

そのぐらい異例なことが起きないと、あのひと自身、自分がどれほど嫌われているかが理解できないだろう。

思えば、インチキ氏が男を上げて一気に「有力者」に躍り出るきっかけになった薬害エイズ問題でも、要約すれば大臣として、すなわち国として非を認めて謝ったというだけの話である。悪かったことを悪かったといったわけだから、厳しく言えば当たり前の話。

その後はカイワレを報道陣の前でムシャムシャ食べたぐらいの実績だ。しょせん、その場その場で目立つことだけで、いつのまにか「大物」になったのが真相だろう。

メディアはもちろん、国民もパフォーマンスに新鮮さを感じて、旧来型政治家とは違うという幻想を抱いてしまったことが悲劇の始まりだ。

考えてみれば、思慮深く、節度があって、ぶれない信念を持つ政治家であればパフォーマンスに頼る必要はないわけで、その点だけでも今後の政治家を見る際の反面教師といえる。

私自身、インチキ氏が売り出し中の頃、コラムで「官僚を正す」というニュアンスで「菅直人」を「官を直す人」などと浮かれた表現で記事を書いたことがある。

猛省しようと思う。

2011年6月3日金曜日

語学の壁

人生後半戦に入ってつくづく思うのが語学への後悔だ。日本語は達者に操ることが出来るのだが、英語も中国語もフランス語も私にとっては、すべて宇宙人の言葉のようだ。

英語は旅先で迷子にならずに、なんとか好きなものを食べて、野宿することなく過ごす程度のレベルだ。中学、高校、大学とあんなに勉強させられたのにどうしてダメなんだろう。

フィリピンあたりに行くと、高等教育を受けていない貧しい階層の人だって自国語以外に英語がペラペラだ。つくづく日本の英語教育のもったいなさというか、トンチンカンぶりが分かる。

まあ、教育制度のせいにしているようじゃダメだ。ちゃんと意識を持って勉強していればもっとマシになれたはず。今からでも英会話教室にでも行ってみようか。それともゴルフの石川遼が宣伝している変な学習法にでもトライしようか。

大学生の頃、ヒマで仕方がないので近所の英会話教室に行ってみた。教会系の説教くさい講師ばかりに馴染めず、長続きしなかった。

ある日、少し仲良くなったアメリカ人講師が東京モーターショーに行きたいと言う。仕方なく二人で出かけた。同年代の男だ。

マツダのクルマのロゴを巡ってひと悶着。ヤツは「MAZDA」という表記なら「マツダ」と発音するのは変だと言い張る。こっちはこっちで「マツダは松田自動車なんだからマツダに決まってるじゃないか」と話は平行線。

英語の先生としての意識が強いヤツはなぜか譲らない。私も日本人の人名が起源だから譲らない。そんなくだらないことで険悪になった。

あんな小さなことを譲らないアメリカ人はイヤだ。そういう私もそんな小さいことを譲らないケツの穴の小さい日本人ではある。

20代半ば頃、カリブ海に浮かぶケイマン諸島に一人旅をした。頼れるのは中学生の頃に教わった堅苦しい英語。ところが現地人との気軽な会話ではそうはいかない。

恥ずかしい話だが、「How are you?」と「How are you doing?」が同じ意味合いだと分からず、バカみたいな受け答えをしていた。

こちらの知識は古典のような「How are you? I’m Fine, thank you and you?」。
あくまでそれしか知らない。

ところが、そんな会話をしている人はいない。声をかけられる時は決まって「How are you doing?」である。実際に聞き取る時は「How」はかろうじて聞こえるが、「are」
は聞こえない。カナ表記すれば「ハウ・ユー・ドゥーイング」だ。

毎朝、ダイビングショップの受付やダイビングボートの上で、デカい連中が私に叫ぶ。「はう・ゆー・どぅーいんぐ」。

バカな私もバカなりに考えた。「How」だから何かを質問しているらしい。おまけに「doing」だ。

日本語的発想で勝手に解釈してみた。きっとこういう意味だ。

「おい!何してるんだい?」

これが会話に重きを置かなかった英語教育の悲しい産物だ。

向こうにしてみれば「やあ!元気?」とか「調子はどうだい?」とか、へたすれば単に「おはよう」ぐらいのつもりで声をかけているだけだ。

それなのに私は常にその時していることをつたない英語で必死に伝えようとする。

「水中カメラのフィルムを入れ替えているんだ」とか「いま着替えようとしているところだ」とか、そんな受け答えだ。

想像してもらいたい。

「やあ元気?」
「オレはいま電池を交換するんだ」

こういう感じの会話が美しいカリブ海をバックに毎朝交わされていたわけだ。

ケイマン諸島の海は素晴らしく、その翌年も懲りずに出かけた。その時は英語が出来る女性が一緒だった。

1年ぶりに訪ねたダイビングショップで、スタッフが大袈裟に再会を喜んでくれた。なんかペラペラ愉快にしゃべっている。

私の解釈は「おう、また来たのかい。嬉しいぜ。はるばるようこそ。今度もいい写真撮ってくれよ」である。

「OK」とか「Yes,Yes」と応えながらハグとかしちゃって、すっかりいい気分の私だ。念のため同行者にヤツらが何を言ってるのか聞いてみた。

正解は次の通り。

「おい、今年は少しは英語が分かるようになったのかい」。

そんなもんだ。

勝手な解釈と無鉄砲さは若い頃だから笑い話で済むが、今となってはみっともないだけなので、つくづく語学に打ち込まなかったことを後悔する。

近いうちにパリに行く予定なのだが、フランス語といえば小学校、中学校でせっせと勉強したのに、今ではカケラ程度も覚えていない。これも実にもったいない。

旅行用の携帯フランス語会話みたいな本を見てみたのだが、おぼろげながら昔はだいたい知っていたような記憶がある。

小学校時代の6年間ずっと家庭教師がいた。成績も当然良かった。6年間もマジメにやったのだから6才の子ども程度のフランス語はできたはずだ。話半分でも3才程度の能力はあった。3才の語学力だったら充分コミュニケーション可能だ。

1から100まですらすらとフランス語で言えたあの頃の優秀な私はどこに消えたのだろう。フランス人の先生とフランス語であーだこーだ会話できた素敵な私は記憶喪失にでもなったのだろうか。

エクスキュゼ・モアだ。

2011年6月1日水曜日

インターネットさまさま

今の時代、何が便利かって言えば、やはりインターネットだ。こんなことをいきなり書き始めたのは、靴を買うためのアホバカ旅行の予習が非常にラクになったから。

この先、不必要にグラグラ揺れなければ遠からずパリとローマに行くことを画策中。一応、アリバイとして絵なんかも鑑賞しようとは思っているが、正直、ガラではない。

実はゼヒにでも見たい絵が結構たくさんあるのだが、そんなことを書くとエセ文化人みたいだから、靴以外に興味はないという前提で行動しようと思う。

ジョンロブだとか、オーベルシー、コルテだのウェストンやタニノクリスチーがごろごろあるらしいから行かねばなるまい。そりゃそうだ。地元なんだからゴロゴロあるのは当たり前だ。

問題はそれぞれの店の所在地だ。有難いことに今の時代、ホームページが無い店は皆無。当然、所在地もすぐ分かる。もっとも、外国の住所を表示されたところで実際の行き方はサッパリだ。こんなときにもインターネットが活躍する。

住所をグーグルで検索すれば一発で地図が出てくる。外国の地図なのにカナ表記まで併記されているから実に便利。おまけにストリートビューまで駆使すれば周辺の雰囲気まで生々しく把握できる。実際にやってみると本当に便利でビックリする。

パソコンを始めとする機会モノが苦手な私ですら、こういう便利さを実感できる。良い時代だ。上級者の方々は一体どれぐらいハイテクの恩恵を受けているのだろう。

それにしても、「情報を発信する」というジャンルの仕事をしている以上、急激に進化する世の中の動きが恐ろしくてしょうがない。いまだに「紙」をベースにしているわけだから、どう逆立ちしたって産業革命のまっただ中にいるわけだ。今後の仕事に不安は尽きない。

今日のところは考えないでおく。

その昔、潜水旅行に明け暮れていた頃は、インターネットもまったく普及しておらず、調べものといえばアナログの世界。ダイビング雑誌を発行する出版社に問い合せてバックナンバーを譲ってもらったり、海外の専門雑誌を取り寄せたり、とにかく面倒だった。

遊びのためだったので面倒なことが楽しめたのだろうが、いま思えば原始人だ。国際線の時刻表ひとつとっても、日本発着便なら簡単に調べられたが、海外路線を細かく調べたい時はハードルが高かった。

当時、OAGという国際航空時刻表を海外通販で取り寄せていた。電話帳のように分厚くて中身は記号と数字と英語ぐらいなもの。私にとっては、マヤ文明の手紙を翻訳するようなものだ。なんとか解読した。

あのおかげで中米カリブ海に浮かぶボネールという島に日本出発同日に到着することができたし、アメリカ経由カリブ海、そこからヨーロッパ経由で帰国するような乱暴な旅行が実現できた。

OAGの表記は、曜日が数字になっていた。確か1が月曜だか日曜で、水曜日が3か4みたいな感じ。それが分かるまで悶絶しながらページを眺めていた記憶がある。

空港表記もいわゆる3レター。成田ならNRT、パリならCDG、おまけに大都市の空港は複数ある。地名ごとの索引はあるのだが、全世界の空港だから膨大な数。ローマ字がミミズみたいに動き出す錯覚に襲われた。あれで私の脳みそは随分壊死したはずだ。20年ぐらい前の懐かしい思い出だ。

いま、ネット上で検索する場合、都市名もしくは国名を入力するだけでも、自動で候補地が羅列され、その中からクリック一つで目的の空港を入力可能。

おまけにスターアライアンスだとかワンワールドといった航空連合のおかげで、運航会社をまたいで縦横無尽に乗り継ぎ便を見つけることが可能になった。

私のような昔の人の感覚だと、ルフトハンザのウェブページではルフトハンザしか検索できないようなイメージがあったが、いまでは提携航空会社便もバシバシ出てくるので実に簡単。

今回予定しているのはJAL便なのだが、行きはエールフランス、途中の移動はアリタリア、帰路になってようやくJALの機材に搭乗するパターンだ。なんとも便利な話。

海外出張が多い人ならもはや常識なのだろうが、私のようなドメスティック男にとっては、ここ10~15年ぐらいの進化が妙に不思議に感じられる。

さてさて画策中の旅の話。問題はタバコだ。昨年の増税値上げを機に、やめていたタバコを国家のために吸い始めて、すっかりチェーンスモーカーだ。欧州路線は平気で12時間以上飛んだりする。強制禁煙が結構ストレスだ。

だから往復とも夜便を予定している。これなら出発を待つ空港でぶりぶり飲酒して、機内では睡眠導入剤でコロッと寝られる。はずだ。

考えてみれば10時間以上のフライトなどもう随分とご無沙汰だ。もともと飛行機が好きではないので、ここ数年、旅先は遠くてもせいぜい7~8時間の場所をあえて選んできた。

小さい画面で映画を見るのは嬉しくないし、どう頑張ったって機内食が美味しいはずもない。ゲームをピコピコする性分でもないし、読書するのもせいぜい2~3時間だ。

人目があるからエロ雑誌を見るわけにもいかず、ビジネスクラスに乗っても、キャッチボールできるほど広いわけではない。乗務員が隣に座ってお話ししてくれるわけでもない。

そういえば、過去に一度だけ乗務員さんが私の隣の空席で合計2時間ぐらいお相手してくれたことがある。ガラガラの飛行機だったこともあるが、まさに珍事だった。アメリカ系の会社の日本人乗務員だったのだが、あれはあれで安全運航上?由々しき問題だろう。でもちょっとだけ自慢?だ。

今回はエールフランス便にも乗るわけだが、いつだったか、夜便では乗務員が客のサイフを盗んで逮捕された事件があった。フランス人恐るべし。ぐっすり寝たいのに迷惑な話だ。

サイフはパンツの中にでも入れておこうと思う。