2016年12月5日月曜日

引退


今年は一度も潜りに行かなかった。どうやら長年にわたった潜水趣味を引退する時が来たようだ。

人生で一番熱中した事だったが近年はモチベーションが上がらない状態が続いていた。

二十歳になるちょっと前に突然思い立って講習を受け、海で泳いだことなどほとんど無いくせにライセンスを取った。

その後も段階的に講習を受け続け、一時はそっち方面で食っていこうなどと真面目に考えた時もあった。

大学生時代は潜ってばかりだった。沖縄に1ヶ月半も滞在して髪の毛が茶色くなったこともあった。

社会人になってもまとまった休みはすべて潜水旅行に明け暮れた。潜ることを楽しむより水中写真にハマっていたので、せっせと我流で撮影し続けていた。

国内はもとより、パラオやポナペ(ポンペイ)、トラック(チューク)などのミクロネシアやモルディブに何度も出かけた。

東南アジアはフィリピン、マレーシア、タイ、インドネシアのあちこちやパプアニューギニアまで遠征した。遠いところではエジプト・紅海あたりまでせっせと出かけた。

20代の終わりからの数年間はカリブ海に没頭した。ケイマン諸島やメキシコ側のコスメル、中米側のホンジュラスや南米に近いボネール、キュラソーまで足を伸ばした。

ただただ若かったのだと思う。安いチケット専門だったから、普通なら1度や2度ぐらいの乗継ぎで行ける場所に4~5回乗り継いでヘロヘロになった。それはそれで楽しい思い出だ。

今だったらお金をもらってもあんな強行日程で旅をするのはイヤだ。

いつだったか、カリブに向かうのにロスからオーランドにムダに移動したことがあった。オーランドからマイアミに行くための乗継ぎである。

ロスからオーランドに向かう飛行機はたまたまディズニースペシャル?みたいな便で、乗客はディズニーワールドに出かける人ばかり。搭乗口でなぜだか皆がミッキーのヘンテコな帽子をかぶらされた。私も黙ってかぶった。

機内でも皆さんディズニーモード。オーランドに着陸した途端、乗客がミッキーマウスの歌を合唱している。マイアミに乗り継ぐだけの怪しい東洋人である私はミッキー帽をかぶったまま乗継ぎゲートをとぼとぼ探すシュールな展開になった。

私のディズニー嫌いはあの時のトラウマが原因かもしれない。

潜水へのモチベーションが低下した大きな理由は水中写真の劇的な変化だ。デジカメに移行して、それまでの苦労は何だったんだと思うほどすべてが変わった。

便利さも急激に進むと退屈さにつながる。フィルム時代には最大で36枚しか撮影できないから必然的に一枚一枚に気合いを入れてシャッターを押した。


デジカメになれば当然、無制限で撮れてしまう。便利さにいちいちビックリしながら、知らず知らずに雑な撮影をするようになった。その結果なんとなく面白くなくなってしまった。

おまけにフィルム時代と違って撮ったその場で失敗か成功かが確認できてしまう。いつの間にか水中写真への執着心とか集中力、ドキドキする気分が昔よりも薄らいでしまったわけだ。

そう書くと結構な偏屈者みたいだが、遊びや趣味の世界ってそういうものだと思う。

自分なりに築いてきた感覚や確立してきたノウハウがまるで過去の遺物のように無意味になってしまったら徐々に情熱がしぼんでいく。

情熱がしぼんじゃう。こればかりは仕方がない。人間何をするにも情熱が有るか無いかで決まる。

仕事はもちろん、恋愛だって、はたまた家庭生活だって情熱がなくなれば途端に色あせる。惰性で続けることは出来るが、趣味の世界は惰性では続かない。

年齢も原因かもしれないが、だとしたら残念だ。なんだか負けたような気分になる。とはいえ、海に潜る行為は大げさに言えば命がけだから無理に続けても危なっかしい。

30年以上続けてきたから海での死亡事故の話はいっぱい耳にした。知り合いが絡んでいた潜水事故もあった。

私自身、それなりに危ない思いもした。今の歳で似たような状況になった時に無事でいられるか自信が無いのも確かだ。

引退しちゃえば少なくとも海で死ぬリスクからは逃れられる。そう考えれば思い切って終わらせちゃうのが賢明かもしれない。まさしく潮時だ。

そんなことを書きながら引退試合ならぬ引退潜水の計画が頭をよぎる。どこかホゲホゲした南の島に行って、水中カメラなど持たずにぼんやりとケジメの水中散歩をしてみたい。

でも、そんな未練がましいことをしたら、どっかのプロレスラーやボクサーみたいに平気で引退を撤回しそうだからビミョーである。

2016年12月2日金曜日

浅草のスリッパ 洋食ヨシカミ


「ヨソイキ」。子供の頃にやたらと聞かされた言葉だ。普段着の対義語である。出かけるときはそれなりの格好じゃなきゃダメという意味合いである。

この言葉は東京の方言という説もあるらしい。江戸っ子の粋というか、やせ我慢的精神性を象徴する言葉かもしれない。

浅草生まれの私の祖父は近所にちょろっと出かける時でも着替えていた。普段から家でまともな格好をしていたのに、一歩外に出る以上「ヨソイキ」を着るという感覚が強かったのだろう。

そんな影響を受けて育ったはずなのに、今の私は寝間着みたいな格好で近所をウロウロする。反省しないといけない。

歳を重ねるにつれ何事も横着になってくるが、ヨソイキという概念は自然と自分を律する効果があるはずだからもっとちゃんとしようと思う。

子供の頃、大晦日には新品の下着とパジャマを用意される習慣があった。お気に入りのパジャマを取り上げられるのがイヤだったが、新品を着せられるとどこかシャキっとした気分になったのも確かだ。

「もったいない精神」とは相容れない考え方だが、節目節目でシャキっとした気分になる効能は捨てがたい。一種の文化としてアリだと思う。

先日、浅草でスリッパを買った。浅草散策が目的というより、スリッパのためにわざわざ出かけたようなもの。



以前、浅草をぶらぶらしていた時に買った畳ベースのスリッパが気に入って愛用している。そろそろ年末も近づいてきたし、正月用に新調しようと思ったわけだ。

寝間着でウロウロしちゃうようなヤボな日常を反省する意味で「わざわざスリッパを買うために浅草まで出かける自分」というストーリーに浸ってみる。

なかなか素敵な行動である!などと一人勝手に思い込んで気分がアガる。単純である。

でも、小さい事だろうとこだわりを持っているつもりになることは平凡な日常のアクセントになる。

たかがスリッパ、されどスリッパである。家にいる間はずっと履いているわけだから愛着が湧くような相棒と付き合いたい。

なんだかそんなことを書いていると、家でもこだわった格好をしていると誤解されそうだが、ヨレヨレになるほど着古したスウェットやトレーナーばかり着ている。

寝ているときも食事するときも映画を見るときも一緒。決して人様には見せられない。屁理屈みたいだが、ヨレヨレになるまで愛用するのが「こだわり」になってしまった。

娘が泊まりに来る時にはヨレヨレは片付けてマトモな部屋着を選んでいる。それぐらい普段はシャバダバな?カッコで過ごしている。

今度の大晦日ぐらいはウン十年ぶりに寝間着兼部屋着を新調してみようかなどと考えている。

スリッパと寝間着の話ばかりでもしょうがないので、浅草で食べたものの話。

浅草に行くと無性に洋食が食べたくなる。スリッパ散策の日は、運悪く昼と夜の間の時間にあたってしまい行きたい店がみんな休憩中。

で、週末はナゼか常に行列している「ヨシカミ」に向かう。ここだけは昼からずっと通し営業である。

列に並ぶことがゴキブリに遭遇するより苦手な私である。15時過ぎに行ったら店の前に10人ぐらい待っている人がいたので断念。

界隈をウロウロ散策して、まるで客がいない定食屋に吸い込まれそうになったが、なんとか我慢。シュールなステージ衣装屋を覗いてテカテカ光っている金色のスーツを買いそうになったが、これも我慢。

そして16時ぐらいに行列が解消した「ヨシカミ」に入る。ビールを飲みながら突出しのピーナッツとせんべいをボリボリ。





タンシチュー登場。グラスの赤ワインをグビグビ。ほどなくチキンライスも登場。ワシワシ食べる。カウンターの隣の見知らぬ人が食べていたグラタンにこっそり手を伸ばそうかと思ったが、さすがに我慢する。

週末の浅草は観光地だから昼から休み無しで通し営業している点はエラいと思う。並んでまで食べたくない人は夕方の時間帯が狙い目だろう。

2016年11月30日水曜日

星守る犬


予定の無い休日は録画したままになっている映画やドラマを見るのが定番の過ごし方だ。

たいていは肩の凝らないコメディー作品をお茶とお菓子をお供にアホヅラで見ている。

一人モノの特権みたいな時間だが、一人モノだからこそ、たまに「ヤバい」作品にぶつかるとドンヨリしてしまう。

ヤバい系のもの、すなわち淋しい「中高年一人モノ」である。身につまされてビビったりアセったりすることがある。

先日、たまたま2作続けてみたのがそっち系だった。ちょっと参った。


最初は渡辺謙が主役の単発のスペシャルドラマ「5年目のひとり」。山田太一作品である。

東日本大震災で家族や友人を一気に失った50代の心を病んだ男の物語である。

「中高年一人モノ」とはいえ、そういう設定だから個人的には身につまされる感じとは違う。それでも一人暮らしの侘びしさが強調されていて切なかった。

見終わったあと、次はもう少しホッコリしそうな映画でも見ようと選んだのが「星守る犬」という作品だ。

ところがどっこい、ホッコリというよりドンヨリしてしまった。でも素晴らしい映画だった。5年前に公開された作品で主演は玉山鉄二と西田敏行である。


身元不明の男と飼い犬の遺体が発見される。男は死後1年ほど経っていたが、飼い犬は死んで間もない状態だった。市役所の福祉担当職員が、男と犬がたどってきた旅の足跡を訪ね歩くというストーリーだ。

犬と飼い主のホノボノ話かと勝手に想像していたのに大違い。淋しく孤独死を迎える中高年の現実を突きつけられた感じだった。

西田敏行演じる主人公は真面目に生きてきた男だがリストラされて職を失う。それを機に仲の良かった家族関係が変わってしまい結局は離婚届を突きつけられる。

そして人生をやり直そうと身の回りの物を詰めた車で愛犬と旅に出る。新天地を求めたものの世の中はそう甘くはなく結局はクルマの中で愛犬と二人で最期を迎える。

なんともまあ切ない。ポイントは主人公の男は普通に平凡に生きてきたという点である。何も悪いことはしていない。少しだけ無器用だったというだけだ。

元は平凡な家庭の主だったわけで、そういう意味では一歩踏み違えたら「普通に起こりえそうな話」である。そこが妙に胸が痛くなる話だった。

身元が分かる物をすべて処分し、クルマのナンバープレートも外し、車台番号まで削りとった男はどんな気持ちだったのだろう。

家族に迷惑をかけたくないという優しさだったのか、はたまた去って行った家族に世話になどなりたくないという意地だったのか。どっちにしても物凄く哀しい。

見る人が見れば、犬の賢さや忠誠心みたいな部分が作品のキモなのかもしれないが、私の場合、もともと犬に興味が無いので男の気持ちのほうに感情移入してしまった。

と同時に、犬すら身近にいない我が身の境遇が空恐ろしく感じた。

「やっべ~、犬すら飼ってないじゃん、オレ・・・!」

そんな感じである。

時に涙をこぼしながら映画の世界に没頭し、見終わった後、近所のペットショップに行こうかと思ったほどだ。

バカである。そういうことではない。ペットの有無ではない。

身近な人との絆がどれだけ強いか、心の底から信頼し合える人間関係が築けているか、うわべだけの生き方をしていないか、そんな課題を突きつけられているように感じた。

そんなことに思いを馳せる年齢になったことを今更ながら痛感する。月日が経つ感覚が短くなり、いま思えば30才ぐらいからの20年はアッという間に過ぎた。

まあ、将来を心配してもキリがないが、着々と偏屈ぶりに拍車がかかっている自分の身の処し方は折に触れて真面目に考えないといけないのだろう。

やっぱり犬でも飼ってみようか。いや、技術の進化が凄いから、アッという間にペットロボットが想像以上の水準になるはずだ。それを待ったほうが良さそうだ。

いやいや、そのうちペットどころか“ロボット奥さん”なんかも登場するかもしれない。

優しく看取ってくれるならロボットで充分かもしれない。

そんな結論になっちゃうことが大問題である。

頑張ろうっと。

2016年11月28日月曜日

プリン体VSコレステロール


年に一度、身体のアチコチをチェックしている。胃と大腸の内視鏡検査がメイン。今年は大腸にポリープがあったが問題ナシ。

毎年内視鏡検査のついでに肺のCTも手配してもらう。とくに変化ナシ。今年は以前から潜んでいる胆のうのポリープらしきモノもMRIで調べてもらったが、気にする必要は無いらしい。

合格だ。血液検査では肝臓やコレステロールの数値がちょっと引っかかったが、基準値から大幅に超えた数値ではない。これまた合格だろう。

好き勝手に生きている割には優秀である。たぶん青汁とサプリ類のおかげだ。今の暮らしに「適度な運動」や「健康的な食事」を加えたら、おそらく異常なまでの健康体になって100才まで生きてしまいそうだ。


コレステロールの数値が多少悪いことは自分でも想像していた。この半年ぐらい卵系の摂取量が多かった。生タラコの酢漬けが朝のマイブーム?になり、TKG、いわゆる卵かけご飯も頻繁に食べていた。

中華に行けばピータン、寿司屋ではイクラ、スジコ。おでん屋さんでも卵はもちろん、タラコまでムホムホ食べていた。子持ちししゃも、子持ちアユも食べてきた。



この半年は「デュラン・デュラン」ならぬ「ギョラン・ギョラン」、「ギャランドゥ」ならぬ「ギョランドゥ」状態だったわけだ。

意味不明でスイマセン。

私のヘンテコな健康管理のひとつが「コレステロール」と「プリン体」のバランス感覚を考えることである。

どちらかの含有量が多いものを多めに摂取したら、次の日はもう一方の含有量が多いものを摂るようにするという理論である。

ウニをいっぱい食べたら次の日はイクラにしておく。要するにそういうことである。メリハリだ。

これを心がけるはずが、この半年ぐらいは、ロックンローラーならぬコレステローラー状態に偏ってしまっていたわけだ。

卵系はコレステロール、ウニやキモ類はプリン体である。

コレステロールは動脈硬化、プリン体は痛風である。どっちもイヤだから原因となる食べ物をどちらか一方に偏らず、交互に楽しむことを自分なりのこだわりにしている。

医者じゃないから正確かどうかは知らない。でも、どっちも好きだからなるべく偏らないようにしているわけだ。

というわけで、コレステロール値が上昇した時は決まってプリン体の方の尺度である尿酸値は下がっている。今回も尿酸値は「ギリギリセーフ」どころか「ゆうゆうセーフ」の水準だった。

これからしばらくウニばっかり食べれば、コレステロール値は下がったとしても尿酸値が上昇するはずだ。

ここ10年ぐらい、そんなことを繰り返している。まあ、私なりの一種の思い込みに近い部分もある。


この時期、ちょくちょく私が悶絶している上海ガニのミソである。老酒漬けのミソをネチョネチョ味わいながら熱くした紹興酒をピョロピョロ飲んでいるのが至福の時間だ。

コイツは一体、コレステロール派なのかプリン体派なのか、はたまたダブルパンチ派なのだろうか。よく分からない。

まあ、一年の限られた時期にしか食べないから気にしたってしょうがない。少しぐらい毒物があったとしても頻繁に食べるわけじゃない。

ちなみに、実際には多くの珍味系のウマいモノはコレステロール、プリン体双方が多いことが多い。それを言っちゃあオシマイみたいな話だが、本当はそういう認識で摂り過ぎに注意しないといけないようだ。

まあ、そんなことを厳密に守っていたら人生がちっとも面白くないから、そこそこ注意を払って、たまには粗食の日を作ってバランスを取るようにしたい。

2016年11月25日金曜日

ライブとMC


このブログでも何度か書いてきたオジサマバンドのライブが無事終了した。5年間続けてきた集大成的な記念ライブということもあり過去最高の130名ほどの方にご来場いただいた。



当日、御参加いただいた皆様、お手伝いしていただいた方々にこの場を借りて心から御礼申し上げます。

ライブ数日前から湿度70%に保った部屋で眠り、喉を潤わすクスリをあれこれ用意し、潜水趣味の必需品として持っていた痰を切るクスリもバンバン飲んで本番を迎え、本番当日は大量のユンケルをグビグビ飲んで、楽屋でしっかり芋焼酎を摂取してからステージに上がった。おかげで声の調子は上々だった。

今年は昭和歌謡の有名曲のカバーを15曲程度の構成。誰にも馴染みのある曲ばかりやることにした。計算上は1時間半程度で済むはずなのだが、私自身は1時間45分ぐらいを見込んでいた。

いつも私の話が長くなるので計算通りには行かないのだが、今回は私の想定をも上回る2時間超えのステージになってしまった。

しゃべり過ぎである。まさに“おしゃべりクソ野郎”状態である。同級生を含めれば全体の半分以上が私の知り合いだったから、その人達からは大目に見てもらえるかもしれないが、それ以外の人にとっては「一体いつ歌うんだ?」状態だったはずだ。

批判、中傷ごもっともである。でも、私には私なりの言い訳もある。

世の中には素人オヤジバンドが溢れている。結構なことだと思う。歌ったり楽器を演奏するのはボケ防止に役立つ。

で、お客様を集めて本番となった際に、多くのオヤジバンドの致命的な問題が「MC」だと思う。MCとはmaster of ceremonyの略語だ。そう書くと大げさだが端的に言えば司会進行である。要するにしゃべりの部分だ。

今回の私のように?司会進行が突出しちゃって演奏や歌が二の次になっちゃったら本末転倒だが、MCがあまりに貧弱だと客席との一体感は生まれない。

素人バンドが陥りやすいのはお客さん目線を軽視したマスターベーション的な進行だと思う。わがバンドも予定通りに1時間半で終了していたらそんな感じに終わったはずだ。

観客との一体感など気にも留めていないような自己陶酔型の素人ライブになってしまったらお客さんは興ざめである。

「はいはい凄いねえ。お上手でした。でも別に楽しくなかった」。そういう感想になってしまう。

演奏や歌の技量はもちろん大事だ。それは基本だが、音楽的技量の高さをシビアにチェックしにくるお客さんの割合など限りなく少数派である。

お客様は誰もがステージに立っているメンバーの知り合いである。まったく未知な人は一人もいない。カッコつけてプロのマネっこをしたって始まらない。歌や演奏は普通にちゃんとしているレベルで、なおかつ笑いあり涙あり?の楽しい時間を双方向で作っていくことが一番大事だ。

と、エラそうに書いたが、それにしても長々としゃべり過ぎた。

でも、そのせいもあってか会場全体が一体感に包まれたライブになったことは事実である。前半の段階からお客様がほぐれてくれて実に有難かった。

さて、今年のライブでは前座と称して、私と私の旧友がギターを抱えてロネッツの「Be My Baby」とビートルズの「Nowhere Man」を披露した。ゲストとしてバイオリン担当で私の姪っ子に参加してもらった。即席3人組バンドである。


大学生の姪っ子はオーケストラ活動やバンド活動などで私よりも遙かにステージ経験がある。しかし、バンドメンバーのオジサマぶりやオトナだらけの客席の老練な?感じにちょっとビビっていたのが印象的だった。

それこそがオジサマパワー?である。熟成である。5年間かけて辿りついたのは「老練熟成空間」だったのかもしれない。

私自身、2回ほど歌詞を間違えたが、おそらく99%の人には気付かれていない。涼しい顔してミスを隠す能力?はファーストライブの頃のオドオド感とは明らかに変わったと思う。

それにしても5年連続でやったことで一番感じるのが疲労度である。終わったあとの疲れかたが尋常ではなくなってきた。5年前とは別人のようだ。

ライブ翌日の日曜はまるで死体のように転がっていた。ヘロヘロでグダグダだった。実にだらしない。ふだんの不摂生のツケだと思う。

その日、姪っ子は別のコンサートにウキウキ演奏に出かけたそうだ。何だかんだいって若さには勝てない。これもまた現実だ。

つくづく連日、数千、いや万単位のお客さん相手にライブを行う中高年ミュージシャンの凄さを痛感する。日頃よほど鍛えていないと無理だろう。

不謹慎な話だが、武道館や東京ドームを連日満員にするようなミュージシャンにはマリファナぐらい解禁してやってもいいんじゃないかと意味不明なことを感じた次第である。

アホですいません。。。

改めてましてご来場いただいた皆様に心から感謝いたします!


●●備忘録。今回のライブのセットリスト。

・Nowhere Man  The Beatles

・Be My Baby  The Ronettes

・メトロに乗って 斉藤和義

・恋するフォーチュンクッキー AKB48

・雨の御堂筋  欧陽菲菲

・安奈  甲斐バンド

・僕が僕であるために  尾崎豊

・夜空のムコウ  SMAP

・白い雲のように  猿岩石

・ルビーの指環  寺尾聰

・どうにも止まらない  山本リンダ

・星降る街角  ムード歌謡の人びと

・チャンピオン  アリス

・勝手にしやがれ  沢田研二


そのほか進行上の小ネタ等・・・・・・「Twist And Shout」(The Beatles)、「Pipeline」(The Ventures)、「I LOVE YOU」(尾崎豊)、「神田川」(かぐや姫)、「アンパンマンのマーチ」、「ヤングマン」(西城秀樹)、「Long Train Runnin'」(The Doobie Brothers)他。

2016年11月21日月曜日

ネットスーパーの話


「10年ひと昔」という言葉を何気なく使っているが、平成に入ってからの様々な進化を考えると、ひと昔どころではなく「10年大昔」と呼びたくなる。

変化の中で暮らしているとなかなか気付かないが、もし20年ぐらい前に冬眠して目覚めたら今の世の中の変わりように唖然とするはずだ。

インターネットがズンズン進化し、Amazonあたりは昔では考えられないサービスを展開する。携帯やスマホはライフラインになり、駅は無人改札が当然でクルマは自動運転を始める。

いま50代の私にとっては今後も猛烈な勢いで進むはずの情報革命的な社会の変化が恐くて仕方がない。ついて行けない恐さだ。

スマホの機能を例にとっても原始的な部分しか使っていないからしょっちゅうバカにされる。「Line」をやっていないというだけで変な疎外感を味わっている。

ちょっとした買物や音楽や映画配信なんかは一応インターネットを駆使しているが、それでも初歩的な使い方しかしていない。

ついでにいえば、勝手に仕様が変わっちゃうアップグレードとやらに混乱して使いこなしていたサービスや機能をすぐにやめたくなる。

我慢して必死に学び続けないと世の中から脱線しそうで恐い。つくづく情報格差がもたらす将来の社会の分断が心配になる。

何だか大げさだが、ネットスーパーを便利に使いこなしながら、ふとそんなことを思った。


というわけで、今日はネットスーパーの話。
20代の頃の一人暮らしを思うと今の時代の便利さは相当なものだ。なんでもかんでも玄関先まで持ってきてくれる。

小量の買物じゃなければ送料も取られない。配達日時も細かく指定出来る。大家族向けのサービスかと思っていたが、逆に一人暮らしにこそ向いているサービスだと感じる。

大家族なら人手があるから、結構な量の買い出しも簡単だ。チョット足りないものがあっても、疲れ果てて帰宅しようとしているダンナにメール1本で買ってこいと命令もできる。

一人者はそうはいかない。ちまちま買物に行くのも面倒だし、私のようにロールスロイスに乗ってピコ太郎のような衣装で日々動いていると気軽にスーパーに行くのも大変だ。

で、ネットスーパーのお世話になる。いつの間にか4つもの業者を使いこなすようになった。

まず私が希望する配達スケジュールに空きがあるかどうかが第一関門である。あくまでそれ次第だが、品揃えに関してもそれぞれビミョーに違いがあるので場合によって使い分けている。

生卵を例にとると安さ優先の業者とちょっと高級な商品を常備している業者に別れる。おのずとその他の商品ラインナップにも若干の色合いの違いがある。

あっちには鹿児島の黒豚があるけど、こっちは安っぽい肉だけだとか、子供にウケそうなソフトドリンクの品揃えが多いところと少ないところ、10キロサイズの米ばかり用意してある業者と1キロ、2キロサイズの米も用意している業者など結構違いがある。

そんなことに詳しくなったところで私の人生にとって?特別影響はないのだが、それでもそのビミョーな違いを考慮して業者選びをすることが結構楽しい。

飲料、食料だけでなく日用品やクスリ類まで注文できるから非常に便利である。洗濯用洗剤から柔軟剤、トイレットペーパーなどの紙類なんかは重くてかさばるから玄関まで運んでくれるのは大助かりだ。

夏場は蚊取り線香や防虫スプレー、冬場だったらカイロや毛布まで頼める。電球や電池、歯ブラシ、ヘアスプレー、フライパンや鍋、入浴剤からダイエット用品までデリバリーしてくれる。

大きなスーパーに置いてある商品なら何でも持ってきてくれるわけだから実に便利である。

よく考えれば、売り場に行って直接目で見て手にとらないと選べない商品などそうそう存在しない。9割方必要としているものを買いに行くのが普通だろう。

逆に実際の店頭に行っちゃった方がついつい目に入ったどうでもいいものを買ってしまうからネットスーパーで必要なものを揃えた方が経済的かもしれない。

配達とか出前というと、昔の人間にとっては「横着」「ぜいたく」「手抜き」というイメージがあるのだが、そんな呪縛?にとらわれているのは無意味だと思う。

食べ物の出前については、今ではそのエリアのデリバリー業者を集約して簡単に選べるネット上のサイトがいくつもある。私自身、割と頻繁に利用しているが、あれは確かに割高感がある。「横着」「ぜいたく」というイメージはあながち間違いではない。

でも、ネットスーパーに関してはまったく異質だ。使わない方がもったいない。お年寄りだったら尚更である。重いものを無理に運んで大変な目に遭うなら配達料を取られちゃうほどの小量の注文でも使いこなすべきだろう。

何だか今日はいつになく所帯じみたテーマを延々と業者の回し者のように書き殴ってしまった。

2016年11月18日金曜日

日本橋の風情 「割烹とよだ」


東京は1200万都市だから場所によって様々な顔がある。最先端のエリアからディープな下町、お屋敷街からささくれだった?ドヤ街まで何でもアリだ。

地方出身のミュージシャンの多くが東京をテーマにした怨めしいような歌を作り、倉本聰が脚本を書くようなドラマでは「オレ、もう東京は卒業するよ」などと言われる。

なんだか東京というだけでヒール役を演じさせられている感じだ。魑魅魍魎が住む場所みたいに扱われている。根っからの東京人にとってはシャクにさわる。

そうはいっても東京人でも掴み所がないのが東京の魅力だろう。

私自身、東京のそれぞれの場所にそれぞれ勝手な印象を持っている。正しい認識かどうかは怪しいが、ある程度の年齢の東京人には共通する部分も多いと思う。

「四ッ谷、赤坂、麹町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、イキなねえちゃん立ちションベン」。映画「男はつらいよ」で寅さんが口にするフレーズだ。

四ッ谷、赤坂、麹町あたりの風情にどこか艶っぽさを感じる東京人にとって、あの啖呵売の口上は印象的だ。

やはり寅さんがテキトーな商品を露天で紹介する際に「花の都、東京は神田の六方堂という老舗が泣きの涙で手放した・・・」云々という決まり文句がある。

お決まりのでっち上げ話だが「花の都」で「老舗」となれば確かに「神田」がしっくりくる。ありそうな話だ。

老舗といえば「日本橋」だが、そこは寅さんが語る作り話である。さすがに「日本橋」だと本格的?過ぎて話がわざとらしくなるから「神田」が丁度いい。

このあたりの東京の面白さだ。街ごとにビミョーな肌合いの違いがある。

ということで前振りが長くなったが「日本橋」の話を書く。

時々、日本橋界隈をウロウロしたくなる。近くに構える銀座とは違った独特の落ち着きを感じる東京の座敷?みたいな場所だ。

近年、三菱グループが「丸の内」をグイグイ演出?しているのに対し、「日本橋」は三井系がバリバリ推している。

いつのまにか数多くのショップ、レストランを擁する「コレド」というビルがいくつも出来て、それぞれが「お江戸日本橋的イメージ」に沿った展開をしている。

銀座ほどごったがえすこともなくウロウロするには悪くない。上等な和物を扱う店も多くオトナの散策にはオススメだ。

昔からのウマい店が点在しているのも日本橋の魅力である。ウナギ、天ぷら、寿司といった「江戸っぽいラインナップ」には事欠かない。

ハイカラ時代?の花形だった洋食屋さんやシュールな喫茶店なんかも揃っている。どこも老舗の矜持みたいな雰囲気があってチャラチャラした繁華街とは街の香りが違う。


うろうろついでに目にした気になる店にふらっと入ってみるのもプチ冒険みたいで楽しい。

そんな流れで時々出かけるようになったのが日本料理の「割烹とよだ」という店。相当古い歴史を持つらしい。

とはいえ、店自体は綺麗で古めかしい雰囲気はない。張り詰めすぎた緊張感が漂う店は苦手だが、こちらの店はその一歩手前ぐらいの上質な感じ。オジサマにとっては居心地が良い。

座敷席の客が中心のようで、ゆったりしたカウンター席は比較的空いていることも多い。

こうした正統派の老舗日本料理店にしては珍しく、カウンターではアラカルトでちゃんとしたウマいものが食べられる。

刺身もその日のオススメを教えてくれるし、お通しのような感じで用意される前菜盛り合わせはチョットずつ盛られた料理すべてが酒の肴にバッチリ。


一年中置いてあるというカラスミは目ん玉が飛び出るぐらいウマい。濃厚な胡麻豆腐も抜群だし、繊細な懐石の一品のような料理とともに鶏の唐揚げなんかも用意してある。

安い店ではないが、高級路線のお寿司屋さんでガンガン飲み食いするよりはお手軽だ。

正統派の老舗料理さんで好きなものを好きなペースで注文してユッタリしたカウンターでのんびり一献。これって出来そうで出来ない贅沢である。オジサマならではの喜びである。

つくづくオジサマに生まれて良かったと思う秋である。