2016年12月21日水曜日

牛肉と闘う 六本木「Kintan」


ステーキという言葉を聞いただけでヨダレが出ていた頃が懐かしい。いつの間にかすっかり牛肉を敬遠するようになった。

元気なお年寄りはステーキを食べている。勝手な思い込みだが多分間違っていない。私のように50歳やそこらでステーキから逃げているようでは長生きできないような気がする。


ステーキに限らず、牛肉をワシワシ食べる人はエネルギッシュだと思う。「水炊き」を食べているオヤジより「すき焼き」を食べているオヤジの方が強そうなイメージがある。

「いきなりステーキ」というチェーン店が流行っているが、職場の近くの店舗の前を通るたび結構な歳のオッサンが嬉しそうに肉に食らいついている姿が目に入る。

「ゆで太郎」で蕎麦をすすっているオッサンよりいろんな面で強そうに見える。見習わねば。

銀座の酒場で時々見かける「北方謙三」だって毎日ステーキを食べていそうな雰囲気を漂わせている。

ああいう渋くて濃い雰囲気のオヤジになりたい私にとって、日々の暮らしに欠けているのは「牛肉」だろう。来年は心を入れ換えてステーキをガシガシ食べるようにしよう。

私が割と頻繁に食べたくなる牛肉といえば「牛丼」だが、あれは出がらしみたいな肉片の集まりだ。米が主役ともいえる。


焼肉屋に行くことはあっても、チャンジャやチジミ、チャプチェあたりをつまみに焼酎を飲んでいる。肉は一切れ、二切れ程度で、ヘタすると鶏肉を注文しちゃう。

肉も少しは食べるが、ホントは赤身肉しか食べたくない。でも同行者から「セコいヤツだ」と言われそうだから霜降り肉をオーダーしたりする。

しゃぶしゃぶ屋に行っても、赤身肉ばかり注文すると「こいつビンボーなのか?」と思われそうだから頑張って霜降り肉を頼む。

そんなアホみたいな見栄のせいで牛肉がどんどん苦手になる負のスパイラル状態に陥ってしまう。

洋食屋さんのビーフシチューが名物だと聞いても、タンシチューに逃げるし、カレーだってビーフではなくチキン優先である。

ちょっとだらしない。

若い頃は深夜にひとりクルマを飛ばして焼肉屋に乗り込み、カルビ4人前とドンブリご飯をかっ込んでいたのに今ではシャバダバである。

一生分の牛肉を食べちゃったのかと思うほど牛肉と縁遠くなった。ここ最近どうも活力が湧いてこないのも牛肉欠乏状態が影響しているのかと思えるほどだ。

先日、六本木の牛肉屋?で会合があった。「Kintan」という店の洒落た個室でコース料理である。赤坂などにある「金舌」という牛タンをアレコレ美味しく料理する店の系列だ。

「金舌」では牛タンの煮込みみたいな酒のツマミにバッチリな料理が揃っていたので大いに期待していたのだが、ローマ字表記のこちらの店は純粋に焼肉屋だった。

上等な肉がアレコレ出てくるのだが、当然すべて牛肉だ。みなさんジュージュー焼いてガシガシ食べているが、ヘタレた私はなかなか箸が進まない。

別注でシュリンプカクテルを頼もうとしたのに品切れ、他の一品料理も牛肉系ばかり。ちょっと困ってしまった。完全に敗北ムードである。


この画像は、コースの後半に霜降り肉を卵黄に混ぜて一口サイズのご飯をくるんで食べさせる店のハイライト?である。

確かにウマい。ウヒョ~って感じなのだが、一口サイズだからウマいのだろう。こんなものを2枚も3枚も食わされたら重くてダメだ。

私の身体の中で牛肉をやっつける消化酵素が消滅しちゃっているのだろうか。

10年ぐらい前は、牛肉をガツガツ食べなくなった自分を逆に“通っぽい”と感じていた部分もあったのだが、今は危機感しか感じない。

牛肉ごときに負けているようではダメである。活力が湧いてくるはずもない。

まずは「いきなりステーキ」に入ってみようと思う。

2016年12月19日月曜日

オシャレは厄介


中高年紳士のオシャレは「適度」が一番である。あまり頑張りすぎると痛々しいし、無頓着すぎるのも情けない。

まあ、そうはいっても「適度」は人それぞれ違う。裸足で紫の革靴を履いて金色の帽子をかぶっていても本人にとっては適度なオシャレに過ぎないかもしれないし、ネクタイを締めるだけで物凄くオシャレをした気分になる人もいる。

洒落心は人によってそれぞれだ。無地の濃紺のスーツだけを2~30着持つのもオシャレへのこだわりだし、色違いで同じ服ばかり揃えるのだってこだわりだ。

私自身、頑張ってオシャレに励むのは小っ恥ずかしいと思っているくせに、日々それなりに洒落心をアピールしている。


スーツの袖ボタンを多めに付ける程度のシャレっ気だが、正直に言えばこれだって仕立て屋さんが勧めてくれたことをさも自分のこだわりのようにしているだけだ。

以前にも書いたが、スーツ姿の場合、胸ポケットにチーフを突っ込んでおくだけで「身だしなみに気を使っている人」という演出効果がある。

それだけで地味なスーツでも感じは変わる。布きれ一枚で世間様から「ちゃんとしている人」と見てもらえれば儲けものである。

ネクタイやシャツ、スーツの組み合わせに悩むのが面倒だから、私が持っているのはプレーン系というかソリッド系?のものが多い。そのままだと地味すぎるから胸にポケットチーフを入れ始めたわけだ。

スーツもシャツも馴染みの仕立て屋さんに毎度同じ形で作ってもらう。オーダーメイドというと富豪っぽいが、今どきはデパートで売っている「中の上」ぐらいのスーツと同程度の予算でも作れる。

わざわざ生地見本を大量に持ってきてくれて、完成品は届けに来てくれるからラクチンだ。

既製品を買いたくても世の中には小さい服しか売っていないから困る。普通の店に行けば、試着室で自分のデブぶりに哀しい気分になる。ビッグサイズ専門店に行くのもちょっと切ない。

その点、オーダーで済ませちゃえばサイズの点で恥ずかしい思いをしないで済む。精神衛生上とても良いことである。

そういえば「ふるさと納税」の返礼品として全国で使える「スーツお仕立て券」を用意している自治体があった。そこにも寄付をして来年の夏物スーツを事実上タダで作ろうと企んでいる。

オーダースーツの場合、ボタンやら裏地を選ぶのがちょっとメンドーだ。実際にこの部分で変な洒落心を出して後悔することがある。裏地だから見えないと油断して変な生地を選んでしまう。


これってオーダーなんだぜ!というつまらない見栄っぱり心理もあるのだろう。後になって人様に驚かれたりして自分でも気になってくる。

カッコつけて選んだものの、やり過ぎるとヨソ様からは「得体の知れない人」「怪しげな人」と思われかねない。ヘタすると「遊び人イメージ」につながる。

「遊び人イメージ」は女性が最も嫌う要素だとか。そんな印象を持たれてしまったら大損?である。

突き詰めれば、モテたいから凝ってみたのに逆にそれがモテない原因を作りだすという実にトンチンカンな事態につながるわけだ。

さてさて、以前、キャメル色のコートを作った際に、やはりヘタな洒落心を出して襟回りだけを違う色の素材にした。ワインレッドに近い色だったのだが、出来映えが気に入らずほとんど着ないで仕舞い込んでいた。

よく考えれば襟の色が気に入らないだけだから襟だけ付け替えればいいと気付き、さっそく仕立て屋さんにお願いした。


結果、ゲロ安価格でオーソドックスな生地に換えてくれたので今シーズンはちゃんと活躍してくれそうである。

でも、襟元の色がうまくおさまったら裏地の派手さが気になり始めた。黄色がテカテカしている。ロングコートだから歩くたびに「テカテカ黄色」がひらひらしている。

こんな生地を誰が選んだんだろう。私である。反省だ。

裏地も交換できるようなので、近いうちにオーソドックスな色の生地に換えてもらおうと思う。

結局、大改造しなきゃ着る気にならないようなものを注文してしまうあたりが、私のセンスの限界である。というかセンスが欠落しているのだろう。

やはりオシャレは苦手だ。かといって無関心になってもいけない。ダンディーな路線を目指したい私にとって厄介なテーマだ。

2016年12月16日金曜日

かかとが痛い


腰が痛い、膝が痛いというのはありがちだが、「かかとが痛い」というメンドーな症状が私を襲ってきた。迷惑な話である。

この前の日曜日、小一時間の散歩を終えて返ってきたら何となく左足のかかとが痛い。筋肉痛の一種かと思っていたのだが、どうもそれとは違う。

散歩の後に尻の筋肉が突っ張ったように軽く痛くなることはあるが、かかとが激しく痛くなるのは初めてだ。

翌朝になったら痛みが増している。普通に歩けない状態である。こういう痛みは病院に行っても湿布を出されて何もしてくれないのが普通だ。

仕方なく頼みの綱である「謎の整体師」に電話をしてその日の午後に診てもらうことになった。

謎の整体師には10年ぐらい世話になっているだろうか。もともと私の母や兄が信奉?していた人だ。

若い頃の私は「そんなインチキ、アホらしいぜ」などとまったく関心が無かったのだが、ある日、起き上がれないほどの腰痛に襲われた際にワラにもすがる思いで訪ねてみた。

ゴキゴキ、ぐりぐりするようなことはなく、すりすり、とんとんする程度の謎の作業で身体全体のバランスを整えてくれる。

1時間ほど経ったらアラ不思議、すっかり歩けるように快復した。以来、どこかが痛くなったり調子が悪いときに診てもらっている。

腰痛に困っていたときには病院にも行ったが、たいていはコルセットを売りつけられて終わり。ある医者からは「ヘルニアだから手術しなきゃダメ」とまで言われた。

その後、謎の整体師のおかげで腰痛はすっかり治まって今では腰の痛みを意識することは激減した。ヘタに手術なんかしなくて良かったと思う。

腰痛経験のある世の中の中高年の多くが、お気に入りの「謎の整体師」とつながっている。整形外科に通っても改善しなかった人がそれぞれ人づてで相性の良い整体師を探すようだ。

人ぞれぞれ症状は違うため、相性もあるようだが、うまくハマればアッという間にそれまで悩んでいた症状が一気に改善する。

医師の医療行為じゃないから保険は効かない。1回5千円ぐらいはかかるが、効き目を実感できれば安いものである。

つくづく禁煙外来みたいなくだらないものを社会保険の対象にするなら、まっとうな整体治療が保険でカバーされるべきだと感じる。

さて、かかとの痛みである。謎の整体師が1時間半ほど身体を調整してくれたおかげで、その日のうちに痛みは8割方消えて次の日には普通に歩けるようになった。

かかとの痛みに悩む中高年は少なくないようで、ネットで調べてみたら「足底腱膜炎」だとか「踵骨下滑液包炎」だとか「踵骨棘」といったちっとも読めない難しい病名が並んでいる。


今後、くせになっちゃうのが恐いが、謎の整体師に世話になるだけでなく自衛策も必要だろうと、得意の?ネット通販でアレコレ調達してみた。

世の中にかかと保護グッズが山ほど存在することに驚いた。痛みと付き合っている人が思った以上に多いみたいだ。

私にとって唯一の運動が散歩だし、旅に出ればアホみたいに歩き回るのが好きだから「かかと問題」を克服することは私の人生にとって大きな課題である。

それより何より、かかと保護グッズを手放せなくなったら、せっかく大枚はたいて揃えたお気に入りの靴をブイブイ自慢げに履くことも難しくなる。

お気に入りの靴をスカした顔して履いているのが生き甲斐みたいなものだから、それが出来なくなるのはツラい。靴のためにも「かかと完全復活」に精魂込めて向き合わねばなるまい。


なんだかんだ言って、こうやって加齢と付き合っていくうちに全身のあらゆる部位の不具合に詳しくなり、サポートグッズに精通するようになるのだろう。

ちょっとシャクである。

若い頃は、痛いの痒いのといちいちうるさいオッサンにだけはなるまいと思っていたのに、アッいう間にアチコチ痛がっているオッサンが完成してしまった。

心を入れ換えて身体を鍛え直そうと思っている。

その決意が長持ちしないのが一番の問題かもしれない。

2016年12月14日水曜日

一匹狼と独りぼっち


「一匹狼みたいですね」。一人行動が多い私を評してある人が言った言葉だ。大間違いである。一匹狼と「ぼっち好き」では全然意味が違う。

一人行動が好きなことイコール一匹狼ではない。一匹狼を気取るためにはかなりの器量や気概、覚悟、そして才覚も必要だろう。

一匹狼なら誰にも頼ることなく自分の信念に沿って我が道を突き進む。

私の場合、すぐに人に甘えるし、協調すべきところは協調する。いとも簡単に妥協もする。依存心の塊みたいな部分もある。

一匹狼的な生き方に憧れる若者が増えているようだが、ホンモノの一匹狼と単なるワガママや身勝手とは別モノだろう。

若い頃には、いろんな場所でさまざまな人々に揉まれて社会の現実や身の処し方を学ぶ。そこで喜びを感じたり痛い目に遭うことが大事である。

そういう面倒なことから逃げたいだけで一匹狼という言葉を使うのはどうかと思う。単なる逃避であり脱落だろう。

一人酒、一人旅そのほか「おひとりさま行動」ばかりの私だって、節目節目の協調性にはそれなりに自信がある。人とのコミュニケーションだって不得手だとは思わない。

飲み会に行けば場を盛り上げて楽しく過ごすし、合コンみたいな場面ではちゃんとハシャいだりする。寡黙な人を演じようとしても5分で化けの皮が剥がれる。

それはそれである。友達とワイワイ騒ぐのは好きだ。無理して楽しそうにしているわけではない。純粋に楽しい。

とはいえ、一人でポツネンと過ごす時間も大好きである。それだけの話。一匹狼になどなりたくない。そんな無頼な人になるほど勇気はない。

日本人はもともと農耕民族だし、村社会的な共同生活を基本としてきた。あえてそこから脱線するのは単なる跳ねっ返りだろう。

協調性のない人は社会適合性という意味で劣っているのは事実だし、あくまでバランス感覚をどうコントロールするかが大事だと思う。

その上で「ぼっち」を楽しめばいいだけの話。

逆にムダな労力を使って、やたらめったら群れたがるのもヤボだ。誰かと一緒じゃないと行動できないのはいっぱしのオトナとしてはどうかと思う。

一人旅はちょっとハードル?が高いかもしれないが、一人じゃ酒も飲めない、ランチにも行けないとか言われると大丈夫かと言いたくなる。

一人でいるのが好きなことがワガママだとしたら、いつも誰かと行動したいっていうのもワガママだと思う。

考えてみれば、誰だって本来は「ぼっち」が嫌いではない。愛妻家で子煩悩な父親だって、たまたま家で一人になった瞬間にホッと一息ついたような気分になるのがその証だ。

たとえ家庭円満だろうとそこには努力や我慢が必要だし、うまく折り合いをつけることで成り立っている。本音ばかりではぶつかるから時には無理して合わせる。

「ぼっち」の時間にホッと一息ついても、大半の人は「孤独は怖いもの」という刷り込みがあるから結局は誰かと絡むことを選ぶ。それはそれで正しいのだろうが、そこにストレスが生まれると厄介だ。

無理がたたれば身体も壊れるし心も壊れる。やはり適度に「ぼっち」を楽しむ余裕を持たないと精神衛生上良くないのではなかろうか。

なんだかウザったい書きぶりになってしまった。

私自身が「ぼっち賛成派」だから、どうしても一人行動を是とした前提でアレコレ書きなぐってしまう。

でも、しょせん人間は生まれてきた時も死んでいく時も一人。孤独とうまく付き合っていくことが建設的だろう。

人と接することで得る刺激も貴重だが、一人でボンヤリすることで感度が上がる部分も捨てがたい。

前にも何度か書いたが「無所属の時間」に身を置くことを意識して過ごすことで五感が多少なりとも敏感になるような気がする。

職場や肩書き、家庭とは一線を画した素の自分として行動する時間を持たないと、自分がただの歯車や1つのパーツにすぎないことを突きつけられているようで滅入ってしまう。

なんだか今日は話がとっちらかってしまった。

街中がイルミネーションに彩られる季節である。わざとらしいキラキラ感にゲンナリする日々だが、「ぼっち」の淋しさを認めたくない中高年として、せいぜい強がって「ぼっち」推進論を叫び続けようと思う。

2016年12月12日月曜日

ラッセン、どん兵衛 バブル時代


「どん兵衛」が意味不明なキャンペーンを展開している。ラッセンが「かき揚げを描き上げた」らしい。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161207-00010002-kaiyou-ent

よく分からないけど素敵だ。いい感じである。


30年ぐらい前、ラッセンの描く世界に心をときめかせた。ダイビングに熱くなっていた頃だったから、写実的な中にもロマンチックにデフォルメされた独特の作風に惹かれた。

私にとって「バブル景気」のイメージはラッセンである。ジュリアナでもワンレンボディコンギャルでもない。ラッセンがバブル時代のアイコンだった。

その後、宇宙っぽいイメージを取り入れたり、漫画みたいなタッチの作品も増えてきたあたりから興味が無くなったのだが、大昔に購入したリトグラフは今も持っている。

ハワイの画廊で買った。社会人になってまだ間もない頃だ。当時の私にはかなり勇気が必要な値段だったが、頑張って購入。あれもバブルの勢いだったのだろう。


ダイヤモンドヘッドと水中の世界を描いた初期の代表作である。今では納戸の奥の方に仕舞い込んだままだ。正直処分に困っている。

買ったはいいが、帰国した際に別送品申告を忘れて慌てた思い出がある。当時親しく付き合っていた成田の某公的機関?幹部に泣きついたことを思い出す。

おおらかな時代だったから、その人には随分お世話になった。空港関係者の制帽を借りてスチュワーデスの知人を空港内の変な場所で出迎えるというサプライズにも協力してもらった。

イマドキの世相ではありえないバブル時代ならではの思い出だ。

最近、バブル時代回顧みたいな風潮が流行っているらしい。洋服のデザインや女性の化粧などにそんな傾向が強まっているとか。


平野ノラという芸人もバブルをネタに売れている。結構面白い。出てくる固有名詞が時々ツボにはまる。

評論家らしき人が解説していたのだが、10~15年ぐらい前のものだとダサい、カッコ悪いと思われても、30年ぐらい前の流行は逆にオシャレに見えるそうだ。

ある意味、流行に敏感な世代がまったく知らないぐらい年月が過ぎ去ったという意味だろう。

私の持っているラッセンの絵も昔のようにオシャレなイメージで再ブレークしてくれないものだろうか。念のため、まだ捨てないようにしよう。


あの頃、ラッセンの絵に刺激された私はフィッシュアイレンズを使った広がりのある写真を撮ることにハマった。

その名の通り魚眼のように広い画角が特徴なので簡単に地球を丸く?撮影できる。

水中撮影用の道具を揃えれば、ラッセンには程遠いものの陸と海を両方写し込むことが可能になる。南の島でしょっちゅうそんな写真を撮っては喜んでいた。





半分水中、半分陸上のいわゆる半水面写真というものだが、一番上の画像は30年近く前のモルディブだ。

今では地球温暖化の影響で浅瀬のサンゴが死んでしまって、こういう風景を探すのは結構難しいようだ。



時には旅先で知り合った人にモデルになってもらったこともあった。ついでにいろいろハプニングもあった。あれもまたバブルだったのだろう。

泡のような思い出だ。

2016年12月9日金曜日

酒場の縁


銀座の料理屋のカウンターで隣に座った初老の紳士とアレコレと語らう機会があった。

その紳士は後輩らしき面々とともに食事の後の二次会としてやってきたらしい。

小さい店で客も多くなかったから、私の耳には彼らの会話が入ってくる。話題はワインやヨーロッパの世情など文化的な香りが漂う。

スーツ姿ではなく割とラフな格好である。商社あたりのOBか、はたまた海外勤務が長かった新聞記者OBあたりが回顧話に花を咲かせているのかと思ったのだが、どうもビジネスマン的な雰囲気が無い。

どちらかといえば職人さんのような様子。ほんの少しコワモテというか、若い頃は尖っていたような匂いが漂う。

ひょんなきっかけで隣に座っていたそのオジサマが話しかけてきた。お互い酒も入っているから、あれこれ話すうちにその人がフランス料理界の重鎮だと知る。

なるほどと一人で納得。職人の総本山みたいな人である。一般的なビジネスマンの雰囲気とは違う濃密な気配をまとっていた。

若い頃のフランス修業時代の話や波瀾万丈の料理人人生の話を面白おかしく語ってくれた。

そして4年後のオリンピックの際には、日本の料理レベルを世界に発信する旗振り役になるんだとの熱い思いを聞かせてもらった。

ちょっと感動した。

以前、私がハマったテレビドラマ「天皇の料理番」を彷彿させるような面白い話がてんこ盛りだった。束の間の酒場交流とはいえなかなか貴重な体験だった。

酒場で隣り合った見知らぬ人とアレコレ語り合うことは結構珍しくない。カウンターに座ったお一人様同士というパターンが多いが他にもいろいろなパターンがある。

酒癖の悪いオッサンにカラまれるような迷惑なこともあるが、そういうウザい系だけでなく、妙にウマがあって古くからの友人みたいなノリでじっくり杯を酌み交わしたこともある。

お互いにどこの誰だか何をしている人なのかも分からないまま、熱く人生を語ったりするわけだから、やはり酒には魔法の力があると思う。

何者だか分からないから気安く盛り上がって楽しく過ごす。下品な話でゲヒゲヒ笑い合った相手が後になって世界的な音楽家だったとか著名な実業家だったりして結構ビックリしたこともある。

映画の中の寅さんだったら、そんな感じで知り合った凄い人達とその後も交流を続けるのだが、私の場合はその場限りである。

もっと積極的にせっかくの縁を大事にすればいいのにいつもそれが出来ない。

たまたま酒場で盛り上がっただけだから、その後も引きずろうとするのはヤボなことに思えてしまう。

確かにヤボはヤボだが、中には本当に気が合う人もいただろう。あと一歩積極的になっていれば自分の世界が広がったはずだ。

寅さんのほうが私より遙かに器の大きい人物だと改めて思う。

実際、「男はつらいよ」シリーズでは、寅さんは日本画の巨匠や陶芸界の巨匠、旧藩主の流れを汲む“殿様”などとひょんなことで知り合って楽しく交流する。

そこには変な自意識もなく、ただアッケラカンと気の合った人と友達付き合いをする寅さんの真っ直ぐさだけがある。

考えてみればそっちのほうがイキなのだろうか。せっかくの縁をハナっから摘んでしまうほうがヤボなのかもしれない。

なかなか難しい問題である。

2016年12月7日水曜日

寄付しまくって意趣返し?


12月なので「ふるさと納税」に躍起になっている。今年分の締め切りが迫っている。

ふるさと納税については、仕事柄理解していたが、昨年までは未体験だった。実にもったいないことをした。極論すれば「やらないのはバカだ」といいたいぐらいである。

ネーミングのせいで、とっつきにくい、難しそうだといった漠然とした思い込みで避けている人が圧倒的だと思う。

あれは「納税」ではなく「寄付」が正解。ごくごく単純にいえば、年間2千円の手数料を払えば寄付した金額が戻ってきたあげく、やたら豪勢なお礼の品が各自治体から届く。


この制度の恩恵を受けられる寄付金額はその人の所得によって上限がある。

所得税を納めていなくても住民税を払っていれば多少なりとも「枠」はあるようだし、年収がそれなりに高ければ数十万とか100万円単位の寄付をしてもほぼ全額が戻ってくる。

要は返礼品をタダ同然で手に入れられるわけだ。税の理念などどこかに吹っ飛んじゃったみたいなヘンテコな制度だが、それが許されているなら使わないと損だ。

だいたい、中堅・高所得者層は税制や各種手当、社会保障関係の大半の制度で「逆差別」されている。今度改正される配偶者控除にしても収入が1200万円ぐらいになると対象外にされる。

その点、ふるさと納税は収入が多いほど、寄付可能額が大きいから、当然、返礼品もワンサカ入手可能だ。一種の「意趣返し」のようにガンガン使わないと損だろう。

わずか2千円の負担で、全国から一級品の肉や魚、米や酒が送られてくるばかりか、温泉旅館の無料宿泊券、ゴルフ場の無料券、家具や食器、工芸品が選べたり、中には教習所や人間ドックがタダになったりする。

真珠や時計、AV機器もろもろ、ヤマハの電子ピアノやヤイリのギターだってもらえる。銀座の仕立て屋でスーツも作れちゃう。

モノ好きな人なら電車の1日貸し切りや1日駅長体験、ほかにも1日町長体験やプロサッカーチームの1日社長体験なんていうファンキーな特典もある。

以前、年間の寄付可能枠が100万円を超えるような人が制度をフル活用して日々の暮らしの必需品をすべて返礼品で調達していると聞いたことがある。あながち大げさな話ではない。

私自身、自分の寄付可能枠を調べたら結構な金額が使えるので年末までに使い切ろうと奮戦中である。


自分の寄付可能額は、ネット上にいくつかあるふるさと納税を集約しているサイトで簡単にわかる。メンドーがらずにやってみることをオススメする。

私の場合、仕事上で取引のある自治体がいくつもあるので、まずはそうした場所の魅力的な返礼品を狙ってアレコレと寄付をしている。

そうした義理?っぽいところ以外にも魅力的な商品がゴマンとあるので、これから年末にかけてじっくり返礼品選びをすることになる。

それにしても数限りない商品が用意されているので選ぶのが結構大変である。それだけでゲンナリしそうだが、ネット上の集約サイトでは返礼品の検索が簡単にできる。

たとえば、レトルト食品を探したければ「レトルト」と検索するだけで日本中の商品がズラッと表示される。手軽なものから自分で買うのをためらうような高級品まで選り取り見取りだ。

「米」だったら好きな銘柄で検索すればズバズバ出てくる。私が好きな「つや姫」だっていろんな種類がある。毎月定期的に一定量が送られてくるような特典もある。

1回でドカンと送られてくるのがイヤなら検索段階で「定期」とキーワードを入れるだけで年6回とか毎月送付される該当商品が表示される。

考えて利用すれば1年分の米や食料品を調達することだって難しくない。タダ同然で生活の基本コストがまかなえちゃうわけだ。

大真面目に「記者目線」でいえば、ふるさと納税はハチャメチャな制度だと思う。問題点は多いし、都市部の税収流出も深刻化する可能性がある。

なんらかの規制や改正(改悪?)が具体的に検討されるのも時間の問題かもしれない。まあ、ここでそんな話をしても仕方がない。

中堅・高所得者層をイジメる世の中の各種制度のシバリを苦々しく思っている人なら、自分の寄付可能枠をフルに使えばいいと思う。ネット上から簡単に申し込めて決済はクレジットカードでサッサと済む。

ちなみに標準的な家族構成で収入ごとに寄付可能額を大ざっぱに書いておく。

年収1千万円なら約15万円、1500万円なら約35万円、2千万円なら約50万円、3千万円なら約100万円、5千万円なら約200万円。

これだけの寄付をアチコチにばらまいて大量に返礼品をもらっても、結果的に寄付した金額から2千円を差し引いた金額が戻ってくる。オイシイ話だ。