2025年12月29日月曜日

NMN、健康寿命…


今年もまなく終わる。本厄だったのでちょこっと不安な一年だったが、かつてなく順調に過ごせた。厄除けのお参りに行かなかったせいかもしれない。

 

厄除けに行きたい気持ちはあったのだが、そこに集う人は皆さん厄年だ。何となく「邪気の集合体」みたいだ。悪い運気をもらっちゃってもマズいから敬遠してみた。というより単に面倒だから行きそびれただけだ。

 

で、ビビりながら過ごした一年だったが、春先に一念発起して節制暮らしに努め、体重は15キロ減り、キックボクシングジムに行き始めたこともあって以前から懸案だった倦怠感が消えた。これだけで良い一年だったといえる。

 

節制のおかげでコンビニメシや菓子パンを食べることはなくなった。最近でこそミスタードーナッツを頻繁に食べているから「小麦抜き」は出来ていないが、以前に比べれば激減だ。

 

カップ麺にしても秋口にペヤングのヘンテコシリーズを10種類ぐらい集中して味見したが、それ以外では食べていない。なによりカップ麺の買い置きをやめたことが大きい。

 

糖質過剰、怪しい小麦の大量摂取、運動不足という私にとっての「普通の日常」を変えてみたら随分と変わった。減量目的というより倦怠感退治に必死だったから運よく体重も減らせた感じだ。

 

で、この12月からはチマタで話題のNMNのサプリも飲み始めた。話題になり始めたころは1ヶ月分で10万、20万みたいな話をよく聞いたが、最近では価格もある程度こなれてきた。

 

私が注文したのは1ヵ月3万円ぐらいの商品だ。ビミョーな値段ではある。はたして効果を実感できるようなものだろうか。半信半疑だ。黙って3か月ほど飲み続けてどんな変化を感じるのか試そうと思う。

 



なんだかこう書いてくると「健康維持に必死な人」みたいである。そんな私だが実は長生き願望はない。逆に長生きは怖いとさえ思っている。

 

年寄りになればどう頑張ったって身体のアチコチが言うことを聞かなくなる。記憶力も凄い勢いで劣化してボケたことを言い出す。偏屈さは歳を追うごとに強くなる。おまけに収入面も今と同じわけにはいかないだろう。

 

これって単なる恐怖だ。怖い怖い。ちなみに平均寿命と健康寿命は違う。私が重視しているのは健康寿命である。簡単に言えば「誰の助けも必要なく一人で何も困らず生きていられる状態」だ。この部分が怪しくなるのが健康寿命の終わりを意味する。

 

健康寿命は平均寿命から78歳下あたりが平均値だとか。そうなると男性の場合、7374あたりが相場という話になる。矢沢永吉が76歳、舘ひろしが75歳であることを思えば、もちろん個人差はある。70代でもバリバリな人もいるだろう。

 

とはいえ、日頃いろいろとストイックに頑張ることに無縁な私が「永ちゃん、ひろし」を想定するのは無理がある。やはり、70代前半か中盤あたりに健康寿命が終了する可能性が高い。

 

健康寿命が終われば人様の手助けが必要という話になる。家庭人の頃、嫁さんに何かを頼んだり手伝ってもらうことすら苦手だった私である。いま同居している娘にも何かをせっせと手伝わせることはない。たいてい自分で済ませる。「人にやってもらう」ということ自体が昔から苦手である。

 

誰かの手助けが無ければ生きていけない状態になるのは想像するだけで息苦しくなる。気疲れして死んじゃいそうだ。だから必然的に健康寿命が終わるあたりでオサラバするのが正解だと感じる。

 

もちろん、70歳になった時にどう考えが変化しているかは分からない。100まで生きたいと言い出すかもしれない。70歳まであと10年である。アッという間に10年は過ぎていくのだろう。50歳から60歳になるまでは本当に一瞬だった。実際にたいした変化もなかったし「なんとなく」月日が過ぎ去った感覚もある。

 

これから先、60歳から70歳の10年ともなれば事情は変わってきそうだ。いよいよ“大病”みたいな試練がくるような気がするし、仕事面でも“手仕舞い”みたいな話とは無縁ではいられない。今まで以上に想像がしにくい段階に入ったといえる。

 

脳も肉体も劣化する中で最終コーナーに突入しようってわけだからどうしたって楽しみより怖さのほうが強い。「人生100年時代」という言葉も苦手だ。というより大嫌いだ。「隠居させないぞ、死ぬまで働け」と同義語でしかない。そういう意味でも長生きすることへの怖さはどうしても消えない。

 

でも、長生きが怖いという感覚はある意味で幸せなことでもある。言い換えれば今の段階でも一定の満足感があることの裏返しだ。「思い残すことはない」などと気やすく言えるものではないが、ある程度それに近い感覚はある。わりとエンジョイ?してきた自負はある。

 

図々しく言えば、この先にこれまで以上に楽しいことがあるような気はしない。そう言い切れちゃうほど楽しいことや充実感は味わってきたつもりだ。

 

決して後ろ向きの話を書いているつもりはない。70代でオサラバは早すぎると誰もが簡単に口にするが、70歳はもともと「古くはマレなこと」だから古希と称される。一応そこまではたどり着いてみて、その先は脳や身体、はたまた富豪度合い?に応じて考えられたら最高だと思う。

 

というわけで、節制に励んだり高いサプリを飲んだりする目的がイマイチよく分からないまま今日も過ごしている。そんなことをブツクサ言いながら今年も暮れていく。

 

本厄は突破できそうだが、来年は後厄という年回りだ。あまり調子にのらず平穏無事に過ごしていきたい。

 

★来年は15日から更新します









2025年12月26日金曜日

シンプルの凄み


飽食の時代といわれて久しい。地球レベルで考えても日本、とくに東京の食の充実ぶりは驚異的だと思う。随分と海外にも出かけたが東京の外食産業の百花繚乱ぶりは異次元レベルといっても大げさではない。

 

ラーメンを例にとってもその種類や食べ方は無数にある。コンビニのおにぎりにしても何でもありだ。ミシュランの星付き高級店から屋台の料理に至るまでウマいものが溢れかえっている。

 

タマゴかけご飯「TKG」も日本独自の逸品だ。海外では鶏卵の処理管理体制の違いによって基本的に生卵を食べる習慣がない。シンプル極まりない食べ物だが日本のウマいコメに上質な生卵を合わせれば、この国ならではの極上の一品になる。

 

TKGがその代表格だが「シンプルこそ正解」という真理は何となく軽視されがちだ。ついつい複雑怪奇?な一品を有難がってしまいがちだ。


ありとあらゆるウマい料理が揃う東京だから多種多様な食べ物を求めたくなるが、シンプルにウマいものに遭遇するとハッとする。「これだよこれ!」「これでいいんだよ!」とつぶやいてしまう。

 



 先日、久しぶりに深夜2時過ぎまで飲んでしまったのだが、最後に立ち寄った店で食べた親子丼がまさにそんな感じだった。銀座の「木屋」でのこと。いわゆる「うどん・蕎麦」をウリにするチェーン店だ。

 

銀座店は深夜営業だから以前にも何度か酔っぱらって訪ねたことがある。この日も深夜1時だというのに満卓だった。無難に蕎麦を食べてシメにしようかと思ったのだが、同行の還暦オヤジたちが天ぷらうどんやらカツドンやらのチャレンジングな注文をしていたので、私も親子丼(重)を選択。

 

ごく普通の親子丼である。特筆すべきことはないが、しみじみウマかった。鶏肉もたくさん入っていたし卵の火加減も無難、麺つゆベースのタレの味も的確。まさに教科書通りの一品だった。

 

鶏肉のいろんな部位を入れたり、必要以上に卵をトロトロにするような“進化系”の親子丼も美味しいが、昭和人である私としてはこういうシンプルな親子丼に遭遇すると「これだよこれ!」という気分になる。

 

別な日、銀座の維新號に出かけた。ここも以前は頻繁に食べに行ったが、最近はモノグサ太郎状態だったのでかなり久しぶりの訪問。

 

お目当てはフカヒレの姿煮だ。私は「不幸のフカヒレ」と呼んでいる。タレというかスープが他のどこの店とも違う官能的な味がする。おかげで他の店ではフカヒレを食べなくなってしまった。ある意味「不幸」のきっかけになった逸品だ。

 



 相変わらずウマかった。フカヒレ自体はただのフカヒレだ。あくまで茶色くとろみのあるスープが絶品。永遠に舐めていたい味だ。液体なのに酒のアテになる。熱々にした紹興酒と合わせるのが最高の組み合わせだと思う。

 

話がそれた。フカヒレの話ではなくシンプルな料理の話だった。

 

この日、フカヒレの感動とは別に印象的だったのがチャーハンだ。いまやチャーハンも多種多様の時代である。いろんな具を使ったりあんかけをウリにしたり、様々なチャーハンが世の中に溢れかえっている。

 

この店にも海老海苔チャーハンという人気メニューがある。たいていはそれを注文するのだが、この日の同行者が海老が苦手だという。しかたなく五目チャーハンを注文した。

 



 これが大当たりだった。「これだよこれ!」「これでいいんだよ!」を連発してしまった。特徴のある具材が入っているわけでもなく味付けに特徴があるわけでもない。でも素人では絶対作れない味だ。

 

コメのパラパラ感も過剰ではなく実に適度な状態、味付けのバランスも完ぺきだった。町中華のシンプルなチャーハンもウマいが、高級中華のシンプルなチャーハンには凄みすら感じる。

 


 

こちらはこれまた抜群に美味しかったカニと玉子の炒めもの。カニ玉だ。あんがかかっているわけではなく塩味ベースで素材を前面に押し出したシンプルさが潔い。味付けはもちろん火加減が最高だった。プロのワザを実感した。

 

最近はデリバリーで「餃子の王将」のカニ玉ばかり食べている私だ。甘酢あんが大好きだからタマゴの味付けや火加減などにまるで意識が向いていなかったことを痛感した。

 

餃子の王将のカニ玉ももちろん捨てがたいが、富豪を目指す私としては高級中華のシンプルなカニ玉をしょっちゅう食べているような顔をして過ごしていたい。いや、実際にしょっちゅう食べたいから来年はもっとマメに訪ねようと思う。

 



ついでにもうひとつ。この店の肉シューマイもシンプルながら抜群にウマい。さすが日本中のデパ地下で肉まんを売っている維新號である。肉まんの親戚?みたいな肉シューマイが平凡なワケがない。これがあれば延々ビールが飲めそうだし、おかずにしたら永遠に白米も食べられそうだ。

 

シンプルさには凄みがある。ウマい店に関してはこんな表現が的確だと思う。

 

 

 

 

 

 

2025年12月24日水曜日

夜の銀座、後ろ姿

 


 12月は何だかんだで夜の銀座に何度も足を運んだ。以前ほどマメに出歩かなくなったのだが、時折あの世界を覗くと何となくフレッシュな気持ちになる。

 

私も現役男子だからそういう時間は一応カッコつけたりする。日頃、ボケっと過ごしているから夜のクラブ活動のおかげで多少はキリっとした気分になるのだろう。

 

夜のクラブ活動にバリバリ励んでいたのは10年以上前だ。40代後半ぐらいの頃が一番元気だった。凝りもせず週に何度もアフターに付き合ったりした。我ながらマメだったと思う。

 

マメに動いていたせいでムホムホしちゃうスぺクタルな?体験にも何度か恵まれた。今はあの頃ほどのガッツがないのが問題だ。男たるもの狩猟本能を忘れてはいけない。と、自分に喝を入れたくなる。

 

12月だからクリスマス柄?の着物を着たママさんとよもやま話に花を咲かせ、オネエサンがたには相変わらず胸元ショットを撮らせてもらう。昔からまったく進歩していない。

 




17年も前にこのブログで夜のクラブ活動についてアレコレ書いた話を二つ載せてみる。読み返すと自分が元気ハツラツだったことを痛感する。と同時に一応それなりにこだわりをもって活動していたことを思い出す。

 クラブ活動

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/02/blog-post_26.html

 

酒場との付き合い方

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2008/03/blog-post_14.html

 

 最近はあらゆる分野で私の行動はヌルくなってきた。肩の力が抜けてきたのは大いに喜ばしいが、こだわりが完全消滅しちゃうのも考えモノだ。

 

いっぱしの紳士ヅラをして生きている以上、趣味嗜好や行動パターンなどに自分なりの美学というか、譲れないこだわりを持っていなければダメだと思う。

 

夜の銀座では毎度毎度ワチャワチャ過ごしているだけだが、行くたびに日頃のヌルさを自戒したくなる。案外この効果は自分にとって大事だ。

 

ほろ酔いのまま店を出て見送られる時などもちゃんと背筋を伸ばしてビジっとしたダンディーなオジサマを気取ってみる。そんなのバカらしいと片づけちゃうのは簡単だが、やはり「気取ってみる瞬間」って大事だと思う。

 

日常で自分の後ろ姿を意識することなど滅多にない。長い時間しつこいぐらいに見送られる夜の銀座だと、私としても後ろ姿をカッコよく見せようと無意味な努力をしてしまう。ちょっと自意識過剰だ。

 

せいぜい背筋を伸ばすぐらいしか出来ることはないのだが、要はそういう「頑張る気分」になることが現役生活を維持する上では欠かせないはずだ。

 

思えば、コロナ禍を境に私の銀座通いは激減した。マメに顔を出していた当時よりも今のほうが至近距離に住んでいるのになかなか足が向かない。

 

近くに住んでいると「いつでも行けるからまた今度…」という感じになってしまう。マメに行ってた時は行くことが標準だったのに、行かなくなるとそっちの状態が標準になる。一種のバイオリズムのようなものかもしれない。

 

今では我がオヤジバンドライブへの集客営業?の目的で昔なじみの店に顔を出し、その後は来場してくれたお礼参りに出かけるというパターンが中心になっている。バンド活動が無かったらコロナ禍を境にして“引退”しちゃってた可能性が高い。

 

ちなみにコロナの前にはスケベ心満載で“憩いの時間”を過ごしていた。好々爺みたいな顔でダラダラしている今の私より間違いなくエネルギッシュだったはずだ。

 セクシーは難しい

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2018/11/blog-post_7.html

 

アンチエイジングは苦手な言葉だが、かといって自分を放ったらかしにしていたら年寄り度合いはグングン進んでしまいそうだ。人間いくつになっても色気やイタズラ心を忘れてはいけない。

 

まだまだ老け込まないためにも夜のクラブ活動から引退せず、時々はムホムホした気分になってワンパクな時間を過ごそうと決意している。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月22日月曜日

動画、睡眠薬、射精道


来週はもう来年である。ビックリだ。時の流れは年々早くなる一方だ。以前にも書いたと思うが、時の経過が早く感じるようになるのは「川の流れ」に例えると分かりやすい。

 

川の流れはいつも一定だ。歳月の流れも同じである。川のほとりを歩く人間は年齢が増すにつれ歩き方が遅くなり、昔と同じように歩いているつもりでも川の流れが速くなったように感じる。

 

若い頃は視野も狭くただ真っ直ぐに歩く。周りを見る余裕もなく、脇目もふらず前に向かって歩く。歳を重ねると川のほとりの景色を眺めたり、足を止めて考えたりすることが増える。だから若い頃より歩くペースが落ちる。気づけば川の流れ、すなわち時の流れだけがズンズンスン進んでいくという理屈だ。

 

私のように煩悩の塊のようなヤツはいつもロクでもないことを考えこんで足を止める。ついでにやたらと寄り道もしちゃう。その間に時の流れのほうがグングン進んでいってしまうのも仕方ないのだろう。

 

都合よくいえば、人生を謳歌していると解釈することもできる。もう還暦だし、すべてのことを楽観主義、ご都合主義で捉えたほうが精神衛生上も良さそうだ。

 

さて、今年を振り返ると読書量の激減に我ながら驚く。活字中毒気味の傾向があったのも今や昔、最近ではネット動画を見る時間がやたらと増えた。

 

リール動画とも呼ばれる短い動画はそれこそ溢れんばかりに世の中に出回っている。スマホ片手にそういう動画をランダムで見ているとキリがない。

 

特定の動画を見ちゃったら同じジャンルの似たような動画が表示されやすくなるから、誰かに覗かれたら私のヘンテコな趣味嗜好がモロバレである。

 

一時期はシマウマが生きたままライオンとかに食われちゃうグロ系ばかりが表示されていた。ミニスカ女子高生のヘンテコなダンスばかりになっちゃったこともあるし、大谷翔平ばかりになったこともある。

 

最近やたらと表示されるのが「京都橘高校吹奏楽部」である。何かの拍子にハマってしっかり見ていたら大げさではなくそればっかり出てくるようになった。既に大ファンになってしまった。

 https://kyoto-tachibana-shsband.jp/

 

ネット界隈では既に充分有名らしいが、まだ知らない人にも是非オススメしたい。素直に凄い。大人数のメンバーが演奏しながら揃いの振り付けでかなり激しく動き回る。海外にも招待されるようで日本人として誇らしい気持ちになる。

 

保守的なオジサマ族である私は「ネット動画なんてロクなもんじゃない」みたいに否定派だったのだが、あの吹奏楽部の凄さを知っただけでネット動画肯定派に宗旨替えである。

 

世の中には「へー、うひょー、ワオ!」みたいな凄いことがたくさんある。知らないことが山盛りだ。フェイクもたくさん紛れ込んでいるのだろうがそれはそれだ。出回っているモノすべてを信じちゃうほどウブではない。だいたいオールドメディアだって真実じゃないことも垂れ流す。すべての情報を妄信しないで楽しめば済む話だろう。

 

もちろん、それはそれで結構なのだが、個人的には本を読む時間が減っていることはやはり残念ではある。活字を読みながら脳みそを動かす時間は、映像をボーっと眺める時間とは異質だ。読書による気持ちの整理、リセットみたいな効果は大きいし、それ以前にやはり学びになることは多い。

 

本を読む機会が減ったことで、私の場合、何よりも睡眠に大きく影響が出ている。動画はスマホからの電気光線を浴びているわけだから刺激が強い。紙の上の活字を追う作業とは違って灯りを消してさあ寝ようとしてもどうにも寝付けない。

 

脳が冴えちゃっている感覚を少なからず感じる。活字だってあまりに興味深い描写や表現があると脳が活性化するが、電気光線を目に直接浴びる刺激に比べればマイルドだ。

 

この半年、いや1年ぐらい寝付きが非常に悪い。睡眠薬のお世話になることがやたらと増えてしまった。もちろんリール動画ばかりが原因ではないが、多少の影響はあったかもしれない。

 

睡眠薬も飲み過ぎると依存しがちだ。既に私も依存に近い状態だ。以前ならイチコロみたいに寝られた容量では足りなくなってきた。ちょっとマズい。

 

この夏以降、“完徹”しちゃったことも23回ある。眠りに効くツボとやらを調べてグリグリしまくっても逆に目が覚めてしまう。間違ったツボを押したのか、はたまた大真面目かつ真剣にやりすぎて覚醒しちゃったのか、まるで効き目はなかった。

 



最近読んだ本もどちらかといえば没頭型ではない。どこからでも読めるルポ的なモノや雑学系ばかりだ。長編小説の世界にどっぷりつかるような本との向き合い方とはご無沙汰だ。

 

コロナ禍の頃は随分と歴史小説などを読んだが、最近はご無沙汰だ。いま思えば小説の活字世界の情景を頭の中に思い浮かべて物語の中に入りこめていた時間は楽しかった。わずらわしい日常から逃避するには最適だった気がする。

 

ちなみに「射精道」という一冊はタイトルに惹かれて迷わず購入したのだが、タイトル通り「道」が中心、すなわち武士道のような“心構え”に関するような内容が多くてちょっと拍子抜けした。

 

道徳という言葉を忘れがちな私にとっては、どちらかといえば道徳的な内容が多くて辟易、いや、大いに反省する機会を与えてくれた。

 

なんだかヘンテコな結論でスイマセン…。

 

 

 

 

 

2025年12月19日金曜日

エビ様


海老、蛯。エビを漢字で書くと「老」がくっついてくる。エビの姿形を腰が曲がった老人に見立てたことがルーツだ。何だか哀しいような印象もあるがその逆である。長寿のめでたさを表す意味合いが強い。

 



わが国の食材においてはエビは縁起物である。正月の鏡餅にも欠かせない。今みたいに長寿社会じゃなかった昔の人にとっては腰が曲がるほどのお年寄りはそれだけでおめでたい存在だった。

 

おめでたいといえば、海老の目が出っ張っていることも「めでたい」に通じるから縁起物としての意味合いを強めている。おまけに脱皮を繰り返す生態も「再生」を表すとして尊ばれてきた。

 

私は以前からエビが大好きだ。寿司ネタの中で一番好きなのもエビだ。洋食屋さんに行ってもエビフライを頼みたくなる。肉系レストランに行っても上の画像のようなエビカクテル的メニューがあればついつい注文する。

 

さすがにまだ腰は曲がっていないが、還暦を迎えた私としてはメデタイ存在であるエビのことは縁起をかつぐ意味でも一層愛し続けたい。歳をとったからこそエビとともに歩んでいくべきだろう。意味不明だ。

 

トンカツ屋のメニューにもエビフライはよく登場する。豚肉ガッツリ気分でそこにいるのに1本から注文できる店なら迷わずエビフライも追加してしまう。

 



 

エビフライの相棒であるタルタルソースをべっとりとトッピングしてソースも混ぜちゃうと最高だ。得も言われぬ幸せな気分になる。これを書いているだけでヨダレが出てくる。

 

めでたくも崇高な存在であるはずのエビ様だが、食材としての社会的地位はビミョーだ。一般的に高級食材ではあるもののシャバダバな安物の存在が足を引っ張っている。

 

謎エビとも呼べるペラッペラで風味も乏しいヤツらがエビ業界?全体に悪影響を及ぼしている。回転寿司屋で一番安いメニューに並んでいるようなダメエビや冷凍ピラフに混ざっているチンチクリンのヤツなどである。

 

ああいう謎エビのせいで「エビは苦手です」という人が増えてしまったのではなかろうか。アレルギーの人もいるが、そうじゃなくてもエビを嫌う人は案外多い。ヘンテコなダメエビが元凶じゃないかと睨んでいる。

 



繰り返しになるが私が好きな寿司ネタはエビが筆頭である。生きているエビの茹でタテを握ってもらうのは最高だし、作り置きでも上質なネタの旨味を引き出している“仕事系”のエビは他のネタとは一線を画す美味しさだ。

 

甘エビやボタンエビ、はたまたブドウエビなどナマのエビの握りもウマいが、茹でたクルマエビの握りのほうがシャリとの相性は良い。個人的な意見だが断固そう思う。

 

寿司全般に言えることだが、ナマのほうが上みたいな思い込みは正しくない。職人のワザを感じられるだけでなくお店ごとの特徴も知ることが出来る。茹でエビの握りがウマい店なら何を頼んでもハズレは無いといっても大げさではないだろう。

 



冷蔵庫が無かった時代の寿司といえば、ヅケや昆布締めなどが基本で色味の点ではどんよりしがちだった。そんな中で鮮やかで明るい色のエビがスーパースター扱いされていたのも当然だろう。メデタイというオマケもついてくるわけだから今の時代の感覚とは随分違ったようだ。

 

お寿司屋さんにはよく行く。週に一度は通っていた頃よりは減ったが、それでも月に23度は出かける。エビを頼まなかったことがあったか考えてみたのだが、おそらくこの10年で一度も無いはずだ。

 



甲殻類はアレルギーの原因になることも多い。「コップの水理論」で一定量を超えるとそれまで平気だったのにダメになっちゃうらしい。エビだけでなくカニも大好きな私だが、アレルギーを恐れて一時期よりはカニを食べる機会を減らした。

 

カニは減らしたがエビは減らす気にならなかった。カニはあきらめられてもエビとオサラバするのは耐えられない。“お年寄りにとっての縁起物”だと考えたらこれから先も末永く付き合っていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月17日水曜日

日本橋界隈にて


大河ドラマ「べらぼう」が終わってしまった。主人公・蔦谷重三郎が活躍した場所が日本橋界隈だったこともあり、近隣に住む私もしっかり1年間見続けた。大河ドラマが終わるといよいよ年の瀬である。

 

日本橋界隈といっても案外エリアは広い。高島屋エリアと三越エリアではちょっと雰囲気が変わるし、神田の近くや人形町エリアもとりあえず日本橋界隈である。

 

今の住まいに移ってからまもなく3年だ。中央区民になってから3か所目だが、今までで一番便利なので今後しばらくは動きたくない。以前ほど近隣開拓にマメでは無くなったが、今も時折、新しい発見をして面白がっている。

 



神田寄りにあるコレド室町テラスに入っている妙に高い「おいなりさん」が気になっていたのだが、先日ようやく食べてみた。


私は案外ミーハーである。ユーミンがその店の「おあげ」を気に入っていると語っていたテレビ番組を見たせいで食べてみたくなった。

 

「だしいなり海木」という福岡に本店があるお店だ。ユーミンが紹介していた「おあげの缶詰」は売り切れだったので名物のおいなりさんを買ってみた。4つで1500円ぐらいの値付けだ。富豪級?である。

 



日本橋といえば人形町にある「志乃多寿司」のおいなりさんが有名だ。私も散歩ついでによく買う。いろんな味のおいなりさんが楽しめるが、あちらは確か6個入りで800円ぐらいである。それに比べれば破格の値段だ。

 

牛丼が3杯食えるなあなどと富豪らしからぬ思いを胸に秘めて妙に高いおいなりさんを食べてみた。かなりウマい。非常にウマい。上質なダシの風味がシミシミである。もはや汁物と呼びたくなる。実にジューシーなおいなりさんだった。

 

あえて言うなら中身のご飯が柔らかめなのが残念。そこは大事なポイントだ。すし飯はもちろん、丼モノのコメが柔らかいとそれだけで敬遠したくなる私としては大減点要素だ。次はおあげだけを買って自分で作った酢飯に合わせて食べてみたい。

 

話は変わる。

 


 

先日、日本橋高島屋に近いエリアでレバ刺しに興奮する機会があった。いつの間にやら手軽に食べられなくなったレバ刺しは中高年男の酒のアテとして崇高な存在である。

 

今では低温調理とやらが基本で純粋なナマのレバ刺しは食べられなくなった。日頃は生々しくないレバ刺しなど邪道だと思って敬遠しているのだが、新興の「ふじ屋」という居酒屋さんで食べた「トロレバ刺し」にはかなり満足できた。



 

オニオンスライスやタン刺しやらを肴にガリサワーをグビグビ。その後にレバ刺し登場。さほど期待せずに食べてみたが、ナマのレバ刺しと遜色ない食感でムホムホしてしまった。

 

タバコも吸えるし、串モノも美味しい。レバやタン以外の肉刺しも人気らしい。職場からも自宅からもちょっと歩けば行ける立地だから近いうちに再訪することになりそうだ。

 



別な日、より自宅に近い場所で穴場的なお店を知った。しょっちゅう近辺を歩いていたのにナゼか目に入っていなかった。レストランバー「ライズ」という店。

 

昭和の頃によく見かけたアメリカチック?な内装のアメリカン?な食べ物をウリにするお店だ。どちらかといえば若い人向けのメニューが揃っている。内装ともども昭和の頃に若者だった私のようなオッサンの食欲もストレートに刺激する。

 



あの頃はこんな感じの店ばかりだったなあ、などと感慨にふけりながらアレコレ注文してみた。胃腸は実年齢相応に弱っているのだが、若かりし頃の記憶が脳内を支配しちゃうとバンバン食べたくなる。

 

チーズオムレツやケイジャンチキン、なんちゃらグラタンなど血気盛んな男子が好みそうな料理を味わった。どれもちゃんとウマい。ハイボール片手に味わうと際限なく食べられそうな感じだ。

 

アメリカチックな料理って言い換えれば「昭和ニッポンの東京料理」かもしれない。あの頃、若者にとって和食は何となくダサい印象があった。せっせとカタカナ料理をこぞって食べていた気がする。

 





 で、ステーキやハンバーグやドライカレーも食べてみた。それぞれキチンとウマかった。ヘンテコな例え方をするならロイヤルホストの料理に野性味を加えた感じとでも言おうか。おまけに妙に値段が安かった。穴場だと思う。

 

普段はつい知った店ばかり行ってしまうので、我が身のフレッシュさ?を保つためにも時には近隣探検に努めてみようと思う。

 

 

 

 

 

2025年12月15日月曜日

クリスマスの意味

 

クリスマスシーズンである。自分の加齢を妙に実感する時期でもある。若い頃はせっせと浮かれた雰囲気に乗って奮戦して、家庭人になった頃はキチンと子供のためにそれっぽいこともした。離婚してしばらくはこの季節に置いてけぼりをくらったようなアワアワ感があった。

 

中年前期の私にとってクリスマスはうとましいだけだった。浮き立つ街が何となく腹立たしいというか騒々しく感じて不快だった。意識し過ぎだったのだろう。


中年後期の今になると本当にどうでもよくなってきた。ニギニギしくハッスルしている人々に素直にエールを送りたいほど無関係な気持ちになってきた。


何だかやっと別天地にたどり着いた感覚がある。クリスマスというアザとさの塊のようなイベントに自分が影響されなくなったことに安堵している。

 

と同時に、いよいよ自分が社会の中心より隅っこのほうに居場所を移したような一抹の寂しさも感じる。


はしゃいだり、うとましく感じたりしたのは、言ってみればクリスマスという渦の中にちゃんと巻き込まれていたからである。「無関係ゾーン」にたどり着いたことは結構なことだが、あまりに距離を置いちゃうと偏屈な世捨て人みたいだ。難しいところである。

 



東京駅前のキッテという商業ビル内のツリーだ。ちゃんとスマホを向けて撮影してみた。危うく素通りしそうだったが、上に書いたような偏屈な世捨て人にならないために一応パシャパシャ撮ってみた。賑わう人々のそういう空気の中の一部になれたみたいでちょっとホッとした。

 

なんだかバカみたいである。

 

キリスト教系の学校に幼稚園から高校まで通った。小学生時代は聖歌隊に所属していたわけだからキリスト様やらクリスマスやらには造詣が深い?はずだ。いや、たいした知識はないが、クリスマスっぽいものに身近に接してから半世紀以上のベテランなのは事実だ。ポっと出のクリスマスマニア?とはキャリアが違う。

 

子どもの頃、実家の庭に植わっていた本物のモミの木がこの季節になると植木屋さん数人の手によって我が家の吹き抜けの大広間に移された。高さ3メートルはあった。そこに飾り付けをして家族や親せきも集まってワイのワイのと楽しく過ごした。

 

いま思えば凄い話だ。都内でそんなツリーが毎年毎年、家の中に用意されていたのだから富豪みたいである。そう考えると自分の娘や息子にはたいしたことをしてあげなかったことがちょっと残念だ。昔の大人たちは今の時代より節目節目のイベントに驚異的に真剣に向き合っていたのかもしれない。

 

いまの社会のあらゆる分野に漂うヌルさは、我々の世代が社会に出る頃から徐々に世間を覆うようになっていった気がする。そう考えるとヌルい世の中を作っちゃったのは我々の世代にも責任があるのだろう。ちょっと複雑だ。

 

8年前にクリスマスの思い出をアレコレ書いた話を載せる。

 https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/12/blog-post_18.html

 

そこでも書いていたが、思い返せば私のファーストキスは当時の彼女からのクリスマスプレゼントだった。なんだか胸キュンである。あまり覚えていないのだが、なかなかこっちから行動に移せず寒い中、公園のベンチで長々と座っていた記憶だけはある。

 

実に可愛い思い出だ。キュンキュンしちゃう。でも、あんなに純情だった私はいったいどこに行ってしまったのだろう。いまやカゲも形も鼻毛のカケラすら無い。

 

つい先日もここでは書けない変態大会を開催してへとへとになった。我ながら還暦を迎えたくせに何を血迷っているのかと頭を抱えたくなった。

 

わずか0.5秒の唇の触れ合いに世の中の時間がすべて止まったかのように感じた少年。それが私だった。あれから45年。少年の伸びしろって想像以上に凄いものだと痛感する。

 

その伸びしろを野球に向けていたら野茂投手より先にメジャーで活躍したかもしれないし、勉学に向けたらノーベル賞候補になれたかもしれない。さすがにそれはないか…。


いずれにせよ、あの頃、進む道、選べる道は数限りなくあったはずなのに私の選んだ道は何とも独特な場所に私を導いた。

 

後悔しているかと問われたら答えはノーである。いや、臨終の床でどう感じるかはまだ分からないが、少なくとも現段階ではちっとも後悔はない。トータルで楽しいことのほうが多かったのは確かだし文句を言ったらバチがあたると思う。

 

なんだかよく分からない自省録になってしまった。クリスマスというイベントはそんな振り返りをしてみるには良い機会なのかもしれない。

 

 

 

2025年12月12日金曜日

ウチメシの贅沢

 

最近は何かとバタバタで更新を怠りがちだ。一応、自分に課した定めだから週3回の更新は維持したい。でも来年あたりから週2回の更新に変更しそうな気がする…。こうやって人間はラクなほう、ラクなほうへと逃げていくことでフヌケになってしまうのだろうか。気をつけようっと。

 

さて、今日はプチ贅沢の話だ。贅沢というかワガママ極まりない私のウチメシの話を書いてみる。外食と違ってウチメシは人様の目が無い。だから何をしてもOK?である。

 

同居する娘がいる時はさすがにブレーキがかかるが、ウチに一人でいる時にはかなりフシダラな食べ方を実践している。

 

一人なのにハンバーガーを56個デリバリーしてパンの部分を全部捨てちゃって中身だけ食べるとか、並盛り4個セットなら割引キャンペーンだった牛丼のデリバリーでは、ご飯1人前に4個分の牛丼の上だけをのっけて贅沢丼にするとか、罰当たりなことに励んでいる。

 

こういう悪いクセが定番化してしまったのには切なくも悲しい私の過去が関係している。

 

というのはウソで、単に家庭人生活からオサラバしてウチの中に主婦がいなくなったことがきっかけだ。中年男のヤモメ暮らしは食生活にわびしいイメージがつきまとう。映画やドラマではたいていコンビニ弁当をチンして缶ビール片手に寂しそうに食べている。

 

そういうシャバダバな情景に身を置きたくないから私のウチメシは無軌道になっていった。レトルト食品にしても高級路線のモノを揃えて少しでもわびしさに繋がらないように努めた。

 

独身に戻ってから10年以上たった今は以前ほどのこだわりはなくなったが、それでもレトルトのカレーやハヤシはちょっと値の張るモノをあえて買ってしまう。おまけに食べる時には一気に2つ使うという暴挙?にでる。

 



先日、ウチに余っていたレトルトシチューを若者におすそ分けした。こちらとしては「レトルトなんかでゴメン」「レトルトごときで迷惑かな」みたいな感覚だったのだが、意に反した答えが返ってきた。「レトルトなんか高くて普段は買えません」という。

 

いやはや昭和人の感覚だとレトルトは“ごとき”だったのに既に時代は変わったようだ。大丈夫か、ニッポンの将来!という複雑な気持ちになった。

 

先日、ふるさと納税の返礼品としてイクラがやってきた。イクラはやっぱりドンブリ飯にドカンとのっけて食べたい。観光地で売られている瓶詰だと中身のイクラが50グラムほどしか入っていないシャバダバなものが多いが、あれではイクラ丼は無理だ。

 

ウチメシの際のイクラ丼はケチケチしてはいけない。ふるさと納税の返礼品なら実質的にタダで手に入ったものである。ドンブリ飯に150グラムはのっけてウヒウヒした気分で味わいたいものだ。高い税金を納めている自分へのご褒美である。

 



それにしても腹立たしいのが来年からふるさと納税の控除額に上限が設定される話だ。高額納税者は寄付に回せるいわゆる控除額が大きくなるのはごくごく当然の話。

 

にもかかわらず控除額が大きくなれば返礼品をもらえるメリットが大きくなる点を「金持ち優遇」だとイチャモンをつけて規制しようという話だ。

 

高所得者と高額納税者は違う。高額納税者への感謝や敬意のカケラもない話だ。年収5千万円〜1億円で控除額を打ち切りにする案が出ているので当面は大半の人に影響はない。とはいえいずれジワジワと規制の網は下がってくることは確実だろう。

 

高市政権は「責任ある積極財政」を旗印にしている。そのわりには随分と気持ち悪い発想だ。低所得者優遇ばかりを狙った積極財政では経済効果は限定的だ。経済のけん引役である所得階層をイジメ続けるなら単なる愚策だろう。

 

話がそれた。

 

ウチメシでのワガママ三昧の話だった。最近の週末はブラックコーヒーとドーナツというアメリカ人のようなパターンが増えた。今年の秋口までかなり徹底していた節制暮らしでは小麦もほぼ食べなかった。今はユルユル状態だから休みの日の午前中に頬張るドーナツの味は毎回私をウットリさせてくれる。

 


 

画像はミスドのアレコレだが、スタバのマズいドーナツと違って種類がやたらと豊富なうえにウマい。当然いろいろ食べたくなるのが人情である。

 

とはいえ、ドーナツである。せいぜい3つも食べれば満足しちゃう。それもシャクである。といううわけで大量にデリバリーしてもらってそれぞれ半分か3分の1程度づつ齧ったりちぎったりして全部の味を楽しむのが私の悪行である。

 

娘が帰宅して残骸を食べてくれると救われた気がするが、そんな救世主が表れないと、あわれ余ったドーナツは廃棄処分の憂き目に。地球環境を考えたことは一度たりともない私だが、こういうフードロスはさすがに反省する。

 

次からはすべてちゃんと食べきろうと決意するのだが、せっかく15キロも減量した努力を思い返すと心が揺れる。昔なら余裕でたいらげたのにすっかりシミったれた男になってしまった。

 

なんだか残念だ。ヘンテコな結論になってしまった。

 

 

 

 

 

 

2025年12月8日月曜日

豚の日々


相変わらず豚肉を愛しまくる日々だ。もし残りの人生で食べられる肉類を一つしか選べないとしたら迷わず豚肉を選ぶ。それを尋ねられてから0.3秒ぐらいで「豚肉!」と即答する自信がある。

 

今年も随分と豚肉を味わってきたが、もっとも印象に残ったのは夏に北海道のエスコンフィールド近くの某フードコートで食べた「ぶたはげ」という店の豚丼だ。ウマくてウマくて泣きながら食べた記憶がある。さすがに泣いてはないが。

 



前から不思議に思っているのが「豚丼」の社会的地位だ。ウマい豚丼屋は都内にもいくつかあるが、ラーメンやカレー、はたまたファストフードの牛丼に比べて人様の話題に上ることは滅多にない。

 

日本人に染みついている「牛が上、豚は下」みたいな固定観念のせいだろうか。だとしたら実にもったいない話だ。豚丼の魅力に気づく人がもっと増えたら、いずれカレーや牛丼みたいな一種の国民食になりえるポテンシャルはあると思う。

 

今すぐにでも本場・帯広に行って豚丼を攻めたい気分だが、さすがに12月は寒そうだ。来年こそは帯広に何日も滞在して豚丼屋めぐりだけに励む旅をしてみたい。

 

さてさて、先日、銀座にある「華連」というJA鹿児島が直営するしゃぶしゃぶ屋さんに出かけた。狙いは黒豚である。この日はしゃぶしゃぶではなく「せいろ蒸し」を選択。

 



 個人的には豚肉だけが良かったのだが、同行者の意向もあって黒牛と黒豚のミックスを選ぶ。当然、牛は同行者にすべて任せて私は黒豚を担当した。肉を上、下に野菜のせいろを重ねることで肉の旨味が野菜に滴り落ちる仕組みだ

 




この歳になると余計な脂を落とした肉には愛しさを覚える。その優しさに惚れてしまう。とか言いながら私の正体は“トンカツ野郎”でもあるので、せいろ蒸しの他に黒豚の厚切りロースかつも注文した。

 

せいろ蒸しが脂を落としちゃうなら脂を補給しないとダメ?である。だいたい二段せいろの野菜のほうは私にとっては敵である。肉の旨味や脂をまとったとはいえ野菜は野菜である。野菜の上に落ちてしまった脂分を補給するにはヒレカツよりロースカツを選ぶのが正しい。

 


 

トンカツを肴に芋焼酎をロックでちびちびやるのが私にとっては至福の時間である。同行者に野菜を担当してもらい私はせっせとヒレカツと芋焼酎でウヒウヒしていた。ハッピーだった。

 

銀座で豚肉といえば中学高校時代の後輩が経営する「美らしゃぶ亭」がある。日本中の豚肉の中でも特にウマい「パイナップルポーク」を知ったのもこの店だ。

 

オーナーである後輩は銀座で豪快に飲み歩くタイプの男。毎日のように銀座の飲食店にお金を落とすのがもったいない?という理由で自ら出店した店だ。その後輩は今は体調を崩して引っ込んでいるため最近は彼の店を訪ねる機会が減っていた。

 



 先日、久しぶりに行く機会があったのだが相変わらずパイナップルポークのしゃぶしゃぶは絶品だった。通常の牛肉しゃぶしゃぶの専門店に行くより高くつく。でも私にとっては高級牛肉よりこちらの豚肉のほうが美味しいのでそれも仕方ない。

 

ちなみに我が家の冷凍庫にはパイナップルポークを常備している。生姜焼き用の切り身、しゃぶしゃぶ用の薄切りなど数種類が揃っている。無くなりそうになると慌ててふるさと納税サイトを開いて追加注文している。

 

今年は過去になく節制に励んだ一年だったが、そんな中でも豚肉は私をサポートしてくれた。節制に挫折しそうになると訪ねたのがモツ焼き屋だ。茅場町の「紅とん」には何度足を運んだだろう。

 

いつも生グレープフルーツサワーかホッピーを片手に太らなさそうなツマミをたくさん頼んで空腹をしのいだ。まずはオニオンスライスやワカメポン酢、梅きゅうなどで空腹を落ち着かせる。

 

その後は豚肉類をあれこれ頼んで炭水化物や揚げ物は控えて過ごした。純レバや肉モヤシ炒めのおかげで体重は順調に落ちていった。安い店だから肉モヤシ炒めも「ほぼモヤシ」である。節制には最適だった。

 



そんな食べ方をしていれば割と簡単に腹はふくれる。串モノは34本もあればしっかり満足できた。今も不摂生モードに陥りかけるとこの店に行ってオニオンスライスとワカメポン酢から始める。

 

生グレープフルーツサワーのグレープフルーツが鼻くそ程度にしか入っていないのがシャバダバだが、おかげであんまり美味しくないから飲み過ぎないで済む。逆に有難い。

 

こんな話を書いていたらナゼか無性にカツサンドが食べたくなってきた。豚肉愛好家にとっての“スーパーおやつ”である。先日も深夜に銀座のバーで酔いにまかせて食べてしまった。ウイスキーと妙に相性が良いので深夜の銀座のバーは危険である。




いかんいかん、最近はキックボクシングジムに行く機会が減ってきたし、肥満の道に舞い戻りそうな気配が漂っている。12月はただでさえ会食の機会が増える。やはり、ここは大衆モツ焼き屋に行って肉モヤシ炒めでしのいでおこう。







 

 

 

 

 

2025年12月5日金曜日

たまごの日々


わが家に常備している生卵は大分県の「蘭王たまご」だ。この味が大好きで定期的に取り寄せている。購入するにしても他のブランド卵より手軽な値段なのだが、私は毎月のようにふるさと納税の返礼品として入手している。


TKGはもちろん目玉焼きにしてもウマい。ゆで卵も頻繁に作る。ゆで卵はトリュフ塩をまぶして食べるだけでご馳走になる。

 

このタマゴを知ったのは銀座にある「串銀座」というお店だ。15年ぐらい前から時々訪ねている。お目当ては温玉である。温玉以外は正直普通だ。温玉を4回おかわりしたこともある。

 

先日、久しぶりに訪ねたのだが、温玉と鳥刺し、温玉そぼろ丼しか記憶にない。当然、串ものや他の料理もアレコレ出てきたのだが、酔っていたから温玉の印象ばかり残っている。

 




 

刺身はハツやレバーなど内臓系が嬉しい。モモやササミの刺身は同行者に譲って“コレステローラー”ならではの時間を過ごした。

 

話は変わる。わが家の定番料理が「目玉焼きまぜまぜご飯」である。子どもの頃、せわしない朝に母親が即興で作ってくれた私のソウルフードでもある。硬めに炊いたウマいご飯を使うのが鉄則だ。

 

フライパンに油を少し多めに入れて作った目玉焼きをご飯にグチャグチャと混ぜる。そこにウスターソースを適量投入すれば完成である。至極簡単だがこれが非常にウマい。

 



完成画像である。美味しそうには見えないかもしれないが、騙されたと思ってトライしていただきたい。延々といくらでも食べられるレベルだ。

 

これにももちろん蘭王たまごを使う。黄身の味が正しく濃いから混ぜ混ぜ状態になっても間違いなく美味しい。コメは山形の「雪若丸」か「つや姫」をかなり硬めに炊く。ウマいコメあっての一品だ。

  

たまごもコメもふるさと納税で取り寄せているから事実上無料だ。贅沢どころか究極の倹約メシだと言えなくもない。こだわった食材を実質タダで楽しめるわけだから皆様も年内にふるさと納税のワクを使い切らないと損だと思う。

 

話がそれた。

  

投入するソースはブルドックの「スーパープレミアムソース」一択である。凝り性の私は目玉焼きまぜまぜご飯のために数々のソースを試してきたが何だかんだいってこのソースが一番だ。名前が大げさなところが気に入らないが、これしか使わない私にとってはやはりスーパープレミアムなんだろう。




ハムエッグ、ベーコンエッグも時々作る。蘭王たまごに合わせるにはハムやベーコンにもこだわりたい。私が頻繁に使うのが北海道の「大金ハム」というメーカーのハムやベーコンだ。

 

都内に店舗はないのだが、毎月のように都内のデパートや物産展に出店している。マメな私は予定表にそれらの日程を書き込んでいる。銀座や日本橋の三越など自宅から近いエリアに出店する際は必ずと言っていいほど買いに行く。

 



長い一本状態で販売されている「大金ハム」特製ベーコンをぶつ切りにして目玉焼きと一緒に焼いた一品である。ベーコンエッグという平凡極まりないものも自分がこだわった素材で作ると途端にゴージャスに思えてくる。

 

これにもスーパープレミアムソースを合わせるのが基本だが、時にはちょっとアレンジもする。ソース7、ケチャップ2、マヨネーズ1ぐらいの割合であらかじめ混ぜ合わせた謎の専用ソースを作ってベーコンエッグに合わせる。なかなかエロティックな味になる。

 

誰の参考になるかさっぱり分からない話を書き殴ってみたが、平凡な家メシひとつとっても“大人のこだわり”を徹底してみるとちょっとした幸せを感じる。平凡な日常にアクセントが加わって悪くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月3日水曜日

過去ネタ

 更新が間に合わなかったので過去ネタを一つ載せます。ストレスは万病の元だから関わる人にはつくづく気をつけたいと思う。


愉快な人








2025年12月1日月曜日

ウーバー頼みの暮らし


11月の1ヵ月でウーバーイーツの利用回数が25回、支払いも10万円を超えていた。我ながらビックリである。こういう無駄が多いからいつもピーピーしているのだろう。童話「アリとキリギリス」でいえばキリギリス間違いナシである。

 

食事のデリバリーだけでなく、日用品や食料品、雑貨をコンビニやスーパーから持ってきてもらうことも多いが、大半は“横着メシ”をデリバリーしてもらう。

 

最近のお気に入りが「餃子の王将」だ。ちっとも富豪っぽくないが、ヘタな高級料理店の料理よりも私を喜ばせてくれる。11月は5回以上頼んでしまった。

 



かに玉をしょっちゅう頼んでいる。もともと天津飯を注文した際に味付けが「甘酢」か「塩」か「京風」の3種類から選べることを知ったのがハマったきっかけだ。


かに玉は天津飯のご飯抜きだ。本当は天津飯をかっこみたいのだがデブ予防のために我慢して「かに玉(甘酢)」にしている。

 

天津飯は東京人にとっては由々しき問題を抱えている。甘酢味が絶滅危惧種みたいになっていることがそれだ。昭和の頃、町中華で出てくる天津飯は甘酢あんかけが定番だった。初めて食べた時に何とも言えない劇的かつ官能的な味わいに興奮した記憶がある。

 

私にとってはアノ甘酢味こそが天津飯そのものである。イマドキはナゼかダシ醤油あんが主流になっているが、個人的にはあれが苦手だ。甘酢味のつもりで注文したのに醤油味やら塩だれ味に当たると物凄く落胆しちゃう。

 

詳しいことは知らないが、もともと関西で天津飯といえば甘酢ではなく醬油ベースのあんで作られていたらしい。どうやら天津飯の世界も「西からの攻勢」にすっかりやられてしまったようだ。

 

ここ20~30年ぐらいで東京の味は随分と関西風の味付けにとって変わられてしまった。天津飯も例外ではないらしい。確かに妙にインパクトのある甘酢あんよりダシ醤油系のほうが味の収まりが良いのは理解できる。

 

でも、でもである。私にとってはダシ醤油の天津飯は面白いところが一つもない映画を観ちゃったような残念な気分になる。甘酢味だと全盛期のツービートの漫才を観たような痛快な気分になる。その違いは大きい。

 

そういう点で「餃子の王将」の天津飯、かに玉には感謝している。甘酢味を堂々と選べるのは私にとっては憩いそのものである。麻婆豆腐も日本風?で美味しいし、ホイコーローや酢豚あたりも昔ながらの町中華の王道みたいな感じで安定感がある。

 



揚げ麺の焼きそばも好きだ。麺とあんかけが別々に運ばれてくるのだが、あんかけがあり得ないほどテンコ盛りだ。麺は3分の1ぐらいで充分。


結果、揚げ麺が脇役みたいになり具材ばかり食べるからヘルシーな一品になる。私はこれにアホみたいにお酢をドバドバかけて食べるのが大好きだ。画像は揚げ麺を三分の一、あんかけを半分ぐらいだけ盛った状態。

 

「餃子の王将」の回し者みたいになってしまったが、ほぼ同じ名前?の関西系のチェーン店より私はこちらのほうが好きだ。あちらの天津飯は醤油ベースらしいので論外である。ファンの方、すいません!

 

中央区に住んでいるとウーバーで頼める飲食店は星の数ほどある。日本橋、銀座あたりの有名レストランもたくさんあるが、デリバリーを頼むのは定番のチェーン店が多い。包装や容器等々、手慣れた感じ、こなれた感じで安心できる。個人店だと時折とんでもない包装で料理がグチャグチャになっていることもある。

 

温め直しても楽しめるモノを選ぶのがデリバリーを考える上でのポイントだ。麺類はそもそも厳しいし、ドンブリ系でも汁を吸ったご飯は時間がたつとシャバダバだ。なか卯や松屋あたりだと具材とご飯が別盛りで来るものもあるから温め直しても美味しく食べられる。

 

週末の朝に食べたくなるドーナツもちょっとだけレンチンするだけで抜群に美味しくなる。ブラックコーヒーと合わせて少し暖めた甘々なドーナツを頬張るのは至福の時間だ。5万、10万の極上料理を食べることに比べても負けないぐらい幸せを感じる。

 


 

わが家からだと「クリスピークリームドーナツ」が最速で届くので主にそこを利用していたのだが、最近は「ミスタードーナッツ」に宗旨替えをした。単純にミスドのほうが美味しい。甘くないクリームシチューパイみたいなメニューもあるから使い勝手も良い。

 

60歳になって嬉々としてドーナツに感激しているのもヘンテコだが、味覚が年々子供帰りしている感じがするので今の私には欠かせない食べ物の一つだ。

 

本当は「ハリッツ」という知る人ぞ知るウマいドーナツ屋さんから運んできてもらいたいのだが、そこは昼近くにならないと開店しない。「ドーナツは朝飯」と決めている私とはタイミングが合わないのが残念だ。

 

いずれにせよ、レンチンしてコーティングが少し溶けちゃったドーナツで手がベトベトになってオタオタするのが今の私にとっては幸せな時間だ。

 

 

 

 

 

 

2025年11月26日水曜日

ライブ終了、伸びしろは…


わがオヤジバンドの還暦記念ライブが無事終わった。2012年にバンド活動をヨチヨチ始めて十数年、我ながら随分とこなれてきた実感がある。

 

今年は16曲の演目のほか、小ネタもアレコレ入れて2時間半ほどのステージだった。例年より緊張せずに乗り切れたのには大きな理由がある。

 

我がバンドのライブの2週間前に友人が参加しているバンドの演奏を観に行った。会場はたまたま我々と同じライブハウス。何度も使っている場所だが客として訪ねたのは初めてだった。一緒に行ったバンド仲間と開演前から楽しく飲みながらもろもろ観察してみた。

 

そこで気づいたのだが、お客さんたちは酒を飲みながら気ままに好き勝手に過ごしている。プロの公演なら身構えてステージに集中するのだろうが、素人バンドのライブでは様子が違う。一緒に来た人同士で一種の飲み会的に利用している感じだ。

 

もちろん、演奏が始まればそっちに意識は向く。とはいえ気ままに向き合っている感じは変わらない。極端に言えば楽しく過ごしている場所でバンド演奏がBGMみたいな役割になっている感じとでも言おうか。

 

BGMみたいなどと言うとさすがに極端過ぎるが、少なくともプロの公演のように一音一音聞き逃すまいと真剣に没頭する感じとはちょっと違うのは確かだ。

 

なんてったって私自身がそんなノリで友人のライブを観ていた。ハマショー師匠のライブに行くのとは大違いである。でもそれが逆に楽しかった。なんとなくラフな感じで肩に力も入らず心地よく過ごせた。

 

会場の雰囲気がそうならば演者側として過剰に緊張するのはバカみたいである。気ままに楽しまなきゃ損。当たり前の話だが、気づいたのはこの真理である。単純なことかもしれないが心からそう思えたことは大きな収穫だった。

 

例年、とくにオープニングからしばらくはムダに緊張しまくって頭の中が白くなるほどだったが、今年は違った。


共感性羞恥心という言葉もあるぐらいだから緊張感だって客席に伝染しちゃうはずだ。開き直って自分が楽しんだほうが会場も和む。そんな意識を今まで以上に強く持って当日を迎えることが出来た。

 



オープニングはロッキーのテーマ。我がバンドの腕っこきメンバーがカッチョよく奏でている途中でボクシンググローブを着けてステージに登場してみた。ウケ狙いというよりあくまで「そんなノリの集いですよ」というデモンストレーションである。カッコつけて登場するよりクダけた雰囲気が優先だ。

 

例年、一曲目の歌い出しに異常に緊張感を覚えるのだが、今年はインストゥルメンタルからのスタートだったからラクチンだった。おかげでМCの流れも順調で全体的にメンバーの演奏も大きなミスや破たんも皆無だった。

 



過剰な緊張感とオサラバできたことは還暦の効用もあるかもしれない。過剰に緊張することは自意識過剰が原因でもある。さすがにこの歳になれば「まあ、いいか」的な鈍感力が増してきた。もちろん人からどう見られているかは気になるが、以前ほど意識しなくなった。加齢バンザイ、華麗なる変身である。

 

歌詞を間違えた個所もいくつかあったが、適当な言葉を入れたり、別の部分の歌詞に逃げたりしてウマく凌げた。このあたりも経験の積み重ねによる“加齢力”である。

 

正直言うと、還暦記念ライブを節目に個人的にはバンド活動をやめようと考えていた。いろいろ思うところもあり、また、当初は3人だったメンバーが総勢11名という大所帯になってしまったことで諸々の不都合も感じるようになっていた。

 

もっと言えば、アコースティックギター2本だけの3人組からフルバンドに進化して広範囲のジャンルの楽曲をこなせるようになったことで“天井感”みたいな感覚も生まれた。すなわち、やり切った感じというか伸びしろが伸び切っちゃったような気持ちになっていた。

 

なんだかエラそうな書きぶりだ。いずれにせよ今回のライブ直前まではそんな気分だったが、無事に還暦記念ライブを終えた今になってムクムクと次への野望?を感じ始めている。

 

メンバー間でカドがたたない範囲で私が抱えていたストレスの部分を積極的に潰していこうと思っている。一昨年、昨年、今年とわがバンドのライブの盛り上がりはかなりのレベルになってきた。素人オヤジバンドにしては結構な水準にあると思う。

 

これをゼロにしちゃうのはさすがにもったいない。私が感じているストレスを潰すことで、今後、今よりも盛り上がるライブを実現させる自信もある。もちろん、他のメンバーが同意してくれればの話ではある。

 



バンド活動はもちろん趣味であり遊びだ。でも趣味や遊びだからこそ本気度をもっと高めたらますます面白くなる可能性はある。人生後半戦、せっかく続けてきた「得難い経験ができる遊び」だ。もっと気合を入れて向き合うのも悪くない。

 

伸びしろが伸び切っちゃったと書いたが、斜めや横にはまだまだ伸びしろは残っている。そんなことに気付いた今回のライブだった。

 

ご来場いただいた方々にはこの場を借りて改めて御礼申し上げます。