2024年1月31日水曜日

ケガの話


半世紀以上生きてきたが、あまりケガには縁がなかった。子供の頃や若い頃は結構運動もこなしたがケガするほどドン臭くなかった(笑)のが秘かな自慢だった。

 

小学生の頃、自宅の庭にあった高い鉄棒から落ちて手首の骨を折ったことがあるぐらいだ。あの時はパニックになった母親が病院ではなく近所にあったシュールな雰囲気が漂う「ほねつぎ」という怪しい看板のボロ家に私を連れて行った。

 

幼心にナゼ病院じゃない?とアセった覚えがある。謎の老人に折れた手首をぐりぐりされただけだったような気がするが、その後の人生に手首に不具合はないからあれはあれで達人だったのかもしれない。

 

同じく小学校の頃、当時はまだ見かけたバキュームカーにはねられたことがあった。幸いかすり傷程度だったのだが、念のためということでパトカーで病院に運ばれた。救急車じゃないことが残念だった記憶がある。

 

たいしたケガなどなかったのだが、事故を起こしたオジサンがお見舞いにバキュームカーのミニカーを持ってきたのには参った。

 

その後、野球やテニス、少林寺拳法などを部活や学校外の活動でこなしたが、ケガらしいケガはなかった。大人になってから潜水旅行に何百回も出かけたり、シャレでカヌーを買ってみたり、草野球に真剣に励んだりしたがケガとは無縁だった。

 

十数年前に急な腰痛で歩けないほどになったが、あれもケガというよりストレス性だった。病院ではヘルニアとの診断で手術を勧められたが、謎の整体師に通っていたら痛みはなくなり今ではすっかり普通に暮らしている。

 

前振りが長くなったが、先日ケガをしてしまった。これも加齢が影響していると思うと実に切ない。きっと身体からのサインだったのだろう。

 

原因は自転車での大転倒だ。最近は通勤の足だけでなく週末の暇つぶしにもハヤりのレンタル自転車を使いまくっていた。

 



調子に乗ってブイブイ走り回っていたから、私の身体が「おい、オマエの身体はチャリをブイブイ乗り回すような歳ではないぞ」と信号を送ってきたのだと思う。

 

運よく自爆事故だったので人や物に危害を加えなかったのは良かった。道路と建物の境目の5センチ程度の段差にチャリのタイヤの側面が変な当たり方をしたみたいでバランスを崩してしまった。

 

まあまあのスピードが出ていたのでコントロールが出来ずにわりとすぐに転倒を覚悟した。と同時に頭の中で「受け身だ受け身!」という囁きがよぎる。

 

で、左方向に大きく投げ出される形で飛ばされた。運よく左肩を下にした受け身のような形でくるっと回れたので頭や肩のあたりに衝撃は感じなかった。しかし、左足の膝から下が痺れたような、力が入らないような感覚になった。

 

どういう形だったか不明だが、とにかく左足を地面に強打したようだ。膝をぶつけた感覚はない。運よくくるっと回り終わった際に左足の外側側面をコンクリに強打したのかもしれない。

 

周辺に少し歩行者がいたせいで、痛みより恥ずかしさが勝る。バカみたいだが、ああいう場面で性格が出るのだろう。エエ格好しいの私としてはさりげない顔をして落ちた帽子を目深にかぶり直して一息入れたらまたチャリを漕ぎ出した。

 

左足にあまり力が入らない。ちょっとヤバそうだったがそのまま目的地だったスーパーに行ってお目当ての黒ゴマ饅頭を買って帰宅。さすがに左足がかなり痛い。しばしおとなしく様子を見る。

 

運悪くこれが土曜の夕方だったので病院に行かないまま日曜になってしまった。やはりかなり痛い。足を伸ばすのは大丈夫なのだが内側に膝を折る動きが全然ダメ。トイレも難儀するし、部屋着のズボンや靴下の脱ぎ着もシンドい。

 

ウーバーに参加しているドラッグストアからシップなどを取り寄せてひたすら安静。動かない分にはたいして痛みがないからナゼか数年前に人気だった法廷ドラマ「イチケイのカラス」を全話観てしまった。

 



月曜早々に整形外科に行く。「じん帯損傷」との診断。骨折じゃないのは良かった。「じん帯損傷」などと聞かされると何となく響きが大谷翔平みたいでカッチョいい。

 

安静にするしかないとのことで帰宅してからは「イチケイのカラス」映画版を観て、その後は最近話題になった豪華キャストのドラマ「VIVANT」を一気に見てしまうことが出来た。

 

これを書いている今、痛みはだいぶ収まり、すっかりテレビっ子みたいになってしまった生活スタイルの軌道修正を図ろうとしている。

 

「チャリに乗るなら年相応の乗り方で」。当たり前だが今回の教訓である。

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年1月29日月曜日

嫌煙社会を生きる


今の時代、タバコを吸う人は少数派になってしまったが、私がタバコを覚えた高校生の頃は成人男性喫煙率は80%近くあった。今では25%程度らしい。変われば変わるものである。

 



80%ほどの喫煙率って考えてみれば凄い話だ。病人と変人の他は全員タバコを吸っていたことになる。思えばどこでも誰でもプカプカしていた。駅のホームから見下ろす線路の枕木にも吸い殻がたくさん詰まっていたのが懐かしい。

 

私がタバコを吸い始めたのは40年以上も前だから今と比較しても仕方がないが、それにしてもここまで嫌煙ファッショ?が広がるとは当時は想像もできなかった。

 

気づけば周りに喫煙者はほぼいない。不便で仕方がない。大衆酒場ですら禁煙が当たり前になった。電子タバコだけはOKという意味不明な店もあるが、あれもよくわからない話である。電子タバコの代表のアイコスなんて私に言わせれば紙タバコよりヘンテコな匂いがする。

 

嫌いな人に配慮することはもちろん必要だが、喫煙者をまるで罪人のように扱う風潮は勘弁願いたい。先日も某所にあった喫煙ブースの注意書きを読んでちょっとたじろいだ。

 



肺の空気を出してからブースを出ていけと書かれていた。いよいよ呼吸の仕方までイチャモンをつけられる時代になったわけだ。端的に言ってバカみたいだ。他人様の息の吐き方までマニュアル化しようというイヤな時代になったものだ。

 

こちらに言わせればニンニク臭いヤツとか香水が強すぎるヤツとか加齢臭がヒドいヤツのことだって規制してほしいと思う。まあ多勢に無勢だからこんなことをボヤいたところで共感してくれる人はいないだろう。

 

タバコが大好物の私だって今の時代に若者だったらきっと喫煙習慣は身につかなかったと思う。これだけ吸える場所が限られ、タバコ自体の値段も高くなったらわざわざ吸おうとは思わない。逆に言えばこんな時代にタバコを吸う若者は勇者?みたいに見える。

 

あくまで紙タバコ派の私だが、時と場所によっては電子タバコのお世話になっている。JTが出しているプルームテックを愛用している。何よりも匂いが無い点が使い勝手が良い。

 



掌に収まるから隠れてスパスパするにも便利だ。レストランでも店員さんや他のお客さんからの死角になっていれば吸っていても匂いがないからバレない。個室ならなおさら問題なしである。

 

煙は出るものの匂いがないわけだから禁煙の職場でもスパスパ、会議中もスパスパ、歩きながらもスパスパしている。紙タバコよりも咥える頻度は高いかもしれない。

 

昨年、検査入院した時も個室を取ったのはプルームテックを好き勝手に吸うためである。そんなことはしてはいけないのだが、看護師さんが来た時は隠せばよい。入院中に私が気が狂わずに済んだのは常に掌の中にプルームテックがあったからだと思う。

 



飛行機の中では電子タバコも含めて全面禁煙だが、匂いの無いプルームテックならこっそり吸ってもバレないのも事実だ。そんなことはしてはいけないのだが、吐き出す煙を上手に隠せればロングフライトも凌げる。

 

そんなことはしてはいけないのだが、煙を隠したければオシボリを口に当てながらゆっくり吐き出せば煙は目立たずに済む。こんな涙ぐましい?努力をしてまでタバコをやめられないわけだからやはり喫煙は病気なんだろう。

 

私の場合、高血圧、高コレステロール、逆流性食道炎等々の病気を既に抱えているから喫煙習慣が病気だと言われたところで「はい、そうです。ごめんなさい」としか言えない。あくまで「ごめんなさい」か「申しわけありません」である。「すいません」と言っちゃうと「吸いません」と勘違いされるからその言葉は言えない。

 

職場ではプルームテックから摂取するニコチンで何とか凌いでいるが、紙タバコを吸いたい欲求が強まった時は近所にある天国のような場所に出かける。

 



職場から徒歩30秒ほどの雑居ビルのワンフロアがナゼかフリー喫煙スペースになっており、おまけに結構綺麗でベンチや椅子まで置いてある。都心にあるフリー喫煙スペースは小汚いのが普通で椅子など無いから立って吸うのが基本である。

 

その点、ここは快適だ。中央区の一等地とも言える場所でこんなスペースを作ってくれたビルのオーナーさんには心から感謝したいものだ。せめてもの感謝の印に毎度スペース内の自販機で缶コーヒーを買っている。

 

昼時はやや混雑するもののビルの2階部分で目立たないせいもあって午後の遅い時間などは利用者は一人か二人ということも珍しくない。穴場である。今度、利用者に呼びかけてオーナーに感謝状でも贈呈しようかと秘かに考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年1月26日金曜日

南麻布の寿司屋騒動


 

先週あたりX、すなわちツイッター界隈で話題を集めたのが南麻布の寿司屋騒動。いわゆる港区女子が寿司屋の店主に殴られそうになったと投稿したことでヤイノヤイノの騒ぎになった。

 

コトの真偽は知らない。要は客単価5万ぐらいの高級寿司屋を舞台にした客と店のトラブルの話だとか。ネット民がイジくり回すには格好の素材だったわけだ。ネット上の喧々囂々を経てお店側が気の毒でしたみたいな論調が優勢みたいだ。


常識で考えてお客さんに掴みかからんばかりに怒りまくるって余程ヘンテコな客に当たったのだろう。違ったらすいません。まあ、いろんな人がいろんな所に怒りの導火線を持っているから真相は分からない。

 

さてさて、騒動の舞台になったお店もそっち系らしいが、いつの間にか凄い値段の高級寿司屋が世の中に溢れるようになった。SNSでは“映え投稿”の舞台としてちょくちょく出てくる。人様の趣味をどうこう言えないが一人あたり5万も必要な寿司屋って私に言わせれば大いなる謎である。


そうしたお店は当然のように高級なモノをどんどん出して来るが、たいていはコースしか用意されていない。「お好み」では注文出来ない。そんなパターンなのに結構な数の店が大繁盛しているという。その点が謎だ。


そういうカテゴリーの店が増えたことはいわば時代の要請、時代の副産物みたいな側面もあるのだろう。総マニュアル化時代、はたまた“手取り足取り時代”ならではだと感じる。


勝手な先入観だが、その類の店の客層、とくに常連サンの客層って「一種独特」なんだろうなあと思う。一種独特という控え目な言い方をしてみたが、冒頭で書いた騒動の話を耳にしても「なるほどね」としか感想が出てこない。

 

ネットの評判やミシュランがどうしたみたいな「イケてる情報」を盲信している人にとっては魅力的なんだろう。イヤミっぽく言わせてもらえば「一人5万もする寿司屋で食べたんだぜ」という部分が自尊心みたいなものをくすぐるのかもしれない。

 

寿司は元々ファストフードだからといって安さだけにこだわるのも変だが、一人あたり5万などと聞くとさすがにちょっと違うと感じる。しっかり飲み食いしてせいぜい2万円ぐらいあれば充分に満足できるお店はいくらでもある。

 

一応、私は寿司屋の修行(客として!)をウン十年にわたって励んできた。口幅ったいが寿司通と言えちゃうぐらいの知識もある。全国各地のお寿司屋さんで時に笑われ、時に叱られ、時にボッタくられながら自分なりの寿司道?を極めてきた自負もある。

 

だからコースしか提供しない店には行かない。好きなものを好きなタイミングで好きな量だけ楽しめるのがカウンターという形式を採用している寿司屋での特徴的な食べ方だ。


「高級レストラン」というジャンルにおいてこんな贅沢な食べ方ができるのは世界広しと言えども寿司屋だけだろう。個人的にはその部分を楽しまなきゃもったいないと思う。


「おまかせ」なるコース料理の提供はお店の都合を押し付けられているだけで、好きでもないものまで食べなきゃならないのは私にはストレスであり苦痛だ。

 

おまかせというスタイルはそもそも古い時代に銀座あたりの社用族のために苦肉の策みたいに始まった食べ方だろう。接待する側もされる側もトンチンカンな注文をして恥をかかないための方策という意味合いも含まれていた。

 

実際に何を頼んでいいのか分からない人には有難いスタイルだ。いわば“緊急避難的”な食べ方だとも言える。でも毎度そんなパターンで食べていては進歩もない。まあ進歩など考えていないのなら構わないのだろうが、せっかくの国民食である。自分なりの好みや食べ方を確立したほうが楽しいと思う。

 

マナーだとか食べる順番だとか細かいことを気にする人は多いが、基本的には好きなものを頼めばいい。その日その日で白身だったらどれがオススメなのか、貝なら何が美味しいか、酢〆したネタは何があるか等々、大雑把に店側にやんわり尋ねれば済む話。

 

気に入ったネタは再度注文すればいいし、そこそこ食べたあとで他にどんなオススメがあるか聞いてみたりと自由に注文できるのがカウンターを挟んで職人さんと対峙する醍醐味だと思う。そんな会話すら出来ないようなコワモテ?な雰囲気の店だったら客商売としてビミョーな店だろう。

 

若い人なら「回っていないお寿司屋さん」というだけで構えしまうのも分かる。場数を踏むしかないし若者なら頑張って場数を踏むべきだろう。いっぱしの中年男であれば経験をタテに自分なりのスタイルで注文したほうがスマートだと感じる。

 

もちろんこれはあくまでも私個人の意見である。おまかせ一辺倒の超高級寿司ファンの皆様、気を悪くされたらごめんなさい。


話を変える。

 


 

というわけで、自分なりの寿司道?を楽しんでいる私だが、好きなネタの第一位の座はここ数年ずっと海老である。真っ当な店の茹で海老の美味しさは格別だ。江戸前寿司の花形だと思う。

 

その昔、札幌のお寿司屋さんで茹で海老を頼んだつもりが生の甘エビが出てきた。おとなしく食べた後で「次は普通のエビを」と注文、すると店の大将から「普通って何だよ?さっきのが普通だ。火の入った海老なんかウチには無いよ」と怒られたことがある。

 

今でこそウンチクオヤジとして店主に議論もふっかけられるが、当時は修行中?の身だったからシュンとしてしまった覚えがある。あれはあれで勉強になった。地域の違いに応じたTPOみたいなことを知る良い経験だった。

 

私がおまかせコースを敬遠する理由の一つがマグロのトロがさも本日のハイライトみたいに出てくる点だ。年齢とともにトロが苦手になってしまったせいだが、トロたくやネギトロだったら喜んで食べる。ワガママみたいな話だが、人の好みってそのぐらいビミョーである。

 





あらあじめグジャグジャ?なすき身ではなく刺し身を叩かずに巻いてくれる店だとなお嬉しい。その昔、すき身のことを「あれは築地の裏路地でバイトの外国人が古いマグロに油を振りかけながら裸足で踏んづけて作ってる」という冗談を聞いて以来、その状況が頭に浮かぶようになってしまい何となく敬遠しがちだ。バカである。

 

子供の頃、紹興酒を飲んでいた祖父に「その茶色い飲み物は何?」と尋ねたら「中国の肉体労働者の汗だよ」と悪い冗談で返された。幼い私は半分ぐらい信じてしまい戦慄が走ったのだが、それに似たヘンテコな思い込みである。

 





話が迷走してしまった。とりあえず私が好きなのは海老の他に穴子、小肌、鮪の赤身やヅケ、ヒラメの縁側、昆布締めした白身、アオヤギあたりだ。年々、好みがオジイサン的になってきた。熱燗をチビチビしながらこういった寿司を食べているとホッコリした気持ちになる。

 

あれこれと書いたが、どんな店だろうとホッコリした気分で過ごせるかが良い店かどうかの決め手であることは間違いない。

 

 

 

 

2024年1月24日水曜日

蘭ちゃんとハマショー師匠


年末の紅白で私の心を一番揺さぶったのが伊藤蘭サマである。小学生の頃、キャンディーズの蘭ちゃんが死ぬほど好きだった私からすれば当時の歌を元気ハツラツ披露してくれた姿は神々しく感じた。

 



蘭ちゃんは御年69歳である。ギョギョギョとしか言いようがない。アノ蘭ちゃんがそんな歳になっていたとはビックリである。


69歳って昭和の頃ならオバアチャンである。わが蘭サマの姿はちっともオバアチャン的ではなかったことが往年のファンの胸を更に熱くしたと思う。

 

さて、時代感覚と年齢のズレを象徴するのがサザエさんのパパ・波平の年齢である。どう見てもオジイサン寄りの波平だが、彼の年齢設定は54歳である。54歳といえば福山雅治とタメである。阿部寛や江口洋介の45つ後輩である。

 

「太陽にほえろ」で石原裕次郎がボスを演じたのが30代だったことを思えば昔の人の早熟老成ぶりは想像を絶する。今の時代がおかしいのだろうか。60代、70代はまだまだ現役感バリバリの人が多い。

 

ミュージシャンを例に取ると、松任谷由実が70歳、山下達郎も70歳、矢沢永吉が74歳、小田和正が76歳、宇崎竜童に至っては77歳である。いやはや50代後半ごときの私が疲れた、シンドいなどとヘタれたことは言ってはダメだと痛感する。

 

元気な70代の人達のおかげで下の世代はもっと踏ん張らねばというモチベーションを上げてもらえる。その一方で、いつまでも引退できずに働かないとならないという恐怖さえ覚える。

 

で、今日の本題である。

 

久しぶりにわが師匠・浜田省吾先生のライブに行ってきた。ハマショー師匠も気づけば71歳である。髪の毛こそ総銀髪になったものの、姿かたちは昔のままでパワフルなライブパフォーマンスも昔と同じである。

 



会場の有明アリーナに集まった1万人を超えるファンは幅広い年齢層だったが、もっとも多かったのは50代だ。ウン十年に渡って人生のいろんな場面をハマショー師匠の楽曲によって側面支援してもらった人々である。

 

私もハマショー師匠を聴き始めてからもう45年近くになる。中学生の頃、家庭教師の大学生に聴かせてもらったカセットテープがきっかけだ。その後の人生の節目節目に師匠の歌があった。

 

師匠について熱く語ったアーカイブにそのあたりは詳しく書いた。

 

師匠との40

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/02/40.html

 

今回のライブで演奏された20数曲はいわば“ゴールデンスーパーベストアルバム”みたいな構成だった。70年代、80年代の楽曲がテンコ盛りだったから私のような古いファンには感涙モノだった。

 

実際に、最初の2,3曲あたりのノリノリの曲の際に不覚にも軽く泣いた。泣くような曲じゃないのにその曲を聞いていた頃の甘酸っぱい記憶が急に甦ってウルウルした。音楽の力はやはり凄い。

 

ツアーバンドのメンバーも古くから同じ顔ぶれだ。当然、60代が中心で70代もいる。若者はコーラスの女性ぐらいである。

 

円熟したオジサン達の奏でる音の安定感にも引き込まれた。コンピュータが主役の打ち込み全盛の今の音楽シーンにあって、ハマショー師匠に代表される古株大御所系のライブ演奏はもはや古典的な素晴らしさを感じる。

 

昭和の頃に若者専用だったロックの迫力ある音は時を越えて今やオッサン専用の趣のある響きに進化したように感じた。そのぐらい熟練ミュージシャンたちの奏でる音が素晴らしかった。迫力の中にも地に足付いた落ち着きが感じられ、まるで晩年の王選手のホームランのような美しさだった。

 

例えがヘンテコになってしまったが、師匠の歌声だけでなく脇役であるバンドの素晴らしさもベテランミュージシャンのライブを楽しむ大きな要素だと改めて痛感した。

 



ハマショー師匠の楽曲は良い意味で偉大なるワンパターンみたいなところがある。歌の中で描かれるのは少年から青年、中年、壮年と変わってきているが“ハマショー的な世界“は変わらない。

 

そんなハマショー的世界観のおかげで、長くファンを続けている側にとっては自分の年齢や変化していく立場に応じて常に楽曲が寄り添い続けてくれる。これって数多いベテランミュージシャンの中でも師匠が稀有な存在になっている大きな要因だろう。

 

デビュー曲で15歳の少年の揺れる気持ちを歌っていたハマショー師匠は時代とともに青年期の苦悩、大人の矜持みたいな世界を描くようになった。子を持つ親の心情や、はたまた家庭を捨てた男や連れ合いや友に先立たれた男の悲哀なども描き、今や中年から壮年の生きざまにエールを贈るような世界も描いている。

 



私にとってはいわば時系列で人生の応援歌を聴かせてくれた先生みたいな存在である。先日のライブではまだまだ活動していくと宣言していたから、70代に突入した今後は人生終盤戦の闘い方をハマショー的世界観で描いてくれるはずだ。

 

 

 

 

2024年1月22日月曜日

ふわふわモコモコ


ジェラート・ピケ。ふわふわモコモコの素材感が若者に人気のカジュアルウェアである。略してジェラピケだ。若者ではない私もトリコになってしまった。

 

素材の気持ちよさがクセになる。セールだったので部屋着兼寝間着をいくつも買ってしまった。帰宅してスーツを脱いで着替えるのが毎日楽しみになったほどである。

 



先日、相撲の貴景勝がジェラピケの化粧まわしで土俵入りしたニュースを見た。ぽっちゃり男子もジェラピケのマーケティングターゲットだとしたら私にも愛用する資格は充分にあるわけだ。

 

もともとは娘に教わった。娘は以前からジェラピケのパジャマを溺愛している。男性用のラインナップもあることを最近になって聞き及び、昨年の夏に短パンやTシャツを買ったのが私のジェラピケデビューだった。

 

男性用はML2サイズ展開だから部屋着や寝間着はダボダボじゃなきゃイヤな私には縁がないと思っていた。ところが、ジェラピケオムのLサイズはかなりデカい。ラインナップによっては一般的な2L3Lぐらいのゆとりがある。それを知った私がバンバン買うのも無理はない。

 


 

ヨソイキでもない部屋着を定価で買うのは負けた気がするからすべてセール品である。色も柄も気にせずゆったりサイズならドシドシ買ってしまった。

 

上下セットの囚人服みたいなヤツも迷わず買った。ジェラピケのふわトロ素材も商品によって結構細分化されているのだが、この囚人服?シリーズがもっともトロトロしていて気持ちが良い。

 



同居する娘に「ヘンテコだねえ」と言われようともまったく平気だ。ただただ自分が心地良いからそれだけで幸せだ。たとえ「アルカトラズ島の囚人」とまったく同じデザインだろうとこういう小さな幸せって日常生活において非常に重要である。

 

ふわモコの素材には随分前から魅せられている。マイクロファイバーだかフランネルだかパイルだか詳しい名称はよく分からないのだが、触り心地がトロける感じのアレである。

 

10年近く前だっただろうか、ドンキで見かけたソッチ素材の毛布を買ってから一気にハマった。それまではやたらと高価なカシミア素材の毛布を頑張って買ったりして悦に入ってたのだが、それより遥かに安いふわモコ素材のほうが断然気持ち良い。今では天然高級素材などに見向きもしなくなった。

 



シーツはもちろん、毛布や布団カバー、枕カバーに至るまで寒い時期はすべてふわモコを愛用している。人生の3分の1は寝ているわけだから寝具の快適性は大事なQOL問題でもある。

 

以前このブログで私の寝室のパリピ?ぶりを紹介したことがあったが、寝具の素材と照明の加減が眠りの質に大きな影響を及ぼしていると感じている。

 パリピベッドルーム

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/06/blog-post_21.html

 

ふわモコ系の寝具は心地よさのわりには高くないのも魅力だ。先日も実家の母親にそっち系の毛布を送ったし、世話になっている女子たちにプレゼントしたことも一度や二度ではない。

 

私に言わせればふわモコ系の寝具を使っていない人が意外に多いことが不思議で仕方がない。意外に、どころか圧倒的に体験していない人が多いと感じる。かさばることや乾きにくいことが一応デメリットだが、あの快適さに比べればそんな問題は屁でもない。

 



ふわモコ系の寝具とジェラピケの寝間着。この組み合わせを体験すれば、変な話だが寒い季節が好きになっちゃうような錯覚さえ覚える。ちょっと大袈裟か。

 

それにしても貴景勝の化粧まわしは妙に可愛い。きっと素材感もふわモコで気持ちの良い仕上がりなんだろう。どうせなら化粧まわしではなく、通常のまわしもジェラピケ製にしたら最高だ。

 

ふんどし状のすべてがふわモコだったら食い込んでもソフトでウットリするはずだ。引っ張られたらポロリになっちゃうからさすがに現実的ではないか…。

 

 

 

 

 

2024年1月19日金曜日

気取り屋

 

エエ格好しい。私のことである。カッコつけたところで何かトクがあるわけでもないのにバカみたいである。思えば中学生ぐらいから変わらない性質だ。

 

カネもないのに気前よく振る舞ったり、下心バリバリなのに聖人君子みたいな表情を作ってみたりつくづく御苦労なことだと思う。

 

女子とカフェに入ったとする。相手にケーキを勧めておきながら自分は「甘いものはちょっと…」などと気取ってしまう。

 

実際にはスイーツ大好きオヤジである。先日も三越でやっていた北海道展に行って、鯛焼きやプリンやソフトクリームなどを一気にペロペロしてきた。

 

なのにカフェではコーヒーだけを頼んで苦み走った男を演じてしまう。愚の骨頂である。たまに女子が食べているケーキを見てヨダレがこぼれそうになる。

 

あの心理はいったい何なんだろう。今どきの言葉でいうならばまさに「ダレトク?」そのものである。

 

カフェに限らず女子と食事に行くと私の得意ワザであるドカ食いも封印してしまう。上品ぶってちまちま食べることが多い。相手は私の食べる量などまるで気にしていないだろうからバカ丸出しである。

 




あれこれウザったいウンチクを語りながらウナギをご馳走する際もシメの鰻重は「ご飯少なめで」などと気取った頼み方をする。上の2枚の画像も鰻重のウナギの位置が妙に低い。ご飯がちょっぴりだとこういうスタイルになってしまう。

 

「ご飯少なめで」という発言を習慣のように口にしているが、気取っているだけである。鰻重なんてタレの染みた白米をかっ込んでこそウマいのにナゼかそんな暴挙?に出てしまう。

 

「アツアツご飯は蒲焼が冷めないための脇役だからな」などと思ってもいないセリフを口にする。その昔、炊きたてご飯をドンブリによそってウナギのタレをドバドバかけただけのメシを頬張っていたことなど口が裂けても言わない。

 



ある時、女子が食べきれないウナギがこちらに回ってくるはずだと想定して私はショボい鰻重にして女子だけ極上鰻重を注文した。上の画像のように月とスッポンみたいな格差だった。


しかし、あろうことか極上鰻重は綺麗に食われてしまい私にお裾分けが来ないまま終了してしまった。オーマイガー!である。無駄に上品ぶってみた私の大失敗だった。


書いてみて思い出したのたが、この話は前にも書いたような気がする。ボケてきたのかもしれない。ごめんなさい。

 

さてさて、そうした無意味なカッコつけはいったい誰のための何が目的なのか自分でも分かっていない。一種の性癖?だろうか。痩せ我慢という行為にただただ美学を感じるヘンテコなМ的な習性が原因かもしれない。

 

先日、一人ふらっとウナギ屋さんのノレンをくぐった。築地の宮川本廛だ。子持ち昆布や肝串でのんびり一献やりながら一人の時間を堪能した。

 



この日はかなり空腹だったので普段なら頼むはずの白焼きをパスして“鰻重真剣勝負”に臨むことにした。「ご飯少なめで」という禁断のセリフは封印して、おまけに中入れ重を食べることに決定。

 

ウナギが敷かれたご飯の下にもまたウナギが鎮座しているというアバンギャルド?なヤツである。女子と一緒の時なら決して注文しない。いわばワンパクな一品である。

 

お店の人からお重よりもドンブリのほうがドカっと盛れまっせ的なアドバイスを受けたので、中入れ丼にしてもらう。お値段は9千円ぐらいだったが、白焼きを頼んでいたらドッコイドッコイの値段になるから良しとする。

 



で、かなり大ぶりなドンブリが登場した。何だか妙に嬉しい。きっと自分好みのエロ動画を見つけた時と同じような表情をしていたはずである。

 

ドンブリって大きくなければドンブリではない。小どんぶりなどという言葉自体が日本語として破綻しているとさえ感じる。大きいからドンブリである。そんなドンブリの上で輝くウナギにしばし見惚れる。

 

おもむろにかっ込んでみる。何が嬉しいって上に乗ったウナギの残りの分量を気にせずに済む。ガッつけば普通はウナギだけがすぐに無くなってしまうが、中入れ丼だから下の方からもウナギがニョッコリ顔を出す。

 



普通の品のある鰻重に比べると中入れ丼には「カオス」という言葉が似合う。いつもは理路整然?と箸を進めるような食べ方になる鰻重だが、中入れバージョンだと乱雑な祭り状態である。

 

何だか大げさな書きぶりになったが、久しぶりの中入れバージョンのおかげで独特な高揚感を味わえた。かなりの満足感でそれこそ爪楊枝を口に加えてシーハーしたくなる気分だった。


誰に言うでもなく「どうだ、まいったか!?」とつぶやいたほどである。意味不明だ。

 

無意味な気取り屋モードのせいで女子を連れてのウナギ会食にはどこか釈然としない思いを抱えていたのだが、この日は何だか妙にスッキリ爽やかな気分に浸れた。

 

四の五の書いてみたが、今日この話を書いてみていかに自分が無駄なカッコつけにエネルギーを使っているのかが改めて分かった。

 

ただただ滑稽としか言いようがない。

 

 

 

 

 

 

2024年1月17日水曜日

絶賛します。「人探し」


すい臓問題がとりあえず落ち着いたようだ。一昨年暮れに見つかったデキモノが悪性腫瘍のリスクがあるということでアレコレ調査?を続けていたのだが、今年始めの超音波内視鏡検査でどうやら悪性のリスクはとりあえず低いという判断に至った。

 



 大きさにしてわずか4ミリのデキモノだが、すい臓の場合、他の部位とは異なりステージ1の癌でも5年生存率が50%程度という厄介な現実がある。さすがの私もちょっとは心配していた。

 

一昨年暮れにデキモノが見つかり、昨年前半に入院して生検を受けて一応良性との結果になったが、変化するリスクもあるとのことで3~4ヶ月ごとに超音波内視鏡で様子を見てきた。

 

で、今回の検査でサイズにも形状にも変化はなく単なる良性のデキモノと判断して大丈夫だろうとの専門医の判断が出た。一応、今後は半年に一度はチェックすることになったが、ひとまずは安心である。

 

平気な顔をして過ごしてきたが、この一年の間、心のどこかに「ひょっとしたらひょっとするぞ」という不安を抱えていた。このモヤモヤから解放されるのは素直に嬉しい。

 

まあ、いつかはどこかに癌が出来て順当に死んでいくわけだから、ほんの少しでもそんな事態への予行演習的な心理状態になれたのは悪いことではない。まだまだ悪あがきを続けて生きていこうと思う。

 

人生の後半戦ともなると、新たなライフイベントに遭遇することもなく大きな変化やチャレンジとも縁遠くなる。いわば何となく平々凡々に日々が過ぎていく。

 

若い頃には当たり前だった日常も歳を取ってくると決して当たり前という言葉で片付けられなくなる。毎日毎日が大事な時間の積み重ねだと実感できるようになってくるわけだ。

 

もちろん、そんなエラそうなことを言っても私自身、日々を悔いなく充実して過ごしているかといえばダメダメである。それはそれはテキトーである。きっといつの日か余命宣告を受ける際には今現在のテキトーな日々を振りかえって後悔しまくると思う。

 

でも、それもまた人生なんだと思う。

 

さてさて、そんな禅問答みたいな話はさておき、ここからが本題。最近感動した話を一つ書く。

 

小学校から高校までの同級生に若くして東大教授になった男がいる。仲良しだったのは小学校の時ぐらいでその後はまったく別な道を突き進んでいった秀才だ。大人になってからは何年か前にメールのやり取りをしたぐらいで付き合いはないのだが、折に触れて彼の活躍を誇らしく感じていた。

 

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/02/blog-post_06.html

 

https://fugoh-kisya.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html

 

バリバリの学者さんである彼がいつの間にか「ミステリー作家」という別の顔を持つまでに進化していた。そっち方面では歴史のある小説推理新人賞を受賞した。その作品が昨年暮れに出版されたので早速取り寄せて読んでみた。

 



「人探し」というタイトルの小説である。ミステリー小説というジャンルを普段まったく読まないのだが、旧友が作者であるということを差し引いても非常に面白かった。もっと言えばビックリするほど面白かった。

 

彼の本業は解剖学者である。パンダに隠された7本目の指があったのを世界で初めて見つけたような一種独特な分野で名を馳せている御仁である。年柄年中、動物園から遺体を引き取っては動物の身体の構造を徹底して研究してきた人だ。

 

ミステリー小説という舞台において、そんな研究の成果も“応用”されていた点が実に興味深かった。人間の歩き方の特徴をAIが解析する装置が物語のキモになっておりストーリー自体もハラハラドキドキの展開を見せる。

 

夢中になって物語の世界に入り込んだ。読み終わった感想は「いやはや参りました」という一言だ。「学者さん」に対して私が持つステレオタイプの印象が覆されるほどエンタメ性に秀でた作品だった。

 

それこそ映画化してもヒットしそうな話だと感じた。人づてに作者にそう伝えたものの、主人公の容貌設定が特殊だからなかなか難しいとの返答だった。そこを何とか大幅に割り切って映像化してほしいと思えるほどの作品だった。

 

とにもかくにも50代後半になって本業とはまったく別の小説の世界で新人賞を取って大のオトナを夢中にさせるミステリー作品を書いてしまう。そんな作者の天才ぶりに驚くとともに、そんな人物と幼い頃に同じ学校で同じ授業を受けていた我が身の凡なる現実がちょっと切なくなった。

 

いやいや、あちらが超絶的頭脳の持ち主なだけで、比べること自体が意味がない。そんなことよりせめてこの歳になってからのチャレンジ精神を大いに見習いたいと感じた次第である。

 

小説「人探し」、非常に読み応えのある傑作です。オススメです。