ハヤリ言葉の中で耳障りなのが「美人すぎる〇〇」って表現だ。あの言い回しを聞くと妙に気持ちが悪い。
http://matome.naver.jp/odai/2140059440828534301
「美人すぎる議員」とか「美人すぎるバレー選手」とか、一見華やかな顔立ちの女性をすぐにそう呼びたがる。
美人すぎると言われる以上、確かにみなさん美人だ。でも「すぎる」っていう表現は大げさだ。安易に使われすぎ。
ついには「巨人助っ人の美人すぎる妻」などといったカテゴリーに関係ない使い方まで目に付く。
http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/sports/p7b7396b8f48272f0c4763e13d3fb6ecd
「美人妻」。これで済む話なのにヘンテコだ。「美人議員」、「美人選手」。それでいいはずなのに、なんか気持ち悪い。
そのうち「ブスすぎる」っていう恐ろしいバージョンに発展するかもしれない。
「ブスすぎる議員」、「巨人助っ人のブスすぎる妻」・・・。さすがに気の毒である。
さて、美人の話だ。
世の中の人はみんな美人が大好きである。男だけでなく女性だって美人を見るのは好きだ。
映画のスクリーンに美人が映っていたほうが嬉しい。ブスが恋愛の切ないシーンを演じても見る人は切ない気分にはなりにくい。
現実である。
子どもだってブスより美人の先生のほうが嬉しいし、最晩年の病床で出会う看護婦だって美人のほうが嬉しい。まさに「ゆりかごから墓場まで」美人は大歓迎される。
いくら世間が雇用機会均等だと言ったところで、現実的には容姿端麗が人事採用のキモになっている職種はいくらでもある。
容姿など関係ないような仕事ですら、同じ成績、条件だったらブスより美人が選ばれるのが世の中の常識。
こんなことを書いていると何だか残酷な感じがするが、アナウンサーしかり、大企業の受付嬢しかり、飛行機の乗務員にしても、土偶やハニワみたいな容姿の人はいない。
もちろん、それぞれの採用条件に「容姿端麗」と謳われているわけではない。あくまで暗黙の了解事として常識化しているわけだ。
ここでちょっと気になるのが「若ければなお良し」という風潮だ。テレビ局に自前のタレントして浪費される女子アナは30歳を超えたあたりで花形番組などから外されるとか。
30歳なんて社会人の中では小僧の段階だ。実にバカげた話だと思う。
だから、朝のニュース番組や人気のワイドショーなんかは、子どもに毛が生えたような女子アナがキャンキャン騒いでいる。ゲンナリする。
中高年から上の世代がテレビを見なくなっているが、当然の帰結だと思う。世の中の実働世代がどんどん高齢化している現実と番組制作者の感覚が大きくズレている証だ。
女性達も女性達ですぐに老け込みたがるのも大問題である。20代の後半ぐらいで年増ぶっている人を見ると心底マヌケに見える。
たかだか30歳を超えた程度で「ビキニは着られません」「ミニスカートは履けません」などと気が狂ったようなことを言うのもおかしい。
90歳近くまで生きる人生のうち、30歳なんてヨチヨチ段階だ。世の中全体が幼くなっているせいで、30歳ぐらいがようやく「女の子」から「女性」になる頃合いだろう。
まあ、そんなことに気付かない浅はかさが若さの証でもある。
中年以降の女性が容姿の面で話題になるのは、ただ若作りに精を出す美魔女と呼ばれる人達ばかり。
年相応の美しさを持つ美人中年女性がゴマンといるのに、「ブスの若作り」のほうがなんだか肩で風きって歩いている感じだ。
若者っぽい服を着て、若者っぽい店に行き、若者っぽい話し方に励んでいる。ご本人の勝手だが、なんだかなあ~って感じだ。
「若々しい」と「若者の真似」はあくまで別モノ。そのあたりが中途半端だ。それが分からないから意味もなく年齢を隠したりゴマかしたりする。
女性が年齢を隠したりサバをよんだりする風潮を当然と考える社会の思考停止状態も問題だと思う。
何かと正論を吐く大新聞ですら、取材対象の女性の年齢を不自然に表記しないケースが目に付く。年を重ねることが悪い事であるかのような変な習慣は考えものだろう。
もっと世間の眼がナチュラルに素敵な雰囲気を醸し出している女性に着目すべきだと思う。
なんだか力説しちゃったが、女性の繊細な心の葛藤など分からない中年男の個人的意見なので御容赦願いたい。
今日は美人についての考察がテーマだったのに、まったく違う話になってしまった。
2015年8月17日月曜日
美人
2015年8月14日金曜日
愉快な人
ちょっと前に結婚、離婚それぞれに関するアンケートを面白おかしく分析したバラエティー番組を見たのだが、「結婚して良かったこと」の第1位と「離婚して良かったこと」の第1位が偶然にも同じ内容だった。
それぞれ第1位は「健康になった」という回答。一応、それぞれを経験している私としても妙に納得しちゃう結論だった。
不摂生しがちな独身男が結婚によって健康になるのは分かりやすい話。でも、離婚することで健康になるというのは一般的には理解されにくい。
強がりでも見栄でもなく、実際にそういうものである。ストレスは体調にしっかり表れる。
私自身、シングル生活になってから常に血液検査の結果が好調だ。我ながら不思議である。一応、人並みの感受性はあるので、ふさぎこんだ時もあったが、そんな時でも血液検査の数値は優秀だった。
離婚に向けるエネルギーは結構ヘビーだ。後ろ向きで建設的ではないし、負のイメージが強い。精神的にヘコんだりもする。
話がまとまらずに争いが長期化すれば、ストレスが溜まって病気になって倒れちゃっても不思議ではない。
でも、話がまとまりさえすれば、考えようによっては建設的な仕切り直しだし、決して負のイメージばかりではなくなる。
結論が出れば一気に風向きが変わる。身体の数値は実に冷静にそれを感知するわけだ。人間が精神的にいかに弱い生き物かを象徴している。
思想家の内田樹さんのエッセイを読んでいたら、人間関係に耐える能力は極めて人間的な能力だが、命を縮める有害なものだというくだりがあった。
夫婦に限定した話ではない。親子や親戚関係、職場の同僚、上司などすべての人との間で「不愉快な人間関係」があればダメージを受けるという話だ。
不愉快な人間関係に耐えることを、人間的な器量の証だと錯覚し、耐えている自分を誇りに思ったり評価しちゃうと、徐々にダメージが蓄積して、俗に言うダメオヤジ的人間が出来上がると結論づけていた。
ふむふむ。もっともな分析だ。でも現実社会の中で不愉快な人と関わることを排除するのは無理だろう。
そう思いながら読み進んだのだが、ひょっとすると、そうやって「無理だ」と決めつけることが既にダメなのかもしれない。
「不愉快な人間関係に耐えない!」。宣言するのもアリだろう。中高年にもなればそれなりに可能かもしれない。試してみる価値はありそうだ。
不愉快な人との関わりを最小限にとどめることは可能だ。ぶれずに徹底することが大事だと思う。
「器量の大きい自分でありたい」。男ならついそう思いがちだ。一見、立派な姿勢だが、そんな意味不明な頑張りのせいで、人間関係に疲れて自分が壊れるのは本末転倒である。
ワガママだ、協調性が無いだとか、何かと批判もされるだろうが、時には建設的なワガママ、戦略的なワガママは必要だ。健康でいるためにはそれはそれで努力の一つかもしれない。
なんだか夢も希望も無いような書きぶりになってしまった。これでは、まるで人嫌いの変人である。
「我以外みな我が師なり」の精神でもっと様々な人と関わっていかないとダメである。人間いくつになっても勉強である。
でも不愉快な人間関係はゴメンだ・・・。
なんだか堂々めぐりだが、要するに自分にとって「愉快な人」をどんどん増やせばいいわけだ。
愉快な人ってどんな人だろう。
それが分からないから、人生何かと苦労が尽きないわけだ。
穏やかでノンビリした時間が過ごせるような、何となく気が合う人とだけ関わって生きていたいものである。
2015年8月12日水曜日
ホッピーの立ち位置
ハイボールが人気を集める季節だ。本格的なバーの中にはキンキンに冷やしたウイスキーとソーダを使って氷抜きのハイボールにこだわる店もある。
氷が溶けて味が薄まらないようにというキザな、いや、素敵なこだわりである。寡黙なバーテンダーが手掛けると何だかオシャレ~である。
先日、そんなオシャレ~なこだわりをホッピーで体験した。その名も「シャリキンホッピー」である。
ホッピーで割るのに最適と言われるのが金宮焼酎である。それをシャーベッド上に凍らせているから「シャリキン」、そこにキンキンに冷やしたホッピーを注ぐことで氷無しバージョンが完成だ。
寡黙なバーテンダーとか、ムーディーなバーとか、そういう舞台装置とは無縁のガサツなモツ焼き屋で遭遇した。なかなかアッパレな取組みだと思う。
これだから大衆酒場はやめられない。富豪記者と名乗っている以上、もっと富豪っぽい?店をレポートすべきなのだが、結局はエセ富豪に留まっているのが現実である。
さて、ホッピーである。ビールが高価だった時代に代用品として誕生したのがホッピーである。焼酎で割って楽しむ。
今でこそプリン体ゼロといったヘルシーなイメージもあるが、基本的には「ディープな大衆酒場御用達」、「疲れたオッサンがモツ煮をツマミに飲む酒」といったイメージに支配されている。
代用品という出自のせいもあって、同じ割りモノである「酎ハイ」よりも何となく格下であるかのように見る人も多い。
レモンサワー、グレープフルーツサワーあたりだと、愛くるしい女子大生や上品な若妻でもグビグビ飲んでいる。
ヒアルロン酸入りアセロラサワーとかコラーゲン入りアロエサワーのような、おそらくウソ八百な飲み物は女性陣にウケるが、ホッピーは見向きもされない。
昔よりも一般化したホッピーだが、オシャレなネーミングのナンチャラサワーには勝てない。結局、愛くるしい女子大生や上品な若妻が手を出すことはない。
吉永小百合も黒木瞳も石原さとみもホッピーを飲むことはない。江角マキコや沢尻エリカは飲んでるかもしれないが、桐谷美玲や有村架純は絶対に飲まない。それがホッピーの現実だ。
ワインとは大違いである。ワインの場合、得体の知れない添加物だらけの安物だろうと「とりあえずワイングラスで飲んでいればオシャレ」というヘンテコな風潮がある。
「ホッピーはオッサン」というイメージと「とりあえずワイン」という風潮はある意味似たような感覚だ。
ついでに言えば「ダッチワイフを買う人はオタク」といった思い込みとも似ている。実際はそんなことはない。オタクではない私だって買いそうなのに硬直したイメージはなかなか崩れない。
世の中あらゆる分野で固定観念に支配されている証拠である。
話がそれた。
「ホッピーなんか飲むんですか?」。こういう言われ方がホッピーの悲しい現状である。どぶろくや密造酒でもないのに何だか特殊なモノみたいに言われかねない。
「ホッピー=大衆酒場」という固定観念は「カレーに福神漬け」と同じぐらい世の中に浸透している。
だから、やきとんやモツ煮をウリにするような居酒屋以外でお目にかかることは滅多にない。実に残念。
さすがに寿司屋に置いても需要は無いだろうが、串揚げ屋やトンカツ屋、焼肉屋などのメニューにあったら充分に客を喜ばせると思う。
オシャレ路線、高級路線の店、ミシュランに載るような店だろうと、料理内容によってはホッピーをメニューに加えたら案外ウケるのではないか。
ホッピーは油っぽい料理との相性が抜群だ。たとえばコッテリしたフカヒレの姿煮と合わせたって素直にウマいはずだ。
私自身、ナントカの一つ覚えで「フカヒレには紹興酒」と決めつけているが、そもそも紹興酒だって高級酒ではない。基本は大衆向けの酒である。それっぽい酒器に入れられて出てくるから有難く感じているだけだったりする。
上モノのフカヒレをホッピーで楽しむ。ぜひトライしたいものである。フカヒレが名物の赤坂維新號あたりで相談したらぶっ飛ばされるだろうか。
焼肉屋さんで最近普通に見かけるのがマッコリだ。あれだって素朴な大衆酒である。
安値路線の焼肉屋はもちろん、タン塩1人前が3千円もするような高級焼肉屋でも見かける。それならホッピーだって置いてもらいたい。個人的には脂っぽい肉にはマッコリよりホッピーだと思う。
ホッピーをディープな大衆酒場専属みたいなポジションに止めておくのは思考停止みたいな話かもしれない。
考えてみれば、芋焼酎なんかは30年ぐらい前までは現在のような存在ではなかった。
今では高級料理店でも当然のように数種類用意されている。その昔、「下級」なイメージで敬遠されることが多かったことを思えばビックリするほどの変わり様だ。
品質向上だけでなくイメージ戦略も功を奏したのだろう。プレミアム感を漂わす銘柄もゴロゴロある。変われば変わるものである。
そう考えたら、数十年後のホッピーの立ち位置も変化しているかもしれない。
まずは素敵な女性をホッピー酒場に連れて行かねばなるまい。
でも、大衆酒場で飲む時の私は、鼻をホジホジしながら巨大ゲップを連発するのが基本姿勢である。やはりデートに使うのは無理そうである。
2015年8月10日月曜日
ホテルオークラ
この8月いっぱいでホテルオークラの本館が歴史に幕を下ろす。なんとなく淋しい。
東京の名門ホテルといえば帝国ホテルにオークラである。外資系ホテルが次々に参入した今もこの現実は不変だと思う。
多分に東京人としての思い込みもあるのかもしれないが、スタイリッシュな外資系ホテルがどう頑張っても日本の老舗名門ホテルの空気感にはかなわないと思う。
オークラ本館のメインロビーの佇まいは、まさに昭和のニッポンの落ち着きを体現している。建築物としての評価も高いため海外からも取り壊しに異論が出ているそうだ。
まあ、実際に見てみれば、やはり古めかしい感じは否定できない。最新設備を誇るカッチョいいホテルがどんどん増えている東京で勝負するには分が悪い。建て替えも当然の選択だろう。
客室サイズもベーシックな部屋だとビジネスホテル並みだ。40平米以上が普通になっている高級ホテル事情にあって競争力は無い。
狭い部屋は安売りするしか道はないわけで、そうなればホテル全体のイメージが低級路線になってしまう。昭和基準のままで維持されてきた名門の厳しい現実だろう。
レストランや宴会など宿泊以外の部分にも独特な存在感があるのが老舗の名門ホテルだ。
ホテルに行きまくっているわけではないので、これも多分に勝手な先入観だが、近年増えてきた外資系のホテルは食事の面で高揚感が乏しい。
値段や雰囲気は最高級でも、帝国やオークラが培ってきた「伝統」みたいな部分とは違う。大げさに言えば「物語性」が感じられない。
オークラもレストランの評判は高い。ついでに言えば、フレンチトーストが名物だったり、夏の冷やし中華にも根強いファンがいる。そんな細かいメニューまで熱く支持されていること自体が「物語性」だろう。
帝国ホテルにしても数々の名物料理が知られているが、それ以外にルームサービスで驚かされたことがある。
随分と昔の話だが、部屋に持ってきてもらったピラフが目ん玉飛び出るほど美味しかったので、その後、ホテル内のどこのレストランに行けば同じモノが食べられるか調べてみた。
結果、ルームサービス専用の一品だったということが判明。私の中で「やすやすとありつけないシロモノ」という物語につながったわけである。
オークラに話を戻す。四半世紀以上も前の話だが、私の兄がオークラで披露宴を行った。若かった私は、なんでそんなコンサバな場所を選んだのか不思議だった。
そう感じたこと自体が若さだったのだろう。新しいものやハヤリものの曖昧さや頼りない感じに気付かなかったわけだ。
今ではどう逆立ちしたって若者ではないから、伝統が醸し出す凜とした空気のほうが居心地も良いしかえってスマートだと感じる。
兄の結婚から数年後、若かった私も披露宴とやらをやる必要に迫られ、某外資系ホテルを選んだ。そういうのを選ぶことがオシャレ~だと思っていたのだろう。
いま、そのホテルは既に無い。違うホテルとして営業している。しょせん、地に足のつく前に撤退しちゃうようなホテルだったわけだ。
私もいろいろ「撤退」するハメになったから似たもの同士みたいなものである。やはり目先しか見えないとダメだ。成熟には程遠く、ただ無駄だけが残る。
やはり、地に足のついた雰囲気、浮き立っていない落ち着いた感じは、一朝一夕に生まれるものではない。
ちなみに多くの高級ホテルでは莫大な数の客の名前を覚えているスーパーホテルマンがいて、他のスタッフも含めて客を個人名でもてなすように心がけている。
以前、某ホテルで名前で呼びかけられて何だかコソばゆい思いをした時期があった。頻繁に宿泊するような上客ではなかったのだが、バレーパーキングをマメに活用したせいで名前を覚えられたわけだ。でも、あれもTPOによってはビミョーである。
真面目じゃない目的?でホテルを利用することだってあるし、誰かの目に触れたくない場面だってある。そんな時に名前で呼ばれたらオドオドしそうである。
こっちが問題なくても同行者にとってはお忍びというケースだってある。ホテルには様々な人が出入りしているから、ロビーに足を踏み入れた瞬間に、まったく知らない同士のフリをする男女も珍しくない。
まあ、私の場合、独身貴族だからそんなスリリングな展開には縁がないが、独身だと思っていた相手がヤクザの情婦や誰かの奥さんだったりするかもしれない。そんな相手と客室階に行くエレベーターに乗るところを見られたら問題である。
そういえば、「別れさせ屋」で工作員をしているという美女と酒を飲んだことがある。エゲつないやり方で人を陥れる話が世の中にはゴロゴロあることを知ってビビった。それ以来、世の中が恐ろしくて仕方がない。
ウソです。でも、ちょっとホントです。
思いっきり話が逸れてしまった。最近、しょっちゅう話が脱線する。脳ミソが腐ってきたのだろうか。
「ホテル」のことを考えると、なんだか私の頭の中にさまざまな経験や妄想や願望なんかが入り交じって混乱するのかもしれない。
オークラの話だった。とりあえず、今月で見納めのメインロビーの佇まいを見に行くことをお勧めします。
平日の空いている時間帯なら昭和にタイムスリップしたような気分に浸れます。
2015年8月7日金曜日
銀座 夜の部活
相も変わらず夜の「部活」を続けている。クラブ活動である。もちろん踊るクラブではない。オジサマがガハハハと喜ぶ酒場のほうだ。
なんだか“習性”のようになっているが、最近はふとした瞬間に以前とは違うモヤモヤした感覚にとらわれる。「慣れ」の弊害だろう。
「慣れ」などと書くと毎日のように通っているヒマ人だと思われそうだが、そういうことではない。一種の加齢問題である。
若い頃に感じた「アウェーな感じ」が薄らいだことがモヤモヤの理由だ。年齢による図々しさのせいだろう。アウェーな感じが心地良い私としては少し淋しい。
若い時は背伸びしている感覚があった。ロマンスグレーの渋いオジサマばかりが集う店で場違いな感じを味わうのが堪らなかった。居心地の悪さを逆に楽しんでいた。Mっぽい喜びとでも言おうか。
平均的な客層より年齢が下だったから、そんな感覚を楽しめたのだが、今ではすっかり「標準的な年齢層」である。アウェーな空気も感じなくなってしまった。
ここ2~3年、中学高校時代の同級生と銀座のクラブで偶然遭遇することも増えた。そんな年齢であることをイヤでも実感させられて複雑な気持ちになる。
部活に足を突っ込んだのは大学生の頃。好きこのんで足を踏み入れたのではない。一回り以上年上のクラブ活動が大好きだった知人に頻繁に同行させられたのがルーツだ。
30年ぐらい前の話である。当時は六本木ばかり。こっちは成人するかしないかの頃だから女友達はいっぱいいた。だから若い女子目当てのオジサン的行動が理解できずにいた。
そうはいっても元来アマノジャクな部分があったから、バブル直前の浮かれた若者遊びとは異質の「クラブ活動」が面白かった。オジサンのように励んでいる自分のヘンテコな日常を結構楽しんでいた。
朝までアフターが当り前の元気な時代だった。ホステスさんだけでなく、黒服さんやバンドマン達と親しくなって、朝まで不健全に遊んで、しょっちゅうゲロ太郎になっていた。
若造だからカッコつけてばかりだった。こっそりトイレに行って吐きまくって、素知らぬ顔で遊びの輪に戻ることもあった。おかげで「据え膳」は何度も逃した。つくづくアホだった。
社会人になり、師匠格の年上の知人と同行することは減ったが、当時のつながりがあったから、ふらふらと六本木で飲む機会は続いた。
「部活の独り立ち」である。「常連さんが連れてくる学生さん」という立場を失ったことで想像以上に環境激変。いろいろと勉強になった。
「お客様」になった途端、ちっともモテなくなった。「お客様の連れのウブな学生さん」だからツマミ食いもしてもらえたのだろう。
お金を払ってなかった時のほうがモテたという事実から世の中の不条理、理不尽を学んだ。
銀座デビュー?は20代の終わり頃だった。六本木で顔馴染みだったオネエサンが銀座に移るとのことで、興味本位で覗きにいったのが6丁目数寄屋通りの「M」だった。
当時の銀座は、今とは違って若い客が見当たらなかった。圧倒的な「オトナっぽい濃い空間」にたじろいだ。
でも、かなわない感じ、場違いな感じが新鮮で、店のはじっこで小さくなって飲んでいるのが妙に面白かった。
あのワクワクした気分を感じることはさすがになくなってしまった。今では席に座るなり、太田胃散くれ~、梅昆布茶くれ~などと天下無敵なオッサン的言動を繰り返している。
ウブな頃の自分から見たら「態度のでかいガサツな客」である。20代、30代の頃は他のお客さんの居ずまいなんかを何気なく観察していた。カッコイイ中高年を目指そうと勉強する意欲があったのだろう。
そんな姿勢もいまはカケラもない。周りを気にせず酔っ払っているだけだ。
通算すれば30年も夜の部活に関わったことになる。少しは何かを学んだのだろうか。何かの肥やしになったのだろうか。
一応、あの世界は男の学校みたいな要素もあるから、今現在の私の振る舞いや物腰に少なからず影響を与えたのかもしれない。
でもビミョーである。あの世界を知らずにいれば確実に私の預貯金残高は結構な金額になっていたはずである。
まあ、禁煙したってタバコ代が余裕資金にならないのと一緒で、あの世界を知らなければ違う分野で散財しただけだろう。
時々、80歳を超えたような長老みたいなお客さんを見かける。自分がそんな年になってそんな行動をしたいとは思わないが、元気さを測るバロメーターとしては夜の街は大いに意味があると思う。
銀座のクラブに来る人々は、エネルギッシュで精力的である。負のオーラを漂わせているような人はまず見かけない。街自体のパワーがドンヨリした人を弾き返している気がする。
何歳になっても「現役感」を維持することは大事だ。そういう意味では10年、20年経ってもあの街で太田胃散片手にワイワイ騒いでいられたら幸せなんだろう。
2015年8月5日水曜日
贅沢とジャンク
「贅沢は敵だ」。戦時中のスローガンである。その後、昭和元禄を経てバブルのさなかに言われていたのが「贅沢は素敵だ」というキャッチフレーズである。
昭和世代の中でも、高度成長期の恩恵に漬かってバブル前夜に青春時代を過ごした私にとって、贅沢はやはり素敵である。
出費がかさんでピーピーしている割には質素倹約を目指すわけでもない。宵越しの銭は持たねえぜなどとヤケッパチのようにつぶやいている。
贅沢にもいろいろある。一度にレトルトカレーを2種類味わうことは贅沢だし、糖質制限を理由にデリバリーのピザの生地を全て残して具だけを食べるのも贅沢である。
冷やし中華の麺を2玉茹でたのに、1.5玉分だけ食べて残りは捨てちゃうなんてことも贅沢極まりない。
とはいえ、食べ過ぎて肥満度合いが強まり、成人病になって医療費がかさんで国家に迷惑をかけることを思えば間違った行動ではないのかもしれない。
くだらない屁理屈はこのあたりにする。
最近、贅沢だなあと思ったのが北京ダック専門店で出された「キャビアダック」である。
銀座にある北京ダック専門店で顔馴染みの店長がサービスしてくれた。焼き上がったダックを皮で包まずにキャビアを載っけただけで頬張れと言う。
頬張ってみた。キャビアである。酒好きにとってマズいわけがない。でも、ダックとともに食べる意味がよく分からない。味のコンビネーションが合うわけでもない。
要は「贅沢感を食べるシロモノ」である。そう考えればフムフムである。味がどうだの食感がどうなのと四の五の言うものではない。
「贅沢なものをサービスした」という事実と「贅沢なものをサービスされた」という事実だけが重要なんだろう。
よく分からない言い方だが、ある意味、その部分こそが贅沢の本質なのかもしれない。気分の問題である。
さてさて、贅沢品だからウマい、大衆品だからウマくないという理屈は成り立たない。ドメスティック男である私としては、キャビアよりスジコやイクラのほうが好きだし、トリュフの味わいも今ひとつピンとこない。
要は、自分にとって嬉しいかどうかが大事であり、嬉しいものであれば、安くたって贅沢品になり得る。
画像に写っている変な色のドリンクはバイスサワーである。高いものではない。でも流通量が多くないから知る人ぞ知る存在。いわば貴重品、ついでにいえばなかなか飲めないという点で贅沢品である。
東京・下町の工場で作られているローカル飲料である。梅と酢をもじって「バイス」と名付けられたもので、梅シソ風味がウリである。焼酎と炭酸で割って出来上がりだ。
ふらっと訪ねた巣鴨の大衆酒場で遭遇した。黒ホッピーが飲みたかったのに用意されておらず、落胆したのも束の間、バイスサワーを発見。さすが巣鴨!である。
怪しげな色のバイスサワーとともに写っているのはイカメンチである。絶品だった。イカの風味がしっかりあって食感も絶妙。ソースとの相性も抜群で、今年食べたものの中でもトップ10に入るぐらいウマかった。
もっと他のツマミも食べまくろうと思ったのだが、私の醬油小皿の上を巨大なチャバネゴキブリがのっしのっしと歩いていたので、そそくさと会計を済ませて店を出てしまった。
チャバネといえば1センチ程度の小物しか見たことがないが、この日出会ったのは体長5~6センチはある大物。おまけにコソコソ動き回るわけでなく、威風堂々と周囲を威圧するように歩いていたので、さすがの私も血の気が引いた。
ある意味、贅沢な体験だったのかもしれない・・・。
書いているだけで茶色く光るアイツを思い出して冷や汗が出てきた。飲食店にゴキ様は付きものだと分かっているのだが、改めて外食中心の自分の食生活を考え直そうかと思った。
キャビアの話から、どうしてチャバネの話に辿りついてしまったのだろう。
今日は贅沢モノとジャンクモノを考察しようと思ったのに、大幅に脱線してしまった。
暑さのせいだと思う。
2015年8月3日月曜日
蝉時雨
今の住まいを選んだ基準の一つが「蝉の鳴き声」である。春頃にアレコレ物件を見て回った時に近隣の緑の多さも一応チェックしていた。
その理由は蝉である。
緑そのものの景色にはさほど興味はない。あくまで緑が多ければ蝉の鳴き声を飽きるほど堪能できると考えたわけだ。
マンションの敷地のすぐ隣に広大な植物園があるせいで、この時期の蝉の大合唱はかなり凄まじい。でもそれが嬉しい。
「うるさい」を漢字で書くと「五月蝿い」である。典型的な当て字だが、ハエよりセミのほうが大迫力だから「八月蝉い」と表記しても良いと思う。
まあ、蝉の音色が好きな私にとっては、近所の蝉の声はちっともうるさく感じない。郷愁を誘う音だと思う。
先日、週末の真っ昼間に植物園の一角からヒグラシの鳴き声が聞こえた。しばらくその一角に佇んで音色に聴き入った。
晩夏の朝か夕方に鳴くイメージが強いヒグラシの音色を意外なタイミングで楽しめたのも「植物園隣接」のおかげである。
自宅最寄りの地下鉄丸ノ内線の駅に向かう道沿いにも公園が整備されているし、その延長には筑波大学が管理する占春園という庭園が続いている。おかげで、蝉の音色を近年になく堪能できている。
田舎暮らしの人には分かってもらえないと思うが、生まれも育ちも都心部だと、単なる蝉の声が「たかが」ではなく「されど」になる。私にとっては一年でもっとも楽しみな風物詩だ。
とくにヒグラシのはかなげな鳴き声は世界で一番美しい音色だ。断言しちゃう。大げさかもしれないが、私にとってはどんなに素晴らしい楽器よりもヒグラシである。
世界遺産にするべき美しい音だと思う。
さてさて、話は変わる。いや、変わらない。蝉の話だ。
「しずけさや 岩にしみ入る 蝉の声」
教科書に載っていた句だ。情感などまるで無かった子どもだったが、たった17文字の中に「夏」の気配が完璧なまでに表現されていて妙に印象に残った。
多くの蝉が一斉に鳴いている様子を現わす「蝉時雨」という言葉も、何気なく使っているが、物凄く美しい日本語だ。
せみしぐれ。音の響きも良い。天から降ってきた音色に包まれるような雰囲気がある。この言葉を聞いただけで、頭の中にさまざまな夏の情景が浮かぶ。
季節ごとの風物詩としては、桜や紅葉のほうが世間的には重用?されているが、蝉時雨も負けていないと思う。
毎年、春になるとお年寄りを中心に「あと何回桜の花を楽しめるだろう」というフレースが飛び交う。
日本人の感性として桜が1年を区切る目印になっている証だが、アマノジャクな私は毎年毎年「あと何年ヒグラシの音色を聴けるだろう」とつぶやいたりする。
蚊取り線香の香りとセットで楽しめれば、まさに日本的情緒の極みだ。実際、多種類の蝉がさまざまな音色を聴かせてくれるのは日本ならではの特徴らしい。
私自身、潜水旅を目的に世界中の夏まっ盛りの場所を旅してきたが、日本の蝉時雨みたいな音色はヨソの国では経験したことがない。
ウィキペディアを見ていたら興味深い記述があったので、一部転用してみる。
~~明治維新の時、日本にやってきたヨーロッパ人はイタリアや南仏などの地中海沿岸地域出身者を除くとセミを知らない者が多く、「なぜ木が鳴くのか」と尋ねた者もいた。現在でも、日本のドラマを欧米に出すとき、夏の場面ではセミの声を消して送る。日本ではいかにも暑い盛りの効果音と感じられるが、あちらでは妙なノイズが乗っていると思われる場合が多い~~。
蝉の存在自体を知らない人がいるなんて驚きである。なんだか気の毒だ。あんな情緒たっぷりの音を知らずに過ごす人生なんてイヤだ。
そう考えると、せっかく身近で鳴きまくっている蝉の声をもっと有難く思わないともったいないのかもしれない。
ちなみに、鳴くのはオスだけである。蝉にしてみれば交尾相手を求めて騒いでいるだけだ。
平たくいえば「誰か~、ヤラせてくれ~!」と叫んでいるだけだが、そういう夢も希望もない解釈をしてはいけない。
頑張れオス蝉。健闘を祈る。











