2015年1月28日水曜日

物欲


ここ数年、意外に物欲がおさまっている。欲しい物はいくらでもあるが、実際に手に入れようと必死になるわけでもない。

先日もサイドレースのアンティークブラウンのイタリア靴に物凄く惹かれたが、なんとなく買わずに済んだ。新しい水中撮影機材も欲しいが、デジカメの進化が早すぎて面倒な気分のほうが勝っている。

「物欲」。人間の煩悩の中でも厄介なものである。でもとても大事な欲求だとも思う。欲しい物を手に入れようとするエネルギーは生きていく上でのモチベーションにつながる。

「人間の物欲はその収入が増すにつれて大きくなる」という言葉がある。可処分所得が大きくなれば、当然欲しい物の価格にも比例する。

サムライジャパンの4番打者・中田翔がランボルギーニを買ったそうだ。入団まもない頃にそこまでの欲求があったとも思えない。何億円もの年俸を手にしたことで生まれた欲求だろう。

私自身、ぐい呑み収集に病的に躍起になった時期がある。全国の窯場を訪ね、頻繁に作家の個展を覗き、ネットオークションまでせっせとチェックする日々だった。

懲り始めた頃に比べれば、収入に応じて年々欲しくなるものが高価になっていった。そして次から次に入手すると価格に対する感覚が麻痺していった。

1万円のぐい呑みなど興味の無い人には理解不能の金額だろう。でも、懲り始めると5万、10万のぐい呑みにも平気で手を出す。

人間国宝クラスの作家モノだと10万円でも買えないから、それなりの逸品を入手するために結構シンドイ思いもした。

そのせいで、可処分所得を増やそうという妙なモチベーションは上昇し続けていた。今は陳列スペースが限られたマンション暮らしになったこともあって異様な執着心はなくなった。

物欲をモチベーションや上昇志向の源として捉えると、物欲が弱まっている今の私はダメダメということになる。陶器類はもちろん、最近は「靴欲」も以前よりは弱まっている。

エネルギーが足りていないのだろうか。それはそれで困った話である。しぼんじゃってもマズいから、もっとギラギラすべきなのだろうか。

もっとも「足るを知る」ことの大切さは、人が穏やかに生きていく上で不可欠である。衣食住に不便のない豊かな国に暮らしているわけだから、その幸せに感謝しないといけない。

とか言いながら、現状肯定路線だけでは進歩はない。「物欲」と「足るを知る」。この二つの真理とどう折り合っていくかが難しい。

世界中の数々の調査では、人間の幸福度は収入よりも社会参加にかかっているというのが定説だ。

収入が増加しても幸福度は大して変わらないのに、人間関係をはじめとする社会性が充実すると幸福度合いは一気に上昇するそうだ。

確かに物欲にはキリがないから、収入が増えてもその収入に応じた欲望はとどまることがない。5億円のマンションを買った人は10億円のマンションを羨ましく感じてしまう。

一方、社会性、すなわち人や集団とのかかわりは、心の充実につながりやすい。

頼られる、助ける、共感される、尊敬される、感謝される、認められる、誉められる、期待される、賞賛される等々、こうした心の欲求がすべて満たされたら確かに物凄く幸福だろう。

位人臣を極めた成功者が、社会貢献活動にせっせと励むのも、結局は莫大な収入を得ることでは味わえない幸福感を求めてのことだろう。

私も社会貢献活動に突然躍起になっちゃうぐらい、莫大な収入を稼ぎたいものである。

なんか話がとっちらかってきた。

物欲の話である。

考えてみれば、私の大きな欲求である「旅行に行きたい欲」も一種の物欲だ。

快適に飛行機に乗って快適にホテルに滞在して非日常の場所に身を置きたいという行為自体が、その時間や空間や権利を「買う」ことだ。形のない「モノ」を手に入れたいという欲求だ。物欲の一種である。

なんだ、そう考えたら物欲が弱まっているどころか、年々強まっちゃって仕方がない。アフリカだって行きたいし、ガラパゴスにも行きたい。国内でも秘湯の宿なんかを攻めてみたいし、際限なく欲求は湧き出てくる。

物欲バリバリである。

結局そうした欲求って、それを実現させるまでの過程や実現が近づいた時の高揚感、その後の満足感が絡み合って豊かな気分につながる。

「心豊かに過ごす」というのは人間にとって最高の状態である。そのためには欲をしっかり持って、それを満たすための努力を惜しまないでいることが大事だ。

そんなモチベーションを高めたまま日々を過ごしていければ幸せだ。

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