「昔話を得意になって語る人は未来をあきらめた人」。テレビか何かで聞いたフレーズだ。確かにそんな側面はあるだろう。今より躍動的だった頃の思い出はいつだって輝いている。私も加齢とともに回顧話をする機会は確実に増えている。
回顧ネタといっても単に今と昔の違いを力説しちゃうのは別に未来をあきらめたウンヌンとは別次元である。イマドキを生きる人々に昔の現実を知らせるのも先人の努めだ。年の功とやらが身に付いたのなら語るべきだろう。
その昔、街中にはズラっと電話ボックスが並んでいてそこには数え切れないほどのピンクチラシがベタベタ貼ってあった。今の若い人は知らない。個人的にはつい最近だったような気もするが、あれはとっくのとうに絶滅したようだ。
思えばずいぶんと世の中が寛容だったのだろう。子供も普通に使う電話ボックスにエロ満載の小型チラシが貼ってあったわけだからたいしたものである。コンプラという言葉も無かった時代ならではだ。
人気ドラマ「不適切にもほどがある」の影響で昭和の世相に改めて注目が集まっている。アナログかつ脳天気だったのは確かだ。パワハラ、セクハラという言葉も無かったし、SNS的全盛の密告社会みたいな窮屈さは感じなかった。
良し悪しは簡単に決められないが、私はあの時代に若者だったせいで個人的には今の時代には息苦しさも感じる。
自転車の信号無視や一時停止違反にも青切符が切られる法改正が実現するそうだ。いやはや統制の嵐はどんな分野も例外ではないようだ。時代の変化をつくづく感じる。
何事にもおいても揚げ足とりや重箱の隅つつきみたいに世間様が人の行動を監視するようになったのが今の時代だ。逆説的に言えばそれだけバカが増えたのだろう。
その昔であれば「いわずもがな」の常識で収まっていたことが通用しなくなり世間からアウンの呼吸も消えてしまい、いちいちルールという名の規制が必要になってきたのかもしれない。
こうした流れが結果的に人々から自分で考えて判断する力を奪い、ひいては「お上は絶対である」みたいな強権国家に繋がっていくような怖さを感じる。お上にとって国民はバカでいてくれるのが最もコントロールしやすいわけだからイマドキの気弱な全体主義みたいな空気はちょっとブキミだ。
なんだか話が大袈裟になってしまった。
今日は私の「教えたがり」について書くつもりだった。回顧話ついでに若い人に昔のことを教えたがるのが歳を取ってきた人の悪いクセである。私もそうだ。
さすがに昔の自分の武勇伝みたいな自慢話にはブレーキをかけるが、事実としての「昔はこうだったんだ」的な事象解説をついつい力説してしまう。
世代がまるで違う相手だから石原裕次郎や美空ひばりの話をしたところでちっとも関心を持たれない。せいぜい「山口百恵は大人っぽかったけど引退したのは21歳の時だった」とか、「カップ焼きそばUFOはもともとピンクレディーの歌とのメディアミックスで売り出された」といった小ネタにフムフムとうなずかれるぐらいである。
ほろ酔いになって「教えたがり」のクセが出てしまうのは食べ物をめぐるウンチクである。寿司や鰻、はたまた関東と関西の違いみたいなテーマを滔々と語ってしまう。面白そうに聞いてもらえることも多いが、おそらく無理やり面白そうな様子を作ってくれているのだろう。
江戸のウンチクも私が語りたがるテーマの一つだ。東京は昔はベネチアみたいに川だらけの水運の街だったとか、参勤交代で単身赴任の男ばかりだったから蕎麦や寿司や天ぷらといった屋台外食産業が賑わったとか、吉原の遊女のウンチクなどを気づけば熱く語ってしまう。
年寄り特有の押し付けがましさではあるが、私の本音は「東京に暮らす以上はそのぐらい知っておけ」である。もちろん聞かされている若い人にも10に1つぐらいは参考になる話もあるだろう。でも大半はきっと「だからどうした?」と思われているかと思うと切ない。
中学や高校の頃、ちっとも先生の話を聞いていなかった私だ。あの頃、まったく聞く気のない生徒に向かって必死に授業をしていた先生たちの気持ちが今になって分かる。反省しても遅いが今なら「先生ごめんなさい」と素直に謝れる気がする。
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