2014年9月24日水曜日

同衾しよう!


最近やたらと耳にする言葉に「女子力」がある。いろんなニュアンスがあるみたいだがよく分からない。

男からもてはやされる能力、女性っぽいセンスを表す力といった意味合いが基本らしい。

いわば、女を捨てちゃった人?以外なら誰もが普通に女子力を発揮しながら生きていることになる。

女らしさ、女っぽさという言葉と同義語なんだろうか。だとしたらそう言ったほうが分かりやすい。よく分からないから何となく耳障りではある。

男が必死に男らしさをアピールする時に「男子力」なる言葉は使わない。「中年になったら男子力を磨かないと枯れちゃう」。こんな感じで使えばいいのだろうか。

そういえば、もう10年以上前に「老人力」という言葉が流行語になった。「〇〇力」の走りだったと思う。

年を取って耳が遠くなるのは、聞きたくないことを聞かずに済ますための能力。物忘れがヒドくなるのは、新しい知識を吸収するための能力。そんな感じ。

すなわち、老人特有の特徴は老人ならではの能力であるというポジティブな考え方である。

私自身、老人の域にはまだまだ早いが、年齢を重ねるに従って気付いたこと、見えてきたものがテンコ盛りである。ちっとも若い頃に戻りたいとは思わない。これって「老人力」に近づいている証だろう。

話を戻す。

「女子力」のようなハヤリ言葉とは別に、ちょっとした言い回しも時代によって変化する。

ここ数年、耳にするのが「違う」という言葉のヘンテコな使い方だ。「違くない?」「違くて」などハチャメチャである。

すっかり一般化しているが、昭和人としてはとても違和感がある。「見れる」「食べれる」などの「ら」抜き言葉とともに、いずれ普通の用法に変わっていくのかもしれない。

「~~じゃね?」という言い回しも気色悪い。「~~ですよね?」「~~だよね?」、「~じゃない?」の意味である。

些細なことだが、いい年したオトナが「じゃね?」を使っていると何となくゾワゾワしちゃうのは私だけだろうか。

何だかんだ言って言葉は生き物だから時代の変遷とともに変わっていくのだろう。エラそうに書いている私の言葉遣いだって、50年前、100年前の正しい日本語からは随分と逸脱しているはずだ。

あまり目くじらを立てても仕方がない。

「目くじら」ってのもスンゴイ言葉だ。調べてみたら「目尻」がなまった表現らしい。

またまた話が逸れた。

言葉のなかには変化ではなく、死滅していくものも多い。電話の際の「ダイヤルを回す」などは、その動作自体が無くなったわけだから復権の可能性はないだろう。

消えていった言葉、消え行く言葉の中には死語にするのが惜しいものもある。

「すかんぴん」や「オケラ」。お金を使い切っちゃって困ってる時の言葉だ。前者は漢字で書くと「素寒貧」である。実にマトを得た文字遣いだ。

「オケラ」の意味を調べてみたら、バッタの仲間のケラという虫を正面から見るとその風貌がバンザイしているように見えるので、スッカラカンでお手上げという意味で使われるようになったらしい。

「富豪」を目指している割には、常にピーピー言っている私には、この二つの言葉は親近感がある。大事にしたい言葉である。

「あ~ら、アーさん、お見限りだわ~」の「お見限りも個人的に好きな言葉だ。見限ると言い切ってしまうとキツい感じだが、少しアレンジすることで何となく情緒が漂う。

「お連れ様」。これも個人的に好きな言葉だ。読んで字の如く、別段何の意味も無さそうだが、シチュエーションによって艶っぽく聞こえる。

温泉旅館の仲居さんは、カップル客が夫婦かどうかを瞬時に見分ける。女性客を「奥様」と呼ぶか「お連れ様」と呼ぶかの分かれ道である。

ギラついたオッサンが連れてきた若くて派手目な女性を「奥様」と呼んじゃう仲居はアホ100点満点である。

そういうチンケな宿に行ってはいけない。

「待合」という言葉もほぼ絶滅したように思う。待合室のことではない。その昔、待合茶屋と言えば、プロの女性を呼んで飲食宴会をする場所のことで、寝具が用意されているのが特徴だった。

大物政治家が利用する格式の高いところから、場末の単なる連れ込みまでその範囲は広かったようだが、要は色事の舞台だったわけだ。

これまた死語になってしまった「しけ込む」とセットで「待合にしけ込む」と言えば、エロ満点の意味になるわけだ。

セックスを意味する「房事」ももはや誰も知らない言葉だ。「同衾(どうきん)」も同じ。このあたりの昔言葉は隠語として復活させたら情緒があっていいかもしれない。

「待合にしけ込んで同衾しようよ~!」。

うん、なかなか素敵だ。今度、実際に誰かに使ってみよう。

通じるわけないか・・・。

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