2014年9月29日月曜日

咳をしてもひとり


愛しの大江麻理子アナが結婚を発表したことは私にとって今年の三大悲劇である(あとの二つは未定だ)。

悔し紛れにお相手(ホンモノの富豪)のブログを覗いて勝手にイラついていたのだが、この方のブログを読んで妙に納得する部分があった。

内容は不確かだが、要は身体のアチコチの機能と同じく、脳も使っていないと退化していく。ブログを毎日書くことでそれなりに脳の活性化につながっているという趣旨の話だった。

確かにそうだと思う。私も日々このブログに雑文を書くことが習慣になっているせいで、少なからず脳は活性化している。

中高年になると仕事脳もどことなく予定調和というか、一種の慣れのせいで硬直化しがちだ。脳が柔軟に働かない。世のオッサンたちの課題はこれに尽きると思う。

私自身、仕事上の課題に関して脳の動きがどうにも面白みに欠ける。斬新さとは縁遠くなっている。

日常の暮らしだってそうだ。特別変化がなければ脳はちっとも回転しない。決まったリズムで決まったことをこなすだけだと、ボケッとしたままで済んでしまう。

このブログ、週に3回だけだが、一応どんなことを書こうか、この話をどうアレンジしようかなどとムダに脳を働かせている。

時には面倒だが、脳を動かすためには続けた方が良さそうだ。

ツイッターは使っていないのだが、あれだって、脳の活性化に良いと思う。なにより「短文」という部分がミソだ。

文章に携わる仕事をしていれば誰でも痛感するのが短文の難しさだ。ダラダラと書けば言いたいことは表現できるが、そこをピシッと短くまとめられるかどうかが頭の良し悪しでもある。

ツイッターで的確につぶやく作業を続けるのも頭の体操としては効果的だろう。

先日、ガラにもなく、とある俳句に感じるところがあって、暇つぶしに著名な俳人の句をあれこれ読みあさる機会があった。

無頼になりきれないくせに無頼なものに憧れるクセがある私としては、山頭火とか尾崎放哉あたりのアバンギャルド系についつい目が行く。

そこで気付いたのだが、あの手の自由な俳句は、俳句という概念を超越した「つぶやき」に他ならないということだ。

季語もない、五七五も関係ない、なんともヘンテコ?な句は、あの時代のツイートだと思う。

「あの雲がおとした雨にぬれている」

山頭火にもこんな普通の小綺麗な?名句があるが、「分け入っても分け入っても青い山」、「つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし」あたりは、ツイッター的な感じだ。

「酔うてこおろぎといっしよに寝ていたよ」。

有名な句の一つだが、こうなると俳句というより単なる「つぶやき」である。

一応、秋を連想させる言葉があるので「自由律俳句」というジャンルなんだろう。

もっと突き抜けちゃったような「ツイート」にこそ山頭火の面白さがある。

「どうしようもない私が歩いている」

「まっすぐな道でさみしい」

これらも代表作?らしい。いやはや物凄い突き抜け感である。一瞬ギョッとするような句だ。

そうは言っても、その短い言葉に閉じ込められた情感みたいなものは読んだ側の人間にストレートに伝わってくる。短文の凄さであり、短文の魅力ともいえる。

「咳をしてもひとり」

尾崎放哉の代表的な句だ。これなんかも完全に「ツイート」だろう。ただのつぶやきにも見える。でも、自由律俳句の名作といわれている。

確かに何度も読み返していると、孤独や寂寥感といった念が漂っていることを感じる。短文の持つド迫力である。

それにしても、こんな切ない感じの俳句に目が行ってしまう自分の心理状態が心配である。

とかいいながら、日々ここで書けないような乱暴狼藉を働いているので、ちっとも切ない状況ではない。単純に男特有の「おセンチぶりっこ」のせいで淋しげな俳句に目が行くのだろう。

実際に最近、グっと来た句は切ない系ではない。いわば、おセンチ系である。


君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ



砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日


石川啄木の句である。啄木といえば貧困の代名詞みたいなイメージだ。でも、貧しさの原因が女遊びだったとか、変態プレイが好きだったとか、実像はダメ人間だったことで知られる。

そういう人物が残した異性を思う句に惹かれてしまうことは私にとって困った問題である。

ちょっと暗示的かもしれない。

気をつけよう。

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