いま、時代のエジキになっているのが福山雅治である。何だかお気の毒だ。私は彼のファンではない。どちらかといえば苦手だ。それでも飲み会を楽しんだだけで「深く反省しております」と言わされる状況が気の毒だと思う。
だいたい「不適切会合」という怪しげな言葉が独り歩きしているのが気持ち悪い。なんじゃそれ?って感じだ。渋々参加するメンバーがいる飲み会はすべてが「不適切会合」に該当するのだろうか。だったら毎日毎晩、日本全国の端から端まで不適切だらけである。
肝心のフジテレビ自体が「福山さんによるハラスメント行為があったという申告は確認していません」と発表している。だったら一体あの騒ぎは何なんだろう。
端的に言えば飲み会で下ネタが飛び交ってそれを不快に感じた人がいたという話だ。ニュースバリューも無ければ世間が騒ぐ必要もない話だ。
下ネタまで糾弾されるような社会になったら暗黒時代の到来だ。それこそ軍国主義の戦時中のような息苦しい世の中になってしまう。エロをおおらかに語ったり表現したりすることは社会が平和であることの一種の証である。大げさなようだがそれって真理だと思う。
だいたい、下ネタ乱発で糾弾されちゃうなら私なんて100回以上起訴されて50回ぐらいは銃殺刑になってしまう。話の内容が不快だったというだけでバッシングされるなら何も下ネタだけを槍玉にあげる必要はないだろう。
先輩や上司の自慢話や知ったかぶりするオッサンのウンチクや疲れたオバサンの愚痴だって、付き合いで聞かされる側は堪ったものではない。下ネタを聞いて不快になるのと不快さはさほど変わらない。
だったらそれらも「不快だ」の一言で糾弾すればいいというヘンテコな理屈も成り立ってしまう気がする。いわば気に入らない会話はすべてクレームの対象ということになりかねない。実に息苦しい世の中だ。
今回の「不適切」をめぐって鬼の首でも取ったかのように騒ぐメディアや一部のSNS愛好家のあさましさというかアホらしさが物凄く気持ち悪い。要するに売れっこの足を引っ張りたいだけ。いわば嫉妬や妬みの類だ。
世の中で話題になる不倫騒動やらトラブルを叩きたがる真理って嫉妬や妬みが根本のエネルギー源である。なんとも淋しい話だと思う。みみっちいというか、チンケというか、哀れな感じすら覚える。
不倫バッシングに励む人に限って、カラオケに行けば不倫を描いたヒット曲を熱唱したり不倫を題材にしたドラマに熱中したりする。要は自分では足を踏み込めない世界でウマくやっている人への嫉妬だ。
自分には真似できないという残念な感情を思いつきの正義感によってゴマかしているようにしか見えない。綺麗ごとや正論を正面から吐くことは一種の安全地帯からの発言だ。恐いものナシで全能感みたいな感覚に酔えちゃう。バカな話だと思う。
なんだか勢い余って強めの書き方になってしまった。不快に思った人がいればスイマセン!
もちろん、不同意性交罪や強制わいせつに該当するような不祥事ならとことん叩かれて当然だし、擁護する気はさらさら無い。それらの犯罪行為とちょっとした脱線行為をゴチャ混ぜにして何でもかんでも叩きたがる風潮がオゾましいと言いたいだけである。
今の世の中、ごく一部の人のクレームをことさら事件かのように扱う面倒くさい空気が支配的だ。昭和の頃がおおらか過ぎたのも事実だが、イマドキの閉そく感は年々強まっているようでブキミですらある。
話は変わるが、先日観たNHKのドキュメント番組でタメ息が出ちゃうような話が紹介されていた。
甲子園に出場している沖縄代表の高校を応援する際、アルプススタンドから「ハイサイおじさん」のメロディーが鳴り響くのがおなじみの光景だ。ところが、一時期あの演奏を中止していたことがあったという。
理由はちょっとしたクレームだ。「ハイサイおじさん」という歌は酒浸りのオジサンを描いているから高校生の応援にふさわしくないというのがその内容。
私には単なるイチャモンにしか思えない。沖縄の応援団の皆様にも逡巡はあったようだが、ある試合のチャンスの場面で思い切って再開、その後は今に至るまですっかりチャンステーマとして定着している。
話がそれてしまったが、今の社会にはびこる息苦しい空気感を思うと、このエピソードはある種の教訓のようにも思える。
話のオチはとくにない。息苦しい社会が続くことがちょっと不安だ。いま必要なのは「おおらかさ」。その一言に尽きると思う。
火野正平や山城新伍が開き直っていた頃が妙に懐かしく感じる今日この頃である。若い人には分からないか…。
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