2008年7月2日水曜日

大物作家の器

器収集のなかでも、私の場合、骨董より現代作家物に興味があるため、知らず知らずに、いわゆる作家モノが集まってきた。

有名作家のなかでも、やはり人間国宝の指定を受けている人の場合、作品の価格も相応に高価になる。とはいえ、人間国宝になったから値が上がるというより、そこにたどり着くまでに既に大家と呼ばれている人しか人間国宝にはならないため、指定されるだいぶ前から既に高額になる。

もちろん、人間国宝の指定の有無に関係なく巨匠は巨匠であり、今年4月に亡くなった陶芸界の巨匠・辻清明氏の作品などは、そこいらの人間国宝作家の作品よりも高額で取引される。

所属団体とか様々な要素も絡むだけに、一概に人間国宝うんぬんで作品を評価するのは意味のない話だ。

最初の写真は唐津の大御所・西岡小十氏の作品。朝鮮唐津という様式のぐい呑みだ。手に持った重さ、掌への収まり、口に運んだときの質感すべてが計算された逸品だ。古唐津探求の第一人者であり、真摯な作陶姿勢で知られる。酒器といえども凛とした空気を醸し出しているからさすがだ。

次の写真は、凛とした風情とは一線を画す沖縄・壺屋焼の巨匠・金城次郎氏の作品。南国らしい大らかなタッチの絵付けが特徴だが、なかでも魚紋の個性には定評がある。金城次郎作品に出てくる魚は表情が優しい。笑っているような魚の表情が実に楽しい。

金城次郎氏は、琉球陶器界で初めて人間国宝になった人だが、いまは、沖縄本島・読谷村で息子さんとお孫さんが現役で作陶を手がけている。昨年、読谷村の工房を訪ねた際、まだ40歳ぐらいのお孫さんにお会いして、いくつか作品を見せてもらった。

代々続く路線を基本的には踏襲しているのだが、微妙に発色や絵付けの勢いに若々しさが感じられて印象的だった。

有名作家物としては、このほかにも練上げという特殊技法で人間国宝指定を受けた松井康成氏の徳利が私の密かなお気に入りだ。
アマノジャクの私は、練上げ手法を用いたカラフルな特徴的な作品ではなく、その技法を極める以前のシンプルな徳利を大事にしている。

無地の器肌にさりげない釉薬の流れがあいまって絶妙な“ワビサビチック”が味わえる。松井氏は、若くして茨城県笠間市内の古刹で住職を務める傍ら、境内に窯を築き、日本の古陶磁器研究に励んだ人。そんな時代の作品と思われる徳利は、いい感じで枯れていて、秋の夜長にひとり酒を楽しむのに丁度いい雰囲気。

続いてこちらも人間国宝の作品。清水卯一氏のぐい呑みだが、鉄釉の第一人者らしい微妙な釉薬の変化が素晴らしい逸品。上品な白い色合いの釉薬が優しく波を打ち、全体にふくよかなボリューム感を与えている。

実はこのぐい呑み。私が持っているぐい呑みの中で最も高価。大卒初任給より高い。個人的な記念に一念発起して購入。そんないきさつもあって今でも何かしらのお祝いの時にしか使わない。

そういえば、最近は何も祝うことがないので使っていない。

小さなこだわりだが、祝いの席や悲しいとき、それ以外にも正月とか、冬用、夏用など用途に応じて器を使い分けると結構楽しい。食器でそれを実践するのは何かと大変だが、酒器ならさほど難しくない。

酒を呑む行為にちょっとした演出を加えるだけで、一層味わいが増すのだから、酒器道楽は飽きずに楽しめる趣味だと思う。

さて、大物作家物の器は、これ以外にもアレコレ持っている。九谷焼の人間国宝・徳田八十吉氏の盃や花入れ、備前の人間国宝・伊勢崎淳氏の壺、白磁の人間国宝・井上萬二氏の壺など価格の関係で、巨大なものは買えないが、ちょろちょろ色々なものがある。

青磁の第一人者・川瀬忍氏の盃も私のプチ自慢の一品。ただ、あまりに精緻かつ薄いデリケートな作風ゆえに、眺めているだけで使ったことはない。「使ってこそ器」と考えている私にとっては、持て余し気味の一品だ。

ところで、最近は器好きの知人を家に呼ばなくなった。以前、備前の人間国宝・藤原啓氏の徳利を酔いにまかせて知人にあげてしまったことが原因。何年も経っているのにいまだ後悔は進行中。間抜けである。

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