2011年7月27日水曜日

銀座 男と女


銀座でクラブ活動を漫然と続けてもう何年になるだろうか。まったく行かなかった時期も含めれば、通算で15年以上にはなる。

何がしたいのだろう。。。

さすがに時々懲りない自分を不思議に思う。

若い頃、ひょんなことで出かけた某有名クラブで自分の小僧ぶりを痛感した。背伸びしたい感覚や太刀打ちできそうにない雰囲気に呑まれたことで、逆に興味が強くなっていった。

基本的にMなんだろう。「勝てない感じ」、「やりこめられちゃう感じ」が好きで、なんとなく身を置いてきた。

実際に、やりこめられたり、騙されたこともあるし、お口あんぐりな事態になったこともある。

なのになぜ非生産的にも思える活動を休止しないのか我ながら不思議だ。


理由はさまざまだが、あの街に漂う気の張った空気が心地良いのかもしれない。「粋と野暮と張り」という概念における「張り」だ。

ついでに言えば、働く人達のドラマとか矜持にも惹かれているのだろう。

女性だけの話ではない。たとえば銀座の黒服を高い志で続けている男性も魅力的だ。浪漫がある。

今の世の中、何かと浪漫が足りないから殺伐としている。そんなシラけた空気が蔓延するなかで、浪漫を感じさせる人は見ていて気持ちがいい。

浪漫などというと、青臭いとか、バカっぽいイメージがあるが、人として生きていく以上、浪漫が無くなったらダメだ。一気に魅力は乏しくなる。

先日は、満を持してオープンした7丁目の新店で思わぬプレゼントをもらった。

長く付き合いのある黒服さんからなのだが、彼はその店でいよいよ黒服トップのポジションになった。開店準備で、寒いころから忙しく奮闘していた話は聞いてきたのだが、その合間をぬって私のために粋なはからい。

銀座に限ってはオールドパーしか飲まない私のために、特殊なボトルを用意してくれていた。ボトルの前面部分ガすべてオリジナルにデザインされており、中央に私の名前が金箔の江戸文字で刻印されている。

そんな手配は面倒なことだろうが、あえて、そういう気配りをしてくれた。

ホステスさんじゃないから、彼にとって私の飲み代は彼の実績云々というわけではない。そんな一人の客にニクい気配りをしてくれたわけだ。

浪漫のある話だと思う。

あの世界で働く人たちに対して、水商売だ、夜の仕事だと色眼鏡で見る向きもある。それも世間の現実だ。そうはいっても短絡的にあの世界のすべてを決めつけるのもどうかと思う。

すっかりいっぱしの中年となった今だから、そんな風に思えるようになった。男女を問わず、あの世界で働く個々の人達に接してみると魅力的な人物は少なくない。

純粋で人間くさくて、人情味もあって、時に教えられることも多い。霞ヶ関あたりでエリート然としてふんぞり返っている御仁や、チンケな自己保身ばかり考えているホワイトカラー連中なんかより余程魅力的だったりする。

浅草の踊り子を愛した永井荷風や、モンマルトルの盛り場を寝城にしたロートレックを気取るわけではないが、夜の街に集う人々の魅力には独特な趣がある。

刹那を生きる感覚とでも言おうか。簡単に言えば、人間本来のむき出しになった「素」に近い場面で、日々、丁々発止の時間を過ごしている感性が独特なんだろう。

平々凡々で大過なく無難に生きていることが良しとされる通俗的な常識から見れば、理解できない部分も多々ある。でも、逆にそれが異界のまぶしさにつながる。

まあ、あまり誉め過ぎるのも私の性に合わない。悪いヤツもいっぱい生息しているのも確かだ。そうそう良い話ばかりではない。悪いヤツは悪い。汚いヤツも大勢いる。

まあ、それはどんな世界、どんな組織でも似たり寄ったりだろう。

そんな人間臭さも自分に害が及ばない限りは見聞きしても楽しんでいられる。


いまどきのキャバクラとかガールズバーは私の感覚だと、「平成的なもの」に映る。それに対して、銀座のクラブには「昭和の香り」が色濃く残っているように思う。

昭和が終わる頃に大人になった私だ。だから自分が生粋の昭和人なのかどうか分からない。

ただ、少なくとも私が憧れたのは昭和の時代にエネルギッシュに前向きに生きていた大人達だった。

そんな大人達が舞台にしていたのが銀座の酒場だったわけだ。いまだに背伸びした感じや太刀打ちできない感じに惹かれるヤサ男である私は、気付けば7丁目や8丁目界隈をほっつき歩いている。

今年の春の話だが、私自身の身内がその昔通っていた店に連れて行かれた。昭和レトロな雰囲気が漂う銀座の雑居ビルの地下にその店はあった。

20年前に亡くなったその身内とは訳あって縁遠かったのだが、年老いたマスターがしきりに往事の思い出話に花を咲かせる。いろんなエピソードを聞かせてもらった。

そういえば、死んだ祖父が若かりし頃、ゴシップ誌にあること無いこと書かれたことがあったらしいが、その舞台も銀座だったそうだ。

そんな物語性もあの街の魅力なんだろう。

人生自体がドラマみたいなもの。平々凡々としたドラマを色彩豊かに演出するには、あの街で生まれる物語はなかなか魅力的な調味料になる。

浪花節あり、愛欲モノあり、出世物語やサスペンスやSFチックな話、はたまた変態小説とか復讐劇といったジャンルもある。もちろん、純愛ストーリーだって珍しくない。

私にだって今まで少しぐらいは銀座を舞台にした「物語」はあった。だいたいは喜劇だ。あとはショートショートがいくつかあったぐらいか。

今後は「スペクタクル巨編」の主人公になりたい。頑張らねば。

ワイのワイの楽しく飲んでいるだけの私ではあるが、それなりに人間ウォッチングに励むこともある。銀座で飲んでいる男達の顔を見るのは結構楽しい。

気のせいか、最近は不機嫌そうに飲んでいるオジサンが多い。反面教師にしないとなるまい。スマートに、そして粋、意気を大事に闊歩していたいものだ。

不機嫌な客の他には「寝てるオジサン」を目撃することも昔より多くなった。そんな時代なんだろうか。

ある店のホステスさんから聞いた話。

「あの人、いつもあそこの席で寝てる」。

ある意味、達人だろう。結構立派な身なりの紳士だ。その店の隅っこの他の客の目線が届きにくいポジションが指定席。気持ちよさそうに熟睡。あの場所で寝るのがオジサンにとっての幸せなのだろうか。でも、それもそれで物語があるんだと思う。

いつか私もそういう境地に達してみたい。
格好付けてスカして座っているようでは、まだまだ駆け出し?なのかもしれない。

そういえば、時たま寝ているホステスさんも目撃する。それもそれでファンキーモンキーベイビーみたいな話だ。


話を戻す。時々面白く感じるのはあの街の酒場で遭遇する多種多様な「眼」だ。

「刹那」とか「むき出しの素」が飛び交う世界だから、「眼の表情」がそれこそ品評会のように揃っている。

「嘘つきの眼」、「計算高い眼」、「億劫な眼」、「蔑みの眼」、「好意の眼」、「情熱的な眼」、「感謝の眼」、「色情的な眼」、「惚れてる眼」、「連帯の眼」、「不安定な眼」、「冷酷な眼」、「憧れの眼」、、、、。

例えを挙げればキリがない。

客側の眼、迎える側の眼それぞれの立場で複雑にありとあらゆる眼線が絡み合う。

「眼は口ほどにものを言う」の例え通り、飛び交う視線の先には人間の業を映した様々な心の動きが渦巻いている。

実際に口にしている言葉とは無関係な葛藤が眼の表情によって見え隠れする。なかなか興味深い。

私に向けられるのは、どんな種類の眼線なのだろうか。時々、面白おかしく勝手に解釈して楽しんでいる。

「あっ、あのコ、惚れてる眼でオレを見た」。

お気楽なもんだ。アホ丸出しではある。大体、というか、ほぼ100%希望的観測で相手の眼を解釈して喜んでいる。

性格がラテン系なんだろうか。

正直、色情的眼線を向けてもらうのが一番嬉しいのだが、なかなかそういう眼線には出会わない。

そんなもんだろう。

0 件のコメント: