2011年8月31日水曜日

人生後半戦

酒も煙草も遊びもやらず、それで百まで生きる馬鹿。

私の好きな「格言」だ。

言い得て妙だと思う。人生の楽しみを捨てて長生きしても仕方がないように思う。

好きなように生きて適度なタイミングで寿命を迎えるのが一番だ。もっとも、適度というのが何歳ぐらいなのか、これが難しい。

若いつもりでいたのだが、私だって、どう逆立ちしたって人生の折り返し地点はとっくに突破している。男性の平均寿命まで頑張れたところで、あと30年ちょっとだ。

30年前を思い返すと、今に至るまでの30年なんて、割とあっという間だった気がするから、残り時間は案外少ないのかもしれない。

色々な意味で現役でバリバリ行動できる時間となると、あとどれぐらいだろうか。結構やばいかもしれない。10年か15年か、せいぜい20年ちょっとか。

じゃあ何をすべきだろうか。聖人君子のように生きることでは無い。これだけは確かだ。かといって、好き勝手といっても限度がある。どうしたもんだろう。

古今東西、男のDNAには「放浪したい」という感覚がある。現代社会の制約の中で、そんな願望にすら気付かずにいる人は多いが、間違いなくそういう感覚はある。

山頭火みたいに汚らしくボロボロになって放浪するのはイヤだが、寅さんみたいにブラブラできたら最高だろう。

寅さん映画があれだけの人気を得たのも、元を正せば誰もが憧れる放浪への思いが背景にある。暑くなったら北へ、寒くなったら南へ。

それで日々、恋が出来たらなんて素敵なことだろう。

永井荷風とか壇一雄あたりの無頼を真似したくなるのも男の憧れだろう。破天荒というよりも自分自身に正直ゆえの型破りだったんだと思う。貫ければ幸せだ。

吉行淳之介みたいに愛憎劇を一生続けるエネルギーも凄いと思う。正妻と内縁の妻以外にも、30年近くにわたって愛した人がいたという逸話は、彼の死後に公になった。いい悪いという次元ではなく、素直に尊敬に値する。

さてさて、凡人の極みである私は、放浪も無頼もいまだ夢想の中の話でしかない。それでも、自分の心に正直に信じる道を突き進みたいといつも思っている。

根拠に乏しい漠然と通説化しているだけの常識という枠のせいで変な妥協はしたくない。だから時には息苦しいこともある。それでも光明は必ず見つかると信じて行動するしかない。

なんか、表現が固くなってきたので軌道修正しよう。

冒頭で書いた「酒や煙草にも無縁で長生きしたってしょうがねえ」という話だが、そうはいっても、最近、タバコをやめようとしている自分がいる。これって情けないことなんだろうか。ちょっと悩む。

咳や痰が最近かなり気になる水準になってきた。近いうちに肺のCT検査も受ける予定だが、そろそろ煙草からは完全引退しようかと思っている。

30代後半に禁煙に成功して4年近く吸わなかった経験がある。あの時の便利さが懐かしい。店選びにも困らないし、電車や飛行機だって快適。なにより、ライターが見当たらないとか、タバコがきれたとか、そういう面倒から解放されたことが大きかった。

禁煙の目的は、あくまで「不便だから」ということにしておきたい。健康のためとかいうと、少し情けない感じがする。

まあ、そんなことで格好付けても仕方がない。せめて「もっと子孫を残したいから健康に気をつける」ぐらい大きく出たほうが潔いかも知れない。

子どもは二人いるのだが、許されるものなら自分の生きた証しとして10人ぐらいこの世に残していくのもカッチョ良いかもしれない。現実の社会生活の中では不可能だが、時にはそんな荒唐無稽なことも頭をよぎる。

無責任だのワガママだの、そういう批判は当然だろう。でも案外、それをやっちゃったもん勝ちってことだってある。

これからでも何とか企んでみようか。それとも、私の知らないどこかで既に存在していたらそれはそれで面白い。面白いとか言っちゃ不謹慎だろうか。いや、そのぐらい悠然と構える人になりたい。

最近はつくづく社会秩序というシロモノを作り上げてきた先人達の知恵に恐れおののいている。自分が悶々としているすべての根源は社会秩序という名の制約であり、しょせんはそんな殻を破れない凡人である自分がイヤになる。

せいぜい、社会秩序の中で新しい形、新しいスタイルを模索しようと思う。秩序の破壊ではなく、秩序の中での革命を実現したいものだ。

うーん、今日はどうも話が重いというか、うっとおしい。鬱っぽい。季節の変わり目だからだろうか。そういえば最近、やけに季節の移り変わりに敏感になっている。先が長くないのだろうか。困ったものだ。

いま考えていることの一つが、「素の自分の反芻と分析と自己表現」をどうやって手掛けようかということ。

日記でもシコシコ書こうかと思ったが、あそこまでアナログなものだと、あとあとどこかから発見されてもマズい。

明治の粋人は、家族に読ませないために漢文で日記を残したという話もある。カッチョいい。残念ながら私にはそんな教養はない。

せいぜい秘密のサイトを作って、すべての思いや考え、行動の裏表を日記形式で記録してみようか。書くという行為がもたらす自己分析はなかなか侮れないもので、冷静に自分と向き合うにも有効だ。

真剣に考えてみよう。

今日は何を書きたかったんだろう。8月最後の日、おセンチ?な気分になってしまった。

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