2014年3月17日月曜日

SとかМとか


時々、自分がSなのかMなのか分からなくなる。

なんだか凄い書き出しである。

性的嗜好の話ではない。性格的、精神的な傾向の話である。攻めて喜ぶのか、攻められて喜ぶのか。自分の中ではどっちの要素も備わっている。

先日、タクシーの運転手相手にぶち切れてしまった時は、ドSに変身した。タクシー営業所の責任者らしきオッサンを車内の無線越しに呼び出し、延々と説教をかましてしまった。

別な日は、眠くてしょうがないのに、銀座の某店でなかなか帰してもらえず、結局、最後まで居残りさせられ、あげくの果てには大勢でカラオケに向かい、深夜まで弾けていた。

あの夜、女性達からリクエストされた歌を必死に独唱しながら、それを聴きもしないでガツガツ食事する女性達を横目で眺めていた自分は、まさにドMである。

ずっとS男だと思って生きてきたが、30代の半ば頃だったか、自分の中に潜むM的要素に気付いた。

麻布狸穴町のアルファ・インのせいである。いやいや、それは半分?冗談である。

思い返せば、20代そこそこの頃に恋人でもない年上のオネエサマがたから身勝手にコキ使われたことがあった。あの時の変な喜びは自分の秘やかなM性が理由だろう。

深夜に部屋の模様替えを手伝わされたり、ヤケ酒に付き合わされたり、結構メンドーな要求が多かったが、なんだかんだと働いた。

あーだのこーだの言っても、結構若い頃からMっぽい部分があったのかもしれない。

でも、M性が強いなら、元嫁にも耐えられたはずだが、さすがに無理だった。しっかりSの部分を駆使して導いた結論が今の状況だ。

おっと、話が逸れた。

さて、SだのMだのを考える場合、攻める、攻められるというより、支配する、支配されるというイメージで捉えると話が分かりやすい。

支配される窮屈さを心地よく感じてしまう時がある。不思議な感覚である。

忙しいスケジュールの中に、自分をもっと追い込む予定を追加する時の高揚感などは働き盛りの社会人なら理解できるはずだ。

疲れがピークに達していてもナゼか帰宅せずに記憶が薄らぐほど酩酊してしまうのも、どこか得体の知れない力に支配されている感覚だ。

好きな人が出来て、その人から面倒くさい約束をさせられたり、行動に制約やイチャモンを付けられてもチョッピリ嬉しく思うのも「窮屈な快感」といえる。

ついでに言えば、窮屈な快感を遵守するフリをしながら、内緒で好き勝手なことをしちゃうこともある。これもひょっとするとM性ならではの行動原理かもしれない。

高校生の頃、隠れてタバコを吸う時のスリルとか、オトナになって平和な家庭人を演じている裏側で、コッソリ浮気しちゃう感覚も同じだろう。

「ダメなことをしてしまう快感」。これって、支配されている立場だからこそ生まれる喜びだと思う。

すべてが自由だとハチャメチャに遊んでいても何となく面白みがない。不思議である。

そう考えると、身勝手に自己中心的に生きている人は、こうした喜びというかヘンテコな快感を知る機会が少ないのだろうか。

何かを気にして、何かに制約されている感覚が強い人ほど、コッソリ味わう禁断の蜜の味を楽しめるのかもしれない。

最近、束縛や制約のない環境で野放図に暮らしている私は、いわば糸の切れた凧みたいなものだ。

「秘やかな楽しみ」などとは縁がなくなった。そのせいか、「禁断の味」を求めて頑張ろうとしない多くの男達を歯がゆく感じる。

コッソリ楽しむ蜜の味こそ、人生の醍醐味なのに、安全地帯で牙を抜いて昼寝をしていてはイカンと思う。

大きなお世話だと思うが・・・。

今日は話がちっともまとまらない。慢性的な寝不足のせいだろうか。

SとかMの話をアカデミック?に書こうと思ったわけではなく、知り合いに聞いた変態性癖の話が頭に残って、ついつい適当なことを書き始めてしまった。

その変態性癖とは、「眼球を舐めたがる男」という怪奇映画のような内容だ。

♪キッスは目にして♪みたいな爽やかな話だと思って聞き流そうとしたのだが、閉じたマブタにチュっ!という次元ではない。もっとエグい。

無理矢理マブタをこじ開けて眼球そのものを舐めることに喜びを感じる男がいるらしい。

凄いことである。どういう深層心理がそんな行動に走らせるのだろう。

そりゃあ、愛しい人のことを舐め回したくなる気持ちは分かる。たいていの「部分・部位」はOKである。

でも、眼球までターゲットにする発想は奇々怪々である。

それはそれとして、眼球を舐められる側の女性も相当ヘンテコだと思う。

よく考えれば、拒否して抵抗すれば逃げ切れるはずだ。眼球ぐらい守れる。きっと少しは「協力的な要素」があったはずである。

本物のMじゃなきゃ、そんな体験をするはずはない。

眼球を舐めようとする男と舐めさせる女。

想像してみると衝撃的な光景である。

ということで、結局私は、相も変わらず、人様の「過去話」を聞いて興奮する「過去フェチ」の本領を発揮して、一人悶々と空想の世界で遊ぶはめになった。

春である。


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