2018年12月14日金曜日

後部座席で思う


クルマを運転するようになって30ウン年。動体視力も弱くなり、近眼だか老眼だかのせいでハンドルを握るときは必ずメガネをかけるようになった。

若い頃はびゅんびゅんぶっ飛ばして長時間運転しても疲れなかったが、最近はすぐに疲れる。

近場の箱根熱海あたりでもクルマではなく電車を選びたくなる。これも劣化だと思うと切ない。


時々、ガラにもなく会社の運転手さんにまかせて後部座席に座る。その昔、運転手さん付きで移動するなんてジイサン特有の行動パターンだと思っていたが、50も過ぎればそんな場面もある。

道を細かく指示することのなくボケっと座っていれば目的地や自宅に着くわけだから実に有難い。

送り迎えの際、どこかの店の真ん前で降りたり乗ったりするのは何となく小っ恥ずかしいので、ちょっと離れた所で乗り降りするようにしている。私は変なところで小心者だ。

ついでにいえば、ランデブー?みたいな場面では、さすがに運転手さん付きで動くことはない。待機してもらっていても、そんな事態になれば、合流せずにそのまま帰ってもらう。

後部座席での私の甘いささやきを聞かせるわけにもいかない。当然といえば当然だ。まあ、そんな嬉しいアクシデントは100年に一度ぐらいしかないが・・・。

女性絡みとは別に運転手さんでの移動となると何かと制約はある。好きな音楽を爆音でならしたり、大声で歌ったり、はたまたタバコを吸いまくるわけにはいかない。長時間だと少しだけ窮屈である。

クルマの中は密室であり、サイズの面からもおこもり感がある。家庭人の頃は、家に帰りたくなくて、一人あてもなくクルマを飛ばして閉ざされた完全個室でノンビリ過ごすことがあった。

夜の首都高をホゲホゲと流し、川崎あたりの工場群の夜景に非現実感を味わい、レインボーブリッジからの夜景に心躍らせて束の間の息抜きを楽しんだ。

あの頃感じたどこかに逃避行したいような感覚は今はない。気ままな独り者生活だから、あてもなくクルマを走らせる機会は減った。


鬱屈した時間を過ごしていたあの頃より、ひとりドライブが減った分、運転手さんとネオン街に繰り出す機会は増えた。なんだかなあって感じである。

会社の運転手さんは勝手知ったる相手だし、運転自体もスムーズだから何かと助かる。それに比べてタクシーの場合は結構ビックリする運転手さんに遭遇することが多い。

運転も上手で道を熟知している運転手さんに出会うとトクした気分になる。その一方で逆のパターンに当たると、同じ料金を払うのが納得できない気分になる。

プロである以上、最低限のレベルは維持して欲しいものだが、今の時代それも理想論のようだ。日本橋から銀座への行き方を尋ねてきた運転手もいる。あんまりだと思う。

道を知らないだけならまだしも、やたらと激しくブレーキを踏む、細い路地をビュンビュン飛ばす、人の迷惑を顧みず延々と話しかける、社内が臭い等々、ダメなパターンもいろいろだ。中でも困っちゃうのが「オジイサン」である。

もちろん、お年寄りでもスムーズに運転する人はいるが、ヨレヨレした感じでヨボヨボ運転するオジイサンタクシーにあたるとさすがに怖い。


速攻でシートベルトを締め、ウトウトするのもやめて、スマホなどには目もくれず、ただオジイサンの運転に注意を払う。突然意識を失われても困っちゃうので姿勢を正して様子をうかがう。

夜の遅い時間だと首都高を使うことも多いのだが、合流のたびにハラハラする。私が気にし過ぎなのかもしれないが、そんなタクシーに出会うことが確実に増えた気がする。

超高齢社会を変なところで体感しているわけだ。社会の高齢化はまだまだ進む。ヨレヨレタクシ-はまだまだ増えるはずだ。

自動運転が普及するまで結構かかりそうだから、まさに、今そこにある危機と言っても大げさではないかもしれない。

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