2016年9月16日金曜日

一盗二婢三妾四妓五妻


「どんなコが好みなの?」「どんな人がタイプですか?」。老若男女問わず、誰もが何度も聞かれたことがあると思う。

誰だってブサイクより美形が好きだし、恐い人より優しい人が好きである。カタブツよりエッチな人のほうがステキである(これは違うか)。

好みやタイプなど、考えてみれば不毛な質問である。にもかかわらず、たいていの人は聞かれればアレコレ答える。

私も若い頃は具体的にアーだのコーだのと答えていたが、今では「好みなんてありません」と大真面目に答える。

誰でもいいと言いたいわけではない。あくまで自分が恋に落ちる人が好みだ。それが現実だろう。髪が長かろうが短かろうが、巨乳だろうが微乳だろうが、そんなことを気にする余裕?などない。

内面に関してもちょっと付き合ったところで分かるものではない。それこそ ♪性格なんてものは僕の頭の中で勝手に作り上げりゃあいい♪(斉藤和義「君の顔が好きだ」より)である。 


中高年オヤジの間で奇跡の47歳と呼ばれているのが「森高千里」である。人妻である。主婦である。

人妻であり主婦だから、世のオッサン連中は「ウチの嫁とは大違いだ」「ウチの嫁にも見習って欲しい」などと語りたがる。

でも、そんなことを言うと世のオバサン連中からは「だったらアンタは江口洋介なのか?」という痛烈な真理を突きつけられる。

まったくその通りである。50歳を過ぎてあんなカッチョいい夫など滅多に存在しない。

「好み」や「タイプ」をとくとくと語るのも似たようなものだろう。「森高・江口理論」に当てはめれば、「エラそうに語っているけどテメーはどうなんだい!」という話になる。

とくに中高年男性は自分のことを棚に上げて理想論を振りかざしやすい。ヒキガエルみたいなオヤジやゲジゲジみたいなオッサンも「好みの女性」をグヘグヘと論じる。

あれはヤメたほうがいいと思う。まあ、私の場合も好みやタイプを語らないのは、エラそうなことをホザいて世の女性達から逆襲を食らうのが恐いからである。

さて、自分を棚にあげてエラそうに語る男達の世界には、女性をめぐるゲスな格言?が存在する。

「一盗二婢三妾四妓五妻」。

「いっとう、にひ、さんしょう、しぎ、ごさい」と読む。何かのオマジナイみたいだが、要はエロティックな関係を想定した場合の「男が燃える順番」である。

ちなみにネット上で見つけたこの言葉の英訳が妙に笑えるのでついでに載せておく。

Most thrilling relationships for a man (another man's wife、a maidservant、a mistress、a prostitute、and finally his own wife)

なかなか分かりやすい。「スリリング・リレーションシップ」という表現にウケてしまった。

”and finally his own wife” も英語的?である。「そして最後が」とわざわざ強調されているみたいで面白い。

要は「人妻や誰かの恋人」「使用人やお手伝いさん」「オメカケさんや愛人」「プロの女性、商売女」「自分の妻」という順番だ。

いやはや、最下位扱いの世の奥サマ達からぶっ飛ばされそうな言葉である。

いや、待てよ。奥サマ達は自分の旦那以外の男からは一番人気である。捨てたもんじゃないわけだ。

この言葉自体、使われている漢字から見て大昔のお大尽さんが言いだした言葉だろう。住み込みの女中やメカケが珍しくなかった時代の戯れ言である。

あくまで明治大正あたりの成金オヤジ的女性観であって、今の時代だとピンとこない部分もある。

だいたい、女中さんを例にとっても、現在では行儀見習いを兼ねて若い女性が住み込みで働くようなことはないから、シチュエーションとして成立しない。

プロの女性も時代とともに変わってきた。普通の女性、一般の女性といってもその実態は実に曖昧。プロか否かの線引きは今や男が思っている以上にテキトーになっているのが現実だ。

人妻にしても積極的に浮気に励む人々も結構いるから昔の人がイメージした貞淑な人妻とはちょっと違う。まあ、大多数の人妻は真面目だろうからそう決めつけちゃうのも良くない。

でも、今の時代、人妻との秘密の関係がバレたら相手の旦那から慰謝料請求をされるリスクもある。

人妻ではなく、誰かの恋人を寝取っちゃうのは確かに「萌え萌え」かもしれないが、それをネタに小賢しいヤツらからツツモタセみたいにユスられるリスクもある。

まあ、それはそれである意味”スリリング”だから、やはり「盗」に関しては今の時代も第一位なんだろうか。

2016年9月14日水曜日

「終わった人」 


スマホやパソコンをいじった後には寝つきが悪くなるそうだ。電気の光をずっと見ているから脳が休まらないらしい。

というわけで、寝る前には活字が一番である。ベッドに入って本を開く時は何となくワクワクする。1日の終わりに脳を別の世界に解放するような気分になる。

抜群に面白い本だと脳が活性化しちゃって眠気がちっともやってこない。適度に面白いぐらいがちょうどいい。

先週、久しぶりに抜群に面白い本を読んだ。長編だったので毎晩の晩酌のように少しずつ読もうと思っていたのだが、面白すぎて一晩で一気に読んでしまった。


脚本家として有名な内館牧子さんの「終わった人」という小説がそれ。面白いという表現より「身につまされる」「納得する」といった感覚だろうか。

主人公は60代前半の男。エリート銀行マンだったが、不運の出向転籍を経て定年退職した後の物語だ。

これから読む人のためにストーリーは詳しく書かないが、中高年の心の動き、閉塞感、飢餓感、あきらめ、抵抗心なんかがモノの見事に描写されていた。

軽妙なタッチで書かれているので重苦しい作品ではないのだが、中高年男にとっては細かな心理描写がとことん身につまされる。

「終わった人」というタイトル自体が深い。今の世の中、60代でも若々しく活躍している人は多い。「館ひろし」なんか66歳である。


とはいえ、会社勤めを唯一の世界観とするサラリーマン社会では「定年イコール終わった人」である。

「館ひろし」より若いのに、人として「終わった」というレッテルを貼られたら、そりゃあ様々な問題も起きる。

この本では、定年退職して手持ちぶさたになった主人公が、世間に浸透している画一的で決めつけたかのようなジジババ扱いに強い違和感を持っていることが随所に描かれる。

若者が理由もなく世の中に反抗する姿勢と似ているかもしれない。尾崎豊の「僕が僕であるために」の中高年版みたいな感じである。

50歳を過ぎたばかりの私でも主人公の心の動きが痛いほど分かった。大いに共感する一方、時に痛々しく感じる部分もあり、読み進むうちにハラハラしたり息苦しくなったり、まったく飽きずに読み終えた。

中年以上の人にとってはバイブルになってもおかしくない内容だと思う。

さきほども少し書いたが、これからの高齢化社会は「中高年の反抗」が大きなムーブメントになるような気がする。

昭和と今とを比べれば年齢に対する感覚は随分と変わってきた。若々しくなったのか幼稚化したのかは分からないが、どっちにしても大きく変わった。

昭和の頃は66歳で「館ひろし」みたいな人は世の中に存在していなかった。

ちなみに私が「館ひろし」ばかり引き合いに出すのは彼に恨み?があるからである。
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/06/blog-post_03.html

今も時々「館ひろし」を銀座の酒場で見かけるが相変わらずカッチョいい。ダンディーオーラを振りまいている。あの年齢であの雰囲気をキープするのもきっと大変だと思う。

話がそれてしまった。

確かに昭和の頃は60歳も過ぎれば「ご隠居さん」みたいなイメージがあった。ギラギラした感じなどとはまったく無縁で、まさに「終わった人」だと思われていた。

サザエさんの父親である波平の年齢設定をご存じだろうか。54歳である。「柳沢慎吾」と同じ年である。「佐藤浩市」より年下である。

妻フネにいたっては48歳だ。「鈴木京香」と同じ年である。「小泉今日子」より年下である。

そのぐらい年齢の感覚は時代と共に変化している。にもかかわらず今も社会の空気は60歳を過ぎた程度で男達を「終わった人」として扱う。

そして、終わったつもりはないのに終了宣告された男達は、やれカルチャースクールに通え、陶芸を始めろ、朝からジムに行け、ボランティアに励め等々、紋切り型の生き方こそ年寄りの生き甲斐みたいな風潮にさらされる。

もちろん、そういう活動に邁進したい人はどんどん励めば良いが、そうじゃない人も相当いるはずだ。

高齢化が益々進むことで「年寄りは誰もが無条件にこうあるべき」みたいな押しつけを嫌う人も増加するだろう。

かといって、どうしていいか分からないジレンマに陥って悶々とする年寄りもワンサカ増えるような気がする。

ヘンテコな想像だが、行き着く先は「不良老人」だろう。世間への反発がツッパリやヤンキーやらの不良少年を生むのと同じ構図である。

その昔、イカれた格好でブイブイ騒いでいた暴走族は今の60代ぐらいの世代が10代の頃に生み出したものだ。

リーゼントは毛量の関係で無理でも、ソリ込みは自然に入っているし、ボンタンズボンに身をまとい、昔のツッパリ達が愛用した変なサングラスをかけて「ナメんなよ!」と大真面目に叫ぶジイサンが街を闊歩する日も近いような気がする。

リーダーはもちろん「館ひろし」で決まりだ。

2016年9月12日月曜日

プチ常連の店


外食する機会は多いが、顔なじみの店ばかりに行くのも面白くない。たまには新規開拓したくなる。

付き合いでの会食なら初めて訪ねる店に行くことも多いが、仕事の話が絡めばノンビリ過ごす気分にならない。

居心地の良さそうな店でも、連れて行ってくれた人がその店の常連だと何となく再訪する気にはならない。

で、おそるおそる一人フラフラと新規開拓に挑むのだが、ハズしちゃった時のショックが大きいので、昔ほどマメに探検できなくなった。

積極的に新規開拓しなくなったのは、億劫になったからだけでなく、居心地の良い店がいくつかあることも影響している。

月に2度3度通うような店もある一方で、数ヶ月に一度ぐらいの頻度でふらっと訪ねる店もいくつかある。今日はそんな「プチ常連」みたいな店の話。

その手の店に行くときはたいてい一人だ。止まり木感覚である。口数少なくノンビリしたい時が多い。

初訪問の店だと落ち着かないし、ヘビーローテーション?で通っている店だと何となく無駄話に花を咲かせてしまう。

プチ常連の店はしっぽり飲みたい時に最適である。しっぽりなどと言うと聞こえがいいが、要するにグデ~と放心状態でいたい時に使い勝手が良い。


この写真は銀座のおでん屋「おぐ羅」。抜群にうまいサンマの塩焼きで一献という至福の時間である。

もう随分前の話だが、こういう店でシッポリ飲むような中年男になりたいと思って割とマメに通った。今では店主から愛想のひとつも言われるが、はじめの頃はどことなく気張って座っていたような気がする。

実は子どもの頃からおでんが好きではない。でもそれでは正しい中年男?にはなれないと思ってせっせと通った。おでんが目的というより店の風情、雰囲気に惹かれたのだと思う。

中年紳士ともなれば鳥貴族やワタミでガハハハ飲むよりも、パッと見、敷居が高そうな小料理屋なんかで悠然と杯を傾けるほうが正しい気がする。いや、それが正しい。

そういう意味では、「分かったような顔をした中高年の巣窟」?みたいなこういう店は貴重な存在である。わが社がある池袋にはまず存在しないタイプの店だ。私がわざわざ銀座村に出没してしまうのも、こうしたオトナ向けの店が多いからである。

決して7丁目8丁目界隈の麗しい女性陣に引き寄せられているのではない。「正しい食、正しい止まり木」を求めているだけだ。

一応そういうことである。



こちらは同じく銀座にある日本料理の「三亀」。真っ当な日本料理を肩肘張らずに楽しめる。

居酒屋とは次元の違う揚げ出し豆腐などをツマミにカウンターでカピカピ飲んでいると心まで弛緩してくる。

こちらの店も頻繁に出向くわけではないので顔を覚えられている程度である。さきほどの「おぐ羅」もそうだが、そうした「プチ常連」ぐらいのポジションが居心地が良い場合もある。

私は極めてお人好しだから、ヘタに常連扱いされると申し訳ない気分になって大量に料理や酒を注文して勝手に苦しむことがある。

ちょっとばかり顔馴染み程度だと、こっちとしてもそんなに必死にならずに済む。まあ、一種の自意識過剰みたいな話だが、私にはそういうバカなところがあるので仕方がない。

某下町の某寿司屋にも思い出したように出かけるのだが、ウマいツマミでホゲホゲ飲んでいると握りが4貫ぐらいしか食べられない。

そういう時にいつも私の脳裏をよぎるのが「ケッ、こいつはビンボーなんだな」と店の人に思われないかという不安である。

バカみたいだ。いやバカだ。

そういう店に限って現金しか受付けないから、ブラックカードを出して見栄を張るというアホみたいな作戦も通用しない。「つりは要らないよ」などと気どるのも年配の大将に対してちょっと失礼だ。

結局、余計な弁明など出来ずに「プチ貧乏オーラ」をまとってスゴスゴ店をあとにすることになるわけだ。Mな私はそんなやるせない感じも嫌いではない。

最近出没するようになった湯島界隈で出色の存在が日本料理の「いづ政」だ。安い店ではないが非常にウマい料理を味わえる。高級路線といえども敷居が高いわけでもなく窮屈な感じはない。

一応、顔馴染み程度にはなっているので個人的に居心地は抜群だ。極端に混雑することも少ないのでゆったり飲み食いできる。



特製カツオのたたきと松茸の卵とじである。財布を無くしたり失恋した直後だろうと笑顔になれそうなウマさである。

この店は濃厚な鳥味噌が載ったふろふき大根が抜群なのだが、毎度あれこれウマいものを試しているので、なかなかそこまで辿りつけない。ご飯モノも注文したことがない。

さすがに誰かと一緒に行かないと注文できる量には限りがある。いろんなものを食べたいのなら二人以上の時にシェアするのが手っ取り早いのは当然である。

やはり「一人しっぽり」を気取りたいなら、珍味と刺身ぐらいで酒を2合ほど飲んで小一時間で引き上げるぐらいの割り切りが必要なんだろうか。

あさましくアレコレ食べたがっているようでは「渋いオジサマ」への道は遠い。

2016年9月9日金曜日

ラーメンの謎


国民食ともいえるラーメンだが、どうも私とは相性が良くない。心底ウマいと思えるラーメンに出会った記憶がない。由々しき問題である。

ラーメンが嫌いなわけではない。時々無性に食べたくなる。

でも、ファストフード系だったらどちらかといえば牛丼のほうが好きだし、高校生の頃、友達とラーメン屋に行っても、ひとりでスタミナ丼などのご飯類を注文していた。

おそらく「ラーメン愛」が足りないから、ラーメンの神様が私にイジワルしているのだろう。絶品ラーメンに遭遇しないように操作?しているようだ。

私の旧友が詩的かつ哲学的なラーメンブログを開設しているのだが、クソまずそうなラーメンだろうと真摯に向き合っている(http://blog.livedoor.jp/kin_nosuke/)。

おそらくラーメンに対する「愛」が強いのだろう。愛さえあれば、時には絶品ラーメンにも出会えるはずである。

私の場合、基本的に昼飯を食べないから、ラーメン屋の暖簾をくぐるのは酔っ払っている時ばかりだ。シラフで食べようとしない点がダメである。やはり愛が足りない。

混雑している店はイヤだから必然的にガラガラの店に入る。まるでダメである。愛が足りないどころか、脳が足りない感じだ。

ラーメンに限らず、ガラガラの店でウマいものを食べようという魂胆が甘っちょろい。

そんなわけでウマいラーメンに出会わないのは自業自得だと気付いて、最近はそこそこ混んでいる店にも入るようになった。

それでもゼヒまた食べたいと思えるラーメンには出会えていない。ラーメンの神様はいまだにフラチな私を許してくれないようだ。

先日入ったのはミシュランガイドにも載ったとかいう人気店。ちっとも美味しくなかったので店名は伏せる。東京23区の真ん中より少し西側にある。

ただただショッパイ。味が濃すぎる。

隣のオニイチャン二人連れはウマいウマいと語り合っていたから、私が間違っているのかと思って冷静に何度もスープを飲んでみた。

鶏スープが自慢らしいのでサッパリ系を想像していたのだが醤油味と塩分が濃すぎる。スープを全部飲んだら気持ち悪くなるレベルだ。

ミシュランガイドに載せようと思った人はよっぽど塩分が足りない人なのだろうか。長距離を走って汗ダラダラになった直後に食べたとか、さもなければ口の中に砂糖を1時間ぐらい入れた後に食べたとか、そんな状況だったらこの店のショッパサも有難く感じるだろう。

別の日、某下町(谷根千エリア)で寿司をつまんだ後、前から気になっていたラーメン屋に入ってみた。いつも賑わっている塩ラーメンがウリの店だ。

壁には有名だか無名だかわかんない人達の色紙がいっぱい。「味のバランスが絶妙でした!」「ウマさが脳天に突き刺さりました!」みたいなコメントも添えられていた。期待大である。

居ずまいを正して食べてみた。さっき書いたミシュランに載った店のようにゲンナリはしなかったが、やはりショッパイ。私は生粋の東京人だから濃いめの味が好きなのだが、それでもキツい。

隣に座っていた妙齢の女性はスープを全部飲み干していたが、ついつい「腎臓に悪いですよ」と声をかけたくなったほどだ。

ちなみにこの2軒だが、「食べログ」の評価は「3.8」と「3.6」である。やはりちっとも参考にならない。私の感性がヘタレているのか、それとも「食べログ」にわざわざ書き込む人達の味覚が偏っているのだろうか。


そんな私が愛しているラーメンがこれだ。大きなスーパーなどで見かける「喜多方らーめん あっさり醤油味」である。似たような商品も多いが、あくまでこの袋のヤツが最高である。

あくまで味の嗜好は人それぞれだが、そこらへんのラーメン屋に行くなら私としてはこっちのほうが幸せである。麺の食感がとくに気に入っている。

即席麺というかチルド麺というジャンルだが、近頃のこの手の商品の中でもとくに美味しいと思う。

標準茹で時間は3分だが2分で充分だ。チャーシューも買ってきて、ネギをドッサリ入れてコショウをブリブリかけて食べるのが私のお気に入りの食べ方である。


最近のスーパーは刻みネギも売っている。便利である。これを全部ラーメンに入れちゃう。途中でちょっと飽きてきたら、お酢を入れて味の変化を楽しむ。

「4.22」ぐらいの点数をつけたくなる。

ラーメンの神様から見放されている私の個人的な意見である。世の中のラーメン通の人達からは「ケッ」と言われそうだが、屁のカッパである。

今日は富豪っぽい話どころか、刻みネギを賞賛するぐらいチマチマした話になってしまった。まあいいか。

でも、ラーメンにトッピングするチャーシューにこだわれば贅沢気分も味わえる。高級スーパーでよく見かける塊ごと売っているちょっと高級なチャーシューを買うことをオススメしたい。

カットせずに塊のままかじりながら麺をすする。実に豪勢である。チャーシューがいつまでも無くならない。そこらへんのラーメン屋では体験できない贅沢である。

チャーシューの話がシメになってしまうあたりが私の「ラーメン愛」の限界である。

2016年9月7日水曜日

グダグダを退治しよう


先週、我が家が「隠居の相」だという話を書いた。鵜呑みにするのも大人げないのだが、ここ半年ぐらい割とグダグダと活気が湧かない日々を過ごしているので具体的に対抗策を練ることにした。

「そんなの気のせいだよ」という言葉は一般的に無意味だとか根拠がないとかネガティブな意味合いで使われる。確かにそうかもしれないが「たかが気のせい、されど気のせい」である。

やる気、気持ち、気分、活気、生気、運気、根気、気力。人間の行動に「気」が果たす役割は大きい。目に見えないからといって軽視すべきものではない。

「気」をアゲアゲにすることは大事なことである。

まあ、グダグダした気分を退治するために知恵を絞ろうと考えていること自体、グダグダぶりが深刻ではない証拠である。ホントにダメだったら対抗策など考えもつかずにウツウツ暮らしているはずだ。

そう思い込むようにしよう。


風水的には赤い花を部屋に置くと良いらしい。運気を維持したり高める効果があるんだとか。ホンマかいなと言いたい気分もあるが、植物を置くことは我が家にとっても良いアクセントになる。

とはいえ、私はモノグサ太郎だから花はすぐ枯らしてしまう。ということで、赤いものなら何でも同じだろうとアンスリウムとやらを置いてみた。赤い葉っぱがウリである。

結構、長い間、赤い色をキープしてくれているので便利である。週に2度ほどちゃんと水もあげている。最近では可愛く思えるようになってきた。

ヤツがダメになる頃にはポインセチアなんかも出回り始めるだろうから、今後しばらくは赤色に頼ってみようと思っている。

続いては漢方薬である。心療内科でも勧める「気力を向上させる漢方」があると聞いて早速飲み始めてみた。

その名も「補中益気湯」である。名前がいい。何かを補い気力を益す(増す)らしい。単純というか短絡的な私はこの名前が気に入った。


ネットで調べたらメーカーによって配合されている生薬に違いがあるらしく、より基本に忠実な成分で作られている商品を選んでみた。

まもなく飲み始めてから1週間になる。漢方だから即効性はないはずだ。秋も深まる頃には冷静に自覚症状の変化を考察してみようと思う。

それにしても日々グビグビ飲んでいる青汁をはじめ、年齢とともにサプリの類いも随分飲むようになった。若い頃には無縁だったものばかりだ。

DHAやセサミン、リジン、プロポリス、ビタミンC、しじみエキスなんかも飲んでいる。それ以外にハゲ予防の薬や逆流性食道炎予防の薬、血圧を下げる薬を欠かさず摂取している。

なんだか「薬物中毒野郎」みたいである。

それ以外にも不定期とはいえ、太田胃散は心の友だし、飲み過ぎそうな日に頼る無敵の薬「ミラグレーン」、寝付けない夜は安定剤の「デパス」を使うし、割と高価な目薬も愛用しているし、アッチが元気になる薬だって時々こっそり飲む。

なんだか自然の摂理にトコトン抵抗しているような感じである。物好きである。ご苦労なことだ。

一連の薬やサプリの金額をざっと計算してみたら、思った以上に高額だったのでちょっとビックリした。しっかり稼がないと大変である。でも、それって何だかヘンテコな生き方のようにも感じる。

話がそれた。

グダグダ退治の話だった。

やっぱり何より大切なのは運動だと頭では分かっているのに、身体を動かすのは億劫である。ハードな散歩がせいぜいだ。

ハードな散歩には旅に出るのが一番である。毎月のように旅に出れば健康面では最高なのだろうが、さすがにそこまで時間は取れない。

でも、数ヶ月に一度は週末を使って見知らぬ土地を2~3日黙々と歩くような計画を立てようかと思案中だ。


今月後半には京都に行くつもりだ。さっそく「京都仏像めぐり」のような本を買った。どれも似たような話しか書いていないのについつい何冊も買ってしまった。散財である。

やはり、健康的かつ快適で気力に満ちた日々を送るためには「先立つもの」が大事である。せっせと貯金に励まねばと余計なことに気付いた今日この頃である。

2016年9月5日月曜日

老舗フェチ うなぎ「高嶋家」


平和で豊かな時代の最大の幸せは「食」を楽しめることだろう。不遇の時代なら「生きるための食事」に必死で「楽しむための食事」など夢の話である。

先日、スーパーで売っていたカットフルーツのスイカを見てそんな感慨にふけってしまった。

あらかじめ食べやすくカットされているだけでなく、種がほとんど無い。もちろん、しっかり甘くてウマい。考えてみれば実に贅沢な一品だ。今風に言えば「贅沢すぎる」と表現したくなる。

飢えに苦しむ人が地球上に大勢いるだけでなく、時代をさかのぼれば日本だってロクに食えない悲惨な時代は幾度となくあった。そう考えると今の時代に生まれたことは宝くじに当たったぐらい幸運なことだ。

そんなことを思いながらも日々、好き勝手な暴食を続けている私は、いずれ「千と千尋の神隠し」のお父さんのように豚に変えられてブヒブヒした姿をさらすことになるのだろうか。

さてさて、今日も「楽しむための食事」についてだ。

家メシ、外メシで比べれば、当然、外メシのほうがレジャーの要素が強い。

外食の魅力自体が非日常性であり、そこに出かけてその場で感じる雰囲気に大きく影響される。

平たく言えば「空気感」である。供される食べ物の味と同じぐらい大事な要素かもしれない。

空気感を心地良く味わえるのが「老舗」である。オシャレでモダンな店でも非日常性は味わえるが、あまりカッチョいい店だと雰囲気自体がわざとらしい感じでソソられない。

ということで老舗の話である。

老舗が持っている雰囲気自体が客を喜ばせる。雰囲気、空気感を食べに行くようなものかもしれない。

江東区にある馬肉の「みの家」、お茶の水に程近いウナギの「明神下神田川」あたりは、店の風情そのものに趣があってワクワクする。

古いだけでなく、改築していようとも「老舗」というキーワードだけでアホな私はその店を贔屓したくなる。

東日本橋あたりの合鴨の店とか淡路町にあるあんこう鍋の老舗「いせ源」、銀座にある洋食の「煉瓦亭」、麻布十番の蕎麦「更科堀井」や新宿のカレーの元祖「中村屋」にも惹かれる。持ち帰りでも銀座木村屋のあんパンだったら何となく気分が上がる。

デパ地下の和菓子売り場に行っても、ついつい重厚感を押し出している老舗の商品を選んでしまう。ある種のミーハーである。

本当に味が分かる人はそんな「雰囲気」に左右されずにウマいマズいを判断するのだろうが、私の場合、その店の味が“標準”に毛が生えた程度でも老舗だと聞けばウホウホ喜ぶ。

ミーハーなことを嫌って、どちらかといえば斜に構えた目線を心がけているくせ「老舗」と聞くとスリスリしたくなってしまう。いわば、私の弱点みたいなところだ。

もちろん、老舗の中にもちっとも感心しない店はある。日本料理屋、蕎麦屋、天ぷら屋、洋食屋、どんなジャンルにも老舗という看板だけがウリで、実態は凄くマズい店はいくつも存在する。

「老舗ファン」の私が言うのだから間違いない。

老舗に限らず「有名店」と呼ばれる店だって当然ながらすべてがウマい店だとは限らない。行列店の商品が驚くほどマズイいことだってある。

老舗といえども観光地的?な路線になってしまった店と厳しい精進を続ける店と二極化しているのだろう。


先日、日本橋、というか人形町に程近いウナギの「高嶋家」に出かけた。日本橋周辺でウナギといえば「大江戸」か「いづもや」にちょくちょく出没するが、この店は初訪問。

昭和の雰囲気が色濃い古い建物が嬉しい。やはりウナギを食べる時はモダンな構えの店だと気分が上がらない。

まるで意味のないこだわりだが、老舗感プンプンの店だと、それ自体が調味料みたいな役割になる。





う巻き、うざく、白焼き、鰻重。どれも非常に丁寧に仕上げられていた。きっちり誠実に作られていることは一見の客でも分かる。

老舗という看板にアグラをかいちゃうとこうはいかないのだろう。まさに、正しくちゃんとした鰻料理を味わえた。

老舗フェチのようにアレコレ書いたが、まだまだ行ったことのない店はゴマンとある。もっとマメに探検したいものだ。

2016年9月2日金曜日

頑張れソース焼きそば


ラーメン、うどん、そば、パスタ等々。麺類の誘惑はデブを悩ませる。食べやすさもあってツルツルズルズル吸い込んでしまう。おかげで胃が脳に満腹指令を発するタイミングを逃してデブが加速する。

おっといけない、今日はデブの話ではなく、麺の話だった。

まさに群雄割拠の麺業界?だが、ちょっと気になるのがソース焼きそばの立ち位置だ。

ラーメンやつけ麺はスター扱いされているのにソース焼きそばは同じような麺なのに厳しい立場に置かれている。

焼きそば業界?においても、威張っているのは中華料理屋で出てくる五目やきそば、海鮮焼きそばなど、お酢をかけたくなるほうである。


画像は銀座・維新號で食べた焼きそばである。具が中にサンドイッチのように挟んである。両面を支えるのはパリッと焼かれた麺だ。こうなるとスター級?の料理になる。

というわけで、焼きそばは焼きそばでもソース焼きそばは誰もが大好きなはずなのに、「麺ヒエラルキー」の底辺にいるような可哀想な立場にいる。

カップ麺、もしくは縁日の出店でガラの悪いアンチャンが作っているイメージのせいなのだろうか。家で食べるものというイメージも影響している。

先日、週刊誌をぱらぱらめくっていたら、「焼きそば専門店」という記事を見かけた。日の当たらない存在?のソース焼きそばにも専門店があるらしい。ちょっと興奮する。

2軒紹介されていたのだが、1軒は職場からさほど遠くない高田馬場である。「真打みかさ」という店だ。さっそく行ってみた。

繁華街から離れた周りには店舗など無い路地でポツンと営業していた。カウンター10席ほどのお店で、メニューはビールと焼きそばだけである。

実に潔い。おまけに大盛りの注文もできないようだ。ただただ「焼きそば 800円」のみ。これで繁盛しているわけだから利益率は凄そうだと余計なことが頭に浮かぶ。


肝心の味は普通に美味しかった。焼きそばが好きなら素直にニコニコする味。際だった特徴があるわけではないが、ウマいラーメンほど奇をてらっていないのと同じ。誠実に作られた正しいソース焼きそばといった印象だ。

少し平べったいような太麺に具はキャベツ、ネギ、もやし、大きめにカットされたパンチェッタのような形の豚肉、そして半熟の目玉焼きが乗っかる。

カウンターの上には紅ショウガと揚げ玉が用意されている。取り放題だからデブにとっては有難い。

日頃、オトナの居ずまいだとか、鮨屋の在り方とか、正当な日本料理のダシの加減はあーだのこーだのと分かったようなことを言いたがる私だが、実態はB級グルメと呼ばれるガッツリ系の食べ物を嬉々としてガッつく「お子ちゃま味覚太郎」である。

本格的なソース焼きそばを半熟目玉焼きをグチュグチュ混ぜながら頬張るのは涙チョチョぎれ(古い)の至福の時間である。

ラーメンが麺の世界における番長だとしたら、ソース焼きそばは“裏番”みたいな存在かもしれない。普段は表に出てこないのだが、いざとなったら誰もがひれ伏す感じだ。

意味不明でスイマセン。

俗にB級グルメと呼ばれる手軽でウマい食べ物の特徴は「潔さ」だと思う。ズバっと直球勝負という感じが魅力である。面倒な理屈抜きに口の中を幸福にしてくれる。

ウンチクをちらつかせながらちょっと気取って高級料理店で過ごす時間もいっぱしのオトナには必要だが、鎧兜を脱いだ時には「気軽にガッツリ」が最高である。



こちらは水道橋の豚丼専門店「丼達」で食べた豚丼と代官山の「ALOHA TABLE」というカフェで食べたロコモコ丼である。

いずれも直球勝負である。ソース焼きそばもそうだが、ガッツリ安ウマ系の食べ物は男心をくすぐる。問題があるとすれば、ほんの数分で食べ終わってしまうことである。

ガツガツあっという間に食べてしまう行為はデブを更なるデブに進化させる。まさに魔力である。実に恨めしい。でも愛さずにはいられない。