2012年10月31日水曜日

年齢とコスプレ

年齢の概念って昔と今では大違いだ。男女ともに妙に若い人が増えている。

大人が幼くなってしまったと嘆くのは簡単だが、そんな評論家ぶったことを言っても仕方がない。素直に「若年化」を喜んだほうがいいと思う。

「7掛け」。昔の年齢に対するイメージと比べると、ざっとそんな感じらしい。成人式は30歳ぐらいが適当だという私の感覚から見ても妙にうなずける話だ。

60歳の人が昔の40代前半。70歳なら昔の50歳程度。文字にすると違和感はあるが、世の中で元気で暴れている高齢者を見ると納得してしまう。

真に受けて自分に当てはめてみると、私はまだ30代前半ということになってしまう。それはそれで変だし、困ったものだが、精神年齢はそんな程度かもしれない。

かつての人気ドラマ「太陽にほえろ」で苦み走った中年男を演じていた石原裕次郎は、当初まだ30代であの役を演じていた。

いまだったらキムタクぐらいだ。成熟の早さというか老成というのか、昔の人は大変だったと思う。

子どもの頃に憧れた桜田淳子サマだって、たかだか二十歳ぐらいで、ブリブリアイドル路線を卒業し、大人の女優みたいな顔をしていた。

山口百恵にいたっては21歳で引退した。引退コンサートの妖艶さがハタチそこそこだったとはビックリだ。いまどきのAKBなんて20代後半でもキャッキャっとブリッ子路線で通用している。

高倉健は80歳を超えている。それだけでビックリだ。後期高齢者どころの騒ぎではないはずだが、あの人の場合、いまだに「不器用ですから」とか言いながら女性と恋をしていそうだ。

80過ぎて不器用な人も困るが・・・。

ハマちゃんこと西田敏行だって65歳だ。企業戦士だったらとっくに定年退職だが、釣り好きなダメ社員役が今でも普通にこなせそうだから恐るべしである。

「人間五十年~」とか唸っていた織田信長の時代だったら50歳代なんて長老である。


現在の「若年化」が世の中にとって良いことなのか悪いことなのかサッパリ分らない。でも、間違いなく言えることは、男盛りも女盛りも昔とは比較にならないぐらい長くなったということだろう。


先日、六本木某所で狂乱のコスプレカラオケ大会に参加した。我が社の宴会部長があらかじめ高級個室カラオケボックスに用意したセクシー衣装は10着以上あっただろうか。


それを身にまとう女性陣は5人。恐ろしいことに全員が40代である。高校生の子どもを持つ母親もいた。

昔だったら「40過ぎの母親」は、かつての人気漫画「オバタリアン」みたいな風貌でイメージされたが、時代は変わったみたいだ。

ノリノリでミニスカポリスやミニスカナースやバニーちゃんに変身して、やいのやいの歌い騒ぐ。それがまた普通に衣装を着こなしているから恐るべしである。


「無理しちゃったオバサン」という感じではなく、皆様それなりのスタイルで、遠目に?見たら充分に若者に見えなくもない。

まあ、そんなノリの宴会に参加しようって言うのだから、それなりに自負とか自信もあるのだろう。若者達に元気がない時代だからこそ、こういう中年も大事な存在かもしれない。

2,3時間も一緒に騒げば、アラが出るというか、年齢相応の「おばさん特有の図々しい天下無敵な感じ」が漂ってきて、さすがに疲れる。そうは言っても、こっちもこっちで「偉そうでワガママなおっさん」だから文句は言えない。

その日、リアルタイムでFacebookにコスプレ宴会画像をアップしてみた。中途半端なコスプレ画像だったから、「見えない」という苦情が多数寄せられてしまった。

まさに「秘すれば花」である。画像がブレブレだったから、皆さん興味シンシンになったのだろう。
実態は「熟女狂乱ナイト」だったわけだから、遠目とかピンボケぐらいが調度良い。

失礼しました。

2012年10月29日月曜日

男の作法

池波正太郎といえば、時代小説の大家であり、また食分野や映画、演劇評論などでも知られる伝説の御仁だ。

作家としての評価だけでなく、亡くなって20年以上が経った今では「粋人」としての風評を至るところで見聞きする。

イキな男になりたいと願う私にとっては、氏の膨大な著作を日夜読みふけらないといけないのだが、時代小説が苦手なせいで、まるで読んだことがない。恥ずかしいかぎり。


先日、昭和56年に発表された氏のエッセイを読む機会があった。タイトルは「男の作法」。

こういう大上段に構えたタイトルは、それこそイキではない。ちょっとシャラくせ~と思って読み始めたのだが、読み進むうちにそんな安直な印象を反省した。

さすがにイキな男のモノの見方が凝縮されていた。随想というより、編集者相手に口述している「語りおろし」のスタイルなのだが、そもそも偉そうに指南するという風情はまったくない。時に遠慮気味に「男の作法」をやわらかく諭している。

ただ、本人も指摘しているが、内容の多くは作法などという大袈裟なものではなく、「常識」であり、口はばったく言ってしまえば、いっぱしの大人だったらわきまえているべき事柄が中心だ。きっと若い大人向けに出版されたのだろう。

と、エラそうに書いたが、一連の常識をついつい疎かにしてしまうオトナは多い。私自身、読み進むうちに、「わかっちゃいるけど、それが出来ていないんだよなあ」と反省しきりだった。

酒の飲み方、服の着こなし、人付き合い等々、いろいろな場面で、正しい男の居ずまいが語られている。

昭和56年当時の本だから、当時の大人に向けて語られている。21世紀、平成の今だから、「大人の粋」が希少価値になってしまたと思っていたのだが、そんな頃から「粋人」は絶滅危惧種になっていたとは情けない話だ。

その後、バブルの時代があり、ITの時代が花開き、世の中の価値観や日本人的感性はこの本が出版された時代よりも大きく変化した。

寿司屋、天ぷら屋、蕎麦屋での振る舞い、バーとの付き合い方から恋愛観、結婚観に至るまで、今の時代だから「教科書」として読むべきズレた大人が多いような気がする。

実はこの本を「バイブル」と崇めたてている中年オヤジがいるらしい。なんともダラしない頼りないダメなオッサンだと思ったのだが、考えてみれば、この四半世紀、こういう分野の「教育」は社会が疎かにしてきたのも確かだ。今更でも、粋な姿を目指そうという姿勢は大事かもしれない。

たとえば、寿司屋で通ぶって「ムラサキ」だの「アガリ」だの符丁を乱発する愚かさ、時間を守ることの大切さ、客だからといって威張るような品の無さ、店が混んできたらスッと席を立つスマートさなどなど、当たり前のマナーにまるで無頓着な男は魅力的ではない。

当たり前なのだが、その当たり前がなし崩し的に軽視され、不作法を恥だと認識しない社会が出来上がってしまったのだろう。

氏は人間が鈍感になっていることを嘆く。気配りが出来ない男は粋人の対極だが、その原因は便利になった現代社会の生活スタイルにもあると指摘する。全自動で何でもかんでも処理できるから、昔の人のように同時にいろんなことに神経を使って作業する訓練が欠けていると説く。

昭和の頃より遙かに便利になった現在、気配りにつながる人間の感覚の鈍化は一層進んでしまっているのだろうか。

また、印象的だったのは、高度成長によって「みんな貧乏になっちまった」と語るくだりだ。

自由主義でありながら共産体制みたいな状況は、良くも悪くも「上下の無さ」に現われていると分析する。

せいぜい家にあるテレビの数や部屋数が多いか少ないかぐらいの格差しかないし、社長だろうが平社員だろうが同じものを食べている現実は、見方を変えれば総貧乏化だと指摘する。

氏は大きな意味での「男の小遣い」の大切さを強調する。美術館など日本全国にある文化的遺産の大半が、国家ではなく、実業家など個人の遺産であることを例示し、「男の小遣い」が世の中を潤すと指摘している。

堅くなるが、金融、税制など国の経済政策にもつながる視点だと思う。

なんか小難しい話になってしまった。

「食」への関心の高さ、知識の深さでも知られるが、結論から言って、氏が食の上でも「粋人」に位置付けられたのは、その「しなやかさ」に尽きるのだろうと思った。

もちろん、寿司や蕎麦などすべてに一家言持つのだが、ガッチガチに自説を押しつけるような無粋さとは無縁だったのが印象的だった。

「何がいいと決めないで、それぞれに特徴があるのだから素直に味わえばいいんですよ」

「どこそこの何でなければ、なんて決めつけるのが一番つまらない」

こんな調子で実にさりげない。もちろん、実際には自分の中で譲れないこだわりは頑として持っていたはずだ。ただ、そんな拘りを人様に吹聴することを良しとしない精神性がチラリと感じられた。

食べ物の細かい好みを題材に、熱くなって知識や好みを披瀝することなぞ極めて格好悪いことだと分っているからこその、控えめな物言いなんだと思う。

まあ、大人物を肴に四の五のどうでもいいことを書き殴ってしまった。それこそ無粋である。

とりあえず、粋人を目指す私としては、自分に言い聞かせている「戒め」を今後もブラッシュアップしないといけない。

知ったかぶらない、威張らない、自慢しない、すぐに触らない(これは違うか)、やせ我慢を心掛ける等々、まだまだ修行の道は続く。

2012年10月26日金曜日

名言

名言とか金言に意識が向くようになったのはいつ頃からだろうか。若い頃は、ちっとも響かなかった言葉がいつのまにか身に染みるようになってきた。

といいながら、座右の銘は無いし、好きな名言があるわけでもない。ふとした時に見聞きする含蓄のある言葉に深くうなずく場面が増えてきた。

先日も、くだらないことでウジウジしていた私の脳みそを心地よく刺激する名言を知った。

“The darkest hour is just before the dawn.”

夜明け前が一番暗い。すなわち、事態が好転する直前がもっとも苦しい、あと少しの辛抱だといったニュアンスだ。

文豪・吉川英治の「朝が来ない夜はない」に近い雰囲気だが、それよりも「もう少しだけ頑張れ」みたいな“あと一歩”感が強調されていてグッときた。

そんなことを書いてみるとインテリっぽいが、なんのことはない。今日は、最近あらためてハマっている「寅さん」の名言集を紹介しようと思っている。

最近、「人生に寅さんを」という洒落た本を買ってパラパラと眺めている。実に楽しく、また役に立つ。


それ以外にもどこかの評論家が書いた「へたな人生論より寅さんのひと言」という文庫本も読んだ。まさにタイトル通りの面白い話が満載されていた。

「生きてる? そらあ結構だ」

こんな「金言」に胸をうたれた。チト大げさだが、実に深いセリフだと思う。不慮の死、無念の死などという悲劇を目の当たりにしたり、自殺予備軍が増えている世相にあって大いにうなずきたくなる。

「生きてるだけで丸儲け」とか沖縄の「命どぅ宝」なんかもそうだが、元気に暮らせているなら細かいことでクヨクヨするなという考えだろう。ついつい見失いがちな人生の真理かもしれない。

「幸せのかたまりみたいなツラしやがって、
 不幸せぶるなって言ってるんだ」

これも初期の「男はつらいよ」で寅さんが放つ言葉だ。誰にでも思い当たることはあるのではないか。ちょっとしたことで落胆し、この世の終わりみたいに落ち込む時、その原因が実際には些細なことであることは珍しくない。

世界を見渡せば、あり得ないほど悲惨な不幸はいくらでも転がっている。些末なことで大げさに自分を不幸だと思うことの愚かさを痛感する。

「おてんとうさまは見ているぜ」

単純明快だが、古き良き時代の日本人の行動規範だ。いまの時代、こすっからくインチキな行動に逃げたくなる場面は多い。子どもよりも大人のほうがそんな誘惑に悩まされる。お天道様。日本古来の土着宗教のようなこういう規律性を忘れたらいけないと思う。

「理屈を言うんじゃないよ!
 大事な時に。」

これこそ寅さんの真骨頂だろう。良くも悪くも感情の赴くままに生きる寅さん。でもその心の熱さこそが正しいこともある。冒頭で紹介した寅さん評論本でも、寅さんの魅力は「非論理性」にこそあるという趣旨が書かれていた。

論理的な思考こそが絶対とされ、敵対する相手との間でも論理的な矛盾や破たんだけをあげつらって勝った負けたと一喜一憂している現代人だから、寅さんの小気味よさに拍手喝采を送りたくなるという分析だ。まさにその通り。人間、正論だの理屈だけでは生きていけない。

もう40年以上前の第1作で寅さんは金言を言い放っている。そののち「妹のさくら」と結婚する独身時代の「博」に向かって言い放つセリフだ。

「ざま見ろ、人間はね 理屈なんかじゃ動かねえんだよ」。

ある意味、寅さんは一貫している。ぶれない。だからいつの時代にも根強い支持があるのだろう。

色恋に関しても無数の名言を残している。

「男が女に惚れるのに歳なんか関係あるかい!」

以前にもこのブログで書いたことがあるが、知床を舞台にした名作でのワンシーンだ。竹下景子扮するマドンナが父親役の三船敏郎の恋心を寅さんにグチる。寅さんはキッパリこのセリフを言う。実に小気味よく、かつ真実である。

またある時はいともサラリと次のようなセリフを言う。

「貧しいね 君たちは。
 二言目にはカネだ。
 カネなんかなくたっていいじゃないか、
 美しい愛さえあれば!」

現実の社会ではそうはいかないが、それを本心から言ってのける寅さんの心意気が素晴らしい。私自身、ついつい全財産を投げ打って孤高の道を走り出したくなる(そんな財産なんて持っていないが・・・)。

「恋というものはな、長続きさせるためには、ほどほどに愛するということを覚えなきゃいけない」。

なかなか含蓄に富んだセリフだ。寅さんの場合、そんなこと言いながらちっとも本人がそれを実践できないところが良い。

支離滅裂と言ってしまえばそれまでだが、それこそ理屈ではない。人間らしく生きていれば、そうそう論理的に物事を判断できない。そんな適当な感じも寅さんの場合、ぶれずに一貫しているから潔い。

思うがままに好き勝手に、ぶれずに気楽に生きていきたいものだ。

書いていて気づいたのだが、今日の話は結局、寅さんを全肯定することで、自分のワガママさを肯定したくなっているだけだろう。

まあ、いいか。それも人間らしさだ。

2012年10月24日水曜日

金木犀と松茸

秋である。秋に生まれたせいもあって、この季節はナゼかウキウキする。金木犀の香りが漂ってくると力いっぱい深呼吸したくなる。


花の香りは、そもそも虫を誘引するためにあるらしいが、不思議なことに金木犀の香りは、虫を寄せ付けない特殊な成分があるそうだ。気高い感じがなかなかニクい。

なんか悪女を寄せ付けないように日々生きている私のようだ。

いや、加齢臭のせいで誰も寄りつかないのかもしれない。

まあ、そんなことはどうでもよろしい。

金木犀といえば桂花陳酒の元である。中華料理屋さんで桂花陳酒を秘やかに飲んでいる女性も好きだ。

そんなことはどうでもよろしい。

金木犀といえば、「堀内孝雄」である。

いまはすっかり演歌歌手だが、その昔のアリス時代、「君の瞳は10000ボルト」という凄まじい歌を熱唱していたのが堀内孝雄だ。


  ♪鳶色のひとみに 誘惑のかげり

   金木犀の咲く道を


   銀色の翼の馬で駆けてくる

   二十世紀のジャンヌダルクよ


   君のひとみは10000ボルト

   地上に降りた最後の天使 ♪



う~ん、すごい歌だ。1978年の年間ヒットチャート第4位だそうだ。確かにあの頃はどこでもこのメロディーが流れていた。いい時代だったんだなあ。

金木犀の話だった。

花言葉は「謙虚」とか「謙遜」とか「真実の愛」とか、そんな感じらしい。これまた実直を絵に描いた私のようだ。

なんだっけ?話がとっちらかってしまった。

秋のことを書こうと思っていたのだが、支離滅裂になってしまった。

金木犀の香りを嗅いだら、どうしても松茸の香りが恋しくなる。かなり強引だ。


秋の香りという意味では、金木犀と松茸は東西の両横綱みたいなものだ。

日が暮れれば少し寒いぐらいの気候になってきた。ホッコリした食べ物を肴に一献楽しみたくなる。

秋だから土瓶蒸しである。猪口でズルズルすすって、松茸の香りを堪能してからフガフガと味わう。至福の時間だ。

秋はこれだからタマランチンである。

気が早い店ではアンキモ様も登場し始めた。冬に向かって珍味一族が私のために戻ってくる季節だ。

絶妙にウマいカラスミも予約したし、今シーズンこそは久しぶりに日本海に冬のズワイガニを堪能しに行こうと企んでいる。

楽しみにはキリがない。四季のある国、おまけに世界一の美食の国に生まれた幸せをかみしめないといけない。

そういえば、この前の血液検査では、尿酸値、中性脂肪、コレステロール等々、芳しいデータではなかった。γGPTなぞは過去最高値をマークした。

シジミ汁だけすすって静かに暮らさないといけないのだが、それもイヤだし、せいぜい「適量」を気にして楽しむことにする。

そういえば、シジミのサプリを飲みはじめることにした。青汁、黒酢に引き続き、私を支える新しい仲間だ。

シジミサプリを活用してアルコールと上手に付き合おうと思う。

2012年10月22日月曜日

風水だの占いだの

加齢を実感する場面は、ベルトの穴を調整する時や、下半身にまで白い毛を見つけた時ばかりではない。

若い頃は気にも留めなかった占い方面に興味が湧くのもきっと年を重ねたせいだろう。

以前、銀座の街角で酔っぱらって手相占いの人に絡んでしまったことがある。

占い師いわく、

「あなは責任ある立場でお仕事されている人ですね」

「仕事や家庭の問題で結構ストレスを抱えていらっしゃる」

「思ったように計画が進んでいないようですね」


こんなコトばかり言われた。単純な私でもさすがに大笑いしてしまった。

銀座の8丁目あたりで小綺麗な恰好で飲み歩いていれば、どうしたって無責任な立場の人物であるはずが無い。それ以前に「責任のない立場の人」って世の中にそうそういないと思う。

仕事や家庭の問題でストレスを溜めていない幸福な中年男が、現代ニッポンにどれほどいるのか。誰だって大なり小なりストレスはある。

「思ったように計画が進んでいない」とやらも同じだ。子どもの勉強じゃあるまいし、大のオトナが計画通りに物事をスムーズに進められるなんて稀だと思う。

チャンチャラおかしい。

もちろん、占い師にだってスンゴイ人はいるはずだが、インチキっぽいのが多すぎる。ヒドいのになると、わが家のダウン症の息子を「直せます」と言い切った詐欺師にも会ったことがある。

その詐欺師、某大企業オーナー一族が熱烈に信じている。そっちから紹介されたもんだから、ぶっ飛ばせなくて困った記憶がある。

そんなこんなで自分自身が持っている運勢の力を信じて、これまでは、あえてその手の人々の御注進は聞かないようにしていた。

風水とか方位とか日取りとか、気にし始めたらキリがない。

とはいいながら、イッパシの大人として人生の円熟期?を迎えたいま、妙にそっち方面が気になり始めた。

クルマの納車ですら日取りを見るようになったし、引っ越しの方角も「その道の詳しい人」に見てもらった。

今住んでいる家を建てる時は、風水的な注意点はまったく気にせずに話を進めた。自分なりの設計プランがそんなことで邪魔されるのがイヤだった。

その後、いろいろな機会に家相を見てもらう機会があったが、ことごとく「大凶」だと言われた。障害児を授かった理由まで家相のせいにされた時には腹が立ったが、とにかく全体的にダメ判定ばかりだった。

コンチクショーである。

ワケあっていま引っ越し先を探し始めたのだが、いろいろ候補を絞ってあったのに、方位を見てもらったら、そっち方面は全滅だとか。

コンチクショーである。

おまけに今年のいついつまでならコッチ方向、来年のいついつまでまらアッチ方向と細かく判定されてしまった。

気にしないで進めたいのだが、聞いてしまった以上さすがの私も気になる。仕方なく、良い方向に絞って探しているのだが、なかなか難しい。

まあ、もっと真剣に探せばそれなりの物件が見つかるとは思っているのだが、こういうことは焦ってはいけないのでジックリ勝負だ。

そして、いざ候補が出てきたら「エスパー」としての能力をフルに発揮しなければならない。

とある「エスパーな人」に言われたのだが、私もわずかながらエスパー体質があるらしい。何のことはない。第六感みたいなものだ。

昔から、住むところを探す時に何度も不思議な感覚にとらわれた。ここは絶対ダメだとか、空気が合わないとか、ひどい時には、そこから瞬時に立ち去りたくなったこともある。

まあ、そんなエラそうなことを言いながら「大凶」の家に住んでいるのだから大したことはない。いや、大凶の場所から脱出しようとしている現在の状況自体が、私のエスパー感覚なのかもしれない。

ということで、今後自分の身のまわりに起こるすべての都合の悪い出来事をエスパー感覚のせいにしようと思う。

2012年10月19日金曜日

今日はエロです

変な夢を見た。なぜか私が農林水産大臣になっていて、陳情に来たのが偶然、高校の頃に私をいじめた先生で、エラくなった私なのに情け容赦なく冷酷に対応するという内容。

おまけに大臣にまでなったのに幼稚で狭量な自分を悲観して総理大臣あてに辞表を書こうとする夢だった。

意味不明だ。

気が狂っているのかもしれない。

それにしても最近はエロい夢を見なくなった。心に余裕がないからだろうか。以前は、飛び込みで入店した高級ソープランドで、友人の恋人とか奥さんが出てくる夢を見た。ギョッとしながらもムフフな気分になる夢を何度も見たのだが、すっかり縁遠くなった。

きっと、友人の恋人とか奥さんがオバアサンになってしまったから、そんな夢を見なくなったのだろう。

いったい何を書いているんだろう。何が書きたいんだろう。バカ極まるって感じだ。

仕方がないから今日は軟派な話題を突き詰めてみようと思う。エロ話が嫌いな人には申し訳ないです。そんな人はいないか。

さてさて、何をもってエロとみなすのか、これこそエロの深遠かつ哲学的な命題だろう。

週刊文春に連載されているコラム「人生エロエロ」には毎度感心する。みうらじゅん氏のエロさは紫綬褒章モノだと思う。何と言っても連載のサブタイトルが「人生の3分の2はイヤラシイことを考えてきた」である。感服する。

まあ、だれでも人生のかなりの時間をイヤラシイことの妄想や夢想や実行に費やしてきたのだろう。それでこそ人間らしさである。

話がそれた。

なにをもってエロとみなすのか、エロの奥深さはこの点が人によって違うからだと思う。

パリコレに出てくるようなスーパーモデルのヌードにドキッとする人がいる一方で、隣に住んでいる少しブサイクなおねえさんの真っ裸が覗き見えちゃったほうが興奮する人もいる。

面識のない美人女優のヌードより、一度でも二度でもいいから言葉を交わした「ヘチャムクレだけど少しだけ知り合い」のヌードのほうが萌える。そんなもんだと思う。私だけだろうか。

「無くて七癖」。よく聞くフレースだが、エロの世界においては「無くて七フェチ」だ。

多くの人が妙な部分に性的興奮を覚える。意外な身体の部位とかシチュエーションとかだ。足フェチとか腋フェチあたりが王道で、鎖骨フェチとか肘フェチもいるらしい。

うーん、奥が深い。

私の場合、部位に関するフェチ的要素はあまり無いみたいだ。強いて言えば形の良いお尻だろうか。いつか家中に形の良い女性のヒップだけを石膏ボードで固めて、ずらりと並べて暮らしてみたいと思う。バカでスイマセン。

お尻ついでに言えば、そのお尻を覆う下着とか水着にも妙な思い入れがある。

もう四半世紀以上前だろうか。今は亡き飯島愛がテレビ東京の崇高な番組「ギルガメッシュナイト」でTバックをメジャーなアイテムに昇華させた。おかげで私の人生はTバックに傾いてきたと言っても過言ではない。

世の中にはイヤラシサを競うように大事な箇所に丸く穴が開いた下着とか、大腸内視鏡検査の時に履かされるトランクスのように後ろ部分がぱっくり割れているショーツなどが存在する。

私に言わせればそんなものは邪道である。嫌いではないが・・・。いや、やはり邪道である。覆っているからこそ芸術なんだと思う。だからTバックの勝ちである。Tバックも後ろの部分がただのヒモみたいではダメだ。そこそこ幅を確保していて欲しい。

熱くなってしまった。もっとクールに考察しないといけない。反省。

水着もTバックが好きだが、あれはあれで下着のTバックとは少しニュアンスが違う。下着の場合はスカートやパンツのラインを気にするという大義名分があるが、水着だと見られる前提だ。だから私に言わせるとエロさがわざとらしい感じで減点対象だ。でも大好きだが・・・。

水着の場合、知る人ぞ知る「ブラジリアンカット」が最高だ。画像を貼るわけにもいかないので、知らない人はネットで検索して過激なブラジリアンカットを目に焼き付けて欲しい。オブリガードだ!

そう考えると、私の場合、「衣類系」に妙なフェチ心があるみたいだ。どんなセクシーランジェリーだろうと、バニーガールの衣装のほうが上だと思っている。全身網タイツなどというアダルトグッズがあるが、あれだって私に言わせれば、バニーちゃんの敵ではない。

ミニスカートでナマ足で下着が見えちゃうパターンなんかちっともエロではない。スリットから覗くパンストの上の方の色が濃くなっている部分が見えたほうが断然エロだと思う。

おかしいだろうか。

そういえば、「ハゲデブの義父」に若い嫁が抵抗できずに手籠めにされてしまうAVが好きだという女性に遭遇したことがある。実際にはそんな場面はご免こうむりたいらしいが、AV鑑賞に限ってはなぜか「義父」にシビれるのだという。あれも一種のフェチなんだろう。

誰もが普段はスマシ顔で自分の変なこだわりを隠して生きているが、ひと皮ひんめくれば、みんな結構なエロ大王だったり、エロ女王だったりする。

そんなテーマだけに話題を限定して男女10人ぐらいで朝まで酒を飲み明かす集いとかを開催したら楽しいだろうなあ。

古式ゆかしい「百物語」を怪談ではなく、エロ話だけで達成する集いだ。なかなか面白そうだ。

怪談の「百物語」では、百話が終わった時に「本当の怪」がやってくるらしいが、エロの100話が終わった時には果たして何が見えるのだろう。

2012年10月17日水曜日

貴賓室

普段、貴賓室と呼ばれるところに行く機会は滅多に無い。「全然無い」と書かないあたりが、「富豪」たるゆえん、いや、強がりだ。

そんな私が先日、伝統ある東京競馬場の貴賓室に行ってきた。「貴賓」だ。気品のカケラもない私の居場所としては場違いだが、さも慣れ親しんでいるような顔をして過ごしてみた。


ギャンブルに縁のないカタブツとして生きている私だ。競馬についてもまったく知識がない。1着、2着を決めるだけだろうと思っていたスーパー無知だったから、場違いも甚だしい。でもJRAの職員が優しく教えてくれたので無事になけなしの小遣いを失うハメになった。

貴賓室がある建物は1階の入口にガードマンが立っていて、ゴージャスかつ排他的な雰囲気。凛とした空気とチリひとつ無い高級なフロアにはバーカウンターがあったり、専用馬券販売所まである。


自動発券機の前にはJRAの女性職員が常時待機し、アホ丸出しの質問にもにこやかに答えてくれる。

テラス席からの眺めがまたいい。それこそ一般のお客さんがいる遙か下の場所が、まさに下界という感じがする。

そうはいっても、芝生の香りや疾走するサラブレッドの躍動感を感じるには貴賓スペースは高層階にありすぎる。この点は、下界のほうが絶対に楽しそうだ。


今回、こんな機会に恵まれたのは、わが社が発行する富裕層向けのフリーペーパーの愛読者企画に便乗させてもらったからだ。

「貴賓室への招待」を謳う媒体広告連動企画をJRAとタイアップした我が社の営業マンは、何を隠そう過去に大穴を当てた経験があるらしい。そういう経験が仕事につながるのならギャンブル好きも悪くない。

で、肝心の私の戦果について書かねばなるまい。燦々たる結果だった。それもそのはずだ。やはり無知な人間の我流など通用するはずもない。


この日は、今回の企画用にわざわざ競馬記者とかが専属でレース解説や予想をしてくれていた。ちゃんと聞いて参考にすればよかったのに、アマノジャッキーな私は滅茶苦茶な買い方に終始した。「まるでだめお」である。

負け惜しみ半分だが、それで良かったと思っている。秋晴れの爽やかな休日に貴賓室なんかにふんぞり返って、大勝ちしてしまったら、アホな私は自分にギャンブラーとしての才能があると勘違いしたはずだ。

負けて勝つ!。今後の人生はギャンブルで傾かないはずだから、競馬の神様に感謝だ。



この日は、全レース終了後、この企画の参加者限定で通常は入れないエリアにも案内してもらった。勝ち馬ジョッキーがインタビューを受ける場所とか、ウィナーズサークルとかパドックの中にも入れてもらった。

ウィナーズサークルあたりから見上げるスタンドの威容に結構感動した。夕暮れ迫る時間、ライトアップされたスタンドの美しさは中々のものだった。

でも、結局は小市民である私としては、一般の観客がノンビリ1日を過ごせる芝生スペースに弁当とゴザを持参してピクニック気分で出かけたいと思った。

想像していた競馬場という雰囲気とは大違いで実に爽やかな雰囲気。売店もたくさんあったし、実際に家族連れがノンビリ公園感覚で過ごしている姿が目立った。

呑気に本なんかも持ち込んで軽く一杯ひっかけながら、気が向いたら馬券を買って、日がな一日過ごすのも良さそうだ。

やかましくて空気も悪いパチンコ屋で不健康にスッカラカンになるのなら、競馬場のほうがやはり文化的だ。老後の趣味に良さそうだ。

それにしても、実際にウン万円もスッてみて良く分かったのだが、あれだけ堂々と楽しくギャンブルを楽しめる場所が日本中にあるのだから、カッコつけたり屁理屈こねたりしないで、国営カジノとかをバンバン作ればいい。

尖閣諸島なんかを一大カジノゾーンとして開発して、中国のお金持ちにわんさか来てもらえばいいと思う。

総理大臣になったら実行してみようと思う。