2012年5月16日水曜日

ダウン症 赤ちゃんポスト

ダウン症の息子の話をずっと書いていない。

やはり、どのように書いても明るい話題になりにくいと思ってついつい触れずにいる。

そういう考え方自体が、一種の差別感情にも似たネガティブな心の在り方なんだろうか。少し鬱々した気分になる。

いかんいかん。もっと前向きにならないとダメだ。

最近のウチのダウンちゃんは、身体能力は結構なレベルに達した。出来なかったジャンプも得意になり、歌に合わせてぴょんぴょんしている。

禁断の「バカ」という言葉もどこかで覚えてきてしまった。私もしょっちゅうそれを言われる。「お前だろう、それは」と切り返したいのだが、シャレにならないから我慢している。

もう2年以上前にこのブログでダウン症児を持った葛藤を書いたのだが、有難いことに今になっても多くの人が閲覧してくれる。

先日も新たにコメントをいただいた。ダウン症のお子さんを授かったばかりのお父さんからだ。ネットで情報を探すなかでこのブログを見つけてくれた。

そのお父さんは、未知の体験のせいで笑えなくなってしまったそうだ。当然だと思う。障害なんか気にせずに笑顔満面で新しい命を受入れられるような人は現実にはいないだろう。

「どす黒い感情」もまだ残っているそうだ。仕方ないことだと思う。周りに伝えきれずにいれば、生まれたばかりの時期は「おめでとう」という言葉を日々浴びる頃だ。キツイはずだ。

おめでたいことには変わりないとはいえ、その時点でそのフレーズを聞くのは私も非常にしんどかった記憶がある。

受入れるかどうか、という視点で語られる障害児との出会いだが、吹っ切れて受入れたように見える人だって、「受入れたくないけど仕方なく」という前置き付きで受入れているケースが多い。

熊本の私立病院がはじめた「コウノトリのゆりかご」、いわゆる「赤ちゃんポスト」が運用開始から5年を迎えたことが先週のニュースで取り上げられていた。

親が育てられない赤ちゃんを匿名で受入れる取組みだが、当然、賛否両論相半ばといった感じだ。私自身、この取組みが始まったことを知った時は、真剣にどのような仕組みかを必死に情報収集した。

正直言ってすがりたい気持ちでいっぱいだった時もある。いや、今だって時にはそうした考えが頭をよぎる。

今も「赤ちゃんポスト」には多くの批判が寄せられる。平たく言えば育児放棄をサポートする形になるわけだから仕方のないことだろう。

熊本市の検証では「匿名での受入れは認めがたい」という結果になったそうだ。役所の目線では当然そういう判断になるだろう。運営にあたる病院側は、断固として匿名での受入れが必要だと強調する。

法律的なことは分からないが、私自身の感情としては、病院側に初志貫徹を貫いて欲しいと思う。「パニック状態の現場」の叫び、深刻さは、役所の調査ぐらいで掘りさげられるものではないと思う。

世間様に非難されようとも、どうにもならない心理に陥った人間の弱い感情は、いとも簡単に親子心中だって考えてしまう。事実、私の周囲でもそういう残念な事件はあった。病院側の姿勢はまさに天の救いにもなり得るわけだから、なんとか維持されて欲しいと思う。

軽蔑されたり、批判されることは百も承知だが、やはり障害児という予想もしなかった事態に直面すると、頭の中にあったはずのタブーとか倫理観は途端に脆いものになってしまう。

コメントをくださったお父さんが言っていた「どす黒い感情」も当然のように心の中から消えてくれない。

私自身、あきらめに近いニュアンスでの「受入れ」は何とかこなしているが、可愛く育ってきたチビを前にすると、ふとした瞬間にネガティブな人様には言えないような感情が頭をもたげることがある。

人間なんて弱い生き物だから感情に起伏があって当然だが、絶望感、厭世感みたいな渦に巻き込まれると、受入れたはずの現実が途端に恐ろしくなる。

こういう心理状態に陥った人を怪しい宗教団体なんかが狙ってくるのだろう。まあ、宗教にすがりたい人自体が、ジャンルやテーマはともかく、自分では受入れきれない厄介事を抱えているわけだから仕方がない。

実際に、私自身もダウンちゃん問題でネガティブな状態になっていると、家人から「教会に行け」と言われることがある。

考えてみれば失礼極まりない話だ。ダウンちゃんが誕生した時に、私の助言や激励を一切無視して、徹底して受入れることを拒否していたクセに、喉もと過ぎたらナンタラで、今になって私のことを心の狭い気の毒な人間のように言うのだから堪ったものではない。

あるデータによると、障害児を授かってしまった親の60%が離婚するとか。スンゴイ数字だが、世間的に障害児を持つ親の話が出てくる時は、当然残り4割のほうの涙ぐましい話ばかりだから、裏側にある暗い事情は封印されちゃう。

そんなもんだろう。

さてさて、そんなイジイジした話ばかり書いていても仕方がない。

5歳半になったわが家のダウンちゃんは、相変わらず異常にゆったりとしたペースで発育している。言語のほうは一向に改善されないし、まだまだ1歳半程度の能力しかない。

とはいえ、最近は以前よりも私とのコミュニケーションも取れるようになってきたから、その分、眼を細めたくなる部分も増えてきた。

それでも不思議なもので、可愛いと思えたり、誉めてやりたいような行動を見ると、逆に程度の低さというか、出来ることのレベルを再認識してタメ息をついてしまうこともある。

結局、情けない話だが、ありのままに受入れるという次元に到達していないのが私の現実なんだろう。魂のレベルが低いのだろうか。

なんかグチっぽい話になってきてしまった。

遺伝に関係なく、古今東西1000人に一人の確率でダウン症児は生まれる。「育てられる人のところにしか生まれない」などという麗しい話を何度も聞かされたが、肯定できるほど私の人間性はこなれていない。

それでも前を向いて進むしかないわけだからイジイジしていても何も生まれない。

せいぜいカラ元気バリバリで日々を過ごすしかないのだろう。

ちなみに似たような環境で苦悶する新米パパさんやママさんには、とにかく「外の力」を遠慮なく借りることを強くお勧めしたい。

抱え込んだら何事もうまくいかない。束の間でも預かってくれるサポートの人や、関係機関、民間の組織など、いざというときの手段をあらかじめ情報収集することが必要だ。

今日は、ダウン症児を授かった人達に向けて、少しでも前向きな気分になるような話題を書こうと思ったのだが、ついつい自分の愚痴に終始してしまった。

まあしょうがない。それが現時点での本音なんだろう。

カッコつけてもしょうがないし、ケセラセラで行くしかないのだろう。

暗い話でスイマセン。

次回からまた能天気な話題に切り替えます!

4 件のコメント:

むらさき敷布 さんのコメント...

他のカテゴリに
はじめましてのご挨拶をさせていただきましたが
こちらにもコメントを書かせていただきます。

ダウン症のお子さまがいらっしゃるご家庭の様子を
それとなく耳にしたり読んだりはしていました。
努力の様子が美化されたり、
反面、絶望だけが強調されたものもありました。

こちらのブログは一歩踏み込んだ心境が、
バランスよく率直につづられていると感じました。

暗い部分を綴っても、なぜかそれが深刻に感じられないのは
きっと文章全体を覆っている軽妙な筆致と、
基本的なお人柄の温もりではないかと思います。

それは同じような環境にあられるご家庭に
勇気と励ましを与えられるものではと、
とてもうれしく感じました。

銀座の夜の部のエロおやじさまのキャラクターも、
一肌脱いでの総合的な温もりなのですよね?

富豪記者 さんのコメント...

むらさき敷布さま


努力、絶望。すべて嘘偽りの無い本音だと思います。

中途半端に書きなぐっている私の雑文の方がよほど世間体を気にした邪念に満ちた書きぶりなのかもしれません。

いずれにしても、必死になる気持ち、ただ絶望したい気持ち、すべてが降りかかってくるのは確かみたいです。

変な言い方ですが、どうしていいかわからないというか、なるようになれ~って気分に落ち着かせるしかないんだと思います。

匿名 さんのコメント...

こんにちは。
ダウン症・男の子・1歳の親です。

唐突ですが、
施設へ預けたり、養子に出したりする話は奥さんとの間であがりましたか??
また、もしそういう話になっていたとしたら、どうやってその気持ちを押し込めることができましたか??

私・主人ともに、どうしても一生の負債を背負ってしまった気持ちからぬけだせず、施設へ預けているのですが、このまま気持ちが変わらないのであれば養子に出す選択をしようとしています。
自分の子供は自分で世話することから外れている以上、命の選別?をしてる以上、人として間違った選択であることは重々承知ですが、何をしていても、どうしても気持ちが前を向きません。

なのでブラックな感情を持ちつつも、それを押さえながら生活をされている様子を読んで、素晴らしいなと思ってしまいました。自分自身が子供なので、気持ちをおさえながら一緒に生活することができません。

変な質問ですが、なぜ一緒に生活をしていくことを選択されているのでしょうか。
お返事いただければ幸いです。

富豪記者 さんのコメント...

「ダウン症・男の子・1歳の親」様

返信が遅くなって失礼しました。

コメント、何度も読ませていただきました。

施設に預けたり、養子に出す話は当然、夫婦間で話し合いました。というか、その前提でしか話をしていなかった時期もあります。

国際養子の制度も調べましたが、正直なところ、なかなか核心に迫る情報を得ることが出来なかったのが現実でした。

やはり、そういう話は簡単に表に出ているはずもなく、率直に言って、そういう具体的な情報に辿り着けなかったからあきらめてしまったと言ってもいいかもしれません。

今思い返しても、当時、もし預けっぱなしに出来る施設を見つけられたら、もし養子に出す仕組みにたどりついていたら、そっちの選択をした可能性は強かった気がします。

カッコつけずに本音を言えば、「逃げたかったのに逃げられる手段を見つけられなかった」から一緒に刳らす道を選んだだけだったのかもしれません。

事実、その後は、最大限、一時預け施設等を利用させてもらっていますし、夏休み期間も含めて月曜から土曜まで、朝から夕方まではいくつかの施設に通わせています。

将来的にグループホームで暮らすような生き方をせざるを得ないと考えているので、親元べったりだけが本人にとっても最良とまでは言えないと考えています。

今になっても、当時、一緒に暮らす選択をしたことが正しかったのだ!と胸を張って言うつもりはありません。

葛藤の中でたまたま一緒に暮らす道しか見つからなかっただけで、それ以外の選択をする人のことをマイナスイメージでとらえる気持ちはさらさらありません。

他人や世間の目は、世の中の一般的な規範を維持するために機能しているわけですが、人の感性なんてしょせんは十人十色です。

「人としても間違った選択」とご自身で言われていますが、そうした社会的な規範みたいなものとの間での熟慮も十二分にされたのでしょうし、それを踏まえた上で、なおかつ、どうにも受容できないことだって人には起こりえてもおかしいとは思えません。

ただ、自分の経験を一つだけ言わせていただくと、当時、「この子をどっかに預けて知らない顔で生きていけたとしても、今の重い気分が晴れるのだろうか」という一点は何度も考えました。

暗澹たる気持ちの日々が、そっちの道を選んだからといって晴々とするのかどうかを何度も自問自答しました。そして、外に出そうが手元に置こうが、きっと同じ気分なんだろうと感じたのも確かです。

などと書くと、もっともらしいですが、最初に書いたように当時は、私自身、手元に置かない選択肢を前提に考えていたのは事実です。

余談ですが、その後、息子の件とはまったく関係ないですが、離婚する道を選びました。

もともとすれ違い夫婦で、上の娘が一人っ子では可哀想だということと、男の子が欲しかったと言うこともあって下の子を授かったのですが、確かに特殊な子供を授かったおかげで一時的には新しい同志的感情のような結束は夫婦間で生まれましたが、その後6年ほどで結局、相容れない状態にどん底まで落ちてしまい、そういう結果になりました。

それでも下の子の事情も事情ですので、手放した元の家にもたびたび顔を出しますし、頻繁に子供には会っています。

スローペースながらも進歩している姿は可愛くもあります。彼の名誉のためにも彼が離婚原因ではないことはあえて強調いたしますが、私の現状としてはそういう状態です。