モノの値段が高いか安いか。こればっかりは相対的だから時に厄介だ。
3千万円のフェラーリ。確かに高い。でも、2年ぐらい乗っても値落ちせずに売却できたりする。500万円ぐらいのアメ車を2年乗り回した後の価値暴落を考えたら、断然フェラーリが安い。アメ車を買う人のほうが散財という意味では“お金持ち”である。
ある人にとって喉から手が出るほど欲しいものを別な人はゴミとして捨てる。そんな価値の多様性を表す話は世の中にゴマンとある。
もっともらしく書き始めてみたが、とくに意味はない。先日食べた「高い食べ物」を思い出していたら、つくづく「値段と価値」は複雑怪奇なものだと感じた。
あっさりした画像だが、実は2540円のラーメンである。薬味は別皿でタップリ用意される。パーコーメンだから揚げた肉の分が割高になるのは分かる。でも、それだって和牛ステーキが乗っかっているわけではない。普通のラーメン屋でチャーシューをブリブリ追加するぐらいの話だ。
でも、すんごくウマい。美味しさを表現するボキャブラリーが乏しいことが残念だ。スープを一口すするだけでジンワリ滋味が身体中に染み渡る感じ。パーコーも甘みを感じる肉とスープと適度に馴染んだ衣のコンビネーションがバッチグーである。
赤坂にあるキャピトルホテルのカフェレストラン「ORIGAMI」での一品である。
ホテルメシだからある程度の値段になるのは仕方がないが、コレが食べたい気分の時には値段のことは忘れてむさぼる。
高いけど、まあいいか、また食おうって感じで納得する。
普通のラーメン屋のラーメンなら600円とか800円だ。安い店ならその半額ぐらいも珍しくない。人気の店だと1000円ぐらいのラーメンもある。
正直、ヘンテコなドブ水みたいなスープが用意されるイマドキのつけ麺に1000円も払うなら、2540円のパーコーメンのほうが充実感がある。
味の好みは人それぞれだが、ギトギトと不健康そうな脂がぐちょぐちょ浮いている汚水のようなスープを有り難がるよりマシだと思う。
吉原のソープ通いを人生の喜びとする知り合いがいる。彼のポリシーは「大衆店に3回行くなら高級店に1回行け」である。
真理だと思う。
2万円の店に3回行くなら6万円の店に1回行けと言うことだ。私も男だ。経験上?、とてもよく分かる話だ。
そういうことだ。どういうことだ?
それにしても2540円のラーメンって、値段に関してはヘンテコである。牛丼一杯250円の時代である。10人が横一列に並んで牛丼をかっ込んでも2500円である。
そう考えると混乱しそうになる。でもウマいから仕方がない。もしかすると「高価なラーメンを食ってるんだもんね」という高揚感も味覚に影響しているのかもしれない。
こちらは2300円のオムライスである。卵はフワフワ、中のケチャップライスにはプリプリのエビがどっさり、そしてドミグラスソースは深い味わい。実に官能的である。
でも、マクドナルドのハンバーガーを23人が横一列になってかじりつく時の値段と同じである。100円ショップで買ってきたカップ麺を23人にご馳走できる値段である。凄い話だ。
これまた脳の回路が「贅沢な一品を食べちゃってるんだぜ」という部分に引っ張られて、ことさら美味しく感じていることも否定できない。
大げさかもしれないが、オムライスは日本の伝統工芸品?である。デパートのレストラン街で出てくる980円ぐらいのトロトロオムライスだって十二分にウマい。
もの凄く美味しくても2300円はさすがにビミョーである。一定レベル以上のオムライスであれば、目隠しされて値段も聞かずに味比べさせられたら2300円が圧勝するとは限らないだろう。
などと、どうでもいい話を延々と書いてしまった。
何だかんだいっても、「日本の洋食」が私の大好物である。ついついその道の高級品にトライしたくなる。
20代の頃、老舗の洋食屋で5千円ぐらいのハヤシライスを食べて財布が悲鳴を上げたこともある。今風に言えば心が折れた感じがした。無意味な闘いというか、意味不明な修行みたいだった。
ちなみにキャピトルホテルの場合は、洋食界のスター?である「スパゲッティーナポリタン」が2500円である。チト謎めいた値段設定である。
まあ、安すぎる洋食の場合、そこらへんの定食屋メシって感じだ。大正、昭和初期に日本人が出会った洋食の高揚感と官能的な喜びに浸るには相応の値段は覚悟しないといけない。
そういいながら、高級洋食の適度な価格帯が掴めないまま、すっかり中高年域に入ってしまった。
計測不能のエンゲル係数は気にせずに、食べられるうちはドカ食いを続けていこうと思う。
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