2013年6月7日金曜日

男気、男らしさ、女々しさ


この頃、「男気」という言葉について考えてしまう。

きっかけは、身長差がウリだった芸能人カップルの離婚騒動。間男に嫁を寝取られたタレントが、多くを語らず淡々と離婚報告をした姿が「男気がある」と評価されたとか。

それって「男気」なのだろうか。単なる常識じゃないのか。お気の毒な話だが、それこそ大っぴらにする話ではないから、男気ウンヌンという次元では無いと思う。

その程度で男気があると評価されるなら、堂々と人様の家庭でコトに及んだ間男のほうが凄い。私の場合、旦那持ちの奥様の自宅でヘコヘコがんばる根性など無い。ついでに言うなら、それを連れ込んだ嫁だって、肝っ玉の据わり方という意味では男気タップリだ。

ちなみに「間男」って言葉もすっかり復権?したみたいで笑える。古き良き昭和の香りが漂うような、どこか郷愁をそそる「まをとこ」という響き、なんとなく好きだ。

話がそれた。

男気を辞書で調べると

「男らしい気質。弱い者が苦しんでいるのを見逃せない気性。義侠心」

だとか。

「男らしい」という言葉自体が抽象的だ。男の特徴はさまざまだ。乱雑とか乱暴だったり、ぶっきらぼうだったり。はたまた、幼稚でつまらないことに熱くなるという特徴もある。

それらがすべて「男らしい」なら、ゴミ屋敷に住んでいるオッサンや、特殊な執着心タップリのオタクの皆さんも「男気」に溢れた人々ということになる。

「男らしい気質」の最たるものは、女性を追いかけたがる点だろう。屁理屈みたいな話だが、突き詰めればスケベ根性丸出しで生きている人は「男気バリバリ」ということになってしまう。

やはり、「弱いものが苦しんでいるのを見逃せない気性」という意味合いのほうが「男気」を測るには的確だろう。いわゆる義侠心だ。

「義侠」とは、強気を制し、弱いものを救うという意味だ。今ではヤクザ者の専売特許みたいに使われているが、大塩平八郎とか赤穂浪士とか、歴史の節目節目で義侠心を持った先人が登場した。

歴史上の偉人に限らず、身近なところにも義侠は溢れている。震災ボランティアに汗を流す人々は、それこそ義侠心の塊だろう。そういう活動をいとわない人のことを「男気溢れる人」と呼ぶべきだろう。

他人の救いになることを率先して出来る人は心から尊敬に値する。私など普段エラそうなことをブツクサ言っているくせに、義侠心で脇目もふらずに活動したことなどまるで無い。情けない話だ。

震災支援とかの特殊な事態に遭遇しなくても、普段から美しい義侠精神を持って生きている人は多い。

街中や乗り物の中で、身体の不自由な人にサッと自然に声掛けや手助けに動ける人を見ると、自分の無能さに呆れる。つくづく口先だけの綺麗事は無力だと思う。

なんだか話がこんがらがってしまった。

今日は冒頭の間男騒動をとっかかりに、男女間における「男気」を考察?しようと思っていたのに、全然まとまらない展開になってしまった。

男女間における「男気」、いや「男らしさ」ほど定義が難しいものはない。「黙して語らず」が男らしさである一方、なりふり構わず何かを訴え続けることだって一種の男らしさのようにも感じる。

たとえば「女々しい」という言葉は、男性に向かって使う言葉である。男の言動、様子を表すための言葉だから、本来的に女々しいこと自体が男性の特徴でもあるのだろう。

我慢して寡黙を通すのも男らしさであり、、女々しいこともまた男らしさである。

男らしく生きたいと肩肘張って過ごしていても、女々しい根性や女々しい方向に突っ走りたい衝動も同時に抱えている。

それが生身の男なんだと思う。


0 件のコメント: