2013年12月6日金曜日

湯河原 「海石榴」 思い込み


紅葉、そして寒い季節。となれば行かねばならないのが温泉である。日本人として必要な嗜みである。

で、温泉に行ってきた。秘境の濁り湯なんかにドップリ浸かって演歌をうなりたい気分だったのだが、手軽な近場で済ませようと湯河原を選んだ。

湯河原には何度も行ったことがあるが、今回は何となく「思い出の旅館」を選んでみた。

亡き祖父が好きだった宿だ。旅館よりホテルが好きだった祖父がナゼかそこだけは気に入っており、2度ばかりお供させてもらった。


「海石榴」と書いて「つばき」と読ませる老舗料亭旅館である。ちょっと高い。でもたまの気晴らしである。あまりショボショボした宿だと切ないので頑張って出かけてきた。

前に行ったのはもう20年以上前のことだ。当時、若者だった自分から見れば、敷居が高かったし、凜とした空気に圧倒されたような記憶があった。

すっかり立派な?オッサンとなり、そこそこ高級旅館も訪ね歩いてきたから、昔よりは余裕ぶっこいて、いや、呑気な気分で過ごすことが出来た。


年を重ねるに連れ、上質なf雰囲気に気押されることが無くなってきてしまった。昔は凜とした空気にたじろいだが今では妙に心地良かったりする。

それって、ある意味残念なことでもある。実は「真性のM」である私としては、たじろぎたいし、おどおどしたい。変な言い方だが、高級旅館で非日常に浸るにはそんな気分も大事だと思う。

20代の頃にオドオドした気分で過ごした宿だから、今回も期待していた。でも私が図々しくなったせいで、ちっとも緊張せずにホゲホゲ過ごせた。

ホゲホゲ過ごせたわけだから快適だったわけだ。文句をつけるわけではない。でも、何となく「普通」という印象だけが残ってしまった。

例えて言うなら、「昔々に恋い焦がれた女性に久々に遭遇したものの、自分の中でその人を美化し過ぎたせいで拍子抜けしちゃったような感じ」である。

その女性のせいではない。美化しすぎてしまった自分の感覚のズレの問題である。

若い頃の鋭敏な感受性が無くなったのか、はたまた、この20年で贅沢になり過ぎたのか、ひょっとすると旅館自体の質が変化したのか。ビミョーである。きっとどれも少しずつ正解なんだと思う。

「海石榴」も昔はもっと“突き抜けた感じ”があったが、世の中全体がマイルドになってきたのと同様、どこか普通に近づいてきたのかもしれない。



誤解の無いように説明すれば、充分に上質だし、中途半端な宿に泊まるなら、こちらを選んだ方がいい。

館内も清潔だし、部屋も広い。露天風呂付きの部屋も結構な数にのぼる。サービスも丁寧だし、文句をつける部分は無い。

チェックアウトは昼の12時までである。露天風呂付きの部屋ならそんな時間まで湯あたりしていられる。凄いことだと思う。

料理も普通に美味しい。少しずつ色々なものが出てきたが、マズいものは一品も無かった。

でも“突き抜けた感じ”ではなかった。勝手な思い込みかもしれないが、昔はもっと圧倒されるような上質な料理が出されていたように思う。






今回もすべて美味しく食べ尽くしたが、あえて言うなら「温泉旅館料理」という範疇のウマさに留まっていた気がした。

随分エラそうな書き方である。イヤミおやじである。スイマセン。これも思い込みのせいである。“突き抜けた感じ”に憧憬の念を抱きすぎたせいで(大げさでスイマセン)、ついつい四の五の言いたくなってしまったわけだ。

思い込みが強すぎると損をする典型みたいな話だ。素直にはしゃいでいればいいのに、昔の勝手なイメージが膨らみすぎて、その呪縛のせいでブツブツ言ってる感じ。バカである。もったいない話だ。

この「海石榴」、何年か前にどこかのファンドに経営権を手放し、その後、北海道を基盤に小洒落た温泉ホテルチェーンを展開する会社の傘下に入ったという話を聞いた。

東京人にとって湯河原の名旅館がそういう経緯をたどっている話を聞くのは何となく淋しい。そんな「邪念」もついつい宿の印象を斜めから捉えてしまった原因かもしれない。

ちなみに、この宿より価格も質も落ちる宿でも大満足することは珍しくない。でも、要所要所を比べればそうした宿より「海石榴」のほうが断然良かった。なのに素直にバンザイできない自分こそが残念である。

やはり一時代を築いた有名宿という看板のせいで、私のイメージが膨らみすぎたのだろう。

思い込み。憧れ。実に厄介な感覚である。フラットな気持ち、平常心で過ごしたほうが間違いなく幸福だと思う。

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