今年は結局、潜水旅行に出かけないで終わりそうだ。学生時代に始めたダイビングは通算のキャリアこそ30年近いが、ここ数年はすっかり海に行く機会が減った。
ブランクを1年以上開けないことを自分の中のルールにしてきたが、去年の5月に潜ったのが最後だから全然ダメである。
最近も石垣島に潜りに行こうと誘ってくれた人がいたのだが、歌手活動?が忙しくて断念してしまった。
来年こそは仕切り直そうと思っているが、どうなることやら。まあ、せっかく長続きした趣味だから続けるようにしたい。
20代の後半から30代の前半はそれこそ無理やり時間を作って「遠い海」を目指した。何かに取り憑かれたようにカリブ海に通っていた時期もある。
地球の3分の2が海である。日本自体が海に囲まれているのだから近場でガンガン潜ればいいのに、当時の私にとっては、遠ければ遠いほど冒険心がくすぐられた。
遠くへ生きたくなる感覚、それを億劫に感じない感覚は若さの特権だったのだろうか。
飛行機の狭い座席に10数時間押し込められ、そこから2度3度と乗り換えて到着するハードな日程もヘッチャラだった。今は毛嫌いしているプロペラの小型機にも我慢して乗っていた。
情熱に突き動かされていた。あそこまでの熱さが今の自分には足りない。すぐにノンビリゆったり楽な方法を選んでしまう。
反省しないとダメである。自分で自分の行動を退屈なモノにしているわけだから、若い頃を思い出して邪念抜きに猪突猛進すべきだと痛感する。
さて、南国の話だった。
バリバリダイバーがこぞって出かけるパラオやモルディブなどにも行ったが、元来のアマノジャク気質のせいで、どこかマイナーだったカリブ海に惹かれた。
英国領グランドケイマン、メキシコ側のカンクン、コスメルには2~3回づつ出かけ、ジャマイカ、ホンジュラス、ボネール、キュラソーにも足を踏み入れた。
普段潜っていた太平洋と比べると大西洋側の海は生き物の様相も随分と異なり、浜辺から眺める海の色もどこかソーダブルーのような印象的な色合いだった。
何度も行くうちに、結局、魚種の豊富さでアジア海域のほうが圧倒的に面白いことを再認識したが、カリブ海リゾートの陸上の雰囲気に魅せられて、一時期はハマっていた。
英語もしゃべれないくせに随分と無鉄砲だった。でも、あの一生懸命さは、いくつになってもどんな場面でも絶対に大事なことだと思う。
結局、好きなことを無鉄砲を顧みずに堪能することが遊びや趣味の醍醐味なんだと思う。
イマドキの若い人は冒険心で旅に出ることが少ないらしいが、実にもったいないことだ。
「遠い海」といえば、エジプトの紅海も印象的だった。ロンドンを経由してようやくカイロに降り立ったのに観光もしないで海沿いのリゾート地へ乗り継いで潜ってばかりいた。
砂漠気候、すなわち雨が降らず、川もないエリアだけに海中の透明度が素晴らしかった。いま思えば、もっとノンビリとリゾートの時間を楽しめば良かったと思うが、当時はただ水中にいることが幸せだった。
だから私にとってエジプトの記憶といえば魚のことばっかりである。
遠い海、遠い場所に出かけると、心細さとか疎外感を感じるのが常である。そんな感覚を妙に楽しく感じるM?っぽい性格のせいで、どの旅もすべて楽しい記憶しかない。
自分の無力さ、ちっぽけさ、まるで頼るもののない状態をヒシヒシと感じることで、ある種、心のデトックスみたいな清々しささえ感じる。
自分と向き合う瞬間が持てることが旅の面白さだが、「遠い場所」になればなるほどそんな感性が強まるような気がする。
カリブ海で見たドラマチックな夕陽、紅海で見たやたらと高くて広い空。普段の生活の場からはあまりに遠いせいで、いつも見ている夕陽や空とは異質なものに見えてくる。
そんな情景に心が揺り動かされた日々を思い出すたびに、年齢を重ねても感性を劣化させてはいけないと自分に言い聞かせている。
昔から、若いうちに旅をしろと年配者達が口を酸っぱくして言っていた意味はそこにある。
若い時に受けた刺激はその後の人生において栄養になるし、年齢を重ねた時に自分の感性が腐っていないかの尺度にもなる。
もちろん、「遠い場所」で得る刺激は若者だけでなく、中高年になっても大事な体験だろう。
若い頃には持ち合わせなかった「大人の眼」があるのだから、年輪を重ねた「眼」にその場所の景色がどう映るのか、それを感性がどう消化するのかを楽しめばいい。
こんな事を書いていたら、また旅に出たくなった。マイルもやたらと貯まっているし、思い切ってどこかに行きたいけど、あれこれ野暮用もあるからしばらくは無理そうだ。
旅にまつわる格言は山ほどある。
「旅は人を謙虚にさせる」
「旅は自分自身の中へ行くこと」
まったくその通りだと思う。
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