つくづく人の運命は分からない。同級生が急逝したことで実感した。仲間内でもとくに元気なヤツだったのだが、前触れもなく逝ってしまった。
前日の夜は近所に住むお兄さんと普通に酒を飲み交わしていたそうだ。本人にとっても想定外だったはずだ。どれだけ無念だろう。
今日は彼のお通夜だ。認めたくないけど認めざるを得ない。アイツの遺影に手を合わせて焼香するなんてまったくイメージできない。行きたくない。あらためて葬儀というものは哀しい現実を受け入れるために必要な儀式なんだと思う。
幼稚園から小、中、高校とともに過ごした。小学生の頃は一緒に悪ふざけばかりしていた。とことん明るく、バカ話が大好きな男だった。
子供の頃からサッカーが抜群に上手で、高校の時は国体の東京代表にまで選ばれて、後にJリーガーになるような連中と渡り合っていた。
喧嘩もした。当時、少林寺拳法をかじっていた私とジャレ合っているうちに、どっちのキック力が強いのかで争いになり、蹴り合いだけのヘンテコな喧嘩をした。こっちが一発ケリを入れる間にヤツからは二発のケリが飛んできた。悶絶した。
大人になってからも底抜けの明るさは変わらず、歯科医として活躍するようになってもキャラは昔とまったく同じで、子供の頃からちっとも進歩がないケッタイな話で場を盛り上る男だった。
去年の春と夏に飲んだときもヤツの“絶口調”ぶりにみんなで腹を抱えた。節制してスマートになり、他の誰よりも若々しい様子だったから、尚更、急な訃報が信じられなかった。
昨年末にFacebookでやり取りした際の「また飲もう」が最後のやり取りになってしまった。
「また飲もう」。しょっちゅう使っている言葉だ。何気なく使っている「また」とか「そのうち」が二度と実現しないことになるなんて日頃は考えもしない。でも現実に起こりえる。切ない。
「苦しまなかったようだからよかった」「お子さんが小さくなくてよかった」等々、せめてもの救いになるような話を友人達と語り合う。そんなことしか言葉が出ない。
もっともらしい言い方だが、本人にとってみれば「もっともっとやりたいことがあった」、「大学生の子どもが大人になっていく姿を見たかった」ということでしかない。
無念を残さずに逝ける人などいないはずだが、あまりにも突然人生の幕が下りてしまった彼の無念さはどれほどのものだっただろう。
もちろん、残されたご家族にとっても無念の一言だと思う。今はどんな慰めの言葉も空虚に響くだけだろう。
喪失感の大きさは他人に推し量れるものではない。心の痛みは時間が経つことだけでしか和らげる方法がないから、落ち着かれる日が来るまで時間が駆け足で進んで欲しいと思う。
人は必ず死ぬ。そんなことは百も承知だが、51歳になったばかりの彼の早すぎる死は、否が応でも様々なことを教えてくれる。
日々の何気ない瞬間がとても大事だということはもちろん、「また今度」や「近いうちに」という気軽な約束に保証などないという切ない現実もそうだ。
ヤツの訃報を聞いて以来、どうにも心がザワつく。やるせない気分が晴れない。そんなことを書くと「カッコつけちゃってよ~、バカじゃないの!」と彼から突っ込まれそうだ。
くだらない話を必死の形相で語る姿、スケベな話で嬉しそうにハシャぐ姿、少しシビアな話でも照れ隠しですぐに笑い話に切り替えようとしていた繊細な気配り・・・。
すべてが思い出になってしまった。
また会いたかった。
合掌。
2017年3月8日水曜日
また会いたかった
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