時々、思いつきで特製パスタを作る。私にとって「特製」とは「適当」という意味である。
本格的に料理をするのは何となく負けた?ような気がするので、安直かつテキトーにチャッチャと出来るパスタはシングルオジサマ向きである。
この日の素材はカキとキャベツと昆布の佃煮である。瓶詰めのみじん切りガーリックと同じくアンチョビペーストをオリーブオイルで熱しながらカキに火を通し、そこにフジッコ煮を投入。
パスタはリングイネを使用。標準茹で時間12分のところアルデンテにするために7~8分程度で引上げ、フライパンで待機する上記のソースと絡めながら炒めて味を微調節する。
キャベツは適当なサイズに手でちぎってパスタを茹でている時に鍋にぶち込む。茹ですぎないためにパスタを引き上げる3分前ぐらいに投入するのがポイント。
これだけで結構ウマいパスタが完成する。人様に出せるレベルだ。包丁もまな板も使わず、パスタを茹でる鍋とフライパンだけ。横着そのもの。
そこそこ長く生きてくると、何をどうすればどんな感じで美味しくなりそうか、少しは想像がつくようになる。
年の功である。ダテにいろんなものを食い散らかしてきたわけではない。一応は経験として蓄積されているわけだ。
と、エバったことは言いながら最近つくづくうらやましいと思うのが若い人の味覚経験の伸びしろである。
なんだかクドい言い回しになったが、若ければ若いほど「初めて食べるウマいもの」がこれからワンサカ待っていることが実にうらやましい。
時々、若い人と食事をともにすると結構な頻度で目ン玉ひんむいて衝撃を受けている姿を目撃する。
あの喜びは人生の中でもトップクラスの喜びだと思う。食欲は人間の欲望の中でも性欲と並ぶものだ。いわば初めて女性の生乳?に触れた時のアノ感動と同じ喜びが初めて味わうウマいものの喜びである。
意味不明でスイマセン。
私自身、思い起こせば衝撃的にウマかった初体験はいくつもある。初めて飲んだマックシェイク、初めて食べたフィレオフィッシュ。いずれも幼稚園の頃だが鮮明に覚えている。
昭和40年代である。日本がまだ後進国の時代?である。そりゃあビックリした。幼な心に興奮した記憶がある。ハンバーガーはハンバーグだからどうってことはなかったが、タルタルソースは強烈なインパクトだった。
同じ頃、初めて口にした「焼肉のタレ」にも衝撃を受けた。焼肉屋さんが今のようなポピュラーじゃなかった時代だ。
ニンニクが苦手だった祖父だか祖母の影響で焼肉屋さんに行ったことがなかったのだが、ある日、母にせがんで連れていってもらった。
肉の美味しさよりも、あのタレの味が初めてだったので、兎にも角にもタレタレタレ!って感じで、タレをヒタヒタ塗りまくったライスをドカ食いした。
イマドキの焼肉屋では「塩でどうぞ」などとフラチなことを言われるが、私は今も昔もこの先もタレ派である。
カルボナーラにも興奮した。ミートスースかナポリタンしか知らなかった昭和の子供の前に現れたクリーミーな憎いヤツである。萌えた。
大人になってからはアワビの肝に悶絶し、フグの白子に卒倒し、生きているマイカのはらわたのウマさに天地がひっくり返る思いをした。
他にも例を上げればキリがない。無添加生ウニだのカラスミだの子持ちの鮎だのイバラガニの内子、上海ガニのミソといった酒飲みの相棒はもちろん、ポルチーニのパスタやゴルゴンゾーラのリゾット、はたまたバンコクあたりで人気の蟹のカレー炒めなども初めて食べた時に目玉が飛び出そうになった。
ついでにいえば、ういろうを初めて口に入れた時の驚きや赤福を知ったときの感激、フルーチェを初めて自分で作って食べた時の絶頂感なんかも死ぬまで忘れないかもしれない。
初体験のアノ表現しがたい感動や感激は、二度目以降は急速にしぼんでいく。もちろん、ムホムホ言いたくなるほどウマいのだが「初めての衝撃」にはかなわない。
似たような言い方をすれば、ポピュラーな食材でも正しくウマい本来の味を知ってしまえば、格落ちの品に喜びを感じられなくなる。
ウマいカニを知ってしまったら、安い旅館のバイキングで出される食べ放題のカニを避けちゃうようなことである。
「知ってしまった悲しみ」などと表現すると気取り過ぎだが、若い頃は旅先などで未知の味にむしゃぶりつくのが物凄く楽しかった。驚きと興奮が美味しさを更に高めてくれていた。
もちろん、今だって未知の味はいくらでもあるのだろうが、あったとしても既に知っている何かの延長線上だったり、アレンジが変わっただけだったりする。
年齢とともにすべての面で感度が鈍ってくるのは当たり前だが、それが今までの蓄積のせいなのかと思うとチョッピリ切ない。
まだまだ初体験の興奮を求めてさまよいたい。
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