夏真っ盛りの風物詩といえば蝉しぐれだ。ジージー、ミンミンと響く鳴き声を騒々しいと捉えるより情緒と受け止めるのが大人の嗜みだと思う。夕暮れ時のヒグラシの音色は自然界の音の中でも最も情緒あふれる珠玉の響きだと感じる。
いつの頃から蝉しぐれに強く郷愁を感じるようになった。子供の頃には無かった感覚だ。いまや桜を見るのと同じような気持ちで蝉しぐれの中に身を置いている。「あと何回この音色を聞いていられるのかなあ」という老境みたいな気持ちになる。
蝉しぐれという言葉もまた魅力的だ。漢字で書けば蝉時雨だ。時雨とは通り雨のようにパラパラと降る雨を意味する。セミの鳴き声に包まれる時の表現として実に美しい。
土の中で長い年月を過ごし、ようやく地上に出ても短い日数で死んでいくセミの姿に昔から日本人は“もののあわれ”や命のはかなさを投影してきた。音色の美しさも一瞬の輝きに過ぎないわけで、そこに尊さを見出すところは日本人の国民性とも言える。
と、なんだか仰々しく書いてみたが、セミに関するウンチクはワイ談にも応用出来るので、私自身、飲み屋などでセミ談義に花を咲かせることは多い。
何といっても鳴くのがオスだけだという現実の切なさが良い。ミンミン、ジージー、カナカナなどそれぞれの音色は交尾相手を求めるオスの叫びである。いわば「やらせてくれ~!」と主張し続けているわけだ。
数年もの間、静かに土の中を這いずり回り、成虫になってやっと地上に出ても一週間とも言われる短い余生をひたすら「やらせてくれ~!」と叫び続けるわけだ。切ない。実に切ない。同じ男として深いシンパシーを覚えずにはいられない。
考えてみれば、鳴いているセミは晩年期である。若々しかった頃の姿ではない。人間に例えるなら中高年というか老年である。にもかかわらず交尾のことだけを考えて余生を過ごしている。身につまされる話ではないだろうか…。
人生の後半になってセックスのことだけを考えるなんて「紀州のドンファン」もビックリのエネルギッシュさである。ある意味うらやましい。男なら見習わないといけない姿勢だろう。
平均寿命までまだまだ随分と時間が残されているはずの50代、60代の男性ならば人生の教訓はセミから学ぶべきなんじゃないかとさえ思う。
「しずけさや岩にしみいる蝉の声」。日本人なら誰もが知っている俳句である。松尾芭蕉が晩年に詠んだものだ。芭蕉先生も人生後半戦のもどかしい気持ちをセミを通じて痛感していたのかも知れない。
蝉しぐれに郷愁を感じるのは誰もが持っている夏そのものへの強い印象も影響している。四季の中でも一番エネルギッシュな季節が夏だ。人生を四季に例えるならば夏は多感な青年期にあたる。
井上陽水の名曲「少年時代」にしても晩夏の頃を情感たっぷりに描いているように誰もが甘酸っぱい記憶といえば夏を舞台にしている。
風鈴の響き、蚊取り線香の香り、はたまた甲子園のサイレンの音色、かき氷にスイカ…。風物詩も思い返せばキュンとくる情景がいくつも浮かぶ。それらの情景のBGMといえばどうしたって蝉しぐれになる。
誰もが持つ「いつかの夏」への思い入れは蝉しぐれと切り離しては考えられない。だから歳を重ねるごとにセミの鳴き声に対して一種独特な愛惜の念を感じるのだと思う。
このブログも15年ぐらい書き続けてきたが、夏も盛りになると毎年のように蝉しぐれについて書いてしまう。別に新しい発見など無いのだがそれでもなにか書きたくなる。
来年も再来年もその先も平穏無事に蝉しぐれの話を凝りずに書いていられるように過ごしたいものだ。
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