2010年11月8日月曜日

外国人指導者

プチ右翼的要素がある私にとって、「外国人指導者」という存在がどうにも気になる。まあ日本が何でも一番というわけではないのだから、弱い分野は積極的に外国人の指導を受けるべきなんだろう。

プロ野球の世界でもアメリカ人監督は今だに根強い人気があるが、かといって抜群の成績を残した人物もいない。やはり、野球に関しては、「ベースボール」とは違う競技として成熟している証しだ。

フィギュアスケートやサッカーあたりだと外国人指導者こそ絶対みたいな風潮がある。実際にその成果はしっかり出ているようだ。サッカーワールドカップにしても岡田監督は単なる消去法で指揮を執っていただけで、本来なら外国人監督の指定席だ。

外国人指導者を招く利点は数々あるが、なかでも大きなポイントになるのが「しがらみの無さ」だろう。頭では分かっていても、しがらみにとらわれる弊害はどんな分野でも起こりえる。

冷静沈着な第三者的目線を貫き通すのはなかなか厄介だ。それを打ち破るためには外部の力に頼るのが手っ取り早い。だからヨソの世界での豊富な経験を「異国感覚」として有難がることになる。

スポーツの世界だけではない。すっかり定着した大企業の社外取締役制度にしても発想の源は同じ。しがらみの無い第三者的目線につきる。

つぶれかけていた日産自動車が立ち直った際もゴーンさんを連れてきて徹底的な理詰めの改革を断行した。しがらみのある内部関係者では無理だったんだろう。

事業の廃止や工場の閉鎖だって、外から見れば常識的なことでも社内的には天変地異ぐらいの衝撃がある。どこの企業だってそうだろう。主力商品、主力部署だと信じていたものが企業の足を引っ張っていることだって珍しくない。

そうした現状分析をする際に内部の感覚だけだと必ず狂いが生じる。過去の成功体験を引きずっていれば尚更冷静な判断はくだせない。

鉄道を名乗りながら電車を走らせていない会社やフィルムを社名に冠しながらフィルム事業から撤収する会社など、大胆な構造転換を実現するには膨大なエネルギーが必要だろう。

欠かすことの出来ない必要最低限の要件が「冷静沈着」および「第三者目線」ということになる。

笑えない話だが、中小同族会社などは同族関係者がいなければ業績が好転するという話もある。中小同族会社はオーナー自身の踏ん張り無くして成り立たないのは間違いないため、そんなブラックジョークには腹も立つ。ただ、一面的にはそういう指摘ももっともだろう。自分自身のコストを考えると遊んでばかりいられないと痛感する。

経済政策をめぐる国会論戦が熱気を帯びてきた。せっかく政権交代を成し遂げた民主党政権だが、どうも斬新な政策が見えてこない。旧来型の調整に終始するのならガッカリだ。

新しい政策を考えるうえでも重要になるのは第三者的目線だろう。多くの場合、前例や慣習は、しがらみと同意語になりえる。政権交代を選択した国民が求めているのは「チェンジ」である。官僚の振り付けで踊るだけなら背信行為そのもの。

明治維新を成し遂げた新政府は数多くの外国人顧問を招き改革の知恵を授けてもらった。もちろん、先進国と呼ばれるようになった現在とは社会情勢がまるで違うが、広く外から学ぶ姿勢は必要だ。

前例、慣習、思い込み、そして曖昧な常識だけでは改革は不可能。転換期にある国を引っ張る政権には「異人感覚」を大事にして欲しい。

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