2015年10月30日金曜日

なんとなく仏像


いよいよ仏像である。オッサンくさい趣味と言われそうだが、ここ1~2年、どうにも仏像が気になって仕方がない。

気になっているくせにまったく知識が無い。大人の常識として問題である。少しだけでも勉強することにした。


勉強といっても大げさな話ではない。入門用みたいな気軽な本を読み始めただけである。

なぜ仏像なのか。改めて自問自答してみた。その答えは「表情」に尽きる。あの穏やかな顔立ちに心が安らぐ。

思えば、ここ数年、自分の周りにいる人や関わり合いになる人達の「人相」がやたらと気になるようになった。これまた人相学という次元ではなく、私自身の直感的な印象の話である。

安倍首相の人相が日に日に悪くなってきているように人の顔付きは簡単に変化する。

安定的に人相の良い人は心が平穏な状態なのだろう。逆に人相が悪くなる人は心が荒れているわけだ。

どうせなら穏やかな人相の人に囲まれて暮らしたいものである。

で、仏像である。穏やかな表情という意味では最上級である。さすがにホトケ様である。柔和な表情は見ていて飽きない。

如来と菩薩の違いすらまったく知らなかった私である。怖い顔をした仏像、哲学的な表情の仏像もたくさんあるが、やはり私が親しみたいのは柔和な表情の仏像である。

超初心者として仏像に興味を持ち始めたことで、日々知らなかったことをフムフムうなずいて感心できるのも楽しい。

薄い衣一枚しか羽織っていないことや手の向きや形、持ち物からパンチパーマみたいな髪型などすべてに意味があるわけで、そんなイロハのイから研修中?である。

ただ、年齢のせいか吸収した知識をすぐに忘れてしまうことが問題である。京都、奈良、鎌倉あたりで現地視察に励む必要があると思う。老後の趣味にするのも悪くない。

ちなみに、老後の趣味候補としては、以前から「日本の城めぐり」を課題にしているのだが、全然実践できていない。熱しやすいけど冷めやすい性格だとは思わないのだが。

仏像と城。どっちでもいいから人並み以上に詳しい爺さんになってみたいものである。

少し話が飛ぶが、ヨーロッパを旅していると、何百年もの歴史を持つ壮麗な教会がゴロゴロある。それはそれは立派で、宗教イコール権力だという現実が垣間見えて興味深い。

建築物そのものの豪華さには溜息が出るし、荘厳な様子にたじろぐことすらある。でも、そんな西洋文明の象徴なような場所を見れば見るほど、日本の古い寺が持つ「わびさび」的な美意識の独自性や面白さを逆に痛感する。

人々の心の拠り所である宗教施設の様子を見比べることは、文明や歴史、世界観の違いを体感するうえで一番手っ取り早いことかもしれない。

偶像崇拝を厳しく禁止してきたキリスト教の場合、教会がどれだけ立派だろうと、日本の寺のような「ご本尊」はない。あくまで神をイメージさせる場所、祈りの場としての教会があるだけだ。

日本的?な感覚だと祭壇の周りをキョロキョロしながら立派な御本尊を探したくなるが、ここが大きな違いである。

日本の由緒ある寺では、本尊である仏像そのものが信仰の対象というケースが多い。当然、仏像自体の来歴や逸話も多く、作り手である仏師の社会的地位も高かった。

まあ、そんなゴタクを並べるまでもない。日本人の魂というか、DNA的な宗教心をベースに精魂込めて作られた仏像の一級品は、表情や顔立ちの素晴らしさが圧倒的である。

ボンヤリとご尊顔を眺めていると吸い込まれそうな錯覚すら覚える。画像はネットでパクリました。スイマセン。


怖い顔をした仏像を見ていると自分の心の醜さを見抜かれたような気まずさを感じる。その反面、穏やかな仏像の表情はこちらのダメっぷりを肯定してくれたかのような安らぎを感じる。

日常の生活も似たようなものだ。穏やかな人相の人と一緒にいると自分まで気分が穏やかになる。とはいえ、現実社会では悪相に囲まれてばかりで辟易とすることが多い。疲れる。

そんな疲れた気分が仏像の表情に引き寄せられる原因なのかもしれない。何かと弱っている人が宗教に引き寄せられてしまう感覚と似ているのかもしれない。

数年後、自宅が仏像だらけになったらどうしよう・・・。

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