2016年2月8日月曜日

野菜を食べるために

野菜を食べない日々である。元々苦手だし、一人暮らしだから積極的に野菜と仲良くする機会はない。

青汁も毎日飲んでいる。サプリもあれこれ飲んでいる。血液検査の数値もとくに問題はない。それでも野菜を食べないとダメなのだろうか。

血液検査で異常がないなら野菜を食べる必要ってホントにあるのだろうか。血圧だって安定している。何の目的で野菜を摂らねばならないのか分からない。

ひょっとすると、国の農業政策や貿易政策のために騙されているのではないだろうか。ホントは野菜なんか食べなくても何ら健康には関係ないのかもしれない。

常識を疑え!って感じだ。もしそうだったらビックリである。そうであって欲しい。ライオンだってトラだって野菜を食べなくてもあんなに元気だ。

一応、世間にはびこる固定観念のせい?で野菜を食べないことがいっぱしの大人、いや、立派なオジサマとして何となく引っかかる。

カツ丼に載ってるグリーンピースを排除したり、ハンバーグの付け合わせのニンジンを残すと自分が子供じみた感覚の人間なのかと少しばかり気になる。

でも私が口をつけずに残しておけば次のお客さんに使えるだろうから良しとしよう。

食べたくないものを食べるのはイヤだ。許されるなら好きなものだけ食べていたい。

野菜という存在のせいで日々私の心はザワついている。

寿司屋、ウナギ屋。外食中心の私がとくに好きな路線である。共通するのは何か。そう、野菜が出てこないことである。

素晴らしいことだ。これらの店では、女性の連れがいても「ダ~リン、サラダ食べていい?」などとケッタくそ悪いことは言われずに済む。そんなものはメニューに無いのが普通だ。

さんざん、野菜を愚弄してしまったが、個人的に恨みがあるわけではない。こんな私だって時には自ら進んで野菜料理をオーダーすることもある。

自ら進んで、と書いてみたが本心は食べたいわけではない。その場の雰囲気に呑まれたり、カッコつける時だけである。

たとえば、京都の小料理屋でシッポリ飲んでいたとする。私のポジションはスカした顔で気取っている東おとこである。

おかみさんはまだ30代半ばで未亡人になった美しい人だ。店には2人だけ。空気が艶っぽい。

途切れ途切れの会話をつなぐように「かぶら蒸し、お食べやす・・・」と言われたとする。

そんな時に「野菜は嫌いだ」などとは口が裂けても言えない。「寒い季節にはこれに限るね」と応じながらウマそうに頬張らないといけない。

そういうシチュエーションばかりならきっと私は野菜をたくさん摂取するはずだ。そんなものである。

実際に、ちょっと渋めのカウンター割烹でスカして飲み食いしている時は、着物姿の綺麗なおかみさんがいなくても結構頑張って野菜を食べる。

板さんから旬のウマいものだと勧められたら断りにくいし、ついつい食材や料理についてチンケな知ったかぶりをしている以上、野菜が嫌いなことはナイショである。

まあ、そのような店の場合、野菜といえども普通よりかなり美味しく料理されているのも大きなポイントである。

渋々食べていたはずが、しみじみウマいと感じることも希にはある。


冒頭の画像は銀座の三亀で食べたかぶら蒸しである。この丸っこい素材がダシの魔力によって何ともホッコリする一品になっていた。

緑黄色野菜と呼ばれるジャンルではないが、カブだってバリバリの野菜である。ペロペロ食べたわけだから“自分で自分を誉めてやりたい”って感じである。



こちらはふろ吹き大根の鳥味噌乗せと新タケノコの揚げだしである。

湯島にある割烹「いづ政」で味わった絶品だ。ひれ酒とともにいとも簡単に私を天国に連れて行ってくれた。ふろ吹き大根の画像はやたらと濃そうな感じだが、実際には絶妙な味付けでウホウホ食べてしまった。

このお店、数年前に惜しまれながら店を閉じた銀座数寄屋通りの日本料理「出井」出身の親父さんが切り盛りする湯島の名店だ。

質の高い本格的な料理を豊富なメニューの中からアラカルトで注文できる。たいてい、高水準の店だったらコース仕立てで食べさせることが多いから、このスタイルはありそうで無い。貴重だと思う。

料金は高め。でも納得できるレベル。こういう店があるから「湯島通い」が続いているのだと思う。

なんだか野菜嫌いの話から逸れてしまった。

で、結論。

「野菜嫌い」を信念、いや生きざまとして数十年も貫いてきた私だが、人目を気にする時は、いとも簡単に野菜に媚びたりするヘタレっぷりが少し悲しい。

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