先週の話だが、生のトリ貝の握りを食べた。初物にしては随分早い。季節ごとにこういう出会いがあるからお寿司屋さんで過ごす時間はハッピーだ。
10年以上前にこのブログでお寿司屋さんに関してアーダコーダと書いたことがある。
10年経ったいま、一定水準の価格帯の店に関しては、おまかせ一辺倒みたいな風潮が更に強まった気がする。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2007/11/blog-post_26.html
良し悪しは一概に言えないが、古いタイプの人間としては、なんとなく違和感がある。
確かにプロである寿司職人に、つまみや握りのすべてを委ねていれば間違いはないのだろう。好き嫌いがまったく無く、こだわりも無ければ便利なシステムだ。
悪く言えば、お店側の都合を一方的に押しつけられているわけで、個人的にはやはり好き勝手に楽しみたい思いのほうが強い。
素人レベルながら、若い頃に頑張って寿司研究?に励んだ私としては、せっかく積み重ねてきたこだわりみたいなものを無視されるのがイヤだ。
さほど好きではないものまで食べさせられるとゲンナリする。昔に比べて食べる量も減ったから尚更だ。
ツマミが8~10品、握りが15貫以上みたいなおまかせコースの内容を聞くと耳を疑う。個人的にはフードファイトにしか思えない。
イキかヤボかで言うならば、そんなに量が出てくること自体がヤボな感じがする。それなりのお寿司屋さんって満腹になる目的で行くような世界ではないような気がする。
個人的な意見です。すいません。
まあ、イキかヤボでいえば、産地の違うウニの握りを一同に並べて味比べするほうがヤボったらしいかもしれない。
さて、おまかせ一辺倒のスタイルでは、大げさに言えば客もちっとも育たない。カウンターで丁々発止?する文化が衰退しかねないと思う。
飲食店がネット上で採点や評価されちゃう時代になったことも影響しているのかもしれない。うまい具合に注文が出来ない客にとって、寿司をお好みで食べるパターンは厳しい面もある。
そのせいでネットに低評価クチコミを載せられたら店側は堪ったものではない。そんな側面もあって、バンバンドシドシ食べさせているのかもしれない。
そんなことはないか。。。単純に客単価を上げるうえでも、おまかせという仕組みは機能しているのだろう。
さてさて、寿司といえば、いにしえの少年時代、祖父の「みやげ寿司」を必死の思いで食べていたことを思い出す。
お土産である。子どもの私が寝ていようが、たたき起こされて食べさせられた。寝ぼけていようが美味しそうに食べるのが暗黙のルールだったので、頑張ってニコニコ食べた。
折りにぎっしりとトロやイクラなど子どもが好きそうな握りが詰め込まれていた。ありがたい御馳走なのだが、お腹は空いていないし、眠いし、メンドーだし、本音ではシンドかった。
でも、ムシャムシャ食べる私の姿を祖父はニンマリと眺めていたから、あれも一つの孝行だったのだろう。
私も大人になり、家庭を持ち、子どもも出来て、いつかは私も「みやげ寿司」を持って家に帰ることに憧れを抱くようになった。
子どもが小さい頃は叩き起こせないから、もう少し経ったらと思いつつ、気づけば離婚してしまった。家庭生活の唯一?の心残りである。
「みやげ寿司イコール親父の権威」である。眠そうな子どもに無理やり食べさせてニンマリするという私のささやかな希望は実現することなく今に至る。大問題である。
最近は、太巻きやバラちらしが寿司屋の土産の定番だ。時間が経っちゃった握り寿司より、そっちのほうが賢明なのは分かるが、みやげ握りには何となく“ロマン”がある。
中途半端に乾き始めて形も怪しげに崩れかけ、ぎゅうぎゅう詰めだから隣同士のネタの味や香りが混ざっちゃうようなアノ独特の寿司には素敵な哀愁があった。
持ち帰り専門の寿司店やコンビニが無かった時代の話だ。あれも昭和の文化だったのだろう。
2 件のコメント:
私の父親も現役時代そうでした。やっぱり深夜の帰宅に起こされて、子供の舌には握りよりもかんぴょう巻きの方が好きだったのですが、確かに美味しそうな顔をして食べた記憶があります。あれは昭和の男の浪漫だったのでしょうか。自分だけ贅沢していて悪いなという気持ちとでもお土産を持って帰ってきたんだぞという少しの誇らしい気持ちと。外食とも家庭の味とも違いますがお土産の寿司には確かに家庭のぬくもりというものが感じられますね、今の歳になると。
道草人生さま
昭和の男の浪漫。まさにそれですね!
思い出すだけで、アナログな雰囲気に浸ってしまいますね。
コメントを投稿