2022年10月12日水曜日

15年の歳月とこだわり


また一つ歳をとった。このブログを書き始めてから15回目の誕生日を迎えたわけだ。書いている内容も随分と進歩していそうなものだが読み返してみてもたいして変わっていない。

 

さすがに昔のほうが書きっぷりに勢いを感じるし気負いも感じる。今のほうが脱力している気がする。40代前半の中年ビギナーと50代後半の中年末期の違いだ。なんだか感慨深い。

 

15年の歳月にはそれなりにいろんな事があった。15年前に今の自分の状況は想像出来なかった。まあ大過なく暮らして今も変わらずこの雑文が書けているわけだから上等だと思う。

 

次の15年は何が待ち受けているのだろう。いよいよ死んじゃうかもしれない。そんなテーマは15年前には頭に浮かばなかったからそれこそが今の年齢の現実だと思う。

 

先日亡くなった楽太郎師匠の歳まであと15年である。そう考えるとヤバい。でも館ひろしの歳までもあと15年である。そっちを考えた方が建設的である。

 

この15年で何が変わったかといえば、一番はこだわりや執着心が薄れてきたことだろう。一種の鈍感力に磨きがかかったわけで自分では良いことだと解釈している。

 

同じスーツやネクタイを2日続けて着用することなど絶対に無かったのだが、いまはそんなこだわりはない。さすがに3日連続は無いが2日連続は珍しくなくなった。

 

以前は豚肉を買うにも黒豚にこだわったが今では国産豚なら銘柄など関係無しに買う。家の掃除にも細かく神経を使ったものだが、最近は大ざっぱで構わなくなった。

 

日本酒や焼酎なんかも銘柄を気にしながらウンチクをぶりぶり語りたがったが、今では何でもOKである。タバコも断固として紙巻き派だったが、最近はTPOに応じて電子タバコも使う。

 

昔はマイバッグにお気に入りの備前や唐津のぐい飲みをしのばせて飲み屋さんのカウンターで得意になって使っていたが、今はバッグすら持たないようになった。

 

お寿司屋さん選びにしても自分なりに異常なほどのこだわりを指針にしていた。邪道なネタや非古典的なメニューを嫌っていたのに最近は大箱系のカジュアルな店でジャンクな握りも喜んで食べるようになった。

 


 

女性の好みしかりである。それこそ昔はタヌキ顔がどうだのスタイルがあーだの床上手じゃなきゃイヤだのとブツクサ言っていたが、今では極端な人じゃなければ何でもアリである。

 

先日も久しぶりに銀座のクラブの顔を出したのだが、ヘチャムクレちゃんが席に着こうが何も気にせず楽しく飲んだ。これは一種の進歩かもしれない。

 

どうでもいい例えばかりではあるが、こだわりが薄くなるとすべてにおいてラクチンである。これは大事な事だろう。どんな場面、状況においても力んでいたらロクなことはない。大谷翔平のホームランだってリラックスした自然なフォームから流れるようなスイングで凄い飛距離が出る。

 

若い頃は「こだわりを持った男」に憧れた。それ自体は正しい思いだと思うが、こだわりのレベルが中途半端だと逆に自分の首を絞めることになる。こだわりのつもりが単なる偏屈や意地っ張りになってしまうとハタから見れば滑稽でしかない。

 

こだわり過ぎると自分の殻に閉じこもっちゃうから逆に新たな発見や未知の喜びを逃しかねない。そうなったら実につまらない話だ。今更ながらそんな真理を実感している。

 

そうは言っても一応今も私には随分いろいろなこだわりが残っている。高い生卵しか買わないとか、鰻の白焼きにはポン酢では無く断固わさび醤油だとか、天ぷらを塩で食べないとか、安い靴は履かないとかどうでもいいことばかりだが、自分の中のルールみたいに凝り固まっている。

 

こだわりがまったく無い男もヘンテコだからそれはそれで構わないだろう。適度なこだわりぐらい残っていないと自分の個性すら無くなっちゃいそうだから偏屈ジジイにならない程度に気をつけて生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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