2023年10月11日水曜日

変態仮面


口に出すのが恥ずかしい言葉はいくつもある。その代表格が「パンティー」だ。「パンツ」なら平気で大声で口に出せるがナゼか「パンティー」は禁句にも近いぐらい発音したくない言葉である。

 

「ツ」なら大丈夫で「ティー」だから恥ずかしいわけで実に不思議だ。紅茶のことを「ティー」と普通に言えるし「ティーショット」「ティーシャツ」も大丈夫なのに「パン」が頭に付くと途端にダメだ。

 

文字で書く分には恥ずかしくないから何度でも「パンティー」と書き殴ることが出来る。でも口に出して言えない。男性なら分かってくれるはずだ。

 

発音した時の響きが可愛い過ぎるのだろうか。あの布地の中に収まっているモノのスペクタルな感じに比べて言葉の響きが愛らしいから頭が混乱するのかもしれない。

 

たいていのエロ系の言葉を堂々と口に出せる私だが、パンティーだけは違う。街ですれ違う人に「パンツ見えてますよ」とは言えるが「パンティー見えてますよ」とは言えない。

 

親しい間柄の女性に「今度来る時はパンツ履かずに来いよ」とは言えるが「パンティー履かずに来いよ」とは言えない。

 

あくまで小さい布地のことなのに何をそんなに恥ずかしがるのか自分でも分からない。でも、口に出すのも恥ずかしいモノだから見たくなってしまうという論法も成り立つ。強引か。

 

「パンツ見せましょうか?」「パンティー見せましょうか?」。前者なら断れるが後者なら黙ってうなずいてしまう。いや、前者でも「はい、よろしく」と言ってしまうかも知れない。

 

あの小さな布地を見たくなる男の心理は隠されているものを見たいという単純な欲求だ。堂々と見せられていたらたぶん23分で飽きる。相手が見せたくない、隠したいと思っているからこそ見たくなるわけだ。

 

その点、女性の脚線美は事情が違う。人によっては隠すどころか見せたい心理すらあるわけだから男側もしっかり眺めさせてもらえる。「太もも」「ふくらはぎ」という言葉も「パンティー」みたいに恥ずかしくない。

 



女性が脚を出す時代に生きていることは幸せなことだ。日本はもちろん、昔のヨーロッパでも女性の脚は隠すものだったらしい。胸元はパカンと開いているようなドレスでも例外なくスカートは超ロングであり、人前で脚が見えてしまうことは失態だったとか。

 

その時代の男性がタイムマシンで今の社会を見たら鼻血ドバドバだろう。今の時代の我々からすればすべての女性がパンティー姿で街を歩いているような光景に見えるのかも知れない。

 

脚線美を普通に目にすることは現代社会ならではの特権?だから世の女性陣にはロングスカートではなくミニ丈の服装をもっと愛用してほしいものである。

 

ハイヒールにしても元々はふくらはぎをキリっと引き締めて脚線美を際立たせるために存在する。すなわち、ハイヒールだったらふくらはぎを隠すようなスカートは論外だということになる。

 

日本でも女性が脚を見せるようになったのは戦後のこと。それ以前は脚を出す習慣はなかった。古典的な和装に脚を出す発想はないし、洋装に近づいた頃だってモンペが主流の頃もあった。まさに今は脚見せ時代と言えるわけだ。

 

パンティーという恥ずかしい言葉から随分と脱線したが、パンティー問題と脚線美はある意味で切っても切れない関係にある。美しい脚のラインの先に隠された三角地帯があるわけだからセットで男心をくすぐる。

 

脚は見られたいけど下着は見せたくない。この相反する心理というか真理が男性陣を悶々とさせるのだろう。

 

何が言いたいのかわからなくなってきた。

 

今日このテーマで書き始めたのには理由がある。私が好きな俳優の一人が「鈴木亮平」だ。徹底した役作りで知られる名優だ。彼は自分の代表作を尋ねられて「変態仮面」という映画をあげたそうだ。

 



鈴木亮平といえば外語大卒のインテリであり、大河ドラマ「西郷どん」で主役を演じ、テレビドラマ「天皇の料理番」では結核で早逝する主人公の兄としてゲソゲソに痩せ細った姿で熱演、かたやヤクザ映画「孤狼の血」では狂気に満ち溢れた極道役を見事に演じた。

 

どんな役でもこなす彼が「変態仮面」に思い入れがあると知って妙に嬉しくなった。パンティーを被った途端に悪を倒すスーパーヒーローに変身する設定の奇天烈な映画である。この役を演じるためにムキムキの身体作りに励んだらしい。

 

あの名優が「パンティー」という言葉を連発するだけでなく顔面に被って暴れまわる姿は何とも言えないシュールな姿である。でもその潔さ、その本気度、その振り切った姿勢は男として見習うべきだと感じた。

 

ちょっと違うか…。

 

 

 

 

 

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