もうすっかり過去の話みたいになったコロナ禍の社会。変われば変わるものである。ほんの3年前はこの世の終わりみたいにドンヨリしていたことを思うと今の状況が素直に嬉しい。
コロナによる社会の変化は他方面に渡る。難しいテーマはさておき、今日は男性のオシャレについて書いてみる。いっぱしの大人の男の身だしなみについてだ。
近年、ビジネスシーンにおいてもラフな服装は普及した。昭和の頃は誰もがスーツにネクタイだったことを思うと隔世の感がある。夏の猛暑は昔とは次元が違うから軽装で済むのは大歓迎である。
軽装のシーズンも終わったいま、街を歩く大人世代を眺めていると何だか随分とシャバダバな格好が目につく。別にキチンとピシッとスーツを着こなせとまでは言わないが、家でくつろいでいる時のようなちょっとだらしない格好が目につく。
コロナ禍で外に出なくなったせいで身だしなみに気を配らなくなった人は増えた。その後遺症は今も確実に世の中にはびこっているように感じる。
人様がどんな格好で行動しようがもちろん自由だが、いっぱしの現役を気取るビジネスマンなら多少はキリっとスカしていて欲しいと感じるのは時代錯誤なのだろうか。
私は古い人間だから夏の暑い時でもスーツが絶対だった。ネクタイこそしないが上着は必ず手に持って行動していた。侍の鎧兜ではないが「常在戦場」の意識で過ごしているから(ウソです)、一種の制服のようにスーツは欠かせない。シャツももちろん長袖である。半袖シャツは高校生の制服の頃から着ていない。
バカだと思う。非合理的だと思う。でも身だしなみって突き詰めればバカで非合理的なことにこだわるものだと思う。やせ我慢の美学という考え方もある。
イキかヤボか。昔からの東京人の行動規範である。厳密にはどちらがイキでヤボか分かりはしないが、自分なりのこだわりを持って我が身を装うことは心意気の問題でもある。ラクなほうに逃げるのはイキだとは思わない。
最近はシュっとしたビジネスバックを持つスーツ姿の人が減った。トートバッグやリュックをスーツ姿の大人が普通に使っている。個人的にはあれは格好良くないと思う。4年前にそれについて考察したことがある。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2019/11/blog-post_8.html
そちら側の愛用者からすれば大きなお世話だろうが、個人的には妙に気になる。ショルダーバッグの斜めがけなどもスーツ姿とは相容れない。ヘタするとスーツ姿にウェストポーチという組み合わせの御仁すら存在する。実にビミョーだと思う。
他人から見られる自分の姿を意識することはどんな場面においても大事だと思う。長く生きてきて断言できることは「人は見た目」という言葉は9割がた正しいということである。
だらしなく見える人は論外だし、汚いのも論外、中身も同じだろう。ヨレている服を平気で着る人も中身はヨレている。高級ではなくても己のスタイルに的確に合ったスタイルを確立している人はマトモだ。
靴もしかり。自分が靴好きのせいか、街を歩いていると人様の足元をついつい眺めてしまう。ピカピカに磨かれた靴を履いている人は案外少ない。駅頭に靴磨きが並んでいた時代のサラリーマンの方がよほど足元に美意識を持っていたのではないか。
駅前に靴磨きがいた時代はまさに高度成長期の頃である。時代の移り変わりとそれによってヌルくなってしまった世の中の空気を象徴する部分が大人の男達たちの靴の輝きなのかもしれない。
そういう私も最近は暑さのせいで靴磨きをサボっていた。簡単な手入れにとどめていたから近いうちにまとめて専門店に持参して助けてもらおうと思っている。
時々顔を出す銀座のクラブでも他のお客さんの格好は気になる。確実にこの20年ぐらいで随分とラフになった。時代の流れという一言で片付けるのは惜しいことだと思う。
私が20代の終わり頃に迷い込んだ夜の銀座では格好良い紳士をたくさん見かけた。中にはトンチンカンな色の服の組み合わせもあったが「男の威勢」を感じさせるような姿をよく目撃した。
結局はTPOをわきまえることが段々と疎かにされてきたのだろう。直近の四半世紀の変化はそこに尽きると思う。夜の銀座に繰り出す際の自意識や美意識もそうだが、職場という舞台を前にしたオンとオフの明確な切り替え意識も薄らいできたのかもしれない。
「ヨソイキ」という言葉もすっかり死語になった。世の中から活気や勢いが失われてきたこととも無関係ではないと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿